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1.人違い
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人差し指をくいと折り、フォルカは木製の書棚から一冊の背表紙を傾けた。抜き取った羊皮紙の本がずしりと手のひらに重みを伝える。年季のある書なのか、手垢と埃が染みこんだ本の手触りは独特だ。
ここハルヴァート学園の図書館は、北にあるレンガ造りの研究棟と真逆の教室棟に入っている。学生ではない自分にとって、図書館は馴染みのない場所だ。
研究棟から離れたそこに、「ルカ、医学書を探してきてもらえる?」と頼んできたのは教授のカタリーナだった。
カタリーナは研究に打ち込みすぎる性分のせいで、自身にも周りにも厳しい四十代半ばの女性教授。フォルカが幼少期から世話になっている専属の元家庭教師・フベルトと旧知の仲らしく、学園内で唯一自分の素性を知っている人物でもある。
が、所属している他の研究補助員と変わらず接してくれるところに、フォルカは好感を抱いていた。
「せっかく教室棟まで行くんですから、他にも借りてきてほしい本があればおっしゃってください」
厚意で申し出ると、カタリーナは「お願いするわ」と眼鏡のアーチ部分を指で押し、書のタイトルを一気に並べ立てた。急いで手元の羽ペンをとり、先っぽに墨をつける。自由な教授は、聞き取りながら紙にメモするこちらのペースなどお構いなしだ。フォルカは苦笑いしつつ、書のタイトルで埋まった手のひらほどの紙を持って、図書館へと向かった。
図書館内の中心には、大木のような柱が床から天井まで突き抜けている。天井を覆うステンドグラスを通した日差しが館内のカーペットに降り注ぎ、冬だというのに春の陽気さに似た空気が館内に漂う。
風通しのいい吹き抜けの建築デザインは、ここトレントリー共和国はもとより、フォルカの祖国、ひいてはその他隣国諸国の名高い建築家の間で高い評価を受けているそうだ。
目当ての書を何冊か腕に重ね、フォルカは螺旋階段をゆっくり降りた。ただでさえ広い図書館だ。誰もが知るような書ならまだしも、カタリーナの所望する本は人より多くの本を読んできた自分でさえ、どれも聞いたことのない医学書や論文集ばかり。
早々に自分で探すのを諦める。柱を囲うように設けられた貸出カウンターへと向かった。
「失礼。ここに書いてある本を探してもらえるかな?」
自力で見つけた本をカウンターに置き、カタリーナから聞き取ってメモした紙を近くにいた男に見せた。
対応したのは、二十三歳のフォルカと同年代の男の司書だ。長い黒髪を後ろに束ね、身長はフォルカより頭一つ分ほど高い。
縁の太い眼鏡をかけているが、背筋がピンと伸び、ガタイもいいせいか野暮ったい印象は受けない。前髪が目深にかかり、正面から見て額の左横にある切り傷の痕以外、顔の特徴を窺うことはできなかった。
男は無言でメモを受け取る。「あーっ!」と横から声をぶつけられたのはそのときだ。
長身の男の横にいた赤毛の司書が、声を張り上げたようだ。フォルカが見やると、小太りな赤毛の男が見開いたまん丸の目をこちらに向けていた。あわあわと口をまごつかせる。
「あっ……あなたは! もしやフォルカス王子ではありませんかっ?」
こちらの顔の上で目を泳がせる男に、一瞬戸惑う。だがフォルカはすぐに「ああ」と平静を装って笑顔を作った。
「行きつけのカフェでもよく似ていると言われるんだ。けど、さすがに人違いだよ」
こちらがやんわり否定すると、男は意外にもあっさりと「そりゃそうか」と恥ずかしげに笑ってこめかみを掻いた。
「ルミナス王国の王子様が、隣国のこんな田舎の学校にいるわけないよな」
一人納得し、男が続ける。
「急にすまなかったね。僕の祖母がルミナスファミリーのファンなんだ。今でも毎日のように話を聞かされているから、つい」
