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おまけはまだ愛している
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楽しい気分は今や度を超していて、トランス状態となっていた。狂ったように踊り続けていた断崖絶壁から真っ逆さまに海面へジャボンと落ち、口からぶくぶくと泡を吐きながら、海底へ向かって沈んでゆく。
それでもまだ楽しくて仕方がなく、息が苦しくなっていても、そんなことにも気づかず、音楽再生メディアから流れてくる音楽にノリノリだった。
泉があふれ出てくるように次々と思い浮かぶ小説のアイディアを、おまけの倫礼はパソコンへ打ち込んでゆく。
その背後には、針のような銀の髪と鋭利なスミレ色の瞳、すらっとした長身の守護神である、蓮が腕組みをして立っていた。
(毎日、毎日、同じ曲ばかり繰り返している)
一ヶ月経っても、流れてくる音楽はいつもいつも同じ。変える気もないというよりかは、ドラックのような中毒症状を起こしているような有様だった。
ヴァイオリンを上品に弾きこなす、クラシックを好む蓮にとっては、理解不可能な行動で、怒りで形のよい眉をピクつかせた。
(どういうつもりだ?!)
デュアルモニターにしているもうひとつの画面を、蓮は倫礼の背中からのぞき込む。
(何回再生して――二千五百……。お前は針飛びするレコードか!)
しかも、蓮にとっては未知の音楽で、独特のグルーブ感が体にまとわりつくようだった。
(何だ、この引っ張られるようなリズムは。何というジャンル……R&B?)
生まれてやっと五年目を迎えようとしている神は、見知らぬ音楽の名を口にして首を傾げた。
*
ソファーの上で両膝を抱えながら、おまけの倫礼は涙をボロボロとこぼしていた。
「好きな人が振り向かなくて、他に優しくしてくれる人が告白してきた……」
神威が効いていると前から噂の海外ドラマを見て、物語に入り込んでいる彼女は、テレビを前にしてぶつぶつと独り言を言う。
「他の人に好きって言われるのは違うんだよな。ここで自分の気持ちを曲げるのは、相手に対して失礼だよね?」
本命の人から傷つくこと言われようとも振り向かなくとも、主人公が一途に想い続ける姿が、自分とやけに重なる倫礼は、ポテトチップスを一口かじって納得の声を上げた。
「あぁ、やっぱり主人公断った」
ドラマを全て見終わり、湯を張ったバスタブに、アロマオイルを二、三滴入れる。花の女王とも呼ばれるフランフランの香りが際立った。
ユニットバスの狭い湯船にひとりきり浸り、そっと目を閉じる。
「さすがだね、あのテレビドラマ。蓮と倫礼さんが主役のモデル。恋愛もの。しかも、優しくしてくれるのは父上と弟がモデルっていう設定。仲はいいんだけど、恋愛対象じゃないもんね?」
さっきの場面を現実で例えるなら、蓮に冷たく扱われたところへ、光秀がやって来て、前から想っていたと告白されるシーンだったのだ。
しかし、娘は父を断り、無事にファザコンから抜け出した。そんな気分に、おまけの倫礼はなっていた。
口数が少なく落ち着きのある男。それなのに感性で動いてもいる男。そんな彼――神界で結婚している配偶者に夢中な倫礼。
彼女の心の中には、言葉を流暢に話し、冷静な頭脳で感情を抑える男――青の王子はどこにもいなかった。
肩へと湯をかき上げ、一人暮らしの静かな部屋に水音が寂しく響く。
「主人公、最初、失敗ばかりで格好よくないんだよね。人のこと優先でさ、自分のことはいつも後回し。だけど、曲げられないものは曲げられないって主張する」
いつも意見は言えずじまいで、主張することもなかった。それでも、倫礼は主人公の信念の強さと自分を重ねようとする。
すると浮き彫りになるのは、意地っ張りで度を越すと、怒りで記憶が消えてしまう自分だった。見たくもない、目を背けたくなるような出来損ないの自分。
「主人公って人里離れたところで、神様を信じて生きてきたから、感覚が人とずれてるんだよね? これって、自分も似てるのかな?」
霊感を持っていて、人と見る角度の違う彼女がまさしくそうだったが、自身のことは客観的に見れないものだ。
「倫礼さんと似てるってことは、自分も似てる。そうなのかな?」
バスタブの縁に両肘をかけて、頬を腕に預けた。
「これで自分探しの旅の足がかりになるかな?」
