聖女になれなくて

明智 颯茄

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出会い編

身代わり妻(part2)

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 瑞希なりに結論を出して、占い師へ顔を戻そうとすると、次の団体が割り込んできた。

「すみませ~ん! こちらを差し上げます!」
「これを受け取ってください」
「ぜひ使ってください!」

 ガラガラと重い車輪がアスファルトの上を移動する音を響かせながら、銀の大きな箱が運ばれてゆく。

 瑞希は思わず口と目を大きく開けた。

(えぇっ!? ジュラルミンケースっ!?!? 億単位だ。何かの取引とか?)

 海外旅行へ行くようなスーツケースみたいな大きさ。ご丁寧にショッピングカートに乗せられたまま、女占い師に手渡されている。

 マゼンダ色の長い髪を持つ女へ、次々と集まってくる金と品物。

 何をどうすれば、この現象が起きるのかと、瑞希はもう一度シンキングタイムに入ろうとした。しかし、

「きゃあっ!」

 間髪入れずに、また悲鳴が上がった。同じ場所で気絶している女が三人になった。

(また倒れた……。でも、さっきから女の人ばっかりだ)

 人が倒れているというのに、占い師はニコニコとして、花束とプレゼントを受け取り続けている。

 驚きもしない。視線すら向けない。そうなると、女が何かをしているということだと、瑞希は結論づけた。

飛んでる・・・・はわからないけど、気絶して捕まる・・・ってことだ、たぶん)

 まぶたから一度も現れていない、女占い師の瞳。その色が何色なのかを、瑞希は気にかけつつ、

(あの女の人は、どうやって気絶させてるんだろう? その原理がわからない)

 誰も見えない世界で金の粉が舞う、首都の街角。あと三人ということころまで、瑞希は迫っていた。

(だからこそ、細心の注意を払おう。倒れたら危ない――!)

 瑞希の脳裏にフラッシュバックする、男の綺麗な唇が動いた場面が。

(ん? 誰かも倒れたら危ない・・・・・・・って言ってた気がする。その人とこの人は似てるってことかな? え~っと、誰だったかな? 思い出したら対策が立てられ――)

 前のターンで出会った、男三人の唇はどれも綺麗だった。しかし、声色がまったく違う。それを聞き分ければと瑞希は思っていたが、列の先頭に立っていた女の響きが先に耳に入り込んできた。

「……結婚してください」

 衝撃的すぎて、瑞希は考えていたことを忘れてしまった。

(え……? 女の人が女の人にプロポーズしてる? 聞き間違い?)

 絶世の美女に、女が一大決心。並んでいた女は頭を深く下げ、花束を差し出していた。

「…………」

 宝石よりも美しい占い師の唇は動いていたが、何を言っているのか聞き取れなかった。

 断られたようで一人抜けて――いや玉砕して去ってゆく。瑞希の順まであと二人。困惑している彼女の耳に、容赦なく現実が突きつけられる。

「お願いします。結婚してください」
「こちらだけいただきますよ」

 今度は占い師の声がはっきりと輪郭を持った。凛とした澄んだ儚げで丸みのある女性のものだった。

 彼女のムーンストーンの指輪がプレゼントを受け取ると、また一人列からはずれる。瑞希の番まであと一人。

(違う。やっぱりプロポーズしてる……)

 マジでおかしなやつへの警戒心はマックスで、瑞希は首だけで後ろへ振り返る。

(この列って、あの女の人に結婚を申し込む順番待ちだったんだ……。占いをして欲しくてじゃなかったんだ)

 占い師にではなく、女に用がある女たち。再び正面を向いて、瑞希の中で違和感が首をもたげる。

(でも、世の中こんなにレズビアンが多かったかな? やっぱりおかしいなぁ~)

 デパートを一周する列の長さ。カミングアウトをしていないだけで、いるのかもしれないと瑞希は思った。

 自分より少し背の高い、占い師の女。化粧はカラフルでありながら控えめ。近くを通る男たちが、誰一人もれずにスリットからはみ出している足を舐めるように眺めてゆく。

 前に立っていた女が頭を下げて、豪華な花束を差し出した。

「今日こそは――結婚してください」

 プロポーズの嵐に見舞われている人気占い師。彼女の手首につけられたシルバーの細いブレスレットのモチーフ――三日月をぼうっと、どこかずれているクルミ色の瞳に映した。

(何度も来てるってこと?)

