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7.追われる者

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 自宅のアパートメントに戻ったあと、フォルカは急いで鞄の中からパンツを取り出した。広げて裏地を確認すれば、たしかにライオンの顔の下で二本の剣が交わったルミナスファミリーの家紋と、イニシャルで書かれたフォルカの本名が刺繍されていた。

 気にしたことがなかったので、そんな刺繍が施されていること自体初めて知った。いや、今はそんなことより、自分の正体がルミナス王国の王子だとバレてしまったことの方が大変だ。
 あの男が周囲にフォルカの存在や居場所を言いふらさないとも限らない。自分はガイという人間のことを何も知らないのだ。信用を置くにはまだ遠い存在すぎた。

 だけど――

 フォルカは先ほどのガイの言葉を思い出す。

 ――負けたんだよ。本能も理性も……おまえの顔を見たらな。後悔してもいいと思った。

 耳の奥で反芻すると、鼓動の速度が上がっていく。ドキドキして、胸が押しつぶされそうなほど痛み出す。
 この気持ちは気の迷いだと自分に言い聞かせば言い聞かすほど、ガイという男を強く意識した。家族に対するような、輪郭はおぼろげだが満たされた愛とは違う。はっきりと形は分かるのに、満たされない。
 こんな気持ちを人に抱くのは初めてだった。立場的にこれまで人との距離には注意を払ってきたつもりだ。オメガだと診断され、ここトレントリー共和国で暮らすようになってからは、なおさらだ。
 だが、ガイはそんな自分の壁をすんなりと飛び越えてきた。いつの間にか心に入ってきた。まだ出会って一週間も経っていないのに。
 次に会えたら、自分はどうなってしまうんだろう。フォルカは背中からベッドに倒れた。王室にいた頃に比べたら質素な部屋だが、それでもこの部屋にある家具のほとんどがルミナスファミリー御用達の物で揃えられている。
 ガイの部屋にあったベッドは硬く、寝心地も酷いものだった。
 だけど今は、あの硬さが恋しい。ガイの匂いに包まれた部屋にもう一度行きたい。
「……ガイ、か」
 天井に名前をポツッと投げると、喉の奥が締め付けられるみたいに苦しくなった。会いたいと願う自分がいるのに、これ以上苦しくなるのが辛いから会いたくない。
 得体の知れない男に、これ以上はまってしまうのは危険だ。分かっているのに、相手は自分のことをどう思っているんだろうと考えてしまう。たとえ向こうが同じ気持ちだとしても、ごろつきの男と王族である自分がうまくいくはずなんてないのに。
 相反する気持ちを抱えながら、フォルカは柔らかいベッドの上で目を閉じる。居心地の悪さを感じながら、眠りについたのだった。



 気持ちを自覚してからというもの、フォルカは事あるごとにガイの存在をそこかしこに探すようになってしまった。
 借りていた書を返却する際、出会った図書館の貸出カウンターの中を無意識のうちに探した。本人から辞めたと聞かされていたが、ガイはどこにでも現れる男だ。どこかにいるんじゃないかとカウンターの奥に視線を送っていると、ガイの元同僚の赤髪の男に「ガイは辞めたよ」と苦笑いされた。
 自分はそんなにガイを探しているように見えたのか。そのときは「そ、そうか」と応えたが、内心は平静を取り繕うのに苦労した。
 『オメガ・リーベ』にも何度か足を運んだ。目を一周させただけでも分かるくらいの、そこまで広くない店内だ。フォルカは来店のたびに何度も店内を見回したが、ガイの姿を認めることはできなかった。
 男を街中に探したところで意味がないと頭では分かっている。もし再会できたとしても、立場的に行動なんて起こせないのだから。
 それに、まだ心のどこかで信用しきれていない気持ちもあった。ガイの暮らす屋根裏部屋のある家で見た豪華な装飾品や家具を思い返すと、信じたい気持ちの中に黒いインクが落とされるような気分になって落ち込んだ。
 固執してもしょうがない。フォルカはガイへの気持ちを忘れようと、必死に目の前のことに打ち込んだ。
 もう二度と人前でヒートにならないようにしよう。渋る薬屋の女店主に頼み、より強い抑制薬を次回分として出してもらった。祖国にいる元家庭教師のフベルトに文を出し、自衛用の首輪もより頑丈なものを送ってもらうよう頼んだ。
 伝えるつもりのない気持ちを消そうと奮闘して、早くも一ヶ月が経った。噴水の目立つトレントリー広場を囲う木々は青々しい葉をつけ、周囲に夏の匂いを濃くさせ始めていた。

