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10.幸せな裏切りと男の正体

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 馬車に揺られて数時間、フォルカがルミナス王国に入り、王宮に到着したのは深夜だった。道中は足場の悪い山道を渡る。馬車の縦揺れが激しかったが、泣き疲れたこともあってか難なく仮眠を取ることができた。

 夜の王宮は静かなものだった。ライトアップされたライオンのブロンズ像を両脇に構えた厳粛な門と、その奥にある豪華な宮殿を横目に裏門へと回る。
 フォルカたちの乗る馬車が何者かに止められたのは、裏門から王宮へ入ろうとしたときだ。窓の外にいる人物を見る。フォルカたちを止めた人物は、王宮の護衛と王国一帯を守るルミナス騎士団員だった。フォルカの前に座るフベルトが窓をわずかに開け、騎士団員と小声で何かを話している。

 うつらうつらしていたので会話の内容までは聞こえなかったが、ルミナスファミリーの家紋が正面に刻まれたゴールドのヘルメットと勲章の数を見る限り、騎士団長のジョスだと思った。寡黙な男で、フォルカはこの男が口を開けて笑った姿を見たことがない。

 気になったのは、裏門から王宮に入って行く際に流し見えたその騎士団長の顔が、一瞬ガイに見えたからだ。ガイがここにいるはずがない。それに騎士団長の年齢はガイより二、三十歳ほど上だ。見間違えてしまう自分が情けなかった。

 別れの挨拶も言えずに離れることになってしまった辛さが、再び顔を出す。苦い気持ちを抱えながら見る宮殿は、ひどく無機質に見えた。

 宮殿に着いたフォルカはその夜、夕食を用意してくれたフベルトには悪いが、口をつけずにベッドに入った。酷く疲れていた。涙をたんまりと流したあとの頭を馬車に揺らされこともあって、すぐに横になりたかった。
 フォルカの部屋は、フベルトやメイドたちが定期的に整えてくれていたようだ。八年前にフォルカが宮殿を後にした頃のままだった。
 パジャマに着替えるのも億劫だった。シルクのシーツがピンと張られたキングサイズのベッドは、今の自分には広すぎる。それにスプリングが柔らかすぎて、体が沈む感覚に不安になった。
 最悪なコンディションで目覚めた翌朝、フォルカの部屋には二人分の食事が運ばれてきた。ポーチドエッグにサラダ、トーストとオレンジのチャツネ、オニオンスープ、そして紅茶だった。宮殿を離れるまでに、何度も口にした朝食メニューだ。
 短いあいだだったが、ガイと食べる朝食は切っただけのバゲットに、オレンジやリンゴを乗せただけの質素なものだった。それに比べたら随分と豪勢に見えるが、フォルカにとっては狭い部屋で食べた朝食の方が何倍も愛おしく感じた。
 一人では食べきれない量の朝食を前に、「二人分?」と運んできたメイドに尋ねる。メイドは「デニサ様がこちらでフォルカ様とご朝食をご一緒したいそうです」と答えた。
 ちょうどそのとき、フォルカより癖のあるブロンドの長い髪をなびかせ、デニサが部屋へと入ってきた。エメラルドグリーンの瞳がフォルカを捉えた瞬間、ぱっと表情が華やぐ。
「フォルカ兄さま!」
 デニサは細い両手を広げると、華奢な全身でフォルカに抱きついてきた。
 幼くして母を亡くした妹が不憫でいつも面倒を見ていたら、今では王族の中で一番の味方になってくれている。『淫魔の呪い』として王族を追放されたときも、唯一父・アーモス二世に反発してくれた。願い叶わずトレントリー共和国に追いやられることになった際には、「なにもできなくてごめんなさい」と涙を滲ませて悔しがってくれた。
「兄さまも大変だったわね。お怪我はない?」
 フォルカの頬を優しく両手で挟みながら、デニサは心配そうに顔を覗いてくる。
 やはりガイは捕まったらしい。予想が確信により傾いていく。残念に思う気持ちと、ガイが酷い尋問や暴力を受けていないかと心配する気持ちが、複雑に絡み合う。
 確かに傍から見れば、丸腰の王族とごろつきの男が一緒にいて平和な空間が生まれるはずがないと思うかもしれない。非力なオメガの王族の立場は低く、危険な目に遭ったんじゃないかと心配するのも無理はないはずだ。
 でもこれだけは伝えたかった。これが真実だから。
「僕は大丈夫だ。怪我をすることなんて、一つもされていないよ」
 デニサは安堵した表情を見せると、「ああ、よかった」と胸をなでおろした。
「話は聞いてるわ。彼が守ってくれていたんでしょう?」
 彼? フォルカは目立たない程度に首を捻った。カタリーナ……は女性なので『彼』とは言わないだろう。フベルトには確かにいつも助けられてはいるが、遠方からの援助が主だ。ガイと接触していた期間、フベルトから守ってもらった実感は特別ない。一体誰のことを言っているんだろう?

