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5.傷
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遠くに小鳥のさえずりが聞こえてくる。ピイピイと鳴く声が幾重にも重なっている。少なくても三羽はいるだろうか……と考えて、フォルカはゆっくりと目を開けた。
ここはどこだ?
目を開けてまず考えたのは、自分のいる場所についてだ。自分の部屋でないことは、目を開けた瞬間に分かった。
フォルカは目を細めながら、ゆっくりと上半身を起こした。
「うっ!」
体じゅうの筋肉という筋肉が痛む。特に腰まわりは最悪だ。酒樽の下敷きにでもなったかのようだ。
痛みに顔を歪ませつつ、フォルカはすえた匂いのする部屋を見渡した。
埃や砂が目立つ木造の床には、使い古した雑巾のようなカーペットが敷かれている。今まで自分が寝ていたのは、錆びれたパイプベッドの上らしい。マットレスが薄いのか、フォルカの脂肪の少ない尻には、まるで布を敷いた石の上に座っているみたいだった。
天井の四隅には蜘蛛の巣が張られている。王族じゃなくても、この部屋で寝るのはなかなか躊躇するんじゃないだろうか。自身の体を包むシミのついた薄っぺらのパジャマと黄ばんだリネンの枕を見て、フォルカは思わず口元がヒクついてしまった。
けれど半開きの天窓から聞こえてくる小鳥のさえずりと、射し込んでくるやけに眩しい朝陽は、どういうわけかちょっと気に入った。
「目が覚めたか」
男の声がする。フォルカは視線を天窓から下に戻した。だが姿は見えない。「もっと下だ」と声がして床にまで目を落とすと、少し癖のある黒髪が動いた。
どうやらここは屋根裏部屋らしい。ハシゴを伝って、男が登ってくる。身なりや言動の荒々しさに似合わず、意外と足音が小さい。
ガイはハシゴを登りきると、はめ込み式の床板で自分が駆け上がってきた四角い穴を塞いだ。
右手に包帯が巻かれているのが見える。逞しい体が膝を伸ばし、こちらを向いた。
「体調はどうだ?」
「え?」
「痛むだろ。ずいぶんと無理をさせたからな」
男の言葉で、昨晩の記憶がフラッシュバックする。
そうだ。自分はこの男と昨日――。
かぁっと恥ずかしさがこみ上げる。酒に酔っていたわけではないから覚えている。何もかも覚えている。いたたまれなかった。
「なんかすげえ顔してるぞ、おまえ」
フォルカは両手で頭を抱えながら、「どんな顔だ?」と訊いた。
「ターツヤギの煮汁でも食ったみたいな顔だ」
獣臭が強く、人を選ぶ食べ物として知られているルミナス王国西側の郷土料理だ。なるほど今の自分はそんな顔をしているのか。
フォルカは「……そうか」と腹の底からため息をついた。
十五歳で初めてのヒートを迎えてから、かれこれ八年。幸い症状が他人より軽い方だと自覚していた。
疼きがつらいのは初日と二日目くらいだし、通常一週間続くとされているのに自分は三、四日で終わるからだ。薬屋の女店主にヒートの症状を詳しく説明したときも、「軽い方だから強い抑制薬じゃない方がいいわね」と言われた。
だがけっして油断していたわけではない。たとえ症状が軽かったとしても、公の場でヒートになり、アルファの欲を煽って望まぬ妊娠や番契約をしてしまう可能性はオメガなら誰にでもある。それを防ぐための首輪と抑制薬ではなかったのか?