魂が何人も入れ替わって気がつけば、どれが本当の自分かわからなくなっていた。好きな色さえわからない。好きな食べ物さえわからない。そんな毎日の中で、ひとつの道標を見つけた貴重な時間だった。
お風呂から上がり、パジャマに着替えて、最後の間接照明のスイッチを切る。
「ふ~、いい一日だった、今日も。神様ありがとうございます。お休みなさ~い」
そうして、人間の女はひとり眠りについた――。
遮光カーテンから入り込む光はなく、インターネットのモデムの点滅だけが頼りの薄暗い部屋。
しかし、鋭利なスミレ色の瞳には何の損傷もなく部屋を見渡せた。というよりかは、見渡せないと、守護神という仕事はやれない。人間が寝ている間も、神は手を差し伸べているのだから。
天井近くまである本棚のそばに立っていたが、今まで気つかなかったクリアファイルを、蓮は見つけた。
「何だ?」
棚から引き出す。ノート一冊分にも満たない厚みで、あちこち紙の端に折り目がついていたが、どうやら最近は手に取った様子もなく、一番下の段にあり重石をしたみたいにペタンと平らになっていた。
蓮は綺麗な手で中身を抜き取り、一番最初に書かれていた文字を読んだ。神界での声で、眠ってしまった、おまけの倫礼には届かない声だった。
「皇 煌――」
この名前を知らない、神は今やどこにもいない。
「陛下のお名前だ」
パソコンで打ち込んだものを、プリントアウトしたようで、黒字できちんと並んだ文字の羅列だった。一行分のスペースを開けて、次の名前が書かれていた。
「皇 弐煌。皇 皇。皇……」
本来ならば、『様』をつけなくてはいけない名前だ。
「女王陛下のお名前。途中までだが……」
何人か連なっていたが、蓮が知っている女王陛下全ては書かれていなかった。守護神という立場から、倫礼の過去が蘇り、神様全員が知っているルールが今さらながら出てきた。
尊い方々で、本名を呼ぶことは許されていない。今蓮は口にしたが、これは本当の名前ではない。
陛下と女王陛下同士は当然ながら、本当の名を知っているが、帝国にいる人々は誰も知らない。それだけ、厳しい制限が設けられている事項だ。
しかし、友人から呼ばれることも陛下たちはある。そうなると、役職名を呼ぶのは不適切で、この紙に書かれている本名とされている名前を呼ぶことになるのだ。
そうして、もうひとつ重大なことを、蓮は眠っている倫礼から感じ取った。
「この紙の存在を、おまけは健在意識で忘れている……」
忙しい毎日に追われ、本棚の隅にあることも、倫礼は覚えていないのだ。書かれている内容も覚えていない。
しかし、記憶というものは、完全に消えることはなく、ただ思い出せないだけなのだ。倫礼の心のどこかでは生きている。
引っ越しのたびに手にはするものの、神様の名前の書いてある紙を捨てることはできず、ただ持っているだけ。
細かいところはもう覚えておらず、印象の強かった神々を、彼女は自作の小説のモデルに起用しているだけで、それは記憶から拾い上げているに過ぎなかった。
まだ夢も希望も人並みにあり、魂が入っていて、死んだあとに見ることができるかもしれない神界を、霊視できないながらも想像していていた頃の記録。
蓮は一枚ずつめくり、書かれているものを読んでゆく。
「夕霧命、躾隊。覚師、妻」
自分が会ったこともない、他の誰かのことが書かれている。それでも、倫礼の記憶を使って、テレビゲームのソフトに手をかけた。
長い赤髪の、重厚感のある瞳を持つキャラクターをじっと見つめる。
「武術をする……」
紙には記されていなかったが、倫礼の脳裏に残っている、その男の特徴だった。そうして、次をめくる。
「月主命、社会の仕組み、教江隊。楽主、妻」
持っていたゲームソフトをしまった。別のものを取り出して、カーキ色の長い髪をして、ニコニコと微笑むキャラクターを見ていたが、
「ここにない……?」
倫礼の話している声が聞こえてきた。
「――カエルのモデルになったっ!? 人じゃなかった!」
今みたいに、トランス状態に近い状態で、彼女はゲラゲラと笑っていた。ゲーム情報だけで、買わなかった商品の話だった。そうして、また紙をめくる。
「孔明、私塾を開いている」
神経を研ぎ澄まして、この男について探ってゆく。ゲームソフトを指先で追っていたが、引き出す前に止まった。
「俺がモデルになったのと同じものに出ている……」
取り出して、不機嫌な自分の顔は見ず、さわやか好青年で微笑む男を見つけると、
「――神様が反則っていうほど、頭がよかった人? 有名な人ってやっぱりすごいんだね」
