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落日の廃城
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夜行列車から降りて、廃線となった路面電車の改札前を通り過ぎると、レンとリンレイの眼前に、赤い月明かりを浴びて血の海に沈んだような街並みが広がった。
雨に濡れた闇光りするアスファルトの両脇に立ち並ぶ、壁や天井が崩れ落ちた大きな建物たち。以前は十分に繁栄した大都市だったのかもしれない。
物音ひとつせず、人の気配もまったくない。路面に埋め込まれた線路をたどる、レンとリンレイがそれぞれ履くロングブーツの歩くかかとの音が響くだけ。彼らの足元低くには、蒸気が霧のように白く染めていた。
枯れた街路樹、バス停をいくつも見送るメインストリート。泥汚れと錆に腐食された店の看板の失脚した群れ。レストランに本屋、デパートに映画館。デートするにはうってつけの通りだった、街がきちんと機能していれば。
うちしがれた街並みに変わったのが不思議なほど、きれいに整備され、奥へと続く細い路地たちもおしゃれな軒並みだったのが容易に想像できた。国境近くだが、地方都市として繁栄していてもおかしくはなかった。
レンとリンレイは夜行列車を降りてからは何も話さないまま。歩く風圧でひるがえる黒のロングコートを、ミニスカートのプリーツが早足で追いかけるを繰り返していた。
侵入防止策もないふたつ目の改札横を通り過ぎながら、リンレイは星が瞬く空の下にぶちまけられた瓦礫の山の街並みを見渡す。
「誰もいない。家もない。何だか置き去りの土地って感じね」
重くまとわりつくような悪魔も襲ってくることはなく、静寂があたりを満たしていた。靴底が砂を嚙むようなジャリジャリという音に耳を傾けながら、彼女の言葉がやけに引っかかり、レンの脳裏に同じ言葉がぐるぐると回る。
置き去り。置き去り置き去り。置き去り置き去り置き去り。置き去り置き去り置き去り置き去り……。
前に何らかの関係があった、ということだ。まただ、覚えがないのに知っていることは。鋭利なスミレ色の瞳は通りの両脇を眺める。
(こんな街並みは知らない)
そうして、すぐに否定の一途をたどる。
(いや知っている……)
あの傾いてしまったデパートの看板も、映画館の入り口もどこかで見た。朝起きた時から続いている、この奇妙な感覚は一体何なのだ。
答えが出ない。レンはイラついて、道端の石ころを足で遠くへ蹴った。水切りするように、ピョンピョンと跳ねながら遠ざかってゆく。
後ろからついてきていたリンレイは、彼の奇怪な行動を眺めていたが、やがて、あっけらかんとした感じで、
「ねぇ? 名前教えてくれない?」
また、知っている知っていないの話なのか。振り返ったレンは今や鬼の形相だった。
「知っているだろう」
朝自分の部屋に押しかけておいて、どうやって来たのだ。どう考えもおかしい。だが、リンレイは片手のひらを星空へ向けて、お手上げみたいな仕草をする。
「ちょっとした記憶喪失なのかしら? 知ってるはずなのにね。覚えてないのよ」
この女も自分と同じように記憶がない……。そうなると、行き先は盲目という名の死出の旅路。だが、長年の経験という勘が言う。進めと。
細かいことはどうでもいい。レンは前へ向き直って、湿った夜風に彼の奥行きがある少し低めの声が混じった。
「レン ディストピュアだ――」
今度はリンレイの脳裏で何かが引っかかった。腰に手を当てぼんやりする。
「そう。どこかで聞いたことがあるわね。どこでだったかしら?」
まただ。知らないはずなのに知っている。レンはこれ以上言葉が火山噴火しないように、放置したままどんどん歩き出した。
「…………」
リンレイはしばらく頭を悩ませていたが、はるか遠くを歩いているレンに気づいて、慌てて小走りになった。
「ちょっと待ってよ~、置いていくなんて」
「お前がもたもたしているからだ」
結局、レンは火山噴火を起こし、まわりに積み重なっていた瓦礫が、衝撃でガラガラと少しだけ崩れ落ちた。
あちこち抜け落ちた石畳を歩いてゆくと、道は右に大きくカーブをした下り坂へと続いていた。
他の建物の影になり、その先にどんな景色が広がっているか眺められなかったが、ふたりがカーブへ差し掛かると、血のような真っ赤な月が空を堂々と侵食していた。
星々は息を潜め、月を背にして、丸いケーキにろうそくを立てたような、城の影が切り絵のようにくっきりと遠くに浮かび上がっている。
そこへと続く道は、両側が絶望の淵へと手招きする断崖絶壁。くねくねと蛇行を描きながら、城へと伸びている。
「ここね」
リンレイが言うと、深い藪の中から、カラスがカーカーと一斉に飛び立ち、赤い目を光らせながら待ち構える。亡骸に落ちようものならば、すぐさま餌食として、肉を食いちぎってやろうと。
もう夜明けの時間でもおかしくないはずなのに、朝はどこへいったのか、見渡す限り夜ばかり。いつの間にか異世界へ迷い込んだようで、古城にいる悪魔を倒さないと、平常な世界へとは戻れないのだろう。
拳銃――フロンティアとピースメーカーをそれぞれ手にして、切り立った崖の上の道を、警戒態勢で慎重に進み始めた。
*
悪魔一匹出てこない。不気味なほど、何事もなく城の堀へとやって来た。干上がっているわけでもなく、真っ赤な血のように横殴りに、月明かりの反射が川面になびいている。
「跳ね橋が上がったまま……。そうよね。戸締りはするわよね」
ずいぶん几帳面に廃城となったようで、城と外をつなぐ、堀の上を渡す大きな橋が斜めに引き上がったままだった。
「しょうがないわね」
跳ね橋を止めている鎖を銃弾で吹き飛ばそうと、リンレイは照準を構え、ピースメーカーのトリガーに手をかける。
その時だった、城の奥から破滅へと導くような、脳にこびりつくようなパイプオルガンの音色が突風をともなって吹き荒れたのは。
「何っ!?」
「っ……」
拳銃を持ったままの腕で、リンレイは顔を覆い、レンは反射的に閉じたまぶたの裏で、怒りがふつふつと湧き上がった。
俺の美的センスを総動員した服と髪型をどうしてくれるのだと、言わんばかりに。橋が降りているのなら、今すぐいって問い詰めてやりたいところである。
だが彼の怒りはすぐに引いた。単なる雑音、爆音と思えたが、それはきちんと旋律を奏でていた。
「バッハ 小フーガ ト短調……」
ヴァイオリンとバッハが関係するのかと思っていた、抜け落ちた記憶と。だが、この曲はパイプオルガンだけだ。そうなると、バッハに意味があったのか。
車輪の回る音が地響きのようなうなりをゴーゴーと上げ、跳ね橋が城側から降りてきて、ガシャンと鉄の鎖が歪むと、手招きするように、堀を渡る橋ができあがった。
当てがはずれて、リンレイは拳銃をしまいながら、乱れてしまったブラウンの長い髪を手で夜風にほつれさせた。
「音楽好きの悪魔ってことかしら?」
蔦が絡まっているわけでもなく、壁が崩れ落ちているわけでもなく、堀が枯れているわけでもなく、今でも誰かが住んでいそうな城を、レンはしばらく見上げていた。
しかしやがて、あの先走りで、自分と違って落ち着きのない女が入っていった立派な両開きの扉に手をかけた。
城に中に入ると、壁の燭台に炎が灯っていた。ここに来ることを予期したいたような、奥へと導くあかりの列。廊下は右と真正面に分かれていたが、右手は暗闇ばかり。
悪魔退治。放置して帰るわけにはいかない。くまなく探すのなら、どこから行っても同じだ。しかし、広い城内で、どこに悪魔がいるかも聞かされていない。あの女も知らないのだろう。
それなのに、明かりのついている廊下を何の疑いもなく進んでいる。無謀を通り越して、無駄死にである。
揺れ動くブラウンの髪を前にして、レンはバカにしたように鼻で笑う。
「お前を行く手の毒味にしてやる。ありがたく思え」
女が落ちたら落ちた。何かで串刺しにされたら、自分は避けるということだ。
そうやって、リンレイを囮にして、レンがあとを追い、廊下の角までやって来た。上へと登る階段を、ブーツのかかとで木の軋む音を鳴らし、遠ざかってゆく。
レンは視界の端で通ってきた廊下を一度見渡したが、何者かが追ってくる姿も気配もなかった。
上階へ上がると、廊下の壁に飾られた絵画は斜めに傾いているわけでもなく、破け目ができているわけでもなく、綺麗に顔を並べている。花瓶などを彩る花々はないが、すぐにでも使えそうだった。
パイプオルガンの音は薄闇に相変わらず漂っていて、気配を探りながらリンレイは進んでいた。悪魔がいるのは確かだが、それにしてはやけに静かだ。
やがて出てきた両開きの立派なドアの前で、彼女は背をつけてうかがう。レンはその姿を少し離れたとこから見ながら拳銃を持つ手に力を入れた。
リンレイはさっと内側へ扉を開け放ち、ピースメーカーの引き金に指をかけながら待ってはみたものの、拍子抜けするほど何も起きなかった。銃口を向けたまま、部屋の中を見渡す。
壁にある燭台には全てろうそくが灯されていて、頭上には大きな花が咲いたようなシャンデリアがいくつもある大広間。だが、誰もいない。
しかし、白いテーブルクロスの上には、パーティでもしていたような豪華な料理が食べかけであちこちに散らばっていた。
甘く香ばしい匂いが際立ち、心地よい温もりが部屋を包む。ついさっきまで誰かがいたように。
ワルツを奏でていただろう楽団員が置いていった様々な楽器。気配も人もない。リンレイは人差し指に拳銃を引っ掛けてクルクルと回す。
「悪魔がダンスでもするのかしら?」
鋭利なスミレ色の瞳にも同じ様子が映る。今も流れ続けているパイプオルガンの音色。しかし、この大広間には、あんなに大きな楽器は置けやしない。どこから聞こえてくるのか。
その時だった。
「ちょっ!」
ちょうどシャンデリアの下を歩いていたリンレイの姿が急に見えなくなったのは。何かの風圧で砂埃が舞い上がる。思わず目を閉じて、大地震でも起きたのかと思うような揺れと爆音を感じた。