「いいや、王族と間違われるなんて光栄だよ」
フォルカが笑みで応えると、それまで黙っていた長身の男が、機嫌の悪そうな声でボソッと口を開いた。
「めでたい奴だ」
ん? 空耳だろうか。フォルカは思わず首を傾げる。
「それは僕に言ったのかい?」
フォルカが訊くと、慌てて答えたのは赤髪の男だった。
「こ、こいつは王族が嫌いらしいんだ。どうか悪く思わないでくれよ」
「悪く思うもなにも、こちらに対して悪く思っているのは彼の方じゃないかと」
「おい、ガイ! いくら俺が王族の話を出したからって来館者にあたることないだろ」
ガイと呼ばれた男は、
「別にあたってないさ。王族が嫌いだとも言っていない。別に好きでもないがな」
と冷たく言う。続けて、
「俺は事実をそのまま伝えただけだぜ」
男はフォルカたちに背を向け、カウンターの中から出ると館内の奥へと消えていった。
今のは一体なんだったんだ? 男の背中を目で追いながら、わかりやすく向けられた不機嫌に対し、呆気にとられる。
「気にしないでくれ。ガイは最近入ったやつなんだ。学園の知り合いの紹介かなんかでうちに司書として入ってきたんだけど、司書よりもごろつきって感じだよ」
そんな事情は知らないし、正直どうでもよかった。やれやれ顔の赤毛に、
「早く仕事に慣れてもらわなくちゃな」
とフォルカは冗談を飛ばすように笑った。昔から面倒なことが嫌いだ。場の空気が悪くなるぐらいなら、自分が我慢した方がまだいい……とわりと本気で思っている。
フォルカは気にしていない振りをしてから、「本を調べてもらっても?」と司書の男を促した。
そのあと、赤毛の司書は書棚でひしめく図書館の中から、目的の書を探し出してきてくれた。本を数冊腕に重ね、図書館から出る。研究棟に向けてえんじ色のカーペット廊下の上を、革靴を沈ませて歩く。
今日のように『フォルカス王子』ではないかと指摘されたことは、一度や二度ではない。けれどその度に内心ヒヤヒヤし、事細かに否定していたのもだいぶ前のこと。
今となっては焦って否定することはほとんどない。むしろ人違いだと笑顔で応じた方が、人々の好奇心を逸らせることを知っている。
フォルカはルミナシエル王国ことルミナス王国の第三王子だ。フォルカス・ヴィ・ルミナシエルが本来の名だが、久しく本名で呼ばれてはいない。
自分が単身王族を離れ、隣国のトレントリー共和国に住み始めてから約八年。
妹と元家庭教師のフベルトがたまに文をくれるが、どちらからもらった手紙の上でも自分のことを表す文字は本名ではなく、『兄さま』と『坊ちゃま』だからだ。
自分の立場を知っているカタリーナでさえ、フォルカのことを愛称の「ルカ」と呼ぶ。
長年の外国生活のせいで、フォルカの顔は世間に大々的には知られていないはずだ。だが以前、何らかの機会にフォルカの姿を一見したであろう記者が書いたゴシップ記事を読んだことがある。そこには、自分の容姿についてこう記されていたものだ。
――『エメラルドグリーンの瞳と力強い御眉は、お父上のアーモス二世譲りであられる。絹糸のように艶やかなブラウンのマッシュヘアと端正なお顔立ちは、数年前にお亡くなりになられた母ステラ妃を思い起こさせる。誰が見ても眉目秀麗なお方であることは間違いないだろう。』
眉目秀麗、という表現にはくすぐったさを覚えたものだが、その記事は思いのほか的を射ているようで、記事が出て以来、時々似ていると言われるようになった。
とはいえ、さっきの図書館でのように直球な言葉で尋ねられたのは数年ぶりだ。久しぶりだったから、ちょっとびっくりした。
――めでたい奴だ。
男がどうしてそんなことを言ったのかは分からない。『事実』ってなんだ? どこかで自分は、あの男と会ったことがあるのだろうか。記憶を探ってみたものの、『ガイ』という名前に思い当たる節はない。もちろん、あの男の見た目や声にもだ。