にもかかわらず、昨日初めて会ったばかりのアルファ男と寝てしまうなんて。名前しか知らない、いや、名前だって本名かどうかも分からないごろつきの男と……。
激しい後悔と自己嫌悪で頭が痛かった。やってしまった……ともう一度ため息をついた。だがフォルカの声を覆い消したのは、男の
「ため息をつきたいのはこっちだ」
という言葉だった。男はそう言うと、ちらっとフォルカを見たのち、「はあ~」とため息をついた。
ガイはオメガしか入れない店に、バース性を偽って入店していたくらいなのだ。その端正な顔立ちから察すると、相当遊んでいるのだろう。
けれどそこまで後悔するということは、ガイは自分と寝たくなかったのだろうか。自分が王族であることは知られていないはずだ。となれば好みじゃなかった? どっちにしろ、ガイの態度にフォルカはムッとした。
なんとも思っていない相手に振られたような気分だ。心外だった。フェロモンで誘ってしまったのはこちらだが、男の口からため息を聞いて怒りが募る。
「君はこういうことをするために、あの店に通っていたんだろう? 僕も悪かったとはいえ、そういう態度を取られると気分が悪い」
「は?」
ガイは一瞬何を言われたのか分かっていないみたいだったが、言われた言葉を反芻したのか、みるみるうちに「はあ?」と表情を歪ませていった。
「ふざけんじゃねえ。誰がオメガを食い散らかすためにあの店に入るかよ」
ガイはチッと舌打ちし、足元に後悔の視線を投げる。「ったく……こんなはずじゃなかった」と頭をガリッと掻いた。
その言葉にはあ?と思った。それを言われてしまったら、どうしようもないじゃないか。それこそ自分だって、よく知りもしないアルファとセックスをするつもりなんてなかった。だから首輪で自衛していたし、抑制薬だって常備していたのだ。
フォルカはふと、あれ?と疑念を抱いた。抑制薬は鞄の中に入っていたはずだ。昨晩、腰砕けになった自分はガイに薬を取ってきてもらうよう頼んだ。
ガイの濃い匂いに堪らず逃げたが、本能に乗っ取られたアルファの力があれば、自分の抵抗なんて赤子の手を捻るより簡単だっただろう。薬を飲ませることなんて、造作もなかったはずだ。
だがガイはそれをしなかった。薬が手元にあったのに、抑制薬を飲ませてくれなかった。
「だったらどうして薬を飲ませてくれなかったんだ?」
そこまで自分とセックスしてしまったことを後悔するなら、飲ませてくれればよかったのだ。フォルカはガイに詰め寄った。
「バカ。それはおまえが逃げたからで――」
「君ほどのアルファだったら、僕に薬を飲ませることなんて容易くできただろう。それともなんだ、寝てみたら思っていたのと違ったから後悔しているのか?」
ガイは「はあっ!?」と呆れたように怒りの声をフォルカにぶつけた。
「後悔もなにも、もとはと言えばおまえのヒートが原因だろーが! 俺はむしろ――」
「被害者だとでも? あれだけ激しくしておいて?」
うっ、とガイは頭を後ろに引く。痛いところを衝かれたと思ったのか、言い返せないらしい。仕切り直すように「とにかく」と言い、
「俺はあの店でオメガを物色してるわけじゃねえからな。そこだけは勘違いすんなよ」
とこちらに指をさす。
「じゃあどうして薬を飲ませてくれなかったんだ? あのときの君には理性があったのに」
腕を組んで厳しい目を向ける。
ガイは少なくても店から薬瓶の入った鞄を持ってきた時点では、完全に自分のフェロモンにあてられてはいなかったはずだ。その証拠に、途中まではフォルカに薬を飲ませようとしてくれていた。
ガイは言いにくそうに「そ、それは……」と口ごもった。
「ほら、言えないということはやっぱり――」
「う、うるせえな! 俺にもいろいろあるんだよ!」
誤魔化そうとする男を見て、「逃げるなんて卑怯だ」と問い詰める。
「逃げてねえっ」ガイは否定する。