静寂のあとしばらくして、カラカラと小さな音がしたかと思うと、リンレイの声が聞こえてきた。
「ねぇ? ちょっと!」
目を開けると、彼女の姿はどこにもなかった。いや床に大きな穴が空いていた。抜けたのだ。
自分と違って慎重でもなく、平然と前に進むからこうなるのだと思い、レンはここぞとばかりに言ってやった。
「自業自得だろう。自分で落ちたんだからな。俺には関係ない。自分で責任を取れ。俺に頼る――」
そのまま部屋を出て行こうとしたが、
「違うわよ!」
「では何だ?」
助けを乞うようなら、また一言冷たく言ってやろうかと思った。だが、彼女の言葉はまったく違っていた。
「追いかけていくから、先に行ってて。あなたを足止めしても仕方がないでしょ?」
落ちて怪我をしているかもしれないのに、無事な自分のことを心配する。こんな人間がいるとは今まで知らなかった。レンの鋭利なスミレ色の瞳はあちこちに向けられる。
「…………」
瓦礫の上に乗っても、彼の姿は階下の部屋からは見えず、リンレイは首をかしげた。
「返事はどうしたの?」
ゴスパンクのロングブーツは、床にできた大きな穴に慎重に近づき、珍しいものでも見るように、リンレイを眺めていたが、やがて面白くないと言うように、
「ふんっ!」
そっぽを向き、そのまま離れていった。問いかけにまったく答えていない。だが、リンレイはリンレイで勝手に解釈した。
「わかったの意味でいいのね」
しかしそれで合っていて、レンは部屋を出て、廊下をさらに奥へと目指す。
リンレイは瓦礫の山から抜けて、薄暗い部屋の扉を開けた。すると、赤い月明かりに照らし出された廊下で、光る何かを見つけた。さっとしゃがみこみ、拾い上げる。
「イヤリング?」
さっき通った時にはなかった。それなのに今はある。しかも、あの男のベッドサイドにあったものと同じアクセサリー。彼が持ってきて落としたのか。そんな執着心があるようなタイプには思えなかったが。
スカートのポケットに入れて、リンレイは小走りで追いかける。あの男の背の高さは半端ない。しかも、あのゴーイングマイウェイ。速度を緩めて歩くなどしないだろう。本気で走らないと追いつかない――
*
一方、二階の廊下を歩いていたレンの脳裏に、砂嵐のような画像が割り込んできた。
さっきは何でもなかったのに、リンレイの床から落ちた姿など見ていないのに、スローモーションで彼女が落ちてゆくのを、脳が勝手に何度も何度も再生し始めて、同じ声が幾重にも重なってゆく。
死んだって。死んだって死んだって。死んだって死んだって死んだって。死んだって死んだって死んだって死んだって……。
「っ……!」
レンは急に息苦しさを覚え、パイプオルガンの音色が今や身を引き裂くような爆音と変わり、まっすぐ立っていられなくなって、片手で顔を覆い、壁に斜めに寄りかかった。
こんなことをしている場合ではないのに、今悪魔に襲われたら対処できない。だが、何かの発作みたいに、震えが止まらない。それっきり彼は前に進めなくなった。
そんなレンの背中を見ている瞳がふたつあった。どこかずれているクルミ色の目。あとから追いかけてきたリンレイは廊下の角に隠れて、様子のおかしい、すらっとした黒のロングコートをじっと見つめる、声もかけずに。
イヤリング。
記憶がない。
誰かがいたような廃城。
リンレイの中で答えが出始めて、ボソッとつぶやいた。
「もしかして、ここって……」
悪魔が怖いわけでもなく。寒さに凍えるような男の背中が涙で急ににじみ、彼女は手で口を覆うと、両頬に雫がそっとこぼれ落ちていった。
「…………」
何と声をかけていいのかわからなかった。リンレイはレンと数メートルの距離を空けたまま、ただただ黙って立ち尽くした。
しかし、ここでじっとしているわけにはいかない。自分の中で出た答えが本当なら、なおさらだ。
彼女は涙を静かに拭い、廊下の陰に隠れて深呼吸を何度もする。わざとらしく大きな声で言いながら、ブーツのかかとを鳴らして廊下の真ん中へ躍り出た。
「や~ね~。床が抜けるなんて……。とんだ遠回り――」
今ごろ気づいたふりをして、不自然に言葉を止め、
「あら? 待っててくれたのかしら?」
さっきまでの息苦しさもめまいも嘘のように消え去り、さっきまで鳴っていたパイプオルガンの音色も聞こえなかった。レンは前を向いたまま、へらず口を叩く。
「……そうだ。ありがたく思え」
「優しいのね」
奇妙なことを言う――。思わず振り向いたレンに、リンレイは静かに近づいてきたが、
「…………」
「さぁ、行きましょう?」
彼女はそのまま通り過ぎた。さっきの失敗にまったく懲りていない女に文句も言わず、レンはリンレイの背中を穴があくほど見つめて、自分の心の内を考える。
予測もしない言動をしてくる。それが妙に心地よく、ずっとイラっとしていたのが嘘みたいに晴れやかだ。自身は一体どうしたというのだろうか。
いつまで経っても背後から足音が近づいてこず、リンレイは不思議そうに振り返った。
「どうしたの? 置いてくわよ」
いや違った。やはりイラっとくることを言う、この女は。レンの天使のように綺麗な顔は怒りで歪み、ひねくれをお見舞いしてやった。
「お前の頭は鶏が跪くほど記憶力崩壊が見事だな。さっきと同じ間違いをしようとするとはな」
リンレイは悔しそうに唇を噛みしめ、
(かちんと来る……!)
いつまでもどこまでも、言い争いが続いていきそうで、彼女は大人になって、適当に流した。
「はいはい」
リンレイを前にして、ふたりはまた廊下を歩き出す。しばらく無言だったが、どうしても気になることがあり、リンレイがふと沈黙を破った。
「ねぇ? あなたって朝からずっと起きたまま?」
自分が気にしていたことと同じことを聞いてくる。偶然なのか。レンは少し出遅れたが、正直に答えた。
「……そうだ」
「そう。そうなると……?」
事実という輪郭がくっきりしてゆく。リンレイは前を向いて進み出した。自分が今どこを歩いているのか、何を目指しているのか予測がついて。
埃ひとつない廊下を見送る。城は少しずつ衰退していったのではなく、いきなり何かが起きて、人々が逃げ出したか、いなくなったようだった。
廊下は突き当たりへとぶつかって、右手に進むしか選択肢がなかった。燭台はきちんとつけられていたが、通路の真ん中で途切れている。とうとう、目的地に到着のようだった。
鋭利なスミレ色の瞳とクルミ色の瞳は一直線に交わって、無言のまましっかりとうなずき合う。今までは前哨戦だ。ここからが本番である。
フロンティアとピースメーカーを取り出し、トリガーに指をかける。リンレイがドアノブに手をかけ、そうっと回す。一秒が一時間にも感じるほど、緊迫した空気――
扉の隙間から真紅の絨毯が顔を出した。次に乳白色の大理石に映る燭台にあるロウソクの炎がオレンジ色の光るモヤをはわせる。
人一人が通れるほどドアが開いたところで、レンとリンレイは銃口を構えたまま中へ押し入った。
どうやらそこは、謁見の間のようで、まっすぐと伸びた絨毯の先では、立派な玉座が空席。両脇の大理石は白が広がるばかりで、誰も立っていない。
ピンと張りつめた空気。時が止まってしまったかのように錯覚するほど、動きのない部屋。ロウソクの炎が舐めるように揺らめくのが、唯一の現在進行形。
奥がかすむほど広く、隅々まで目を凝らして、自分たち以外の存在がないか探そうとすると、突如身を切り裂く刃物のような風が吹き抜けた。
ガジャーンと、耳をつんざくパイプオルガンの不協和音がととどろき、レンとリンレイは思わず耳をふさいだ。
「っ……」
悪魔がこの部屋にいるのは確実だ。油断することなく、目を閉じずに壁一面にそびえ立つ楽器の奏者を見つけた。長い髪をした人物がこちらに背を向けて、玉座の左隣に座っている。
リンレイは引き金に手をかけて、ピースメーカーを素早く構え、両手でしっかりと握り、両足で赤い絨毯の上で噛みしめるように立った。
ビリビリと痺れるような音の風圧は未だ続いていて、それどころか増すばかりで、キリキリと巻き取っていた糸が耐えきれなくなり、切れてしまうような寸前まで来ていた。
音が突如消え去ると、今度は無音を通り越して、耳鳴りに体の内側がまとわりつくように犯されてゆく。
レンは耐え難い不快感に一瞬目を伏せたが、鋭利なスミレ色の瞳が姿を現すと、真正面の玉座に白いローブを着た人物がいつの間にか座っていた。
手には権威の象徴である王笏。全身白に金糸の刺繍が施されているのに、禍々しさが部屋全体を犯すように漂う。顔は布に覆われていてうかがい知れない。密教の神官という言葉がふさわしい出で立ち。
レンの右手が拳銃のハンマーを引き上げようとした刹那、パイプオルガンから印象的な旋律が流れ出した。
天国から地獄へと真っ逆さまに転がり落ちてゆくようなメロディーライン。音程を変えて数拍遅れで次々に紡がれる追走曲。
針のような輝きを持つ銀髪の奥で、曲名が容易に浮かび上がった。
――バッハ トッカータとフーガ 二短調。
どこかずれているクルミ色の瞳は照準から、パイプオルガンの奏者の背中を捉え、トリガーが引かれた。
ズバーンッッッ!
死の抱擁のような旋律を引き裂いて、弾丸は向かってゆく軌跡を横へ追い越すように、玉座から入り口の扉前に立っていたレンのすらっとした体躯に、横殴りの真っ黒な雨のようなカラスの群れが飛んでゆき、パイプオルガンも銃声もかき消した。
硝煙が上がるほんの短い間。髪の長い奏者は振り向かなかったが、リンレイの左肩に激痛が走った。
「つっ……!」
拳銃を持ったままの手で、リンレイは肩を抑えようとする。その左隣で、レンがフロンティアを鋭利なスミレ色の瞳と同じ位置で構え、引き金を引いた。
ズバーンッッッ!
二番目の銃声は、カラスの群れに突っ込んでゆく。銃弾はみるみる銀の長い髪から離れ、白いローブの悪魔へと向かい、赤い目をしたカラスの群れをハリケーンのように巻き込み押しのけ飛んでゆく。
だが、逆再生した煙のように、カラスも銃弾も何もかもが悪魔へと引き寄せられ、フェイドアウトした。次の瞬間、
シュピーンッッッ!