 占い師との距離あと一メートル。丁寧な物腰で、同性でも見とれるほどの綺麗な女。彼女の鈴ののような声が、夏の夜風に艶めかしくそよぐ。

「ですから、一昨日おととい初めてお会いした時、私はあなたに伝えましたよ。私には結婚できない理由があるんですと」

 さっきからずっと断っていた占い師の、白いピンヒールをのぞき込んで、瑞希は言葉の内容を咀嚼そしゃくした。

(初めて会った? 一目惚れで結婚を申し込んでる!?!?)

 今日が二回目の挑戦。瑞希の前にいた女はもちろん食い下がった。

「どんな理由ですか?」
「困りましたね~。私には説明している時間はないんです~」

 占い師は人差し指をこめかみに突きつけて、未だまぶたから瞳を解放しないまま、表情を曇らせた。

(ん? この人、急いでるのかな?)

 矛盾――。瑞希が最後尾から先頭へ来るまでには、軽く一時間は費やしている。急いでいるのならば、プロポーズの列ならば、もっと早くに切り上げてもいいはずだった。

 金の粉――いやオーラがあたりに色濃く舞う。いつもの瑞希なら、おかしいと気づくはずなのに、またスルーしていってしまった。

 おめかしもして、何万もする花束を携え、再チャレンジをしに来た女がそうそう引くはずもなく、

「今日ははぐらかされずに、納得できる理由を聞くまで諦めません」

 未だにニコニコしている女占い師は、おどけた感じで語尾をゆるゆる~っと伸ばす。

「おや~? そう来ましたか~。そうですね~? それではこうしましょう」

 気絶した女たちの救護がすぐ近くで続いているのを視界の端に映しながら、瑞希は今やっと強く違和感を持った。

(あれ? 断ればいいだけだよね? 何で考えてるん――)

 吹く風も匂いも音も変わらなかったが、あたりに広がる光景が一変した――。

「え……? 景色が変わってる……どうして?」

 あまりの出来事に、瑞希の人混みモードは再び解除された。

 あの鮮やかなマゼンダ色の長い髪も白いチャイナドレスもなかった。街ゆく人たちは左右が逆。都会の喧騒は寸断されることなく、ずっと鳴り響いている。

「自分は今どこに立って……。女の人たちの列が前にある」

 プロポーズの返事を待っている女が真正面に手ぶらで立っている。その向こうではさっき渡った大通りを、車が激しく往来していた。

「さっきの道路があっちにある……ということは、反対方向を向いて――ってことは私の後ろに立ってる人はっっ!」

 瑞希は確かめようと後ろへ振り向こうとした。しかしその前に、すぐ近くのかなり高い位置から、含み笑いの声が落ちてきた。

「うふふふっ。捕まえましたよ~。最後の言葉は、あなたが疑問に思うようにして、油断させるためです~」

 罠だった――

(虫取り網にはあんなに気をつけてたのに……。何か違う手で捕まえられた~~~!)

 女占い師の声色は、凛として澄んだ儚げで丸みのあるものだったが、誰がどう聞いても男の響きだった。

「いやっ!? 男の人だったっっ!!!!」

 首が壊れるのではないかと思うほど、瑞希が素早く振り返ったところには、白の上品なブラウスと水色をした細身のズボン。膝まである茶色のロングブーツ。

 白いチャイナドレスも白いピンヒールも、化粧もアクセサリーも何もかもがない。貴族が乗馬を楽しむような出で立ちで、百九十四センチの男が佇んでいた。

「あれ? こんなに背の高さなかったよね? 何がどうなれば、こんな幻みたいなことが起きるの?」

 さっきまでは、自分より少し大きかっただけのはず。それなのに、三十四センチも違う。体つきも女の曲線美を持っていたのに、骨格がいいとは言えないが、男らしい角ばったラインだった。

(さっきのチャイナドレスはどこへ? 男の人たちが見とれてた足はどこへ? 飛んでる・・・・はもう出てきてる?)