「人がせっかく体拭いたり服着させてやったりしたんだぞ。おまけに俺の寝床も占領しやがって。むしろ感謝の一つぐらい言ってもいーんじゃねえか?」
清潔感のないパジャマではあるが、たしかにアフターケアはしてくれたようだ。体のあちこちが痛むものの、汗や体液でベタベタするということはなかった。ベッドも硬いが、フォルカに使わせてくれた。
そうとはいえ、偉そうな態度はいかがなものか。フォルカはプイと顔を逸らし、「礼は昨日助けてもらったときに言った」と返した。
「ったく。可愛くねえな」
「君に可愛げを見せるほど僕だって暇じゃないんだ」
「はー、そうですかそうですか」
棒読みで言うと、ガイはベッドの脇にある透明瓶からグラスに水を注いだ。「ほらよ」とグラスを差し出してくる。
フォルカは男の手が持つグラスと相手の顔を交互に見やる。フォルカの警戒心を察したのか、「ただの水だ」と説明した。
「抑制薬は避妊の効果もある。初めて会った男に孕まされるなんて、望んじゃいねえだろ」
孕まされる、という単語がやけに強く耳に入り、フォルカは咄嗟に「あ、あたりまえだ!」と返した。
「だったら今すぐ抑制薬を飲むことだな」
フォルカは急いで鞄の中から薬の入った瓶を取り出し、手のひらに抑制薬を出した。男からもらった水で、錠剤を二粒流し込んだ。
セックスなんてしたことがないから、ヒートを抑制する効果にしか目が向いていなかった。フォルカは手の甲で口元の水を拭う。
思い出させてくれたことに礼を言うかどうか迷ったが、変なプライドが邪魔して口には出せなかった。
「邪魔したな」
フォルカは男に空になったグラスを返した。
「まだあちこち痛むんだろ。癪だがもう少し休んでいけ」
「癪だと言われて休めるものか」
ガイは「ソーデスネ」とロボットのような抑揚で言い、小声でやっぱり可愛くねえと呟いた。聞こえてはいたが、反応するとまた言い争うことになりそうだ。あえて無視した。
フォルカは壁にかけられていた服に着替えたあと、鞄片手にハットを頭に乗せる。一刻も早く返って休みたかった。
ガイに床板を外してもらい、「それじゃ」とハシゴを伝う。その際、屋根裏部屋から覗き込むように屈んでいる男の手元が目の前にきて、思わず目が留まった。昨日は包帯を巻いていなかったはずだが、どこかで怪我でもしたんだろうか。
「その包帯の下はどうしたんだ?」
ガイは自分の手を見たあと、「なに、心配してくれるのか?」と悪戯っぽく笑った。
その顔にドキッと心臓が弾む。フォルカはかぁっと顔を熱くし、反射的に否定した。
「そ、そんなわけないだろう! ただ少し訊いてみただけだ!」
急いでハシゴを伝い、下の階に下りる。降り立ったのは二階だったらしく、人の気配がない。空き家なのか、近くにあったドアの隙間から見えた部屋には、家具や荷物といったものは見当たらなかった。昼間だというのに部屋の中は暗く、どことなく湿っぽい。
「表口は閉まってるんだ。帰るなら裏口からにしてくれ」
ガイは屋根裏部屋から見下ろしながら声を降らせると、
「悪いが見送りはここまでだ。気をつけて帰れよ」
と言った。
「言われなくても見送りはここでいい」
世話になった、と一言だけ告げ、フォルカは屋根裏部屋の出入口に背を向けた。
手すりに埃をかぶった木造の階段を駆け下り、リビングを脇目にキッチンへと向かう。リビングはえんじ色のドレープカーテンが部屋を閉め切っていて薄暗い。カーテンは重厚感があり、一目見ただけで立派なものだと分かった。
ルミナス王国の国花を柄にしたソファやテーブルは高級感を漂わせ、フォルカがルミナシエル宮殿にいたときに使っていたものとそっくりだ。壁面に埋め込まれた暖炉の上には、宝石の埋め込まれたいくつもの装飾品がきらきらと薄闇に反射している。
あんなごろつき男の棲む家に、どうしてこんなものが……?