鋭いカミソリで切り裂くように、銃弾がレンの首を前からかすめて、
「っ……」
背中の廊下で壁にめり込んだ。悪魔も奏者も攻撃はしていない。それなのに、リンレイは少し離れたところで、左肩を抑え、痛みに耐えている。
レンが空いている手で首筋をそっと拭うと、水などどこにもないのに濡れていた。
さっきまで降り注いでいた赤い月影は今はどこにもなく、パリパリと雷光が龍のように分厚い雲をはう音と青白い光の中で、恐る恐る眼前に持ってきた手のひらで、べっとりと真っ赤な血が浮かび上がった。
(首が切れて……)
レンは急に息苦しくなり、足元がおぼつかなくなる。
(女が落ちて……)
焦点が合わず、ブラックアウトを繰り返し出して、同じ言葉がぐるぐると心の中で駆け巡る。
自殺したって。自殺したって自殺したって。自殺したって自殺したって自殺したって。自殺したって自殺したって自殺したって自殺したって……。
空が落ちてきたようなザザーンという雷鳴が響き、青白い閃光が走った。窓を叩き始めたスコールの音が、しけた海の荒波のように激しく押し寄せる。
銀の輝きもつ髪の奥にある脳裏で、記憶が猛スピードで巻き戻り、とうとう全て思い出した。奥行きのある少し低めの声で、レンは叫ぶ。
「フローリアっ!」
リンレイは知らない女の名前を聞いて、思わず振り返った。
鮮血が首筋から流れるのが記憶の重い扉を開ける鍵のように、レンの脳裏に悲痛という名のフィルムが早回しで再生されてゆく。
*
――澄み切った青い絵の具が染める秋空。黄色、オレンジ、赤の枯葉が風に乗せられ、実りの季節を彩る。
ダステーユ音楽堂の広い階段を、レンのロングブーツが降りようとすると、女の声が背後から引き止めた。
「あなたもバッハが好きなの?」
知り合いなどいない。関わり合いなどいらない。返事もせず去っていこうとしたが、自分の脇で階段をカタカタとヒールの音が足早に通り過ぎ、行く手をさえぎった。
妖精みたいな儚げで可愛らしい女。ブラウンの長い髪。クルミ色の瞳。背丈は百六十センチといったとこだ。
音楽堂で出演したコンサートで、パイプオルガンを弾いていた女だ。それならば多少は関係がある。
レンは鋭利なスミレ色の瞳を女に刺すように向け、愛想など不要とばかりに、超不機嫌で答えた。
「そうだ」
そんな些細なことだった、彼女と出会いは――。
広い草原に立ち、晴れ渡る空の下で、乾いた風に吹かれている。心地よくて、思わず目を閉じて、自然に身を任せる。彼女に会うと心の中はいつもそうだった。
それは恋という名の景色。気づいた時には、レンはいつの間にかそこに立っていた。
楽しく穏やかに時は過ぎ、仕事も順調。それでも人生だ。多少の困難はあったが息を潜めて、順風漫歩で進んでいたはずだった。
しかし、女の様子が少しずつおかしくなり、ある日話を切り出された。
「悪魔に取り憑かれてるの」
よく聞けば、女は霊感を持っていて、目に見えない存在と話すことがあるらしい。一日中耳元でそそのかすように、
「死ね」
とささやかれる。眠っている間も、誰かと話している間も、ずっと。それは、幻がいつしか真実へと変わってしまう、幻想心理効果――
病んでいる精神に追い討ちがかけられる。
女が何か失敗すれば、あざ笑う声が聞こえ、自尊心は容赦なく破壊される。耳をふさごうとも、体の内側から響く声から逃げることはできない。
ちょっとした喜びも、他人を踏み台にして手に入れたように見せかけられ、罪の意識という濡れ衣を着せられる。何もかもが自分が生きているせいで、まわりが傷ついてゆく――
そう信じ込ませるように仕向けられた精神病質。
一ヶ月もしないうちに、女の心は蝕まれていき、元気だった頃の面影はどこにもなくなった。
それでも愛した女だ、救いたいとレンは願った。だが、相手は目にも見えず、触れることもできない悪魔。助けるすべがないジレンマの日々。
痩せこけ、目の下にクマを作り、すっかり生気をなくした女が、決死の頼みごとをレンにした。
「一人きりでいると、気が狂いそうなの。だから、あなたと結婚をしたいの」
「わかった――」
式の準備は進み、結婚式当日まで一週間と迫った。仕事の合間にふと見た携帯電話に、コレタカからの留守番電話が入っていた。
「――死んだって」
そのあとどうやって仕事を抜け出し、現場まで行ったのかは覚えていない。
今みたいに、雨が闇に白く強く光る夜だった。激しく鳴り続ける雨音の中で見た風景は、刃物で自分の首を切りつけた上に、高いビルから飛び降りた死体だった。
まわりに集まっていた他の人々のひそひそ話が、雨音をかいくぐってはっきりと耳に入り込んでくる。
「自殺したって」
淡いピンクのイヤリングが濡れたアスファルトの上にバラバラに転がっていた。
レンの心の隙間に何か黒い煙のような影がすっと入り込んだ気がした。急に視界も意識も何もかもが歪み、彼は声にもならない叫びを上げて、
「あぁ……!」
そのまま、両膝を脱力したように、黒光りする路面に打ちつけた――
*
謁見の間――
小石が落ちて来たようなバチバチと窓にぶつかる雨粒。稲妻がジグザグの線を作って、近くの地面に雷光とともに地響きのように落雷し続ける。
赤い絨毯の上で、リンレイはじっと見つめていた。ストロボを炊いたような光を浴び、ドアを背にして立っているレンのロングコートが死んだように動かないのを。
「やっぱり……そうなのね」
バラバラだったパズルピースが完成するように、真相に近づいて、どこかずれているクルミ色の瞳は涙でにじんだ。
苦痛で歪んだ顔を上げ、レンは混濁した意識の中で何度か呼吸を重ね、まっすぐリンレイの横顔を見つめて、
「どういう意味だ?」
「この世界はあなたの心の中――夢。だから、以前の記憶がお互いにないのね」
リンレイは最寄駅から、この謁見の間までたどった道のりを脳裏でなぞる。
「繁栄してたみたいな街並みは、一番輝いてた記憶だったってことでしょ? 燭台に明かりがついてたり料理が残ってたのは、今でも心の中で想ってるから、違うかしら?」
瓦礫の山にあった、デパートも映画館も何もかもが、フローリアと一緒にデートに行った場所だった、今となれば。
引き裂かれそうな胸の痛みに耐えながら、苦しそうに息をするレン。だが、大切なところはそこではなかった。リンレイは静かに言葉を紡ぐ。
「私は何度も眠ると、別の世界で違う日常生活を送ってた。あなたは一度も眠らなかった。それって、あなたの意識が戻らず、現実では眠ったままなんじゃないかしら――?」
ザザーンと空が落ちてくるような雷鳴が響き、津波が押し寄せるような雨音が一層激しく窓を叩き出した――
*
――フローリアが死んだ日からの記憶はほとんどない。救えなかった。間に合わなかった。後悔ばかりの日々。
何かに操られたかのように、まわりの人間がみんな口をそろえて言う。
お前がしっかりしてなかったから、女は死んだ――
責められるばかり。いつしか、自分の心のうちにも、
「死んで罪を償え」
という言葉が朝も昼も夜もつきまとうようになった。右も左もわからなくなった人生という霧の中で、それでも肯定して、全て受け止めて、フローリアのために何が自分にできるのか。
悲しみという底なし沼に足を取られ、水面の下へ沈みそうになっては、必死にはい上がっての繰り返し。
天気のよい昼間で、レースのカーテン越しに光は部屋へ入ってきているのに、レンの心の中には陽光は差さない。魔が差したという闇に取り込まれそうな毎日。
いつしか食べる気力もなくなり、婚約指輪も自然と抜け落ちるようになった。
自身のうちから聞こえてくる声を振り払おうと、ヴァイオリンのケースから楽器を取り出し、あごではさみ、弓を構える。だが、バッハの旋律が指を震えさせ、弾けなくなっていた。
楽譜が散らばる部屋で、夜なのに明かりもつけずに、震える手を必死で抑えて、レンは閉じたまぶたの裏で、首を締められるような息苦しさを覚えた。
めまいがして、テーブルの上に置いてあったバーボンの瓶が倒れ、ビチャビチャと琥珀色の液体が音符を染めてゆく。
数日前、コンサート会場の廊下で聞いた、仕事関係者の言葉をふと思い出した。
「レン デュストピュアも終わりだろう。神の申し子とか言われてたが、あれじゃな。ワールドツアーも全てキャンセルだ――」
キャンセルした公演は膨大で、取り消しの費用も莫大で、全ては借金となり、自分へ重くのしかかり、誰も彼も離れていった。
フローリアが死んだ日から何日過ぎたのだろう。ヴァイオリンを弾いていないのはどのくらいだろう。部屋から出ていないのはいつからだろう。
意識が深く深く海底へ沈んでゆくように堕ちてゆく。きちんと座っているはずなのに、頭が右へ左へ前へ後ろへ引っ張られる。ソファーへ横倒しになって、崩れるように床に落ちた。まぶたが勝手に閉じてゆく。
自分はもう死ぬのだ……。
その時だった。鍵を閉めていなかったのか、
「レン! レン!」
たった一人、自分を責めることもせず、離れることもせずそばにいた、親友コレタカのまだら模様をした声が聞こえた気がした――――
*
レンを乗せたストレッチャーが集中治療室へ運び込まれると、エレベータの扉が開いた。茶色の革靴に連れられて、ピンクのスーツを着たすらっとした体躯のコレタカが病院の廊下を歩き出した。
胸元に黄色のサングラスをかけて、山吹色のボブ髪は両手で気だるくかき上げられ、ガラス張りの病室へやって来た。宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳は、意識のないレンをずっと見つめていたが、
「そうね……?」
長い足をクロスさせて、山吹色のボブ髪を両手で大きくかき上げると、不思議なことにその場からすうっと姿を消した――
*
謁見の間――
天井窓を雨がつたうたびに、真紅の絨毯に黒い筋が引かれてゆく。鳴り響いていたパイプオルガンの旋律は消え去り、代わりにリンレイの問いかけが舞った。
「フローリアって女と私が似てたってことかしら?」
知らないはずなのに、見覚えがある。過去と現在という二枚のトレースシートがピタリと重なり、乱れていたレンの呼吸は嘘のように平常に戻った。
カチャッと金属のかすれる音がして、朦朧としていた意識が戻った目の前では、今まさにリンレイが銃口を、パイプオルガンを弾く髪の長い悪魔に向けたところだった。
ズバーンッッッ!
