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1.弟

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 玄関ドアを開けると、スーツ姿の男が二人立っていた。一人は四十代半ばの神経質そうな男で、もう一人は二十代後半くらいの男だ。
 ただでさえ出勤前でバタバタしているのに、一体何の用だろうか。平沢優鶴ひらさわゆづるが「何か?」と訊くと、年上の方が「少しお尋ねしたいことが」と胸ポケットから警察手帳を出した。

「先日、花井田公園の公衆トイレで強姦事件が起きたのをご存知ですか?」

 優鶴は「ああ、はい」と答える。花井田公園は、現在二十五歳になる優鶴が小学生の頃に土地区画整理でできた公園だ。先週の土曜夜、そこで強姦事件が起きたらしい……という話は月曜日のゴミ出しの際、近所の主婦たちが井戸端会議で話しているのを聞いた。

「プライバシーに関わることなので詳しいことは言えないんですがね。まあ、被害者というのはアレです」
「アレ、というのは?」優鶴は首をひねった。
「オメガですよ。ま、『オメガ特定保護法』のせいで男女の性別まではお伝えできませんが」
 ぞんざいな口調で、警察官は手帳を閉じる。やる気がないのか、心底どうでもよさそうだ。
 あと十五分ほどで家を出ないといつも乗る電車に遅れてしまうため、優鶴は「手短にお願いできますか」と控えめに要求した。

 刑事たちによると、被害者の体内から採取された体液を調べてみたところ、判別できたDNA型は過去のデータになかったそうだ。だが、加害者の性別は『男』で、かつ第二の性別であるバース性が『アルファ』だということだけは判明しているらしい。
 現在の日本では、アルファのみバース性検査の判定結果を自治体へ提出することが義務付けられている。その情報をもとに、事件現場の近くに住む『男』の『アルファ』に話を聴いているのだと男たちは説明した。

平沢煌ひらさわこうさん、こちらにいますよね?」

 二十代の方に訊かれる。「はい、弟ですが」と答えると、「少しお話を聴かせてもらってもいいですか?」と若い刑事は申し訳なさそうに続けた。
 特別うちのを疑っているわけじゃないんだろうなと思ったが、調査といって話を聴くのも彼らの仕事なのだろう。さっさと協力して帰ってもらおうと、優鶴は階段下から「煌ーっ」と弟を呼ぶ。
 反応はない。もっと大きな声でもう一度呼んでも、二階の部屋からドアの開く音はおろか足音さえも聞こえなかった。

 スーパーやコンビニに行く以外で煌が引きこもるようになって早五年。向こうの気が乗らないときにいくら呼んでも出てこないのは、兄である優鶴が一番知っている。「上がってください」と刑事二人を促し、優鶴は傾斜のある階段を上がった。幼稚園の頃、二歳下の妹・睦美《むつみ》と一緒になってクレヨンでいたずら書きした壁の前を通りすぎ、煌の部屋へと向かう。

「おら起きろっ」

 ダンッとドアを叩くと、思ったよりもすぐにそれは開いた。

「……なんだよ」

 ドアの隙間から、不機嫌そうに眉根を寄せた煌が現れる。煌は重たそうな前髪の隙間から切れ長の三白眼を見せ、気だるそうに優鶴の後ろにいる男二人に目を向けた。

 煌は鼻筋もスッと通っているし、結ばれた唇の形もいい。髪を切って髭も剃ったら、涼しげな美貌の男に生まれ変わる……と思うのだが、現在は肩まで伸びた海藻のような黒髪のせいで山籠もりしている修行僧みたいだ。
 身体能力や知的能力の高いとされるアルファにふさわしく、煌はこの五年間まともに太陽の光を浴びていないのに百九十センチ近くある。二十歳を過ぎているのにいまだ背が伸びているようだ。半年前に足首を覆っていたスウェットの裾からは、脛が見えている。

 ドアの隙間から「おまえさ、こないだの土曜の夜なにしてたっけ?」と尋ねると、煌は面倒くさそうに口を開けた。
「……誰かさんのパソコン修理させられてましたけど。一晩中、監視付きで」
「だっておまえ、目離した隙に逃げんだもん」
「もういい?」煌はドアをガチャンと閉めた。