とにかく失礼な男だと思った。人を理解したような物言いが苦手だった。
次に図書館に行くことがあれば、あの男がいないときを狙おう。
フォルカはそう心に決めて、教室棟をあとにしたのだった。
ここハルヴァート学園の図書館は、北にあるレンガ造りの研究棟と真逆の教室棟に入っている。学生ではない自分にとって、図書館は馴染みのない場所だ。
研究棟から離れたそこに、「ルカ、医学書を探してきてもらえる?」と頼んできたのは教授のカタリーナだった。
カタリーナは研究に打ち込みすぎる性分のせいで、自身にも周りにも厳しい四十代半ばの女性教授。フォルカが幼少期から世話になっている専属の元家庭教師・フベルトと旧知の仲らしく、学園内で唯一自分の素性を知っている人物でもある。
が、所属している他の研究補助員と変わらず接してくれるところに、フォルカは好感を抱いていた。
「せっかく教室棟まで行くんですから、他にも借りてきてほしい本があればおっしゃってください」
厚意で申し出ると、カタリーナは「お願いするわ」と眼鏡のアーチ部分を指で押し、書のタイトルを一気に並べ立てた。急いで手元の羽ペンをとり、先っぽに墨をつける。自由な教授は、聞き取りながら紙にメモするこちらのペースなどお構いなしだ。フォルカは苦笑いしつつ、書のタイトルで埋まった手のひらほどの紙を持って、図書館へと向かった。
図書館内の中心には、大木のような柱が床から天井まで突き抜けている。天井を覆うステンドグラスを通した日差しが館内のカーペットに降り注ぎ、冬だというのに春の陽気さに似た空気が館内に漂う。
風通しのいい吹き抜けの建築デザインは、ここトレントリー共和国はもとより、フォルカの祖国、ひいてはその他隣国諸国の名高い建築家の間で高い評価を受けているそうだ。
目当ての書を何冊か腕に重ね、フォルカは螺旋階段をゆっくり降りた。ただでさえ広い図書館だ。誰もが知るような書ならまだしも、カタリーナの所望する本は人より多くの本を読んできた自分でさえ、どれも聞いたことのない医学書や論文集ばかり。
早々に自分で探すのを諦める。柱を囲うように設けられた貸出カウンターへと向かった。
「失礼。ここに書いてある本を探してもらえるかな?」
自力で見つけた本をカウンターに置き、カタリーナから聞き取ってメモした紙を近くにいた男に見せた。
対応したのは、二十三歳のフォルカと同年代の男の司書だ。長い黒髪を後ろに束ね、身長はフォルカより頭一つ分ほど高い。
縁の太い眼鏡をかけているが、背筋がピンと伸び、ガタイもいいせいか野暮ったい印象は受けない。前髪が目深にかかり、正面から見て額の左横にある切り傷の痕以外、顔の特徴を窺うことはできなかった。
男は無言でメモを受け取る。「あーっ!」と横から声をぶつけられたのはそのときだ。
長身の男の横にいた赤毛の司書が、声を張り上げたようだ。フォルカが見やると、小太りな赤毛の男が見開いたまん丸の目をこちらに向けていた。あわあわと口をまごつかせる。
「あっ……あなたは! もしやフォルカス王子ではありませんかっ?」
こちらの顔の上で目を泳がせる男に、一瞬戸惑う。だがフォルカはすぐに「ああ」と平静を装って笑顔を作った。
「行きつけのカフェでもよく似ていると言われるんだ。けど、さすがに人違いだよ」
こちらがやんわり否定すると、男は意外にもあっさりと「そりゃそうか」と恥ずかしげに笑ってこめかみを掻いた。
「ルミナス王国の王子様が、隣国のこんな田舎の学校にいるわけないよな」
一人納得し、男が続ける。
「急にすまなかったね。僕の祖母がルミナスファミリーのファンなんだ。今でも毎日のように話を聞かされているから、つい」
「いいや、王族と間違われるなんて光栄だよ」
フォルカが笑みで応えると、それまで黙っていた長身の男が、機嫌の悪そうな声でボソッと口を開いた。
「めでたい奴だ」
