ベータの兄と運命を信じたくないアルファの弟

須宮りんこ

文字の大きさ
上 下
5 / 13

5.甘い匂い

しおりを挟む
 煌が大学のスクーリングに通うようになってから、四日が経った。久しぶりの外の世界に、初日は「太陽がしんどい……」とげっそりしていた煌だが、二日三日と経つと通学のリズムを掴んでいるように見えた。

 二日目の夜、煌が「アルファってそんなに珍しいもんなの?」と優鶴に訊いてきた。どうやら現在受けている授業に、アルファの学生は煌しかいないのだという。それが理由なのかはわからないそうだが、講師の態度が煌に対してどこかよそよそしいらしい。
 反対にベータと思われる女子学生たちからは、休み時間によく声をかけられるのだと、煌は不思議そうに言った。「嫌味かよ」と口では言いつつ、以前の自分なら弟がモテるという事実に鼻を高くしていただろう。
 だが先日の「年上のベータ男を好きになるかもしれない」発言が記憶に新しい。そんな話を自分にしてきた煌の思惑を、無意識のうちに勘ぐってしまう。

「や、やっぱり珍しいんじゃないか? たいていのアルファはアルファ専門の大学か、国公立の大学に行くってのが世間の常識だし」
 煌は不機嫌そうに眉をしかめた。納得いっていないのだろう。
「俺、自分がアルファって感じがしない」
「なら再検査してみるか?」
 冗談で言ったのだが、煌は本気の表情で「そうしようかな」と首を横に倒した。優鶴は冗談だと否定しつつ、
「おまえの場合、まわりがみんなベータだからアルファが珍しく感じるだけだよ」
 笑って言うと、煌は真剣な顔で「やっぱりベータな気がする」とつぶやいた。

 あっという間に一週間が過ぎ、煌のスクーリング通学も残すところあと一日となった。
 煌の言動によってはやりづらいと感じる場面も最近あるが、引きこもっていた頃を知っている自分からすれば、外に出ることができるようになったことは純粋に喜ばしい。
 最終日の明日はちょっといい酒でも買って帰ろうか。あ、でもケーキとか甘いものの方がいいかな。平沢家の事情を知っている課長のことだ。早く帰らせてくださいと頼んだら、二つ返事で承諾してくれそうだ。

 そんなことを考えながら、優鶴は五時ごろ会社を出た。
 優鶴が最寄り駅に着いたのは六時すぎ。電車に揺られているときから気になっていた灰色の雲に覆われた空が、より一層暗くなった気がした。日の長い時季だというのに、駅前の街灯もすでに蛍光白色を放っている。
 ひと雨降りそうだが、優鶴はあいにく傘を持っていない。ビジネスバッグを胸に抱え、気持ち足早に自宅へと向かって歩きはじめた。

 ポツポツと顔や腕に当たる雨がどしゃ降りに変わったのは、自宅近くの公園の横を通過しようとしたとき。先日、暴行事件が起きた花井田公園だ。
 犯人のアルファは捕まったらしい。近所の人が回覧板を回しに来た際、教えてくれた。
 事件のことをふと思い出したからだろうか。公園の横の道を走っていると、女の「やっ」という声が雨の音にまじって聞こえたような気がした。気のせいかと思ったが、今度は「やめ……んンっ!」と苦しそうな声が確実に耳へと届く。
 優鶴は足を止め、声のする方を見た。公園の中から聞こえてきたらしかった。が、紫陽花の背後で生い茂った緑が壁となり、中で何が起きているのかまでは見えない。
 断続的な声に集中していると、女だと思っていた声が実は男の高い声であることに気がついた。ハアハアハア、と別の男の息遣いも聞こえてくる。それはまるで腹の底からグルルルと興奮が湧き上がっているような、獣みたいな声だ。人間がこういった声を出す場面に、優鶴は一度だけ居合わせたことがある。
 優鶴はゴクッと唾を飲み、ビジネスバッグをギュッと強く胸に抱きしめた。入口から恐る恐る公園の中に入る。声は公衆トイレの裏からだった。
 トイレの壁に背中をピタリと貼りつけながら横歩きで近づき、耳をそばだてる。