それと数秒遅れて、フロンティアの照準が、スミレ色の鋭利な瞳の前に持ち上がり、その先で銃声がうなった。
ズバーンッッッ!
銀の長い前髪から銃弾はみるみる離れてゆく、鋭い鉛色の線を引いて。ブラウンの長い髪へと石火のごとく近づいて、リンレイの頬をギリギリで交わし、白いローブの悪魔へと迫る。
敵を撃ったはずのリンレイは、ロングブーツに隠された右足首に痛みが走った。
「っ!」
バランスを崩し、ブラウンの長い髪が宙に舞うように浮かんだ奥で、玉座に座っているローブの悪魔へと、レンの放った銃弾は順調に向かっていたが、
カツン!
張り詰めた空気に一石投じるように、悪魔が金の王笏を大理石の上で響かせた。すると、レンは腹に激痛が走り、いきなり息がつまり思わず、
「くぁっ!」
脱力したように両膝を大理石に打ちつけて、前に倒れこんだ。唇の端から血がポタポタと落ち、乳白色を真っ赤に染めてゆく。
「な……ぜだ?」
敵に攻撃をしたはずなのに、負傷したのは自分の腹で、かなりの致命傷。王笏を振るったのが原因なのか。
白のシャツが血の赤でにじんでいる左肩も気にせず、リンレイはもう一度パイプオルガンの前に座る悪魔に向かって発砲した。
ズバーンッッッ!
だが、自身の右太もも後ろに鋭い痛みが走り、
「っ!」
前に転んだように真紅の絨毯を巻き込んで、大理石の上に倒れこんだ。悪魔に攻撃された覚えがないのに、銃弾が足に当たっている。激痛を通り越して、ひどい痺れの中で考える。
(さっきから、自分たちばかりが怪我してるのはどうしてかしら?)
血はどんどん流れ出して、レンとリンレイのまわりを染め出した。
*
――集中治療室は一気に慌ただしくなった。
コレタカの宝石みたいに異様に輝く黄緑色の瞳には、まったく動かない銀の長い前髪がさっきからずっと映っていた。
看護師と医師がレンのまわりに集まっていたが、白衣を着た一人の男が廊下へ出てきた。医師の静かな声が病院の廊下に響く。
「危篤状態です。ご家族にご連絡ください」
「そう」
何の感情もない無機質なまだら模様の声でうなずくと、コレタカは山吹色のボブ髪を両手で大きくかき上げた。ポケットにある携帯電話を触りながら、通話可能なロビーへ戻り出す。
「闇……空間ってこと――」
ちょうど来たエレベーターに、ピンクのスーツは吸い込まれた。
*
乳白色の冷たい大理石と生暖かい血ばかりの視界で、レンとリンレイの耳に、儚げな女の声が急に入り込んだ。
「――レン、助けに来てくれたの? 私はこの悪魔に殺されたのよ」
驚いて顔を上げると、パイプオルガンの前に、白いネグリジェのような服を着た女がいた。リンレイは悪魔を警戒しながら、足を引きずりつつ立ち上がる。
「っ……」
思わず息を飲んだ。まるで鏡でも見ているように、ブラウンの長い髪で、クルミ色の瞳で、背丈も同じ女。彼女の顔は横を向いていて、少し離れたところで立ち上がろうとするレンに優しく微笑んでいた。
「そうして、今もこうして捕まってる。あなたがそばにいてくれたら、私はこの悪魔から解放されるの」
ゴスパンクのロングブーツは片膝を立てて、銃口を向ける。玉座に座る白いローブに。刺し殺しそうな怒りを胸に、レンは天使のような綺麗な顔を歪める。
「っ!」
リンレイはトリガーに当てていた指をはずした。今何が目の前で起きているのか直感して。自分が何をするためにここに一緒に居合わせているのかを理解して。
「な~に~? こんなつまらない女を愛してたの? 笑っちゃうわね」
鋭利なスミレ色の瞳から照準は姿を消した。
「どういう意味だ?」
「自分のことを人に頼るなんて、無責任よね。悪魔から解放されるから、結婚して欲しいってせがまれたんじゃないの?」
かなり挑発的な言葉がやって来たが、レンの唇はまったく動かなかった。
「…………」
「答えないってことは図星ってことね」
女――フローリアの声が割って入ってきて、
「嫉妬してる……」
リンレイはあきれた顔をした。
「嫉妬って何?」
「レンを愛してるってこと」
当然というように、フローリアから返事が返ってきたが、バカバカしくなって、リンレイは両手を広げて降参のポーズを取った。
「やっぱりつまらない女ね。人を愛することが相手を想いやることだって知らないなんて……」
レンが何を言われてきたのか、予測が簡単について、リンレイは言葉を続けた。
「どんな理由でも、最後に言動を決めたのはこの女。だから、責任はこの女にあって、あなたにはないのよ」
見た目は似ていようと、中身は天と地ほどの差がある女ふたり。
濃い霧の中でひどい土砂降りで、ただずぶ濡れになって動けずにいたが、一筋の光がレンの心に差した気がした。緊迫した戦闘中なのに、超不機嫌はどこかへ消え失せ、天使のような笑顔を見せた。
「…………」
リンレイはキラキラと輝くスミレ色の瞳を見つけて、呆然とした。
(可愛いいのね……)
ラブロマンスみたいに見つめ合うレンとリンレイ。フローリアは完全に眼中になかったが、雷鳴の音で、リンレイは我に返った。
(っていうか、わかってるわよね? レン、自分が誰を攻撃するべきなのか)
敵に知られるわけにもいかず、どこかずれているクルミ色の瞳は一生懸命、レンに訴えかけていたが、話が通じず、
「どうして微笑んでるの?」
超不機嫌に戻り、レンは火山噴火ボイスを発しようとしたが、
「俺がどうしようと、お前には関係な――」
フローリアに途中でさえぎられた。
「それよりも、早くこの悪魔を殺して」
「…………」
言われるがままに銃口を白いローブの悪魔へ構える男を前にして、
「とんだ茶番だわ――待って!」
リンレイは心の中でため息をつく。
(わかってないじゃない!)
レンが引き金を引く前に、リンレイのロングブーツは真紅の絨毯を走り込んで、
ズバーンッッッ!
降りしきる雨音を引き裂くように銃声が響き渡り、発射された銃弾はもう止められない。いや守るべきものは……。リンレイのブラウンの長い髪は、レンの真正面に立ちはだかった。
シュピーンッッッ!
空中から突然、銃弾が鉛色の線を引いて現れた。レンの心臓を撃ち抜く軌跡は、三十七センチの身長差で、リンレイの後頭部に深く鋭く入り込んだ。
「うっ!」
うめき声を上げて、リンレイはレンの腕の中に倒れてゆく。
悪魔に銃弾は向かっていった。それなのに、リンレイは自分へと走ってきて、銃弾を浴びている。レンは両腕でしっかり受け止めながら、鋭利なスミレ色の瞳をあちこちに向ける。
「……どうなっている?」
即死のはずなのに、リンレイは少し苦しそうに息をしながら、
「さっきから敵は私たちに攻撃してない。だけど、私たちは傷を負ってる。それって、私たちと敵の位置が逆になってる。空間が歪んでる。あなたを攻撃したいのなら悪魔。私を攻撃したいのならフローリアだったのよ。ゲホゲホッ……!」
咳き込んだリンレイを、レンは強く抱き寄せた。
「お前、俺のことかばって……」
「ちょっと計算間違ったみたい……」
全体重を預けられたレンは、奥行きがあり少し低めの声で必死に呼びかけたが、
「リンレイ? リンレイ? おい!」
「…………」
彼女の唇が動くことはなかった。レンは左腕だけでリンレイの白いシャツを抱きしめ、ポニーテールの長い髪が不浄な空気の中で力なく揺れる。
拳銃、フロンティアのハンマーをカチカチと押し倒しながら、鋭利なスミレ色の瞳は、自分の腕の中にいる女とそっくりなフローリアに向けられた。
「今救ってやる」
何の躊躇もなく、トリガーは引かれ、
ズバーンッッッ!
銃声が悲鳴を上げ、スミレ色の鋭利な瞳の先で銃弾はどんどん離れていき、フローリアの額を撃ち抜いた。彼女の驚いた顔に赤い血がいくつもの筋を作る。
「うっ! ど、どうして……私を?」
レンは銃を持つ手を脇へ下ろした。フローリアは青白い煙となり、玉座に座る白いローブを着た悪魔へと吸収され、消え去ってゆく。
「悪魔に取り込まれて、自殺した。だから、お前ももう悪魔だ」
心の弱いところに入り込むのが悪の定義。逃れたいのなら自力で抜け出す。墜ちたのは自身の責任なのだから。それを教えてくれたのは、今腕の中にいるリンレイだ。
レンは自分を引き入れようとしている悪魔と一人対峙する。雷光が窓の外を真昼のように染め、ザザーンと雷鳴がとどろいた。
黒いロングコートの腕は銃口を、銀の髪に隠れたこめかみに当てた。
「…………」
ガタガタと手と呼吸が震える。悪魔が話を聞いて、自分との位置を元に戻していたら、完全に自殺だ。引き金を引く指がやけに重く、鋭利なスミレ色の瞳は恐怖で閉じられた。
ズバーンッッッ!
銃声があたりに冴え渡り、レンとリンレイは大理石の上に重い砂袋のように同時に崩れ落ちた――
バリバリ、ズドーンッッッ!
空を引き裂くような音がして、遠くの地震がやってくるような地響きが起き、城はグラグラと揺れ、
「うがぁぁぁぁ~~!!!!」
断末魔が雷雨の夜に飛び散った――
*
――集中治療室のホルター心電図は、
ピーーー!