ん? 空耳だろうか。フォルカは思わず首を傾げる。
「それは僕に言ったのかい?」
フォルカが訊くと、慌てて答えたのは赤髪の男だった。
「こ、こいつは王族が嫌いらしいんだ。どうか悪く思わないでくれよ」
「悪く思うもなにも、こちらに対して悪く思っているのは彼の方じゃないかと」
「おい、ガイ! いくら俺が王族の話を出したからって来館者にあたることないだろ」
ガイと呼ばれた男は、
「別にあたってないさ。王族が嫌いだとも言っていない。別に好きでもないがな」
と冷たく言う。続けて、
「俺は事実をそのまま伝えただけだぜ」
男はフォルカたちに背を向け、カウンターの中から出ると館内の奥へと消えていった。
今のは一体なんだったんだ? 男の背中を目で追いながら、わかりやすく向けられた不機嫌に対し、呆気にとられる。
「気にしないでくれ。ガイは最近入ったやつなんだ。学園の知り合いの紹介かなんかでうちに司書として入ってきたんだけど、司書よりもごろつきって感じだよ」
そんな事情は知らないし、正直どうでもよかった。やれやれ顔の赤毛に、
「早く仕事に慣れてもらわなくちゃな」
とフォルカは冗談を飛ばすように笑った。昔から面倒なことが嫌いだ。場の空気が悪くなるぐらいなら、自分が我慢した方がまだいい……とわりと本気で思っている。
フォルカは気にしていない振りをしてから、「本を調べてもらっても?」と司書の男を促した。
そのあと、赤毛の司書は書棚でひしめく図書館の中から、目的の書を探し出してきてくれた。本を数冊腕に重ね、図書館から出る。研究棟に向けてえんじ色のカーペット廊下の上を、革靴を沈ませて歩く。
今日のように『フォルカス王子』ではないかと指摘されたことは、一度や二度ではない。けれどその度に内心ヒヤヒヤし、事細かに否定していたのもだいぶ前のこと。
今となっては焦って否定することはほとんどない。むしろ人違いだと笑顔で応じた方が、人々の好奇心を逸らせることを知っている。
フォルカはルミナシエル王国ことルミナス王国の第三王子だ。フォルカス・ヴィ・ルミナシエルが本来の名だが、久しく本名で呼ばれてはいない。
自分が単身王族を離れ、隣国のトレントリー共和国に住み始めてから約八年。
妹と元家庭教師のフベルトがたまに文をくれるが、どちらからもらった手紙の上でも自分のことを表す文字は本名ではなく、『兄さま』と『坊ちゃま』だからだ。
自分の立場を知っているカタリーナでさえ、フォルカのことを愛称の「ルカ」と呼ぶ。
長年の外国生活のせいで、フォルカの顔は世間に大々的には知られていないはずだ。だが以前、何らかの機会にフォルカの姿を一見したであろう記者が書いたゴシップ記事を読んだことがある。そこには、自分の容姿についてこう記されていたものだ。
――『エメラルドグリーンの瞳と力強い御眉は、お父上のアーモス二世譲りであられる。絹糸のように艶やかなブラウンのマッシュヘアと端正なお顔立ちは、数年前にお亡くなりになられた母ステラ妃を思い起こさせる。誰が見ても眉目秀麗なお方であることは間違いないだろう。』
眉目秀麗、という表現にはくすぐったさを覚えたものだが、その記事は思いのほか的を射ているようで、記事が出て以来、時々似ていると言われるようになった。
とはいえ、さっきの図書館でのように直球な言葉で尋ねられたのは数年ぶりだ。久しぶりだったから、ちょっとびっくりした。
――めでたい奴だ。
男がどうしてそんなことを言ったのかは分からない。『事実』ってなんだ? どこかで自分は、あの男と会ったことがあるのだろうか。記憶を探ってみたものの、『ガイ』という名前に思い当たる節はない。もちろん、あの男の見た目や声にもだ。
とにかく失礼な男だと思った。人を理解したような物言いが苦手だった。
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