そのときふと、ある疑いがフォルカの頭をよぎった。これらはすべて盗難品じゃないだろうか。それくらい、リビングにある家具や装飾品があの男と不釣り合いだった。
男が完全に悪人だとは思えない。だが、さすがに少し怖くなった。
とにかく深く関わらない方がいいだろう。何もなければ、わざわざ空き家の屋根裏部屋で暮らす必要はない。だけどあの男は住んでいるのだ。まるで身を潜めるように……。
ぶるっと身を震わせる。男が訳ありであることは間違いないだろう。確信すると、ぞわっとした。フォルカは空いた酒瓶が散乱するキッチンを抜け、裏口を目指した。
建付けの悪い勝手口から出て、大通りまで走る。髪の合間を縫って肌の上を伝った汗を拭おうとして、タートルネックに覆われた首筋に触れた。
そこでフォルカはあれと思った。
あると思っていたものが、なかったからだ。
首輪の後ろを触る。指の腹に伝わった感触は、昨晩の行為中にガイによって噛まれた痕だろう。首輪の後ろには歯形がついていた。
あれ? でも昨日確かに噛まれたよな? ヒートで意識が朦朧としていたが、確かに耳元で肉を噛む音がした。てっきり自分の首に、ガイが嚙みついたのだと思っていた。確かに痛みはなかった。ヒートで感覚が麻痺してしまったのだと思っていた。だけど、いくら指で探しても傷らしきものはなかった。
フォルカは自身の首元を覆うネック部分を伸ばして引っ張って見る。黄色のセーターは、その部分だけ赤く染まっている。さっき着替えるときも、この血は自分のものだと疑いもしなかった。
まさかこの血はガイのものだろうか。でもどうして?
その瞬間頭に浮かんだのは、包帯が巻かれたガイの右手。ドキリとして、フォルカは元来た道を思わず振り返った。
追いかけてくるはずがないのに、ガイの姿を人の流れの中に探してしまう。
なんで言ってくれなかったんだろう。あの傷は理性を保つために自身でつけた傷だと。おまえのせいで傷を負ったんだと。
言ってくれれば僕は――。
胸が絞られるようにきゅうっと痛む。
無傷の首元を触りながら、フォルカはしばらくの間、その場に立ちつくしていた。
ここはどこだ?
目を開けてまず考えたのは、自分のいる場所についてだ。自分の部屋でないことは、目を開けた瞬間に分かった。
フォルカは目を細めながら、ゆっくりと上半身を起こした。
「うっ!」
体じゅうの筋肉という筋肉が痛む。特に腰まわりは最悪だ。酒樽の下敷きにでもなったかのようだ。
痛みに顔を歪ませつつ、フォルカはすえた匂いのする部屋を見渡した。
埃や砂が目立つ木造の床には、使い古した雑巾のようなカーペットが敷かれている。今まで自分が寝ていたのは、錆びれたパイプベッドの上らしい。マットレスが薄いのか、フォルカの脂肪の少ない尻には、まるで布を敷いた石の上に座っているみたいだった。
天井の四隅には蜘蛛の巣が張られている。王族じゃなくても、この部屋で寝るのはなかなか躊躇するんじゃないだろうか。自身の体を包むシミのついた薄っぺらのパジャマと黄ばんだリネンの枕を見て、フォルカは思わず口元がヒクついてしまった。
けれど半開きの天窓から聞こえてくる小鳥のさえずりと、射し込んでくるやけに眩しい朝陽は、どういうわけかちょっと気に入った。
「目が覚めたか」
男の声がする。フォルカは視線を天窓から下に戻した。だが姿は見えない。「もっと下だ」と声がして床にまで目を落とすと、少し癖のある黒髪が動いた。
どうやらここは屋根裏部屋らしい。ハシゴを伝って、男が登ってくる。身なりや言動の荒々しさに似合わず、意外と足音が小さい。
ガイはハシゴを登りきると、はめ込み式の床板で自分が駆け上がってきた四角い穴を塞いだ。
右手に包帯が巻かれているのが見える。逞しい体が膝を伸ばし、こちらを向いた。