と言ったっきり戻らず、心臓マッサージが行われていた。何の感情も持たない黄緑色の瞳で現実を見つめ、山吹色のボブ髪はかき上げられ、
「ま、そういう終わり方もあるよね」
コレタカの言葉は、人よりもはるかに長い時を生きているような威厳を持っていた。
雨に濡れた闇光りするアスファルトの両脇に立ち並ぶ、壁や天井が崩れ落ちた大きな建物たち。以前は十分に繁栄した大都市だったのかもしれない。
物音ひとつせず、人の気配もまったくない。路面に埋め込まれた線路をたどる、レンとリンレイがそれぞれ履くロングブーツの歩くかかとの音が響くだけ。彼らの足元低くには、蒸気が霧のように白く染めていた。
枯れた街路樹、バス停をいくつも見送るメインストリート。泥汚れと錆に腐食された店の看板の失脚した群れ。レストランに本屋、デパートに映画館。デートするにはうってつけの通りだった、街がきちんと機能していれば。
うちしがれた街並みに変わったのが不思議なほど、きれいに整備され、奥へと続く細い路地たちもおしゃれな軒並みだったのが容易に想像できた。国境近くだが、地方都市として繁栄していてもおかしくはなかった。
レンとリンレイは夜行列車を降りてからは何も話さないまま。歩く風圧でひるがえる黒のロングコートを、ミニスカートのプリーツが早足で追いかけるを繰り返していた。
侵入防止策もないふたつ目の改札横を通り過ぎながら、リンレイは星が瞬く空の下にぶちまけられた瓦礫の山の街並みを見渡す。
「誰もいない。家もない。何だか置き去りの土地って感じね」
重くまとわりつくような悪魔も襲ってくることはなく、静寂があたりを満たしていた。靴底が砂を嚙むようなジャリジャリという音に耳を傾けながら、彼女の言葉がやけに引っかかり、レンの脳裏に同じ言葉がぐるぐると回る。
置き去り。置き去り置き去り。置き去り置き去り置き去り。置き去り置き去り置き去り置き去り……。
前に何らかの関係があった、ということだ。まただ、覚えがないのに知っていることは。鋭利なスミレ色の瞳は通りの両脇を眺める。
(こんな街並みは知らない)
そうして、すぐに否定の一途をたどる。
(いや知っている……)
あの傾いてしまったデパートの看板も、映画館の入り口もどこかで見た。朝起きた時から続いている、この奇妙な感覚は一体何なのだ。
答えが出ない。レンはイラついて、道端の石ころを足で遠くへ蹴った。水切りするように、ピョンピョンと跳ねながら遠ざかってゆく。
後ろからついてきていたリンレイは、彼の奇怪な行動を眺めていたが、やがて、あっけらかんとした感じで、
「ねぇ? 名前教えてくれない?」
また、知っている知っていないの話なのか。振り返ったレンは今や鬼の形相だった。
「知っているだろう」
朝自分の部屋に押しかけておいて、どうやって来たのだ。どう考えもおかしい。だが、リンレイは片手のひらを星空へ向けて、お手上げみたいな仕草をする。
「ちょっとした記憶喪失なのかしら? 知ってるはずなのにね。覚えてないのよ」
この女も自分と同じように記憶がない……。そうなると、行き先は盲目という名の死出の旅路。だが、長年の経験という勘が言う。進めと。
細かいことはどうでもいい。レンは前へ向き直って、湿った夜風に彼の奥行きがある少し低めの声が混じった。
「レン ディストピュアだ――」
今度はリンレイの脳裏で何かが引っかかった。腰に手を当てぼんやりする。
「そう。どこかで聞いたことがあるわね。どこでだったかしら?」
まただ。知らないはずなのに知っている。レンはこれ以上言葉が火山噴火しないように、放置したままどんどん歩き出した。
「…………」
リンレイはしばらく頭を悩ませていたが、はるか遠くを歩いているレンに気づいて、慌てて小走りになった。
「ちょっと待ってよ~、置いていくなんて」
「お前がもたもたしているからだ」
結局、レンは火山噴火を起こし、まわりに積み重なっていた瓦礫が、衝撃でガラガラと少しだけ崩れ落ちた。
あちこち抜け落ちた石畳を歩いてゆくと、道は右に大きくカーブをした下り坂へと続いていた。
他の建物の影になり、その先にどんな景色が広がっているか眺められなかったが、ふたりがカーブへ差し掛かると、血のような真っ赤な月が空を堂々と侵食していた。
星々は息を潜め、月を背にして、丸いケーキにろうそくを立てたような、城の影が切り絵のようにくっきりと遠くに浮かび上がっている。
そこへと続く道は、両側が絶望の淵へと手招きする断崖絶壁。くねくねと蛇行を描きながら、城へと伸びている。
「ここね」
リンレイが言うと、深い藪の中から、カラスがカーカーと一斉に飛び立ち、赤い目を光らせながら待ち構える。亡骸に落ちようものならば、すぐさま餌食として、肉を食いちぎってやろうと。
もう夜明けの時間でもおかしくないはずなのに、朝はどこへいったのか、見渡す限り夜ばかり。いつの間にか異世界へ迷い込んだようで、古城にいる悪魔を倒さないと、平常な世界へとは戻れないのだろう。
拳銃――フロンティアとピースメーカーをそれぞれ手にして、切り立った崖の上の道を、警戒態勢で慎重に進み始めた。
*
悪魔一匹出てこない。不気味なほど、何事もなく城の堀へとやって来た。干上がっているわけでもなく、真っ赤な血のように横殴りに、月明かりの反射が川面になびいている。
「跳ね橋が上がったまま……。そうよね。戸締りはするわよね」
ずいぶん几帳面に廃城となったようで、城と外をつなぐ、堀の上を渡す大きな橋が斜めに引き上がったままだった。
「しょうがないわね」
跳ね橋を止めている鎖を銃弾で吹き飛ばそうと、リンレイは照準を構え、ピースメーカーのトリガーに手をかける。
その時だった、城の奥から破滅へと導くような、脳にこびりつくようなパイプオルガンの音色が突風をともなって吹き荒れたのは。
「何っ!?」
「っ……」
拳銃を持ったままの腕で、リンレイは顔を覆い、レンは反射的に閉じたまぶたの裏で、怒りがふつふつと湧き上がった。
俺の美的センスを総動員した服と髪型をどうしてくれるのだと、言わんばかりに。橋が降りているのなら、今すぐいって問い詰めてやりたいところである。
だが彼の怒りはすぐに引いた。単なる雑音、爆音と思えたが、それはきちんと旋律を奏でていた。
「バッハ 小フーガ ト短調……」
ヴァイオリンとバッハが関係するのかと思っていた、抜け落ちた記憶と。だが、この曲はパイプオルガンだけだ。そうなると、バッハに意味があったのか。
車輪の回る音が地響きのようなうなりをゴーゴーと上げ、跳ね橋が城側から降りてきて、ガシャンと鉄の鎖が歪むと、手招きするように、堀を渡る橋ができあがった。
当てがはずれて、リンレイは拳銃をしまいながら、乱れてしまったブラウンの長い髪を手で夜風にほつれさせた。
「音楽好きの悪魔ってことかしら?」
蔦が絡まっているわけでもなく、壁が崩れ落ちているわけでもなく、堀が枯れているわけでもなく、今でも誰かが住んでいそうな城を、レンはしばらく見上げていた。
しかしやがて、あの先走りで、自分と違って落ち着きのない女が入っていった立派な両開きの扉に手をかけた。
城に中に入ると、壁の燭台に炎が灯っていた。ここに来ることを予期したいたような、奥へと導くあかりの列。廊下は右と真正面に分かれていたが、右手は暗闇ばかり。
悪魔退治。放置して帰るわけにはいかない。くまなく探すのなら、どこから行っても同じだ。しかし、広い城内で、どこに悪魔がいるかも聞かされていない。あの女も知らないのだろう。
それなのに、明かりのついている廊下を何の疑いもなく進んでいる。無謀を通り越して、無駄死にである。
揺れ動くブラウンの髪を前にして、レンはバカにしたように鼻で笑う。
「お前を行く手の毒味にしてやる。ありがたく思え」
女が落ちたら落ちた。何かで串刺しにされたら、自分は避けるということだ。
そうやって、リンレイを囮にして、レンがあとを追い、廊下の角までやって来た。上へと登る階段を、ブーツのかかとで木の軋む音を鳴らし、遠ざかってゆく。
レンは視界の端で通ってきた廊下を一度見渡したが、何者かが追ってくる姿も気配もなかった。
上階へ上がると、廊下の壁に飾られた絵画は斜めに傾いているわけでもなく、破け目ができているわけでもなく、綺麗に顔を並べている。花瓶などを彩る花々はないが、すぐにでも使えそうだった。
パイプオルガンの音は薄闇に相変わらず漂っていて、気配を探りながらリンレイは進んでいた。悪魔がいるのは確かだが、それにしてはやけに静かだ。
やがて出てきた両開きの立派なドアの前で、彼女は背をつけてうかがう。レンはその姿を少し離れたとこから見ながら拳銃を持つ手に力を入れた。
リンレイはさっと内側へ扉を開け放ち、ピースメーカーの引き金に指をかけながら待ってはみたものの、拍子抜けするほど何も起きなかった。銃口を向けたまま、部屋の中を見渡す。
壁にある燭台には全てろうそくが灯されていて、頭上には大きな花が咲いたようなシャンデリアがいくつもある大広間。だが、誰もいない。
しかし、白いテーブルクロスの上には、パーティでもしていたような豪華な料理が食べかけであちこちに散らばっていた。
甘く香ばしい匂いが際立ち、心地よい温もりが部屋を包む。ついさっきまで誰かがいたように。
ワルツを奏でていただろう楽団員が置いていった様々な楽器。気配も人もない。リンレイは人差し指に拳銃を引っ掛けてクルクルと回す。
「悪魔がダンスでもするのかしら?」
鋭利なスミレ色の瞳にも同じ様子が映る。今も流れ続けているパイプオルガンの音色。しかし、この大広間には、あんなに大きな楽器は置けやしない。どこから聞こえてくるのか。
その時だった。
「ちょっ!」
ちょうどシャンデリアの下を歩いていたリンレイの姿が急に見えなくなったのは。何かの風圧で砂埃が舞い上がる。思わず目を閉じて、大地震でも起きたのかと思うような揺れと爆音を感じた。
静寂のあとしばらくして、カラカラと小さな音がしたかと思うと、リンレイの声が聞こえてきた。