 玄関に戻ると、刑事二人は安心したように笑いながら「いや~お手数おかけしました」と言った。
「私たちもね、オメガがアルファを強姦の罪で訴えようとするってのがまずどうかと思うんですけどねぇ。まあ私らも仕事なんで、被害届出されちゃ捜査しなくちゃならないんですが」
 
 「半分以上はオメガの責任ですからね」という二十代の発言を、四十代の刑事が「バカ野郎、百パーに決まってんだろ」と言い伏せる。
 ブツブツ文句を言いながら帰っていく男たちの背中を見ながら、優鶴はため息をついた。

 この世界の性別には、男女の他にバース性という三つの性別が存在する。それがアルファ、ベータ、オメガの三種類だ。官僚やアスリートなど、優れた知的能力や身体能力をもつ一部の人間が『アルファ』で、人口が多く能力も平均的なのが『ベータ』だ。優鶴はこのベータで、両親も妹の睦美もベータだった。

 反対にもっとも人口が少なく、アルファ以上に特殊性をもつのが『オメガ』だ。ヒートと呼ばれる発情期があり、その間に放出されるフェロモンでアルファの性衝動を煽ってしまうという性質がある。そのため学校や会社など組織の中で敬遠されがちで、何よりも男女ともに妊娠できるという点が他の性別との大きな差だ。

 優鶴が初めて『オメガ』のヒートを見たのは高校一年生のときの文化祭。女友達に誘われて観に行った演劇部の公演中に、それは起こった。出演していた男子生徒の一人が、壇上で急に胸と腹の真ん中あたりを押さえながら、苦しそうにうずくまったのだ。

 男子生徒の様子に観客席はざわついた。そんな状況の中で、事件は起きた。男子生徒と同じく舞台の上にいた女子生徒が、突如その男子生徒に襲いかかったのである。しかも男子生徒に群がったのは、女子生徒だけじゃなかった。客席から舞台に上がった男子生徒や、中には保護者らしき大人もいて、あっという間に舞台上を含む体育館は、惨たらしい場と化した。
 華奢な男子生徒の服を脱がそうとする大きな身体が、優鶴には恐ろしかった。アルファと思われる彼らの狂気じみた表情が怖くて、客席に助けを求めるように伸ばす手を取るどころか、動くことさえできなかった。
 やがてベータと思われる演劇部員や教師によりオメガの男子生徒は救出され、細い筒状の注射器で『フェロモン抑制剤』を細い太ももに打たれていた。

 アルファがオメガのうなじを噛むと、『番』という本能レベルでの婚姻関係が成立するとされている。中には夢物語のように『運命の番』という唯一無二の相手と出会えるアルファとオメガも存在するらしい。だが、優鶴がこのとき目の当たりにしたのは、ただの暴力だった。
 初めてオメガのヒートを見たときの恐怖や、助けられなかった罪悪感があるのだろうか。優鶴はオメガを蔑視する人間に出会うと、今でも少し気分が悪くなるのだった。

 刑事たちの聴取に潰された朝の時間を取り戻すため、優鶴は急いで洗面所に向かい、鏡の前で髪をセットする。煌とは違い、鏡に映る自分はなんて平凡な顔だろうか。
 目尻の下がった奥二重に、特徴のない鼻と薄い唇。髪も色が少し薄い程度で、ごく普通のマッシュヘアだ。一年半付き合ったベータの彼女からフラれたときの言葉も、「優鶴君のザ・ベータって感じに飽きたっていうか……」だった。

 出かける前に洗濯乾燥機を回していこうと、優鶴は再び階段を駆け上がった。弟の部屋のドアを叩き、
「洗濯機回しちゃいたいから、洗いもんあるなら出せよ」
 と言うが、煌は返事をしない。いつものことなので「じゃあ行ってくるからな」と続ける。階段を数段降りたところで、反応のなかったドアがガチャリとわずかに開いた。
「……パソコン直したらくれるって言ってたアイス、まだもらってない」
 低くてかすれた声に、優鶴は「ゲッ、覚えてたか」と笑って返した。



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