 誰も見えない世界で、金のオーロラが妖しく揺れている――

 街明かりと排気ガスで、空に取り残された桂月けいげつに取って代わったような、透き通った素肌。絶やされることのないニコニコとした笑み。

 下ろしていたはずのマゼンダ色の長い髪は、上品な紳士のように首の後ろで水色のリボンでもたつかせ気味に結ばれている。

(やっぱり綺麗だ。女の人よりも綺麗だ……)

 瑞希は男の容姿に見とれる。

 着替えたにしては短すぎる時間。今の体の線ではどうやっても着れないチャイナドレス。ハイヒールも履けない。それでも似合って見えた、幻術みたいな矛盾。

 しかしそんなことよりも、女性的な男。中性的ではなく女性的。それなのに男性的。人ではない存在で、森羅万象の神秘といっても過言ではなかった。

 瑞希が無防備な背中を見せている間に、地獄からの招待状が送られてくる。男は彼女の耳元でささやいた。

「僕の自由のために、君には身代わり――になっていただきましょうか~?」

 ゆるゆると語尾が伸びているからこそ、怖さが増す。月が満ちて、影に隠れていた月面が現れてゆくように、男の本性が次々と顔を出す。

 私が僕――
 あなたが君――

「言葉がさっきと違う……」

 外行そとゆきとプライベートで言い方は変わると気づくはずなのに、男の変化が衝撃的すぎて、瑞希は呆然と立ち尽くした。

 男は瑞希の両肩に手を置いたが、彼女はそれさえも気づけないほど、放心状態だった。

 プロポーズされまくりの男性占い師は珍しく声を張り上げる。

「みなさ~ん! よく聞いてくださ~い」
「えぇ~!?」

 一大決心をしていた女たちが一斉にこっちへ視線を集中させた。ふたり仲良くカップルが並んでいるようなポーズで、男――ランジェが女たちを修羅の道へと陥れる。

「こちらが僕の妻です~。ですから、みなさんすぐにお引き取りくださ~い!」
「え……?」

 男の両手が肩に乗せられたままの、瑞希はぽかんとした。

 身代わり地蔵ならぬ、身代わり妻――。

 俺の女ではなく、いきなり妻の座にえられてしまった、バツ二の三十四歳女。今も戸惑いという乱気流に見舞われている瑞希に、嫉妬のやいばが骨さえもえぐり砕くように一斉に向けれた。

「んん~~っ!!!!」
「ちょっと~!!!!」

 女性と勘違いするような美しさ。世界的に有名で、金も名誉も持ち合わせる男。彼のハートをゲットしようと集まっていた女たち。

 対する瑞希は、占いをして欲しかっただけ。この男の愚策としか言えない解散劇。濡れ衣もいいところだ。下心などどこにもない。それどころか、瑞希は慌てて否定しようとしたが、

「いやいや、違います。私は聖女になる――!!!!」

 黙るしかなくなった――

 そうして気づく。これは男の愚策ではなく、神がかりな妙策だったと。このあと、紙一重――という言葉が似合う出来事が連鎖する。

 瑞希は脇腹の左後ろに尖ったものが突きつけられたのを感じた。

 嫌な予感がした――

 少しだけそっと振り返り、視線を自分の体へ落とすと、物騒なものが鋭いシルバー色を放っていた。

 マゼンダ色の長い髪が、ブラウンの髪を侵食するように近づき、恐怖で全身が凍りつくようなことを、ニコニコの笑みと含み笑いで言ってのける。

「うふふふっ。僕の言うことが聞けない時には、君のハラワタを短剣ダガーでズタズタに切り裂きましょうか~?」

 脅迫――それ以外に言いようがない。占い師の左側は誰も通れないほどデパートの壁に迫っている。

 百九十四センチの長身に背後から完全に隠されてしまっている紫のタンクトップとピンクのミニスカート。

 右側の歩道を歩く人からは見えない死角で、ダガーの刃先は殺戮さつりく交じりで突きつけられていた。

「っ!」

 瑞希は片方の肩を抑えられたまま息を詰まらせ、こめかみを冷や汗が落ちてゆく。

(い、いつの間に刃物なんか……)

 味方だと信じて疑わなかった。さっき戦闘していたのを考えると、

(もしかして、敵の罠だった? 他に違う人がいて……)

 一秒が何年にも感じる緊迫した状況で、瑞希は息をするのも忘れた。

 男からの絶対服従。
 女たちの嫉妬の槍。
 誰も気づいていない武器。
 四面楚歌。
 絶体絶命のピンチ。

 彼女は唇を強く噛みしめる、一ミリも動けない中で。

(自分の責任だ。自分で何とかしないといけない。とにかく落ち着こう)

 浮き足立っていた心が、しっかりと地に着いた。神経を研ぎ澄ます、誰を守るべきで、そのために自分は何をすべきなのか。

 そうして、修道院へ行って人々の幸せを祈ろうとしている彼女は、真正面をじっと見据えた。

(まずは、並んでる女の人たちのことが優先。この人たちの心を守ろう)

 長蛇の列に並んで、この男にプロポーズをしに来た彼女たち。瑞希は自分が同じ立場だったらどう思うかと考える。

(みんな本気で言ってきてるんだよね? この人に結婚してくださいって。それって嘘をつくのはいけないよね。断るにしても誠実に断らないといけない。自分はそう思う。だから、私は――)

 決断した、誰かを守る方法を。瑞希は少しだけ振り返り、突きつけられているダガーの刃の上で、いつもと違った静かでトーンの低い声ではっきりと言った。

「……切ってください」

 瑞希の心は自身の命もいとわない、強烈な拒絶だった。

(従いたくないものには、絶対に従わない!)