恋愛シミュレーションゲームをプレイして、罠にはまったとオーバーリアクションで撃沈されている姿が目に浮かぶ。次の紙をめくる。
「孔雀大明王、魂の研究所、副所長。皇閃、妻」
蓮は首を傾げた。
「副所長は今は違う。間違っているのか?」
どんな運命かは知らないが、さっきから持ったままだったゲームソフトを持ち上げた。
「俺がモデルになったものと同じものに出ている……」
邪神界がまだ倒される前のこと――古い倫礼の記憶を蓮はたどる。
「――白くんと甲くん、よろしくね。優しいね、孔雀明王さんって。ありがとうございます」
護法童子として、人間の女を守るためにやって来た子供たちに、笑顔で話しかけている彼女が見えた。
おまけであろうとも、妻の過去を、神の力で追ってゆく。また一枚紙をめくる。
「火炎不動明王、国の情報メディア監督期間、民間との折衝役。花梨輪、妻」
ゲームソフトをしまい、また別のものを取り出す。これをプレイしている倫礼の心の声が聞こえてくる。
「――もっとゴツいイメージかと思ったら、優しい人なんだね。でも、ちょっと個性的な価値観かな? っていうか、天然ボケ? だね」
神様の名前やデータを吸収してゆくのが楽しくて仕方がない日々。倫礼の笑顔は今よりもずっと自然だったが、それは無知であるが故のものだった。
そうして、また一枚めくる。
「独健、聖輝隊の聖獣隊、特殊任務。ひおし、妻」
一度しまったゲームソフトをもう一度取り出した。鮮やかな緑色の短髪を持つキャラクターを見つめる。
「俺がモデルになったものと同じものに出ている……」
神の悪戯か何かなのか、奇妙なキャスティングで、よくよく見れば、夕霧命という男もモデルで出ていた。ゲーム画面を見つめながら、お菓子をつまんでいる倫礼が浮かぶ。
「――ふ~ん、女性を守ろうとする、優しいタイプ。ん~、ちょっと好みじゃないかな?」
そうして、蓮は同じページで身近な人の名前を見つけた。
「明智 光秀、聖獣隊、特殊任務……」
そこでもう一度、独健がモデルになっているキャラクターを凝視しながら、
「ん? 父上は今現在、聖輝隊だ。だいぶ昔のものか?」
また同じページを見ると、今度は違う名前が目に入った。
「張飛、聖獣隊……」
彼のモデルになっているゲームソフトはどこにもなかった。人をバッサバサ斬るゲームが得意ではないと言って、見逃したのだ。
「――もめた? 自分の国と比べて? 熱い人だなぁ~」
孔明がパーティー会場で見た場面を人から聞いて、倫礼が困惑している姿が浮かび上がった。ゲームソフトを置いて、蓮は綺麗な唇を指先でなぞる。
「聖獣隊は……なくなったと学校で習ったが……? まだ存在しているのか?」
邪神界を知らない世代の、蓮は平和な世界の中で生まれ生きている。鋭利なスミレ色の瞳をあちこちにやっていたが、倫礼の記憶と足して結論にたどり着いた。
「これは、十年以上も前に書いたものだ」
もう一度よく見ようとすると、夫は妻の本棚から、この名前をとうとう見つけてしまった。
「光命……」
おまけの倫礼から大量の記憶がなだれ込んできて、守護神は人間の女の過去に簡単にたどり着いた。
「俺が生まれる前に、おまけが好きになった男。人間じゃなくて、神だ」
嫉妬心を持たない神の世界で暮らす蓮は、激しい怒りに駆られた。
「なぜ、俺と結婚した?」
おまけの倫礼が己の気持ちに嘘をついていることが許せなかった。己に誠実でないことが許せなかった。断りたいのなら、断ればよかったのだと問い詰めたくなった。
静かに眠っている倫礼の寝顔を両手で触れられないながらもつかんで、心の中に呼びかけて無理やり起こしてやろうと思った。
しかし、蓮の手は彼女の頬に届く前にふと止まった。おまけは自身の気持ちに嘘をまったくついていないと感じ取って。
代替えとか、妥協とか、そんなのではなく、蓮のことを素直に好きになったのだ。もう、彼女は光命を忘れているのだ、健在意識では。心の奥底には残っていても、もう意識して覚えていないのだ。
眠っている肉体がまだ奇跡来だったころの、コウと話した内容が蓮にも聞こえてくる。全体の流れがつながらない、途切れ途切れのまま。
「綺麗な名前だね。現代的だ。光なんて」
「神様の名前だぞ。呼び捨てにするな」
「そうだね。じゃあ、光命さん」
テレビゲームを通して、この男の思考回路にはまって、寝不足で気絶するほど夢中になった日々が流れていき、澄藍にコウが言った一言が、物悲しく浮き彫りになった。
「お前が光命を好きになるのはおかしい。それは肉体の欲望だ。心でつながる真実の愛じゃない。光命とお前の本当の関係は――」