「ねぇ? ちょっと!」
目を開けると、彼女の姿はどこにもなかった。いや床に大きな穴が空いていた。抜けたのだ。
自分と違って慎重でもなく、平然と前に進むからこうなるのだと思い、レンはここぞとばかりに言ってやった。
「自業自得だろう。自分で落ちたんだからな。俺には関係ない。自分で責任を取れ。俺に頼る――」
そのまま部屋を出て行こうとしたが、
「違うわよ!」
「では何だ?」
助けを乞うようなら、また一言冷たく言ってやろうかと思った。だが、彼女の言葉はまったく違っていた。
「追いかけていくから、先に行ってて。あなたを足止めしても仕方がないでしょ?」
落ちて怪我をしているかもしれないのに、無事な自分のことを心配する。こんな人間がいるとは今まで知らなかった。レンの鋭利なスミレ色の瞳はあちこちに向けられる。
「…………」
瓦礫の上に乗っても、彼の姿は階下の部屋からは見えず、リンレイは首をかしげた。
「返事はどうしたの?」
ゴスパンクのロングブーツは、床にできた大きな穴に慎重に近づき、珍しいものでも見るように、リンレイを眺めていたが、やがて面白くないと言うように、
「ふんっ!」
そっぽを向き、そのまま離れていった。問いかけにまったく答えていない。だが、リンレイはリンレイで勝手に解釈した。
「わかったの意味でいいのね」
しかしそれで合っていて、レンは部屋を出て、廊下をさらに奥へと目指す。
リンレイは瓦礫の山から抜けて、薄暗い部屋の扉を開けた。すると、赤い月明かりに照らし出された廊下で、光る何かを見つけた。さっとしゃがみこみ、拾い上げる。
「イヤリング?」
さっき通った時にはなかった。それなのに今はある。しかも、あの男のベッドサイドにあったものと同じアクセサリー。彼が持ってきて落としたのか。そんな執着心があるようなタイプには思えなかったが。
スカートのポケットに入れて、リンレイは小走りで追いかける。あの男の背の高さは半端ない。しかも、あのゴーイングマイウェイ。速度を緩めて歩くなどしないだろう。本気で走らないと追いつかない――
*
一方、二階の廊下を歩いていたレンの脳裏に、砂嵐のような画像が割り込んできた。
さっきは何でもなかったのに、リンレイの床から落ちた姿など見ていないのに、スローモーションで彼女が落ちてゆくのを、脳が勝手に何度も何度も再生し始めて、同じ声が幾重にも重なってゆく。
死んだって。死んだって死んだって。死んだって死んだって死んだって。死んだって死んだって死んだって死んだって……。
「っ……!」
レンは急に息苦しさを覚え、パイプオルガンの音色が今や身を引き裂くような爆音と変わり、まっすぐ立っていられなくなって、片手で顔を覆い、壁に斜めに寄りかかった。
こんなことをしている場合ではないのに、今悪魔に襲われたら対処できない。だが、何かの発作みたいに、震えが止まらない。それっきり彼は前に進めなくなった。
そんなレンの背中を見ている瞳がふたつあった。どこかずれているクルミ色の目。あとから追いかけてきたリンレイは廊下の角に隠れて、様子のおかしい、すらっとした黒のロングコートをじっと見つめる、声もかけずに。
イヤリング。
記憶がない。
誰かがいたような廃城。
リンレイの中で答えが出始めて、ボソッとつぶやいた。
「もしかして、ここって……」
悪魔が怖いわけでもなく。寒さに凍えるような男の背中が涙で急ににじみ、彼女は手で口を覆うと、両頬に雫がそっとこぼれ落ちていった。
「…………」
何と声をかけていいのかわからなかった。リンレイはレンと数メートルの距離を空けたまま、ただただ黙って立ち尽くした。
しかし、ここでじっとしているわけにはいかない。自分の中で出た答えが本当なら、なおさらだ。
彼女は涙を静かに拭い、廊下の陰に隠れて深呼吸を何度もする。わざとらしく大きな声で言いながら、ブーツのかかとを鳴らして廊下の真ん中へ躍り出た。
「や~ね~。床が抜けるなんて……。とんだ遠回り――」
今ごろ気づいたふりをして、不自然に言葉を止め、
「あら? 待っててくれたのかしら?」
さっきまでの息苦しさもめまいも嘘のように消え去り、さっきまで鳴っていたパイプオルガンの音色も聞こえなかった。レンは前を向いたまま、へらず口を叩く。
「……そうだ。ありがたく思え」
「優しいのね」
奇妙なことを言う――。思わず振り向いたレンに、リンレイは静かに近づいてきたが、
「…………」
「さぁ、行きましょう?」
彼女はそのまま通り過ぎた。さっきの失敗にまったく懲りていない女に文句も言わず、レンはリンレイの背中を穴があくほど見つめて、自分の心の内を考える。
予測もしない言動をしてくる。それが妙に心地よく、ずっとイラっとしていたのが嘘みたいに晴れやかだ。自身は一体どうしたというのだろうか。
いつまで経っても背後から足音が近づいてこず、リンレイは不思議そうに振り返った。
「どうしたの? 置いてくわよ」
いや違った。やはりイラっとくることを言う、この女は。レンの天使のように綺麗な顔は怒りで歪み、ひねくれをお見舞いしてやった。
「お前の頭は鶏が跪くほど記憶力崩壊が見事だな。さっきと同じ間違いをしようとするとはな」
リンレイは悔しそうに唇を噛みしめ、
(かちんと来る……!)
いつまでもどこまでも、言い争いが続いていきそうで、彼女は大人になって、適当に流した。
「はいはい」
リンレイを前にして、ふたりはまた廊下を歩き出す。しばらく無言だったが、どうしても気になることがあり、リンレイがふと沈黙を破った。
「ねぇ? あなたって朝からずっと起きたまま?」
自分が気にしていたことと同じことを聞いてくる。偶然なのか。レンは少し出遅れたが、正直に答えた。
「……そうだ」
「そう。そうなると……?」
事実という輪郭がくっきりしてゆく。リンレイは前を向いて進み出した。自分が今どこを歩いているのか、何を目指しているのか予測がついて。
埃ひとつない廊下を見送る。城は少しずつ衰退していったのではなく、いきなり何かが起きて、人々が逃げ出したか、いなくなったようだった。
廊下は突き当たりへとぶつかって、右手に進むしか選択肢がなかった。燭台はきちんとつけられていたが、通路の真ん中で途切れている。とうとう、目的地に到着のようだった。
鋭利なスミレ色の瞳とクルミ色の瞳は一直線に交わって、無言のまましっかりとうなずき合う。今までは前哨戦だ。ここからが本番である。
フロンティアとピースメーカーを取り出し、トリガーに指をかける。リンレイがドアノブに手をかけ、そうっと回す。一秒が一時間にも感じるほど、緊迫した空気――
扉の隙間から真紅の絨毯が顔を出した。次に乳白色の大理石に映る燭台にあるロウソクの炎がオレンジ色の光るモヤをはわせる。
人一人が通れるほどドアが開いたところで、レンとリンレイは銃口を構えたまま中へ押し入った。
どうやらそこは、謁見の間のようで、まっすぐと伸びた絨毯の先では、立派な玉座が空席。両脇の大理石は白が広がるばかりで、誰も立っていない。
ピンと張りつめた空気。時が止まってしまったかのように錯覚するほど、動きのない部屋。ロウソクの炎が舐めるように揺らめくのが、唯一の現在進行形。
奥がかすむほど広く、隅々まで目を凝らして、自分たち以外の存在がないか探そうとすると、突如身を切り裂く刃物のような風が吹き抜けた。
ガジャーンと、耳をつんざくパイプオルガンの不協和音がととどろき、レンとリンレイは思わず耳をふさいだ。
「っ……」
悪魔がこの部屋にいるのは確実だ。油断することなく、目を閉じずに壁一面にそびえ立つ楽器の奏者を見つけた。長い髪をした人物がこちらに背を向けて、玉座の左隣に座っている。
リンレイは引き金に手をかけて、ピースメーカーを素早く構え、両手でしっかりと握り、両足で赤い絨毯の上で噛みしめるように立った。
ビリビリと痺れるような音の風圧は未だ続いていて、それどころか増すばかりで、キリキリと巻き取っていた糸が耐えきれなくなり、切れてしまうような寸前まで来ていた。
音が突如消え去ると、今度は無音を通り越して、耳鳴りに体の内側がまとわりつくように犯されてゆく。
レンは耐え難い不快感に一瞬目を伏せたが、鋭利なスミレ色の瞳が姿を現すと、真正面の玉座に白いローブを着た人物がいつの間にか座っていた。
手には権威の象徴である王笏。全身白に金糸の刺繍が施されているのに、禍々しさが部屋全体を犯すように漂う。顔は布に覆われていてうかがい知れない。密教の神官という言葉がふさわしい出で立ち。
レンの右手が拳銃のハンマーを引き上げようとした刹那、パイプオルガンから印象的な旋律が流れ出した。
天国から地獄へと真っ逆さまに転がり落ちてゆくようなメロディーライン。音程を変えて数拍遅れで次々に紡がれる追走曲。
針のような輝きを持つ銀髪の奥で、曲名が容易に浮かび上がった。
――バッハ トッカータとフーガ 二短調。
どこかずれているクルミ色の瞳は照準から、パイプオルガンの奏者の背中を捉え、トリガーが引かれた。
ズバーンッッッ!
死の抱擁のような旋律を引き裂いて、弾丸は向かってゆく軌跡を横へ追い越すように、玉座から入り口の扉前に立っていたレンのすらっとした体躯に、横殴りの真っ黒な雨のようなカラスの群れが飛んでゆき、パイプオルガンも銃声もかき消した。
硝煙が上がるほんの短い間。髪の長い奏者は振り向かなかったが、リンレイの左肩に激痛が走った。
「つっ……!」
拳銃を持ったままの手で、リンレイは肩を抑えようとする。その左隣で、レンがフロンティアを鋭利なスミレ色の瞳と同じ位置で構え、引き金を引いた。
ズバーンッッッ!
二番目の銃声は、カラスの群れに突っ込んでゆく。銃弾はみるみる銀の長い髪から離れ、白いローブの悪魔へと向かい、赤い目をしたカラスの群れをハリケーンのように巻き込み押しのけ飛んでゆく。
だが、逆再生した煙のように、カラスも銃弾も何もかもが悪魔へと引き寄せられ、フェイドアウトした。次の瞬間、
シュピーンッッッ!