 デニサとのあいだに何か行き違いがあるような気がしたが、そうこうしているうちに朝食の準備が整った。小さな違和感はあったが、フベルトは後ほど説明すると言っていた。今考えてもしょうがない。
 フォルカは久しぶりに妹と食事しながら、穏やかな時間を過ごすことにした。
 フベルトに呼ばれたのは朝食を終え、デニサと幼い頃の思い出を語り合っているときだ。窓際のベルベッドチェアに座り、紅茶を飲もうとした瞬間、コンコン、とドアを叩く音が聞こえてきた。
 部屋のドアを開けたフベルトは、ドア付近に立ち、自分についてくるようフォルカに告げた。
 フォルカがオメガと診断されたあと、処遇が決まるまでフォルカは部屋から一歩も出してもらえなかった。フェロモンを宮殿じゅうにまき散らしてしまう可能性があると危惧されたからだ。
 都合のいいように出るなと言われたり、出ろと言われたり……今回も急に連れ戻されたのだ。しょうがないとは分かっているが、いい加減振り回されるのは懲り懲りだと思った。
「説明ならここで聞く」
 尖った声で応じないことを伝える。だがフベルトはフォルカの意趣を払うように、「申し訳ございませんが王のご命令ですので」と淡々とした口調で言った。
 父が自分に直接説明するというのだろうか? 直接といえば、八年前の記憶を嫌でも思い出す。兄や妹、従事たちが揃う玉座の前で『淫魔の呪い』と指を差された記憶が――。
 また自分は皆の前で咎められるのか。だが、ひどく落ち着いている自分がいる。ガイが何者でも、好きになったことを後悔はしていないからだ。
 フベルトのあとに続いて向かった先は、やはり王の間だった。クラシックな深いレッドカーペットの先に目をやる。玉座には両脇に騎士団員を携えた父・アーモス二世が肘掛けに手を置き、どっしりと腰かけていた。

 最後に見たときよりもひと回り小さくなった印象だが、意志の強さと頑固さを表す濃い眉毛と口元を覆う白い髭は健在だ。国民からは愛国心の強い国王として親しまれているものの、身近で見ている人間からすると思い込みが激しく世間知らずなところが目立つ。
 憎んでまではいないが、『厄介な男を父にもってしまった』とは、これまでにも思う機会が何度もあった。
 罪を犯した男の逃亡に自分は加担したのだ。何を言われても、どんな処遇を受けても仕方がない。覚悟はできているつもりだ。
 フォルカは玉座の前まで歩くと、拳に手を当てるポーズをとった。王族に伝わる、王への挨拶に用いる礼儀作法だ。
「フォルカス・ヴィ・ルミナシエル、ただいま戻りました」
 王は長い髭を撫でながら、「無事に我が王宮に戻ったこと、喜ばしく思うぞ」と労いの言葉をかけてきた。
 拍子抜けした。糾弾されるとばかり思っていたので、まさか旅の道中を労われるなんて。
「おまえのトレントリー共和国での暮らしぶりは逐一報告を受けていた。王宮での暮らしより性に合っていたそうじゃないか」
 報告……フベルトかデニサだろうか。気になったが、それより父の柔和な態度に驚いた。
「ち、父上にそう仰ってもらえるなんて光栄です。いつぞやは、私がオメガであることに対してひどく戸惑われていらしたので……」
「ああ、そんなこともあったな。当時は私が大人げなかったのだ。今思うと、私より当事者であるおまえの方がよほど心細かっただろうに」
 王は続けて、「すまなかった」とフォルカに向かって詫びの言葉を投げた。
 父も高齢だ。以前のような豪快さや厳しさが年月とともに薄らいだとしても、ここまで変わるだろうか。困惑を隠せないフォルカに、王は説明を続けた。
「フォルカよ。おまえを王宮に呼び戻したのは他でもない。我が王政に反発する者たちから、おまえが狙われているとの注進があったからだ」
 王は表情を険しくさせると、「この者から説明させよう」と王の左隣に立つ騎士団員に向かって視線で命じた。

 プレートアーマーに赤いマントに身を包んだ騎士団員が胸に手を当て、「イエッサー」と歯切れよく返事する。
 そして顔全体を覆うシルバーのヘルメットをゆっくりと取り始めた。男は長髪のようだ。後ろに束ねられた黒髪が、外されかけたヘルメットからするりと落ちる。騎士団員の顔があらわになった次の瞬間、目を疑った。