あまりのショックに、倫礼の記憶はほとんど輪郭を残していなかった。おまけの妻が霊感を持っていなくて、肉体と魂のズレがなければ起こらなかったかもしれない悲劇。
「そうか。恋愛対象になれなかったのか……。好きでも、その時は許されなかった」
無理やりにでも終わらせようとするができない日々。だからと言って、想うことも許されない。
人間である自分の心を読み取る存在がいつもそばにいるのなら、思い浮かべても考えてもいけないと、鍵をかけようと奮闘するが、一度燃え上がった業火は簡単には消えてくれなかった。
まるで映画を見ているように、倫礼の記憶は進んでいき、決定的な話がコウからもたらされた。
「彼女ができた!」
「あぁ、そうか……」
「いや~! なかなか彼女ができなかったが、やっぱり運命の出会いというものはあるんだな。人それぞれ出会う時期などは違うから、光命は少し遅かっただけなのかもしれないな」
「そうだよね。光命さんだって大人だもんね、彼女ができるよね」
「そうだ。どうした?」
「いや……。よかったなって。光命さんが幸せになることができて」
「だろう? 母親に似てる人を彼女に選んだらしいぞ。かなりの天然ボケで、罠を張って悪戯しては喜んでるそうだ。結婚するのも時間の問題だろうな」
「そうか。光命さんはそういう女の人が好きだったんだね。みんな結婚してたもんね。だから、光命さんもすぐにするね」
どんな存在にも聞こえないように、おまけの倫礼は感情を自分の中へ閉じ込めて、泣くこともせず、ただひたすら耐えた。
たとえ神であろうとも、人間本人が手を伸ばさないのなら、叶える必要などない。一生懸命手を伸ばして、願っているからこそ、どんな存在でも応えてあげたくなるものだ。
倫礼が望んでいないのならと蓮は思い、鼻でバカにしたようにわざと笑った。
「ふんっ! 所詮運命じゃなかったんだな。あきらめたから、今まで想いもしなかったし、口にもしなかったんだな」
うんうんと何度もうなずきながら、忘れ去られた古い資料を瞬間移動で本棚へ戻した。そうして、もう一度寝顔を見ようとすると、守護神――結婚をした夫には伝わってしまった。
「いや違う。いくらおまけでも、結婚の儀式で魂がつながっているから、言わなくてもわかる。おまけは今でも光命を好きでいる――」
彼女の気持ちを言うなれば、神にも知られなかった無意識の悲恋――。
魂の濁った人間の男なら仕方がないのかもしれないが、自分は神であって、嫉妬心は持ってもいないし、守護をしていく上では、その人間の過去も現在も未来も大切な情報だ。そう割り切らなければ、神として失格だ
「なぜ言わない? なぜ想わない?」
倫礼の寝ているそばへ歩み寄り、そっとしゃがみ込んだ。ひとりで暮らすようになってからというもの、彼女がいつもしている言動を思い出して、蓮は怒りで表情を歪ませた。
「また自分だけで背負って、誰にも心を見せないつもりだな?」
おまけの倫礼と来たら、悲しいことができて涙を流す時、心をかき消して、ボロボロと涙をこぼすのではなく耐えに耐えて、ただ一粒の雫で頬を濡らすのだ。
守護をしたくても、本人が拒否していることに、手を貸すわけにもいかず、自分と違って、己の気持ちを隠してしまう、おまけの倫礼から、蓮はプイっと顔を背けた。
「それなら、それでいい。忘れるなら、忘れろ。そう決めているのなら、それがお前のためだ」
ひねくれ神のお陰で、青の王子は一層遠くなった。それでもなぜか気になる蓮は、さっきの紙に印字されていた名前をつぶやく。
「光命……。知らないやつだ。曲、恩富隊。そこで働いているのか? だが、あれはもうだいぶ前のものだ。そこにいないかもしれない」
何とかしてやろうとしている自分に蓮は驚いて、銀の長い前髪をサラサラと左右へ揺らす。
「なぜ俺が気にする必要がある? おまけが言わないなら、俺も気にしなくていいんだ」
感情を抜きにして、理論で考えれば簡単なことだ。
光命は永遠に続く真実の愛に出会っている。別れることは決してない。
おまけはいつか消滅して、倫礼の一部分になる。
本体の倫礼は光命を愛していないどころか、知らない。
おまけの倫礼も会ったことも話したこともない。
光命は存在さえも知らないだろう。
魂も宿る価値のない人の想いは間違いとして、世界の大きな歯車に組み込まれる運命なのだ。邪神界がもたらした残骸として、歪みを訂正されながら過去へと変わる。