鋭いカミソリで切り裂くように、銃弾がレンの首を前からかすめて、
「っ……」
背中の廊下で壁にめり込んだ。悪魔も奏者も攻撃はしていない。それなのに、リンレイは少し離れたところで、左肩を抑え、痛みに耐えている。
レンが空いている手で首筋をそっと拭うと、水などどこにもないのに濡れていた。
さっきまで降り注いでいた赤い月影は今はどこにもなく、パリパリと雷光が龍のように分厚い雲をはう音と青白い光の中で、恐る恐る眼前に持ってきた手のひらで、べっとりと真っ赤な血が浮かび上がった。
(首が切れて……)
レンは急に息苦しくなり、足元がおぼつかなくなる。
(女が落ちて……)
焦点が合わず、ブラックアウトを繰り返し出して、同じ言葉がぐるぐると心の中で駆け巡る。
自殺したって。自殺したって自殺したって。自殺したって自殺したって自殺したって。自殺したって自殺したって自殺したって自殺したって……。
空が落ちてきたようなザザーンという雷鳴が響き、青白い閃光が走った。窓を叩き始めたスコールの音が、しけた海の荒波のように激しく押し寄せる。
銀の輝きもつ髪の奥にある脳裏で、記憶が猛スピードで巻き戻り、とうとう全て思い出した。奥行きのある少し低めの声で、レンは叫ぶ。
「フローリアっ!」
リンレイは知らない女の名前を聞いて、思わず振り返った。
鮮血が首筋から流れるのが記憶の重い扉を開ける鍵のように、レンの脳裏に悲痛という名のフィルムが早回しで再生されてゆく。
*
――澄み切った青い絵の具が染める秋空。黄色、オレンジ、赤の枯葉が風に乗せられ、実りの季節を彩る。
ダステーユ音楽堂の広い階段を、レンのロングブーツが降りようとすると、女の声が背後から引き止めた。
「あなたもバッハが好きなの?」
知り合いなどいない。関わり合いなどいらない。返事もせず去っていこうとしたが、自分の脇で階段をカタカタとヒールの音が足早に通り過ぎ、行く手をさえぎった。
妖精みたいな儚げで可愛らしい女。ブラウンの長い髪。クルミ色の瞳。背丈は百六十センチといったとこだ。
音楽堂で出演したコンサートで、パイプオルガンを弾いていた女だ。それならば多少は関係がある。
レンは鋭利なスミレ色の瞳を女に刺すように向け、愛想など不要とばかりに、超不機嫌で答えた。
「そうだ」
そんな些細なことだった、彼女と出会いは――。
広い草原に立ち、晴れ渡る空の下で、乾いた風に吹かれている。心地よくて、思わず目を閉じて、自然に身を任せる。彼女に会うと心の中はいつもそうだった。
それは恋という名の景色。気づいた時には、レンはいつの間にかそこに立っていた。
楽しく穏やかに時は過ぎ、仕事も順調。それでも人生だ。多少の困難はあったが息を潜めて、順風漫歩で進んでいたはずだった。
しかし、女の様子が少しずつおかしくなり、ある日話を切り出された。
「悪魔に取り憑かれてるの」
よく聞けば、女は霊感を持っていて、目に見えない存在と話すことがあるらしい。一日中耳元でそそのかすように、
「死ね」
とささやかれる。眠っている間も、誰かと話している間も、ずっと。それは、幻がいつしか真実へと変わってしまう、幻想心理効果――
病んでいる精神に追い討ちがかけられる。
女が何か失敗すれば、あざ笑う声が聞こえ、自尊心は容赦なく破壊される。耳をふさごうとも、体の内側から響く声から逃げることはできない。
ちょっとした喜びも、他人を踏み台にして手に入れたように見せかけられ、罪の意識という濡れ衣を着せられる。何もかもが自分が生きているせいで、まわりが傷ついてゆく――
そう信じ込ませるように仕向けられた精神病質。
一ヶ月もしないうちに、女の心は蝕まれていき、元気だった頃の面影はどこにもなくなった。
それでも愛した女だ、救いたいとレンは願った。だが、相手は目にも見えず、触れることもできない悪魔。助けるすべがないジレンマの日々。
痩せこけ、目の下にクマを作り、すっかり生気をなくした女が、決死の頼みごとをレンにした。
「一人きりでいると、気が狂いそうなの。だから、あなたと結婚をしたいの」
「わかった――」
式の準備は進み、結婚式当日まで一週間と迫った。仕事の合間にふと見た携帯電話に、コレタカからの留守番電話が入っていた。
「――死んだって」
そのあとどうやって仕事を抜け出し、現場まで行ったのかは覚えていない。
今みたいに、雨が闇に白く強く光る夜だった。激しく鳴り続ける雨音の中で見た風景は、刃物で自分の首を切りつけた上に、高いビルから飛び降りた死体だった。
まわりに集まっていた他の人々のひそひそ話が、雨音をかいくぐってはっきりと耳に入り込んでくる。
「自殺したって」
淡いピンクのイヤリングが濡れたアスファルトの上にバラバラに転がっていた。
レンの心の隙間に何か黒い煙のような影がすっと入り込んだ気がした。急に視界も意識も何もかもが歪み、彼は声にもならない叫びを上げて、
「あぁ……!」
そのまま、両膝を脱力したように、黒光りする路面に打ちつけた――
*
謁見の間――
小石が落ちて来たようなバチバチと窓にぶつかる雨粒。稲妻がジグザグの線を作って、近くの地面に雷光とともに地響きのように落雷し続ける。
赤い絨毯の上で、リンレイはじっと見つめていた。ストロボを炊いたような光を浴び、ドアを背にして立っているレンのロングコートが死んだように動かないのを。
「やっぱり……そうなのね」
バラバラだったパズルピースが完成するように、真相に近づいて、どこかずれているクルミ色の瞳は涙でにじんだ。
苦痛で歪んだ顔を上げ、レンは混濁した意識の中で何度か呼吸を重ね、まっすぐリンレイの横顔を見つめて、
「どういう意味だ?」
「この世界はあなたの心の中――夢。だから、以前の記憶がお互いにないのね」
リンレイは最寄駅から、この謁見の間までたどった道のりを脳裏でなぞる。
「繁栄してたみたいな街並みは、一番輝いてた記憶だったってことでしょ? 燭台に明かりがついてたり料理が残ってたのは、今でも心の中で想ってるから、違うかしら?」
瓦礫の山にあった、デパートも映画館も何もかもが、フローリアと一緒にデートに行った場所だった、今となれば。
引き裂かれそうな胸の痛みに耐えながら、苦しそうに息をするレン。だが、大切なところはそこではなかった。リンレイは静かに言葉を紡ぐ。
「私は何度も眠ると、別の世界で違う日常生活を送ってた。あなたは一度も眠らなかった。それって、あなたの意識が戻らず、現実では眠ったままなんじゃないかしら――?」
ザザーンと空が落ちてくるような雷鳴が響き、津波が押し寄せるような雨音が一層激しく窓を叩き出した――
*
――フローリアが死んだ日からの記憶はほとんどない。救えなかった。間に合わなかった。後悔ばかりの日々。
何かに操られたかのように、まわりの人間がみんな口をそろえて言う。
お前がしっかりしてなかったから、女は死んだ――
責められるばかり。いつしか、自分の心のうちにも、
「死んで罪を償え」
という言葉が朝も昼も夜もつきまとうようになった。右も左もわからなくなった人生という霧の中で、それでも肯定して、全て受け止めて、フローリアのために何が自分にできるのか。
悲しみという底なし沼に足を取られ、水面の下へ沈みそうになっては、必死にはい上がっての繰り返し。
天気のよい昼間で、レースのカーテン越しに光は部屋へ入ってきているのに、レンの心の中には陽光は差さない。魔が差したという闇に取り込まれそうな毎日。
いつしか食べる気力もなくなり、婚約指輪も自然と抜け落ちるようになった。
自身のうちから聞こえてくる声を振り払おうと、ヴァイオリンのケースから楽器を取り出し、あごではさみ、弓を構える。だが、バッハの旋律が指を震えさせ、弾けなくなっていた。
楽譜が散らばる部屋で、夜なのに明かりもつけずに、震える手を必死で抑えて、レンは閉じたまぶたの裏で、首を締められるような息苦しさを覚えた。
めまいがして、テーブルの上に置いてあったバーボンの瓶が倒れ、ビチャビチャと琥珀色の液体が音符を染めてゆく。
数日前、コンサート会場の廊下で聞いた、仕事関係者の言葉をふと思い出した。
「レン デュストピュアも終わりだろう。神の申し子とか言われてたが、あれじゃな。ワールドツアーも全てキャンセルだ――」
キャンセルした公演は膨大で、取り消しの費用も莫大で、全ては借金となり、自分へ重くのしかかり、誰も彼も離れていった。
フローリアが死んだ日から何日過ぎたのだろう。ヴァイオリンを弾いていないのはどのくらいだろう。部屋から出ていないのはいつからだろう。
意識が深く深く海底へ沈んでゆくように堕ちてゆく。きちんと座っているはずなのに、頭が右へ左へ前へ後ろへ引っ張られる。ソファーへ横倒しになって、崩れるように床に落ちた。まぶたが勝手に閉じてゆく。
自分はもう死ぬのだ……。
その時だった。鍵を閉めていなかったのか、
「レン! レン!」
たった一人、自分を責めることもせず、離れることもせずそばにいた、親友コレタカのまだら模様をした声が聞こえた気がした――――
*
レンを乗せたストレッチャーが集中治療室へ運び込まれると、エレベータの扉が開いた。茶色の革靴に連れられて、ピンクのスーツを着たすらっとした体躯のコレタカが病院の廊下を歩き出した。
胸元に黄色のサングラスをかけて、山吹色のボブ髪は両手で気だるくかき上げられ、ガラス張りの病室へやって来た。宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳は、意識のないレンをずっと見つめていたが、
「そうね……?」
長い足をクロスさせて、山吹色のボブ髪を両手で大きくかき上げると、不思議なことにその場からすうっと姿を消した――
*
謁見の間――
天井窓を雨がつたうたびに、真紅の絨毯に黒い筋が引かれてゆく。鳴り響いていたパイプオルガンの旋律は消え去り、代わりにリンレイの問いかけが舞った。
「フローリアって女と私が似てたってことかしら?」
知らないはずなのに、見覚えがある。過去と現在という二枚のトレースシートがピタリと重なり、乱れていたレンの呼吸は嘘のように平常に戻った。
カチャッと金属のかすれる音がして、朦朧としていた意識が戻った目の前では、今まさにリンレイが銃口を、パイプオルガンを弾く髪の長い悪魔に向けたところだった。
ズバーンッッッ!