 その日、フォルカはいつもより遅い時間にハルヴァート学園の門を出た。他の研究補助員が体調を崩したことで休み、カタリーナの手伝い要員は自分だけだったのだ。
 書類探しから準備、片付けを終えて学園を出たあと、フォルカは人気のない夜のトレントリー広場を横目に通り過ぎた。
 街灯が夜にともっていたが、辺りはすれ違う人の顔さえわずかにしか見えないほど暗い。近ごろ、物騒な事件も多いと聞く。最近は広場付近で若い男を狙った通り魔事件がいくつかあったらしい。死者は出ていないが、中には今もなお意識不明の被害者もいるという。犯人は捕まっていないようで、つい先日妹のデニサから「みんな心配しているわ。兄さまも気をつけて」と文が来たばかりだ。
 心配してくれるのはありがたいが、それでも護衛をつけてくれないあたり父・アーモス二世らしいなと思った。
 ハットを深く被りつつ、急ぎ足で噴水広場を通り過ぎる。そのときだった。ふと視界の端に、黒い人影のようなものが動いて見えた。
 人影は路地裏に入っていき、フォルカの視界から一瞬にして消えた。初めはその存在を気にも留めなかったが、人影が消えていった路地裏の入口付近を見て、フォルカは、ん?と思った。
 入口付近の石壁に、赤黒い血がべったりと付着していたのだ。引きずったように伸びた血が、壁に途切れ途切れ塗られている。
 例の通り魔に襲われたのだろうか。動けるということは、まだ意識はあるのだろう。だが、この量の血だ。被害者が危険な状況であることは容易に想像できた。
 フォルカは壁の血を辿りながら、被害者の後を追った。街灯の間隔が長いためか、広場よりも暗い印象だ。所々に現れる街灯と月の明かりを頼りに進むと、街灯の手前でうずくまっている男がいた。
 被害者だろうか。フォルカは急いで駆け寄り、後ろから「大丈夫ですかっ?」と声をかけた。男と同じ目線になって気づいた。血まみれの顔を上げたのは、ガイだった。
「ガイッ? なんて酷い……誰にやられたんだっ?」
 ガイは苦痛に歪んだ顔で無理に笑顔を作り、
「おまえか……俺のことは、気にするな」
 と弱々しい声で言った。
「馬鹿言わないでくれ。気にするなと言われて、見過ごせるはずがないだろっ?」
 焦って声を荒げると、ガイは「悪いが静かにしてくれ」と頼んできた。
「でも病院に――そうだ、近くに総合病院があるんだ。そこに僕が連れていくから――」
「やめろっ!」
 遮るように、腹を押さえていたガイの血まみれの手が飛んでくる。肌に食い込むほどの力で口を塞がれる。
「もし今派手に動いてみろ……いくらおまえが王子だとしても、ただじゃおかねえからな」
 見たことも聞いたこともないような睨みと低い声に脅され、フォルカは身がすくんだ。やっと会えたと思ったのに。自分に向けられる敵意に傷ついた。
 だがこのまま放置していたら、ガイの命が危ない。傷ついた心は、今は何の役にも立たない。フォルカはグッと歯の奥に力を込めた。

「僕を脅したって傷は治らないんだぞ。死にたくないなら僕の言うことを聞け!」
「バッ――だから大きい声を出すなって!」
 そのとき、慌てる男の表情が険しいものへと変わった。シッと口の前で人差し指を当てる。直後、広場の方から足音と数人の男の声が聞こえてくる。

 ――いたか?
 ――いや、こちらにはいなかった。
 ――あれほどの傷だ。そう遠くへは行けないだろう。

 耳に入ってきた内容に、ドキッとした。身を隠すように息をひそめるガイと、誰かを探している男たち――フォルカはゴクリと唾を飲み、ガイに尋ねた。
「君を追っているのは、誰なんだ……?」
 ガイは血の気の引いた唇をわずかに開けようとして閉じる。そのとき、「クソ。絶対捕まえて官憲隊長の前に突き出してやる」と広場の方から聞こえてきた。
 男たちの声が聞こえてきた瞬間、フォルカはガイに訊いてしまったことを後悔した。薄々分かっていた。ガイがどういう人間で、誰に追われているのか……認めたくなかったからだ。
 この辺りでは通り魔事件も起きている。ガイが関わっていない証拠なんて、一つもない。
「俺が答える必要は、なかった、みたいだな……」
 ガイはフッと笑ったあと、うっと眉を歪ませて苦しみだした。はあ、はあ、と荒く呼吸を繰り返す。「くそ……ここまでか」と独り言を呟いたあと、壁に背中を預けて脱力した。
「……おまえは、ここから今すぐ、逃げろ。国、に帰……っれ……」
「え……?」
「おまえは、俺とは出会わなかった。俺と出会ったことは……っ忘れた方がいい」
 勝手なことを言う男にむっとする。どうして今、そんな悲しいことを言うのか分からなかった。
「ここは危ねえ……今すぐ、自分の、国に……っ帰るん、だ。いいな……フォルカ」
「こんなタイミングで名前なんて呼んでくれるな!」
 忘れたくない、と言おうとしたが、息を呑んだ。ガイの顔色は死人のように青白くなっていた。今は言い争っている場合ではない。
 ガイは官憲隊に追われる身だ。国に帰ったところで、もしも逃亡の手助けをしたことが祖国にいる王族や国民の耳に入ったら、自分はどうなってしまうんだろう。
 ガイがどんな罪を犯したのかは知らない。官憲隊に引き渡せば、正しく処置をしてくれるのかもしれない。
 でも、もしもガイに酷い傷を負わせたのが官憲隊だとしたら? 引き渡したあとに、適切な治療をしてくれなかったとしたら……考えただけで背筋が凍るようだった。
 ガイが自分と出会ったことを無かったことにしたいなら、それでもいい。誰にも言うなと口止めしたいのなら、ガイの存在を墓まで持っていく。忘れられてもいい。

 ガイが生きていてくれるのなら。

 フォルカの願いは、ただ一つだった。
 官憲隊の気配はまだ近くにあるようだ。声や足音が、遠くなったり近くなったりを繰り返していた。このままここにいたら、壁に付着したガイの血に気づいた官憲隊がやってきてしまうかもしれない。
 フォルカは覚悟を決める。意識が朦朧としたガイの腕を自分の首に回した。自分よりもひと回り大きな体だ。おまけに力が抜けている。想像以上に重たく感じた。
 よろめきつつもなんとか男を立ち上がらせる。目指すのはフォルカのアパートメントだ。背中に手を回して支えながら、フォルカは重たい一歩を踏み出したのだった。


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