「そもそも、死んだらいなくなるおまけが神に恋をしても意味がないだろう」
倫礼がまだ今よりも若く、最近のように耐えて泣くこともしなかった、彼女の姿から察するに、おまけは今でも青の王子に憧れ、消滅してしまうまでずっと想い続けるのだろう。
誰も傷つけたくなくて、誠実でありたいがために、忘れ続けたまま潜在意識の中で密かに愛してゆくのだろう。
そんな健気な女はいつか消えていなくなる――。生まれ変われることもなく、存在しなかったことになる。
守護神として、夫として蓮の視界が涙ににじむ。
「お前の望みを、俺は叶えてはやれない……。いや、もう何年も前の話だ。相手は結婚しているに決まっている。叶わないなら、忘れてしまったほうがいい。それが俺にできることだ」
神様もたった一人で生きているわけではない。人間が思っているよりもはるかに多くの人が神として存在している。その中の一人として、まわりと調和を取りながら毎日を過ごしているのだ。
勝手に動くことはできない。ましてや、永遠に生き続ける神の男が相手だ。その後の影響は計り知れない。
「とにかくあれは見なかった。そういうことだ。俺には関係ない」
本人が触れてほしくないのなら、神も触れないことだ。それでも、蓮にとって愛している女には変わりがなかった。
「だが、これは叶えてやれる」
もうすぐ四十一歳を迎える人間の女は、まだまだ夢見る少女で切実なる願いを抱いていて、守護神である夫は叶えてやることにした。
「物質界でお前のそばにいてやる。俺に似ている人間の男を探す。そうして、俺の魂の波動をそいつに与える。それがお前の望みなら、俺はそうする」
こうやって守護神が動くと、人間である倫礼の現実も動き出した。職場を変えざるを得ない出来事が起き、彼女はまた自分の忍耐力のないせいだと責めたが、運命の出会いが待っている職場にすんなり就労が決まるのであった。
それでもまだ楽しくて仕方がなく、息が苦しくなっていても、そんなことにも気づかず、音楽再生メディアから流れてくる音楽にノリノリだった。
泉があふれ出てくるように次々と思い浮かぶ小説のアイディアを、おまけの倫礼はパソコンへ打ち込んでゆく。
その背後には、針のような銀の髪と鋭利なスミレ色の瞳、すらっとした長身の守護神である、蓮が腕組みをして立っていた。
(毎日、毎日、同じ曲ばかり繰り返している)
一ヶ月経っても、流れてくる音楽はいつもいつも同じ。変える気もないというよりかは、ドラックのような中毒症状を起こしているような有様だった。
ヴァイオリンを上品に弾きこなす、クラシックを好む蓮にとっては、理解不可能な行動で、怒りで形のよい眉をピクつかせた。
(どういうつもりだ?!)
デュアルモニターにしているもうひとつの画面を、蓮は倫礼の背中からのぞき込む。
(何回再生して――二千五百……。お前は針飛びするレコードか!)
しかも、蓮にとっては未知の音楽で、独特のグルーブ感が体にまとわりつくようだった。
(何だ、この引っ張られるようなリズムは。何というジャンル……R&B?)
生まれてやっと五年目を迎えようとしている神は、見知らぬ音楽の名を口にして首を傾げた。
*
ソファーの上で両膝を抱えながら、おまけの倫礼は涙をボロボロとこぼしていた。
「好きな人が振り向かなくて、他に優しくしてくれる人が告白してきた……」
神威が効いていると前から噂の海外ドラマを見て、物語に入り込んでいる彼女は、テレビを前にしてぶつぶつと独り言を言う。
「他の人に好きって言われるのは違うんだよな。ここで自分の気持ちを曲げるのは、相手に対して失礼だよね?」
本命の人から傷つくこと言われようとも振り向かなくとも、主人公が一途に想い続ける姿が、自分とやけに重なる倫礼は、ポテトチップスを一口かじって納得の声を上げた。
「あぁ、やっぱり主人公断った」
ドラマを全て見終わり、湯を張ったバスタブに、アロマオイルを二、三滴入れる。花の女王とも呼ばれるフランフランの香りが際立った。
ユニットバスの狭い湯船にひとりきり浸り、そっと目を閉じる。
「さすがだね、あのテレビドラマ。蓮と倫礼さんが主役のモデル。恋愛もの。しかも、優しくしてくれるのは父上と弟がモデルっていう設定。仲はいいんだけど、恋愛対象じゃないもんね?」
さっきの場面を現実で例えるなら、蓮に冷たく扱われたところへ、光秀がやって来て、前から想っていたと告白されるシーンだったのだ。
しかし、娘は父を断り、無事にファザコンから抜け出した。そんな気分に、おまけの倫礼はなっていた。