 あちこちぶつかってばかりの彼女だからこそ、曲げられないものがあった。

 しかし、男も負けてはおらず、含み笑いをしながら、耳から毒を流し込むように、さらなる手を打ってきた。

「おや? そう来ましたか。それでは、五千ギルを僕にください――」

 突きつけられたダガーと肩を押さえ込まれている力は相変わらず変わらない。

 どこかずれているクルミ色の瞳は今はしっかりとしていた。男の目を恐れもせず見つめ返そうとしたが、ニコニコのまぶたに隠されていて叶わなかった。

「どうしてこんなことをするんですか?」
「僕はどうしてもお金と時間が欲しいんです。そのためならば、どのようなことでもします。ですから、五千ギルを僕にください」

 再度要求された金。その本当の意味は、女よりも綺麗な男性占い師の胸の内に鮮やかに浮かび上がっていた。

(五千ギルで、君の心と体を僕に売ってください――)

 ここで死ぬか。金を渡しても従うか。逃げ道を断たれた。

 金を先に要求してくるならわかる。しかし、命を先に要求してきている。そこが瑞希に違和感を与えた。

(どうしよう? 最終目的は何? 何のためにこんなことをしてるんだろう?)

 普段から、ない頭。それをフル回転させようと、瑞希は眉間にしわを寄せる。

(ん~~~~?)

 そこで、なぜかさっき思い出せなかった、倒れたら危ない・・・・・・・を言った男を思い出した。山吹色のボブ髪と宝石みたいに異様に輝く黄緑の瞳の持ち主――

(藍琉さん! ってことは……。策略の他に何かがあるってこと? そうだ)

 電球がピカンとついたが、この男についてはさっぱりで、緊急事態モードに急いで変更した。

(この人の考えは今はわからないから、それは置いておいて。とりあえず、この状況を自分だけで何とかする!)

 動けない中で、瑞希は顔をしかめる。首都の全ての視線が自分に注目しているようだった。

(考えて考えて! 方法を考えて!)

 騒音が何もかも消え去り、自分の鼓動がやけにうるさい。

(諦めない。考えて考えて!)

 殺気立った女たちを見渡して、男の手に握られていた刃物を見て、瑞希の中で電球がまたピカンとついた。

(あっ、わかった! こうしよう!)