「か、かん……で……っまなぃでぇ……っ」

 矛盾した甘い声とともに、ドスンッともつれあって倒れるような音が聞こえてくる。かあっと熱くなる頬を雨で冷ましながら、優鶴はビジネスバッグを持つ腕に力をこめる。そして意を決し、ぬかるんだ地面を蹴った。

「おいっ! なにやってるんだっ!」

 バッと公衆トイレの裏に飛び出る。最初に目に飛び込んできたのは、ガクガクと身体を震わせている痩せた男だった。齢は二十代前半だろうか。上半身の服が乱れた姿で、突っ伏すように背中を丸めていた。
 オメガだろう。うなじには黒い革製の首輪が光沢している。オメガのフェロモンにあてられて発情したアルファに、首すじを噛まれて番にされてしまうのを防止するためのものだった。

 途端に優鶴は「うっ」と口元を片手で覆った。雨の湿気に運ばれて、えもいわれぬ甘い匂いが鼻をついたのだ。徐々に下半身が熱を帯びていきそうな予感。これ以上ここにいたらまずい。本能の声に従い、優鶴は顔を背けようとした。
 だが、優鶴は相手の男を見て固まった。痩せた男を見下ろしてハア、ハア、ハア……と肩で息をしている男、それは――――

「こ、う……?」

 雨音にかき消され、小さな声は『煌』の耳にまで届かなかったようだ。煌は血走った目を震えている男に据えたまま、獲物を狙うかのように相手に襲いかかった。
「なにやってんだおまえっ!」
 咄嗟に煌の服の裾を掴もうと、優鶴は手を伸ばした。だが動物的な動きを見せた煌の方が、圧倒的にすばやかった。

 男の背中に覆いかぶさった煌は、乱れた男のベルトに手をかけてズボンを脱がせようとしている。男は逃げようとするものの、力が入らないようだ。泥だらけの手が、雨に濡れた雑草の上を虚しくさまよっていた。

 優鶴はバッグを投げ捨て、煌の肩を掴んだ。「やめろ煌!」

 叫びながら引き剥がそうとするが、煌はびくともしない。
 このままでは埒が明かない。優鶴は投げ捨てたバッグで、煌の頭を思いきり殴った。さすがに効いたのか、男にのしかかった煌の体が前後に揺れる。その隙に煌の体を男から引き離し、優鶴は叫んだ。

「今のうちに逃げろ!」

 だが、男は逃げるどころか乱れた着衣を直すこともしなかった。弱々しく体を支えながら上半身を起こし、「……犯、し……て」と独り言のようにつぶやいた。

「は……?」
「もぉ、がま……でき、な……っ」
 朦朧とした足どりで立ち上がると、男は優鶴と煌にゆっくりと近づいてきた。甘い匂いが一段と濃くなり、優鶴はうっと顔をしかめる。これがオメガの放つフェロモンだというのだろうか。どちらにせよ、ベータの自分にまで感じ取れるなんて異常だ。

 近づいてくる男に「こいつは弟なんだっ」と訴える。だが、それも虚しく今度は背中で押さえつけていたその『弟』が、再び獣のような声をあげて暴れ出した。背中で止めるのは無理だと判断し、前から抱き合うような体勢で煌の動きを封じようとする。
 すると背中に男の弱々しい手がすがりついてきて、優鶴の背中を叩いた。
「どい、て……っどいてよお……っ」
 苦しそうな男の熱っぽい声が、背中越しに聞こえる。せっかく逃げる機会を作ったのに、このオメガは何を言っているんだと腹が立った。