「体調はどうだ?」
「え?」
「痛むだろ。ずいぶんと無理をさせたからな」
男の言葉で、昨晩の記憶がフラッシュバックする。
そうだ。自分はこの男と昨日――。
かぁっと恥ずかしさがこみ上げる。酒に酔っていたわけではないから覚えている。何もかも覚えている。いたたまれなかった。
「なんかすげえ顔してるぞ、おまえ」
フォルカは両手で頭を抱えながら、「どんな顔だ?」と訊いた。
「ターツヤギの煮汁でも食ったみたいな顔だ」
獣臭が強く、人を選ぶ食べ物として知られているルミナス王国西側の郷土料理だ。なるほど今の自分はそんな顔をしているのか。
フォルカは「……そうか」と腹の底からため息をついた。
十五歳で初めてのヒートを迎えてから、かれこれ八年。幸い症状が他人より軽い方だと自覚していた。
疼きがつらいのは初日と二日目くらいだし、通常一週間続くとされているのに自分は三、四日で終わるからだ。薬屋の女店主にヒートの症状を詳しく説明したときも、「軽い方だから強い抑制薬じゃない方がいいわね」と言われた。
だがけっして油断していたわけではない。たとえ症状が軽かったとしても、公の場でヒートになり、アルファの欲を煽って望まぬ妊娠や番契約をしてしまう可能性はオメガなら誰にでもある。それを防ぐための首輪と抑制薬ではなかったのか?
にもかかわらず、昨日初めて会ったばかりのアルファ男と寝てしまうなんて。名前しか知らない、いや、名前だって本名かどうかも分からないごろつきの男と……。
激しい後悔と自己嫌悪で頭が痛かった。やってしまった……ともう一度ため息をついた。だがフォルカの声を覆い消したのは、男の
「ため息をつきたいのはこっちだ」
という言葉だった。男はそう言うと、ちらっとフォルカを見たのち、「はあ~」とため息をついた。
ガイはオメガしか入れない店に、バース性を偽って入店していたくらいなのだ。その端正な顔立ちから察すると、相当遊んでいるのだろう。
けれどそこまで後悔するということは、ガイは自分と寝たくなかったのだろうか。自分が王族であることは知られていないはずだ。となれば好みじゃなかった? どっちにしろ、ガイの態度にフォルカはムッとした。
なんとも思っていない相手に振られたような気分だ。心外だった。フェロモンで誘ってしまったのはこちらだが、男の口からため息を聞いて怒りが募る。
「君はこういうことをするために、あの店に通っていたんだろう? 僕も悪かったとはいえ、そういう態度を取られると気分が悪い」
「は?」
ガイは一瞬何を言われたのか分かっていないみたいだったが、言われた言葉を反芻したのか、みるみるうちに「はあ?」と表情を歪ませていった。
「ふざけんじゃねえ。誰がオメガを食い散らかすためにあの店に入るかよ」
ガイはチッと舌打ちし、足元に後悔の視線を投げる。「ったく……こんなはずじゃなかった」と頭をガリッと掻いた。
その言葉にはあ?と思った。それを言われてしまったら、どうしようもないじゃないか。それこそ自分だって、よく知りもしないアルファとセックスをするつもりなんてなかった。だから首輪で自衛していたし、抑制薬だって常備していたのだ。
フォルカはふと、あれ?と疑念を抱いた。抑制薬は鞄の中に入っていたはずだ。昨晩、腰砕けになった自分はガイに薬を取ってきてもらうよう頼んだ。
ガイの濃い匂いに堪らず逃げたが、本能に乗っ取られたアルファの力があれば、自分の抵抗なんて赤子の手を捻るより簡単だっただろう。薬を飲ませることなんて、造作もなかったはずだ。
だがガイはそれをしなかった。薬が手元にあったのに、抑制薬を飲ませてくれなかった。
「だったらどうして薬を飲ませてくれなかったんだ?」
そこまで自分とセックスしてしまったことを後悔するなら、飲ませてくれればよかったのだ。フォルカはガイに詰め寄った。