 彼女の左手が動いた――

 その行き先は、鋭利なシルバー色を放っているダガーの刃元。勢いだけで握りしめて、耐え忍ぶ声が思わず大きくもれる。

「クゥ~~~ッ!!」

 神経が集中している手のひら。ばっくりと皮が裂けてはじける感覚と、熱い痛みがにわかに広がった。防御反応で離してしまいそうになるが、彼女の決意がそうさせなかった。

 温かな血が飛び散る。痛みで歪んだ表情のまま、ダガーごと男の手を払い、

「っ!」

 突き飛ばして、一メートルほど離れ、瑞希は危機を一人切りで乗り切った。

 ニコニコと今も絶えることのない笑みを見せる、月のような美しい顔を持つ、百九十四センチの男と対峙する。

「はぁ……はぁ……」

 瑞希の左腕は力なく脇へ落ち、鮮血が指先からポタポタとアスファルトに、ギザギザの波紋を幾重も描いてゆく。

 男にとっては、瑞希の傷などどうでもいいのだ。時間と金が必要で、それを叶えるためなら、どこまでも無慈悲に残酷になれる。この男はそういう存在だ。

 驚くわけでもなく、残念がるでもなく、おどけた感じで、凛とした澄んだ女性的な声が響き渡った。

「おや? 今度はそう来ましたか~? それでは、こうしましょう」

 どうでもいいのではなく、男は瑞希の心を知りたいだけなのだ――

 男の声が途中から空気を通したものではなく、体の中から聞こえてくるものに変わった。

 異変に気づいて、クルミ色の瞳があたりを見渡すと、人々や車は不自然に動きを止め、都会の喧騒は姿を消していた。

「え……? 時間が止まってる……?」

 色はそのままなのに、静止画でも見ているような景色を、その場で白のサンダルで右に左に回りながら眺めている、瑞希の手のひらの傷は不思議なことにどこにもなかった――

 しかし、足元の血だまりには、チリひとつ動かないアスファルトの上にべっとりと残っている。

 動くものは瑞希とランジェだけ。彼は思う。他の人間は必要ない。今はこの女とふたりだけで話したい。

 ランジェのロングブーツは少しだけ後ろへ下がり、かかとを軸にして瑞希へ向き直った。

 腰の後ろで組まれた両手の中には、今もダガーがしっかりと握られ、隙なく殺気を向けている。

 瑞希の体のうちで、ランジェの凛とした澄んだ女性的でありながら男性の声が問いかける。

「自身の命――もしくはお金と引き換えに、信念を曲げてまで生きる人生を、君はどのように思いますか?」

 下手なことを答えようものなら、男は瑞希を殺そうと心に決めている。その方法は一撃ではない。あげたらきりがない責め苦を与えた上に、地獄へと突き落とす。そういうむごたらしい殺し方だ。

 しかし、男にとってはそれは罪ではなく――慈愛なのだ。

 瑞希が振り返ったところには、まぶたから解放されたヴァイオレットの瞳が、冷ややかであり重圧を持って降り注いでいた。

 それは見なかったほうがよかったと後悔するような目で、邪悪一色。それから、こんな言葉は存在しないが誘迷ゆうめい。それなのに、男の瞳はどこまでも神聖だった。

 紙一重のラインを踏みはずすことなく、瑞希はその瞳を尊厳を持って見つめ返す。本当の心を誰かに伝える時、高ぶった感情に煽られ、彼女は涙をこぼすのだ。

 意思のしっかりとしたクルミ色の瞳で男をまっすぐ捉え、言葉は静かでも頬を雫が伝ってゆく。

「自分の信念を曲げてまで生きる意味ってあるんですか? 肉体じゃないですよね? 大切なのって。心ですよね? 生死が一番大切なことだとは思いません。死ぬことを怖がって、従いたくないものに従うことは絶対にしない。だから、私は心を大切にして、死を選びます――!」

 自分は人と価値観が違うから、理解されないのだと、瑞希はわかっている。そうして、彼女はこうも思う。死んでも人生は続くと。その先の未来もあると。

「間違ってるものは間違ってる。死んでも従わない!」

 人と違う生き方をするのは、人生という逆流に耐え続けることだ。くるっと反対を向けばスピードに乗るのだろう。楽なのだろう。

 それでも、瑞希は流されることができない。正しいことはいつも多数派とは限らないと知ってしまったから。

 ダガーはランジェの手のひらからすっと消え去り、まるで神が祝福するように天から聖なる光がふたりにスポットライトのように差した気がした。

「世の中、君のような強い人ばかりでしたら、脅しに屈する者も少なくなり、今よりもよくなっているかもしれませんね」
「ん? 世界がよくなってる?」

 男の言い回しに驚いて、瑞希の涙はぴゅっと引っ込んだ。彼がもらったプレゼントや金はどこかへ魔法でも使ったよう行ってしまった。

 すぐさまニコニコの笑みに戻り、ランジェはしれっとこんなこと言う。

「みなさんから品物とお金は十分いただきましたから、これ以上こちらにいるのは時間の無駄です。ですから――」
「そのためにわざとここに立ってたんですか?」

 今も瑞希に見えない場所で金の粉が宙を舞う――。

 緊迫した空気は忘却の彼方へ消え去り、街角に立っただけでは金品はやってこないという疑問を、なぜか彼女はすっ飛ばしてしまった。

「えぇ。そちらも少々ありますよ」

 地位や名誉ではなく、プロポーズもどうでもよく、女に貢がせるためだけに立っていた男。

 それでも、紙一重というラインの上を、瑞希はまだ踏みはずさない。怒るという気持ちはどこにもなく、

「何のために、人からお金とかをもらってるんですか?」

 そうして、ランジェの花びらのように綺麗な唇から出てきた言葉は聖句ロゴスだった。

「僕たちが今こうしている間にも、人身売買、臓器売買、強制労働、明日食べるものがない中で生きている子供たちがいます――。どのような綺麗ごとを並べようとも、お金という制度が存在している以上、お金がなくては救えません」
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