「弟を性犯罪者にしてたまるかよっ!」
 優鶴は叫んだ。自分の声が届かない煌にも、逃げてくれないオメガにもイライラした。ぬかるんだ地面で支えているため、ふくらはぎがつりそうになる。上半身と下半身が反る体勢のせいで、腰が折れるんじゃないかと思うほど痛かった。
「煌っ! しっかり……しろってっ!」
 犯したくてたまらない男と犯されたくてたまらない男の狭間で、体力が徐々に奪われていく。オメガの男にシャツを引っ張られ、優鶴は後ろに倒れた。二人の下敷きになった男のみぞおちに優鶴の肘鉄が入ったらしく、オメガの男は地面の上で悶えた。

 優鶴に覆いかぶさりながらも、煌は優鶴の背後で苦しむ男に手を伸ばそうとする。咄嗟に優鶴は胸ポケットのボールペンを引っ掴み、煌の腕にめいっぱいの力で突き立てた。
「ガッ、ア……ッ!」
 煌の体が離れたので上半身を起こすと、煌は地面の上で身をよじらせてうずくまっていた。優鶴が刺したボールペンが、左腕に垂直に突き刺さっている。
「グ、ウ……ゥッ!」
 暴れる本能を殺したいのか、煌は自身に痛みを与えるように刺さったボールペンを反対の手でさらにグッと自らの傷口に押しこんだ。ボールペンをえぐり抜き、雨針の打つ地面に捨てる。そして肩で息をしながら鬼の形相で立ち上がると、血まみれの腕を押さえながら公園の出口へ足を引きずって行った。

しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

毒/同級生×同級生/オメガバース(α×β)

ハタセ
BL
βに強い執着を向けるαと、そんなαから「俺はお前の運命にはなれない」と言って逃げようとするβのオメガバースのお話です。

この噛み痕は、無効。

ことわ子
BL
執着強めのαで高校一年生の茜トキ×αアレルギーのβで高校三年生の品野千秋 α、β、Ωの三つの性が存在する現代で、品野千秋(しなのちあき)は一番人口が多いとされる平凡なβで、これまた平凡な高校三年生として暮らしていた。 いや、正しくは"平凡に暮らしたい"高校生として、自らを『αアレルギー』と自称するほど日々αを憎みながら生活していた。 千秋がαアレルギーになったのは幼少期のトラウマが原因だった。その時から千秋はαに対し強い拒否反応を示すようになり、わざわざαのいない高校へ進学するなど、徹底してαを避け続けた。 そんなある日、千秋は体育の授業中に熱中症で倒れてしまう。保健室で目を覚ますと、そこには親友の向田翔(むこうだかける)ともう一人、初めて見る下級生の男がいた。 その男と、トラウマの原因となった人物の顔が重なり千秋は混乱するが、男は千秋の混乱をよそに急に距離を詰めてくる。 「やっと見つけた」 男は誰もが見惚れる顔でそう言った。

春風のように君を包もう ~氷のアルファと健気なオメガ 二人の間に春風が吹いた~

大波小波
BL
 竜造寺 貴士(りゅうぞうじ たかし)は、名家の嫡男であるアルファ男性だ。  優秀な彼は、竜造寺グループのブライダルジュエリーを扱う企業を任されている。  申し分のないルックスと、品の良い立ち居振る舞いは彼を紳士に見せている。  しかし、冷静を過ぎた観察眼と、感情を表に出さない冷めた心に、社交界では『氷の貴公子』と呼ばれていた。  そんな貴士は、ある日父に見合いの席に座らされる。  相手は、九曜貴金属の子息・九曜 悠希(くよう ゆうき)だ。  しかしこの悠希、聞けば兄の代わりにここに来たと言う。  元々の見合い相手である兄は、貴士を恐れて恋人と駆け落ちしたのだ。  プライドを傷つけられた貴士だったが、その弟・悠希はこの縁談に乗り気だ。  傾きかけた御家を救うために、貴士との見合いを決意したためだった。  無邪気で無鉄砲な悠希を試す気もあり、貴士は彼を屋敷へ連れ帰る……。