口数が少なく落ち着きのある男。それなのに感性で動いてもいる男。そんな彼――神界で結婚している配偶者に夢中な倫礼。
彼女の心の中には、言葉を流暢に話し、冷静な頭脳で感情を抑える男――青の王子はどこにもいなかった。
肩へと湯をかき上げ、一人暮らしの静かな部屋に水音が寂しく響く。
「主人公、最初、失敗ばかりで格好よくないんだよね。人のこと優先でさ、自分のことはいつも後回し。だけど、曲げられないものは曲げられないって主張する」
いつも意見は言えずじまいで、主張することもなかった。それでも、倫礼は主人公の信念の強さと自分を重ねようとする。
すると浮き彫りになるのは、意地っ張りで度を越すと、怒りで記憶が消えてしまう自分だった。見たくもない、目を背けたくなるような出来損ないの自分。
「主人公って人里離れたところで、神様を信じて生きてきたから、感覚が人とずれてるんだよね? これって、自分も似てるのかな?」
霊感を持っていて、人と見る角度の違う彼女がまさしくそうだったが、自身のことは客観的に見れないものだ。
「倫礼さんと似てるってことは、自分も似てる。そうなのかな?」
バスタブの縁に両肘をかけて、頬を腕に預けた。
「これで自分探しの旅の足がかりになるかな?」
魂が何人も入れ替わって気がつけば、どれが本当の自分かわからなくなっていた。好きな色さえわからない。好きな食べ物さえわからない。そんな毎日の中で、ひとつの道標を見つけた貴重な時間だった。
お風呂から上がり、パジャマに着替えて、最後の間接照明のスイッチを切る。
「ふ~、いい一日だった、今日も。神様ありがとうございます。お休みなさ~い」
そうして、人間の女はひとり眠りについた――。
遮光カーテンから入り込む光はなく、インターネットのモデムの点滅だけが頼りの薄暗い部屋。
しかし、鋭利なスミレ色の瞳には何の損傷もなく部屋を見渡せた。というよりかは、見渡せないと、守護神という仕事はやれない。人間が寝ている間も、神は手を差し伸べているのだから。
天井近くまである本棚のそばに立っていたが、今まで気つかなかったクリアファイルを、蓮は見つけた。
「何だ?」
棚から引き出す。ノート一冊分にも満たない厚みで、あちこち紙の端に折り目がついていたが、どうやら最近は手に取った様子もなく、一番下の段にあり重石をしたみたいにペタンと平らになっていた。
蓮は綺麗な手で中身を抜き取り、一番最初に書かれていた文字を読んだ。神界での声で、眠ってしまった、おまけの倫礼には届かない声だった。
「皇 煌――」
この名前を知らない、神は今やどこにもいない。
「陛下のお名前だ」
パソコンで打ち込んだものを、プリントアウトしたようで、黒字できちんと並んだ文字の羅列だった。一行分のスペースを開けて、次の名前が書かれていた。
「皇 弐煌。皇 皇。皇……」
本来ならば、『様』をつけなくてはいけない名前だ。
「女王陛下のお名前。途中までだが……」
何人か連なっていたが、蓮が知っている女王陛下全ては書かれていなかった。守護神という立場から、倫礼の過去が蘇り、神様全員が知っているルールが今さらながら出てきた。
尊い方々で、本名を呼ぶことは許されていない。今蓮は口にしたが、これは本当の名前ではない。
陛下と女王陛下同士は当然ながら、本当の名を知っているが、帝国にいる人々は誰も知らない。それだけ、厳しい制限が設けられている事項だ。
しかし、友人から呼ばれることも陛下たちはある。そうなると、役職名を呼ぶのは不適切で、この紙に書かれている本名とされている名前を呼ぶことになるのだ。
そうして、もうひとつ重大なことを、蓮は眠っている倫礼から感じ取った。
「この紙の存在を、おまけは健在意識で忘れている……」
忙しい毎日に追われ、本棚の隅にあることも、倫礼は覚えていないのだ。書かれている内容も覚えていない。
しかし、記憶というものは、完全に消えることはなく、ただ思い出せないだけなのだ。倫礼の心のどこかでは生きている。
引っ越しのたびに手にはするものの、神様の名前の書いてある紙を捨てることはできず、ただ持っているだけ。
細かいところはもう覚えておらず、印象の強かった神々を、彼女は自作の小説のモデルに起用しているだけで、それは記憶から拾い上げているに過ぎなかった。
まだ夢も希望も人並みにあり、魂が入っていて、死んだあとに見ることができるかもしれない神界を、霊視できないながらも想像していていた頃の記録。
蓮は一枚ずつめくり、書かれているものを読んでゆく。