「バカ。それはおまえが逃げたからで――」
「君ほどのアルファだったら、僕に薬を飲ませることなんて容易くできただろう。それともなんだ、寝てみたら思っていたのと違ったから後悔しているのか?」
ガイは「はあっ!?」と呆れたように怒りの声をフォルカにぶつけた。
「後悔もなにも、もとはと言えばおまえのヒートが原因だろーが! 俺はむしろ――」
「被害者だとでも? あれだけ激しくしておいて?」
うっ、とガイは頭を後ろに引く。痛いところを衝かれたと思ったのか、言い返せないらしい。仕切り直すように「とにかく」と言い、
「俺はあの店でオメガを物色してるわけじゃねえからな。そこだけは勘違いすんなよ」
とこちらに指をさす。
「じゃあどうして薬を飲ませてくれなかったんだ? あのときの君には理性があったのに」
腕を組んで厳しい目を向ける。
ガイは少なくても店から薬瓶の入った鞄を持ってきた時点では、完全に自分のフェロモンにあてられてはいなかったはずだ。その証拠に、途中まではフォルカに薬を飲ませようとしてくれていた。
ガイは言いにくそうに「そ、それは……」と口ごもった。
「ほら、言えないということはやっぱり――」
「う、うるせえな! 俺にもいろいろあるんだよ!」
誤魔化そうとする男を見て、「逃げるなんて卑怯だ」と問い詰める。
「逃げてねえっ」ガイは否定する。
「人がせっかく体拭いたり服着させてやったりしたんだぞ。おまけに俺の寝床も占領しやがって。むしろ感謝の一つぐらい言ってもいーんじゃねえか?」
清潔感のないパジャマではあるが、たしかにアフターケアはしてくれたようだ。体のあちこちが痛むものの、汗や体液でベタベタするということはなかった。ベッドも硬いが、フォルカに使わせてくれた。
そうとはいえ、偉そうな態度はいかがなものか。フォルカはプイと顔を逸らし、「礼は昨日助けてもらったときに言った」と返した。
「ったく。可愛くねえな」
「君に可愛げを見せるほど僕だって暇じゃないんだ」
「はー、そうですかそうですか」
棒読みで言うと、ガイはベッドの脇にある透明瓶からグラスに水を注いだ。「ほらよ」とグラスを差し出してくる。
フォルカは男の手が持つグラスと相手の顔を交互に見やる。フォルカの警戒心を察したのか、「ただの水だ」と説明した。
「抑制薬は避妊の効果もある。初めて会った男に孕まされるなんて、望んじゃいねえだろ」
孕まされる、という単語がやけに強く耳に入り、フォルカは咄嗟に「あ、あたりまえだ!」と返した。
「だったら今すぐ抑制薬を飲むことだな」
フォルカは急いで鞄の中から薬の入った瓶を取り出し、手のひらに抑制薬を出した。男からもらった水で、錠剤を二粒流し込んだ。
セックスなんてしたことがないから、ヒートを抑制する効果にしか目が向いていなかった。フォルカは手の甲で口元の水を拭う。
思い出させてくれたことに礼を言うかどうか迷ったが、変なプライドが邪魔して口には出せなかった。
「邪魔したな」
フォルカは男に空になったグラスを返した。
「まだあちこち痛むんだろ。癪だがもう少し休んでいけ」
「癪だと言われて休めるものか」
ガイは「ソーデスネ」とロボットのような抑揚で言い、小声でやっぱり可愛くねえと呟いた。聞こえてはいたが、反応するとまた言い争うことになりそうだ。あえて無視した。
フォルカは壁にかけられていた服に着替えたあと、鞄片手にハットを頭に乗せる。一刻も早く返って休みたかった。
ガイに床板を外してもらい、「それじゃ」とハシゴを伝う。その際、屋根裏部屋から覗き込むように屈んでいる男の手元が目の前にきて、思わず目が留まった。昨日は包帯を巻いていなかったはずだが、どこかで怪我でもしたんだろうか。