〔完結済〕この腕が届く距離

あさじなぎ@小説&漫画配信
BL
気まぐれに未来が見える代わりに眠くなってしまう能力を持つ俺、戸上朱里は、クラスメイトであるアルファ、夏目飛衣(とい)をその能力で助けたことから、少しずつ彼に囲い込まれてしまう。 アルファとかベータとか、俺には関係ないと思っていたのに。 なぜか夏目は、俺に執着を見せるようになる。 ※ムーンライトノベルズなどに載せているものの改稿版になります。  ふたりがくっつくまで時間がかかります。

【完結】あなたの恋人(Ω)になれますか?〜後天性オメガの僕〜

MEIKO
BL
この世界には3つの性がある。アルファ、ベータ、オメガ。その中でもオメガは希少な存在で。そのオメガで更に希少なのは┉僕、後天性オメガだ。ある瞬間、僕は恋をした!その人はアルファでオメガに対して強い拒否感を抱いている┉そんな人だった。もちろん僕をあなたの恋人(Ω)になんてしてくれませんよね? 前作「あなたの妻(Ω)辞めます!」スピンオフ作品です。こちら単独でも内容的には大丈夫です。でも両方読む方がより楽しんでいただけると思いますので、未読の方はそちらも読んでいただけると嬉しいです! 後天性オメガの平凡受け✕心に傷ありアルファの恋愛 ※独自のオメガバース設定有り

【完結】運命の番じゃないけど大好きなので頑張りました

十海 碧
BL
拙作『恋愛経験ゼロ、モテ要素もないので恋愛はあきらめていたオメガ男性が運命の番に出会う話』のスピンオフです。 東拓哉23歳アルファ男性が出会ったのは林怜太19歳オメガ男性。 運命の番ではないのですが一目惚れしてしまいました。アタックしますが林怜太は運命の番に憧れています。ところが、出会えた運命の番は妹のさやかの友人の女子高生、細川葵でした。葵は自分の将来のためアルファと結婚することを望んでおり、怜太とは付き合えないと言います。ショックを受けた怜太は拓哉の元に行くのでした。

君はアルファじゃなくて《高校生、バスケ部の二人》

市川パナ
BL
高校の入学式。いつも要領のいいα性のナオキは、整った容姿の男子生徒に意識を奪われた。恐らく彼もα性なのだろう。 男子も女子も熱い眼差しを彼に注いだり、自分たちにファンクラブができたりするけれど、彼の一番になりたい。 (旧タイトル『アルファのはずの彼は、オメガみたいな匂いがする』です。)全4話です。

落ちこぼれβの恋の諦め方

めろめろす
BL
 αやΩへの劣等感により、幼少時からひたすら努力してきたβの男、山口尚幸。  努力の甲斐あって、一流商社に就職し、営業成績トップを走り続けていた。しかし、新入社員であり極上のαである瀬尾時宗に一目惚れしてしまう。  世話役に立候補し、彼をサポートしていたが、徐々に体調の悪さを感じる山口。成績も落ち、瀬尾からは「もうあの人から何も学ぶことはない」と言われる始末。  失恋から仕事も辞めてしまおうとするが引き止められたい結果、新設のデータベース部に異動することに。そこには美しいΩ三目海里がいた。彼は山口を嫌っているようで中々上手くいかなかったが、ある事件をきっかけに随分と懐いてきて…。  しかも、瀬尾も黙っていなくなった山口を探しているようで。見つけられた山口は瀬尾に捕まってしまい。  あれ?俺、βなはずなにのどうしてフェロモン感じるんだ…?  コンプレックスの固まりの男が、αとΩにデロデロに甘やかされて幸せになるお話です。  小説家になろうにも掲載。

処理中です...