それと数秒遅れて、フロンティアの照準が、スミレ色の鋭利な瞳の前に持ち上がり、その先で銃声がうなった。
ズバーンッッッ!
銀の長い前髪から銃弾はみるみる離れてゆく、鋭い鉛色の線を引いて。ブラウンの長い髪へと石火のごとく近づいて、リンレイの頬をギリギリで交わし、白いローブの悪魔へと迫る。
敵を撃ったはずのリンレイは、ロングブーツに隠された右足首に痛みが走った。
「っ!」
バランスを崩し、ブラウンの長い髪が宙に舞うように浮かんだ奥で、玉座に座っているローブの悪魔へと、レンの放った銃弾は順調に向かっていたが、
カツン!
張り詰めた空気に一石投じるように、悪魔が金の王笏を大理石の上で響かせた。すると、レンは腹に激痛が走り、いきなり息がつまり思わず、
「くぁっ!」
脱力したように両膝を大理石に打ちつけて、前に倒れこんだ。唇の端から血がポタポタと落ち、乳白色を真っ赤に染めてゆく。
「な……ぜだ?」
敵に攻撃をしたはずなのに、負傷したのは自分の腹で、かなりの致命傷。王笏を振るったのが原因なのか。
白のシャツが血の赤でにじんでいる左肩も気にせず、リンレイはもう一度パイプオルガンの前に座る悪魔に向かって発砲した。
ズバーンッッッ!
だが、自身の右太もも後ろに鋭い痛みが走り、
「っ!」
前に転んだように真紅の絨毯を巻き込んで、大理石の上に倒れこんだ。悪魔に攻撃された覚えがないのに、銃弾が足に当たっている。激痛を通り越して、ひどい痺れの中で考える。
(さっきから、自分たちばかりが怪我してるのはどうしてかしら?)
血はどんどん流れ出して、レンとリンレイのまわりを染め出した。
*
――集中治療室は一気に慌ただしくなった。
コレタカの宝石みたいに異様に輝く黄緑色の瞳には、まったく動かない銀の長い前髪がさっきからずっと映っていた。
看護師と医師がレンのまわりに集まっていたが、白衣を着た一人の男が廊下へ出てきた。医師の静かな声が病院の廊下に響く。
「危篤状態です。ご家族にご連絡ください」
「そう」
何の感情もない無機質なまだら模様の声でうなずくと、コレタカは山吹色のボブ髪を両手で大きくかき上げた。ポケットにある携帯電話を触りながら、通話可能なロビーへ戻り出す。
「闇……空間ってこと――」
ちょうど来たエレベーターに、ピンクのスーツは吸い込まれた。
*
乳白色の冷たい大理石と生暖かい血ばかりの視界で、レンとリンレイの耳に、儚げな女の声が急に入り込んだ。
「――レン、助けに来てくれたの? 私はこの悪魔に殺されたのよ」
驚いて顔を上げると、パイプオルガンの前に、白いネグリジェのような服を着た女がいた。リンレイは悪魔を警戒しながら、足を引きずりつつ立ち上がる。
「っ……」
思わず息を飲んだ。まるで鏡でも見ているように、ブラウンの長い髪で、クルミ色の瞳で、背丈も同じ女。彼女の顔は横を向いていて、少し離れたところで立ち上がろうとするレンに優しく微笑んでいた。
「そうして、今もこうして捕まってる。あなたがそばにいてくれたら、私はこの悪魔から解放されるの」
ゴスパンクのロングブーツは片膝を立てて、銃口を向ける。玉座に座る白いローブに。刺し殺しそうな怒りを胸に、レンは天使のような綺麗な顔を歪める。
「っ!」
リンレイはトリガーに当てていた指をはずした。今何が目の前で起きているのか直感して。自分が何をするためにここに一緒に居合わせているのかを理解して。
「な~に~? こんなつまらない女を愛してたの? 笑っちゃうわね」
鋭利なスミレ色の瞳から照準は姿を消した。
「どういう意味だ?」
「自分のことを人に頼るなんて、無責任よね。悪魔から解放されるから、結婚して欲しいってせがまれたんじゃないの?」
かなり挑発的な言葉がやって来たが、レンの唇はまったく動かなかった。
「…………」
「答えないってことは図星ってことね」
女――フローリアの声が割って入ってきて、
「嫉妬してる……」
リンレイはあきれた顔をした。
「嫉妬って何?」
「レンを愛してるってこと」
当然というように、フローリアから返事が返ってきたが、バカバカしくなって、リンレイは両手を広げて降参のポーズを取った。
「やっぱりつまらない女ね。人を愛することが相手を想いやることだって知らないなんて……」
レンが何を言われてきたのか、予測が簡単について、リンレイは言葉を続けた。
「どんな理由でも、最後に言動を決めたのはこの女。だから、責任はこの女にあって、あなたにはないのよ」
見た目は似ていようと、中身は天と地ほどの差がある女ふたり。
濃い霧の中でひどい土砂降りで、ただずぶ濡れになって動けずにいたが、一筋の光がレンの心に差した気がした。緊迫した戦闘中なのに、超不機嫌はどこかへ消え失せ、天使のような笑顔を見せた。
「…………」
リンレイはキラキラと輝くスミレ色の瞳を見つけて、呆然とした。
(可愛いいのね……)
ラブロマンスみたいに見つめ合うレンとリンレイ。フローリアは完全に眼中になかったが、雷鳴の音で、リンレイは我に返った。
(っていうか、わかってるわよね? レン、自分が誰を攻撃するべきなのか)
敵に知られるわけにもいかず、どこかずれているクルミ色の瞳は一生懸命、レンに訴えかけていたが、話が通じず、
「どうして微笑んでるの?」
超不機嫌に戻り、レンは火山噴火ボイスを発しようとしたが、
「俺がどうしようと、お前には関係な――」
フローリアに途中でさえぎられた。
「それよりも、早くこの悪魔を殺して」
「…………」
言われるがままに銃口を白いローブの悪魔へ構える男を前にして、
「とんだ茶番だわ――待って!」
リンレイは心の中でため息をつく。
(わかってないじゃない!)
レンが引き金を引く前に、リンレイのロングブーツは真紅の絨毯を走り込んで、
ズバーンッッッ!
降りしきる雨音を引き裂くように銃声が響き渡り、発射された銃弾はもう止められない。いや守るべきものは……。リンレイのブラウンの長い髪は、レンの真正面に立ちはだかった。
シュピーンッッッ!
空中から突然、銃弾が鉛色の線を引いて現れた。レンの心臓を撃ち抜く軌跡は、三十七センチの身長差で、リンレイの後頭部に深く鋭く入り込んだ。
「うっ!」
うめき声を上げて、リンレイはレンの腕の中に倒れてゆく。
悪魔に銃弾は向かっていった。それなのに、リンレイは自分へと走ってきて、銃弾を浴びている。レンは両腕でしっかり受け止めながら、鋭利なスミレ色の瞳をあちこちに向ける。
「……どうなっている?」
即死のはずなのに、リンレイは少し苦しそうに息をしながら、
「さっきから敵は私たちに攻撃してない。だけど、私たちは傷を負ってる。それって、私たちと敵の位置が逆になってる。空間が歪んでる。あなたを攻撃したいのなら悪魔。私を攻撃したいのならフローリアだったのよ。ゲホゲホッ……!」
咳き込んだリンレイを、レンは強く抱き寄せた。
「お前、俺のことかばって……」
「ちょっと計算間違ったみたい……」
全体重を預けられたレンは、奥行きがあり少し低めの声で必死に呼びかけたが、
「リンレイ? リンレイ? おい!」
「…………」
彼女の唇が動くことはなかった。レンは左腕だけでリンレイの白いシャツを抱きしめ、ポニーテールの長い髪が不浄な空気の中で力なく揺れる。
拳銃、フロンティアのハンマーをカチカチと押し倒しながら、鋭利なスミレ色の瞳は、自分の腕の中にいる女とそっくりなフローリアに向けられた。
「今救ってやる」
何の躊躇もなく、トリガーは引かれ、
ズバーンッッッ!
銃声が悲鳴を上げ、スミレ色の鋭利な瞳の先で銃弾はどんどん離れていき、フローリアの額を撃ち抜いた。彼女の驚いた顔に赤い血がいくつもの筋を作る。
「うっ! ど、どうして……私を?」
レンは銃を持つ手を脇へ下ろした。フローリアは青白い煙となり、玉座に座る白いローブを着た悪魔へと吸収され、消え去ってゆく。
「悪魔に取り込まれて、自殺した。だから、お前ももう悪魔だ」
心の弱いところに入り込むのが悪の定義。逃れたいのなら自力で抜け出す。墜ちたのは自身の責任なのだから。それを教えてくれたのは、今腕の中にいるリンレイだ。
レンは自分を引き入れようとしている悪魔と一人対峙する。雷光が窓の外を真昼のように染め、ザザーンと雷鳴がとどろいた。
黒いロングコートの腕は銃口を、銀の髪に隠れたこめかみに当てた。
「…………」
ガタガタと手と呼吸が震える。悪魔が話を聞いて、自分との位置を元に戻していたら、完全に自殺だ。引き金を引く指がやけに重く、鋭利なスミレ色の瞳は恐怖で閉じられた。
ズバーンッッッ!
銃声があたりに冴え渡り、レンとリンレイは大理石の上に重い砂袋のように同時に崩れ落ちた――
バリバリ、ズドーンッッッ!
空を引き裂くような音がして、遠くの地震がやってくるような地響きが起き、城はグラグラと揺れ、
「うがぁぁぁぁ~~!!!!」
断末魔が雷雨の夜に飛び散った――
*
――集中治療室のホルター心電図は、
ピーーー!
と言ったっきり戻らず、心臓マッサージが行われていた。何の感情も持たない黄緑色の瞳で現実を見つめ、山吹色のボブ髪はかき上げられ、
「ま、そういう終わり方もあるよね」
コレタカの言葉は、人よりもはるかに長い時を生きているような威厳を持っていた。
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