「その包帯の下はどうしたんだ?」
ガイは自分の手を見たあと、「なに、心配してくれるのか?」と悪戯っぽく笑った。
その顔にドキッと心臓が弾む。フォルカはかぁっと顔を熱くし、反射的に否定した。
「そ、そんなわけないだろう! ただ少し訊いてみただけだ!」
急いでハシゴを伝い、下の階に下りる。降り立ったのは二階だったらしく、人の気配がない。空き家なのか、近くにあったドアの隙間から見えた部屋には、家具や荷物といったものは見当たらなかった。昼間だというのに部屋の中は暗く、どことなく湿っぽい。
「表口は閉まってるんだ。帰るなら裏口からにしてくれ」
ガイは屋根裏部屋から見下ろしながら声を降らせると、
「悪いが見送りはここまでだ。気をつけて帰れよ」
と言った。
「言われなくても見送りはここでいい」
世話になった、と一言だけ告げ、フォルカは屋根裏部屋の出入口に背を向けた。
手すりに埃をかぶった木造の階段を駆け下り、リビングを脇目にキッチンへと向かう。リビングはえんじ色のドレープカーテンが部屋を閉め切っていて薄暗い。カーテンは重厚感があり、一目見ただけで立派なものだと分かった。
ルミナス王国の国花を柄にしたソファやテーブルは高級感を漂わせ、フォルカがルミナシエル宮殿にいたときに使っていたものとそっくりだ。壁面に埋め込まれた暖炉の上には、宝石の埋め込まれたいくつもの装飾品がきらきらと薄闇に反射している。
あんなごろつき男の棲む家に、どうしてこんなものが……?
そのときふと、ある疑いがフォルカの頭をよぎった。これらはすべて盗難品じゃないだろうか。それくらい、リビングにある家具や装飾品があの男と不釣り合いだった。
男が完全に悪人だとは思えない。だが、さすがに少し怖くなった。
とにかく深く関わらない方がいいだろう。何もなければ、わざわざ空き家の屋根裏部屋で暮らす必要はない。だけどあの男は住んでいるのだ。まるで身を潜めるように……。
ぶるっと身を震わせる。男が訳ありであることは間違いないだろう。確信すると、ぞわっとした。フォルカは空いた酒瓶が散乱するキッチンを抜け、裏口を目指した。
建付けの悪い勝手口から出て、大通りまで走る。髪の合間を縫って肌の上を伝った汗を拭おうとして、タートルネックに覆われた首筋に触れた。
そこでフォルカはあれと思った。
あると思っていたものが、なかったからだ。
首輪の後ろを触る。指の腹に伝わった感触は、昨晩の行為中にガイによって噛まれた痕だろう。首輪の後ろには歯形がついていた。
あれ? でも昨日確かに噛まれたよな? ヒートで意識が朦朧としていたが、確かに耳元で肉を噛む音がした。てっきり自分の首に、ガイが嚙みついたのだと思っていた。確かに痛みはなかった。ヒートで感覚が麻痺してしまったのだと思っていた。だけど、いくら指で探しても傷らしきものはなかった。
フォルカは自身の首元を覆うネック部分を伸ばして引っ張って見る。黄色のセーターは、その部分だけ赤く染まっている。さっき着替えるときも、この血は自分のものだと疑いもしなかった。
まさかこの血はガイのものだろうか。でもどうして?
その瞬間頭に浮かんだのは、包帯が巻かれたガイの右手。ドキリとして、フォルカは元来た道を思わず振り返った。
追いかけてくるはずがないのに、ガイの姿を人の流れの中に探してしまう。
なんで言ってくれなかったんだろう。あの傷は理性を保つために自身でつけた傷だと。おまえのせいで傷を負ったんだと。
言ってくれれば僕は――。
胸が絞られるようにきゅうっと痛む。
無傷の首元を触りながら、フォルカはしばらくの間、その場に立ちつくしていた。
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