「夕霧命、躾隊。覚師、妻」
自分が会ったこともない、他の誰かのことが書かれている。それでも、倫礼の記憶を使って、テレビゲームのソフトに手をかけた。
長い赤髪の、重厚感のある瞳を持つキャラクターをじっと見つめる。
「武術をする……」
紙には記されていなかったが、倫礼の脳裏に残っている、その男の特徴だった。そうして、次をめくる。
「月主命、社会の仕組み、教江隊。楽主、妻」
持っていたゲームソフトをしまった。別のものを取り出して、カーキ色の長い髪をして、ニコニコと微笑むキャラクターを見ていたが、
「ここにない……?」
倫礼の話している声が聞こえてきた。
「――カエルのモデルになったっ!? 人じゃなかった!」
今みたいに、トランス状態に近い状態で、彼女はゲラゲラと笑っていた。ゲーム情報だけで、買わなかった商品の話だった。そうして、また紙をめくる。
「孔明、私塾を開いている」
神経を研ぎ澄まして、この男について探ってゆく。ゲームソフトを指先で追っていたが、引き出す前に止まった。
「俺がモデルになったのと同じものに出ている……」
取り出して、不機嫌な自分の顔は見ず、さわやか好青年で微笑む男を見つけると、
「――神様が反則っていうほど、頭がよかった人? 有名な人ってやっぱりすごいんだね」
恋愛シミュレーションゲームをプレイして、罠にはまったとオーバーリアクションで撃沈されている姿が目に浮かぶ。次の紙をめくる。
「孔雀大明王、魂の研究所、副所長。皇閃、妻」
蓮は首を傾げた。
「副所長は今は違う。間違っているのか?」
どんな運命かは知らないが、さっきから持ったままだったゲームソフトを持ち上げた。
「俺がモデルになったものと同じものに出ている……」
邪神界がまだ倒される前のこと――古い倫礼の記憶を蓮はたどる。
「――白くんと甲くん、よろしくね。優しいね、孔雀明王さんって。ありがとうございます」
護法童子として、人間の女を守るためにやって来た子供たちに、笑顔で話しかけている彼女が見えた。
おまけであろうとも、妻の過去を、神の力で追ってゆく。また一枚紙をめくる。
「火炎不動明王、国の情報メディア監督期間、民間との折衝役。花梨輪、妻」
ゲームソフトをしまい、また別のものを取り出す。これをプレイしている倫礼の心の声が聞こえてくる。
「――もっとゴツいイメージかと思ったら、優しい人なんだね。でも、ちょっと個性的な価値観かな? っていうか、天然ボケ? だね」
神様の名前やデータを吸収してゆくのが楽しくて仕方がない日々。倫礼の笑顔は今よりもずっと自然だったが、それは無知であるが故のものだった。
そうして、また一枚めくる。
「独健、聖輝隊の聖獣隊、特殊任務。ひおし、妻」
一度しまったゲームソフトをもう一度取り出した。鮮やかな緑色の短髪を持つキャラクターを見つめる。
「俺がモデルになったものと同じものに出ている……」
神の悪戯か何かなのか、奇妙なキャスティングで、よくよく見れば、夕霧命という男もモデルで出ていた。ゲーム画面を見つめながら、お菓子をつまんでいる倫礼が浮かぶ。
「――ふ~ん、女性を守ろうとする、優しいタイプ。ん~、ちょっと好みじゃないかな?」
そうして、蓮は同じページで身近な人の名前を見つけた。
「明智 光秀、聖獣隊、特殊任務……」
そこでもう一度、独健がモデルになっているキャラクターを凝視しながら、
「ん? 父上は今現在、聖輝隊だ。だいぶ昔のものか?」
また同じページを見ると、今度は違う名前が目に入った。
「張飛、聖獣隊……」
彼のモデルになっているゲームソフトはどこにもなかった。人をバッサバサ斬るゲームが得意ではないと言って、見逃したのだ。
「――もめた? 自分の国と比べて? 熱い人だなぁ~」
孔明がパーティー会場で見た場面を人から聞いて、倫礼が困惑している姿が浮かび上がった。ゲームソフトを置いて、蓮は綺麗な唇を指先でなぞる。
「聖獣隊は……なくなったと学校で習ったが……? まだ存在しているのか?」
邪神界を知らない世代の、蓮は平和な世界の中で生まれ生きている。鋭利なスミレ色の瞳をあちこちにやっていたが、倫礼の記憶と足して結論にたどり着いた。
「これは、十年以上も前に書いたものだ」
もう一度よく見ようとすると、夫は妻の本棚から、この名前をとうとう見つけてしまった。
「光命……」
おまけの倫礼から大量の記憶がなだれ込んできて、守護神は人間の女の過去に簡単にたどり着いた。
「俺が生まれる前に、おまけが好きになった男。人間じゃなくて、神だ」