 ヘルメットを外した騎士団員――それはフォルカが恋した男、二度と会えないと絶望した男だったからだ。
「……ガ、イ?」
 声がかすれる。ガイはフォルカの声に眉一つ動かさない。片手にヘルメット、もう片方の手を胸に当てたまま玉座から降り、フォルカの前に跪いた。
「ルミナス王国騎士団・シュヴァリエのガイ・クロードと申します」
 形ばかり名乗ったガイはすぐに立ち上がる。
「僭越ながら、王の命により私から説明させていただきます」
 ガイの説明によると、ルミナス王国の北側にあるトレントリー共和国に近い地域で、王政に反発する者たちが近年声を上げ始めたという。もとは税が高いという小さな不満だったらしいが、最近では極端な言動が目につき、世論からも王政に助けを求める声が届けられるようになった。
 ガイの集めた情報によれば、その反勢力がどこからか情報を得たのか、ルミナス王国の第三王子がトレントリー共和国で暮らしていることに気づいた。そしてトレントリーの官憲隊の一部に賄賂を渡し、フォルカを人質として連れ去る計画を画策していたそうなのだ。
 初めて聞くことばかりで、頭が追い付かなかった。混乱で何も言えないフォルカに、王は真実を重ねてくる。
「ガイには私が命じたのだ。フォルカを陰ながら護衛せよ――とな」
「え……」
 何を言われているのか、理解できなかった。
「表立っての護衛とあれば、反勢力に勘付かれてしまう危険性があるだろう」
 市民に交じってフォルカを護衛しつつ、同じく市民に変装した王宮の使者と時折情報のやり取りをしていたそうだ。
 真実を知り、フォルカは少しずつ整理した。
 まず、ガイは初めから自分の正体を知っていた。知っていて近づいてきた。何も知らない振りをして、自分の正体を隠して……。フォルカを……いや、自分が忠誠を誓う国王の息子――ルミナス王国の王子を守るために。

 その事実を理解した瞬間、頭が真っ白になった。じわじわと悲しみが広がる。やるせない気持ちに、膝から崩れてしまいそうだった。
「あちこちで反勢力の話を聞いたときに、勝手だが私は後悔した。仮にも王族であるおまえに護衛もつけず、隣国に追いやったことをな。ガイはシュヴァリエだ。階級は下だが、騎士団長ジョス・クロードの息子だ。有能な男であることは間違いない」
 フォルカを急いでトレントリーから脱出させるよう進言したのも、ガイだったそうだ。
 フォルカが行く先々にガイが現れたのは、自分を護衛していたから。ガイが傷ついて倒れていたのも、自分を拉致しようとする官憲隊から守ってくれていたからなのだ。
「ガイがいなければ、私は息子を危険に晒していることに気づくことができなかっただろう。さあ、フォルカよ。王子としておまえからも優秀な騎士に労いの言葉をかけるのだ」
 そうだ。陰で命を張っていたガイに、自分は守られていた。ありがたいと思わなければいけない。王子として労いと感謝の言葉をかけなければ、ガイの功労が王に認められない。 
 そう思うのに、フォルカは口を開くことができなかった。胸が苦しかった。王子から騎士への言葉として、言葉を紡ぐことに抵抗があった。
 ガイをちらりと見る。こんなに近くにいるのに遠い。もう二度と会えないんじゃないかと思った昨晩よりも、ずっと遠くに感じた。
 フォルカは唇を震わせる。虚しくて乾いた笑いが無意識に出てしまう。
「……とんだ笑い者は、僕じゃないか」
 騎士の鏡のように、それまで一切表情を変えなかった男の眉がピクッと反応する。
「君は仕事で僕に近づいただけなのに……僕は君のことを……っ」
 じわじわと目に涙が溜まっていく。今にもこぼれそうだった。八年前、まだオメガに対する理解が乏しかった王に、皆の前で糾弾されたときでも、自分は泣かなかった。
 王の信頼を得ているガイのことだ。きっとその卓越したオメガの知識を持って接し、父の中にあるオメガへの偏見も少しずつ崩していったのだろう。
フォルカは片手で目を隠した。八年前より、自分の状況は確かによくなっている。喜ぶべきなのに、どうしてこんなにも涙が出るんだろう。

 突然涙を流し始めたフォルカに、周囲にいた王や従事たちが慌てだす。
「フォルカ、一体どうしたというんだっ?」
 王の言葉を遮ったのは、ガイだった。
「お言葉ですが国王、私は国王やフォルカ様から労いの言葉をいただくほどの働きはしておりません。フォルカ様は急な環境の変化に心身ともにお疲れになっております。この件については、また日を改めて――」
「もういい!」
 フォルカは声を張り上げた。
「もう……っいい。君は忘れろって言ったのに、君が誰でも構わないと言った僕が……いけなかったんだ」
 ガイが誰でも構わないと、あのときの自分は確かに思っていた。だが自分との出会いも触れ合いも、ガイにとってはすべてが仕事の一環だったのだ。
 知りたくなかった。ガイが本当に悪い人間で、このまま離れ離れになっていた方が、まだましだった。
居ても立っても居られなくなり、フォルカはガイと玉座に背を向けた。元来たカーペットを走りだす。王の間を飛び出すと、「フォルカ!」とガイの叫ぶ声が後ろから聞こえたような気がした。


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