嫉妬心を持たない神の世界で暮らす蓮は、激しい怒りに駆られた。
「なぜ、俺と結婚した?」
おまけの倫礼が己の気持ちに嘘をついていることが許せなかった。己に誠実でないことが許せなかった。断りたいのなら、断ればよかったのだと問い詰めたくなった。
静かに眠っている倫礼の寝顔を両手で触れられないながらもつかんで、心の中に呼びかけて無理やり起こしてやろうと思った。
しかし、蓮の手は彼女の頬に届く前にふと止まった。おまけは自身の気持ちに嘘をまったくついていないと感じ取って。
代替えとか、妥協とか、そんなのではなく、蓮のことを素直に好きになったのだ。もう、彼女は光命を忘れているのだ、健在意識では。心の奥底には残っていても、もう意識して覚えていないのだ。
眠っている肉体がまだ奇跡来だったころの、コウと話した内容が蓮にも聞こえてくる。全体の流れがつながらない、途切れ途切れのまま。
「綺麗な名前だね。現代的だ。光なんて」
「神様の名前だぞ。呼び捨てにするな」
「そうだね。じゃあ、光命さん」
テレビゲームを通して、この男の思考回路にはまって、寝不足で気絶するほど夢中になった日々が流れていき、澄藍にコウが言った一言が、物悲しく浮き彫りになった。
「お前が光命を好きになるのはおかしい。それは肉体の欲望だ。心でつながる真実の愛じゃない。光命とお前の本当の関係は――」
あまりのショックに、倫礼の記憶はほとんど輪郭を残していなかった。おまけの妻が霊感を持っていなくて、肉体と魂のズレがなければ起こらなかったかもしれない悲劇。
「そうか。恋愛対象になれなかったのか……。好きでも、その時は許されなかった」
無理やりにでも終わらせようとするができない日々。だからと言って、想うことも許されない。
人間である自分の心を読み取る存在がいつもそばにいるのなら、思い浮かべても考えてもいけないと、鍵をかけようと奮闘するが、一度燃え上がった業火は簡単には消えてくれなかった。
まるで映画を見ているように、倫礼の記憶は進んでいき、決定的な話がコウからもたらされた。
「彼女ができた!」
「あぁ、そうか……」
「いや~! なかなか彼女ができなかったが、やっぱり運命の出会いというものはあるんだな。人それぞれ出会う時期などは違うから、光命は少し遅かっただけなのかもしれないな」
「そうだよね。光命さんだって大人だもんね、彼女ができるよね」
「そうだ。どうした?」
「いや……。よかったなって。光命さんが幸せになることができて」
「だろう? 母親に似てる人を彼女に選んだらしいぞ。かなりの天然ボケで、罠を張って悪戯しては喜んでるそうだ。結婚するのも時間の問題だろうな」
「そうか。光命さんはそういう女の人が好きだったんだね。みんな結婚してたもんね。だから、光命さんもすぐにするね」
どんな存在にも聞こえないように、おまけの倫礼は感情を自分の中へ閉じ込めて、泣くこともせず、ただひたすら耐えた。
たとえ神であろうとも、人間本人が手を伸ばさないのなら、叶える必要などない。一生懸命手を伸ばして、願っているからこそ、どんな存在でも応えてあげたくなるものだ。
倫礼が望んでいないのならと蓮は思い、鼻でバカにしたようにわざと笑った。
「ふんっ! 所詮運命じゃなかったんだな。あきらめたから、今まで想いもしなかったし、口にもしなかったんだな」
うんうんと何度もうなずきながら、忘れ去られた古い資料を瞬間移動で本棚へ戻した。そうして、もう一度寝顔を見ようとすると、守護神――結婚をした夫には伝わってしまった。
「いや違う。いくらおまけでも、結婚の儀式で魂がつながっているから、言わなくてもわかる。おまけは今でも光命を好きでいる――」
彼女の気持ちを言うなれば、神にも知られなかった無意識の悲恋――。
魂の濁った人間の男なら仕方がないのかもしれないが、自分は神であって、嫉妬心は持ってもいないし、守護をしていく上では、その人間の過去も現在も未来も大切な情報だ。そう割り切らなければ、神として失格だ
「なぜ言わない? なぜ想わない?」
倫礼の寝ているそばへ歩み寄り、そっとしゃがみ込んだ。ひとりで暮らすようになってからというもの、彼女がいつもしている言動を思い出して、蓮は怒りで表情を歪ませた。
「また自分だけで背負って、誰にも心を見せないつもりだな?」
おまけの倫礼と来たら、悲しいことができて涙を流す時、心をかき消して、ボロボロと涙をこぼすのではなく耐えに耐えて、ただ一粒の雫で頬を濡らすのだ。
守護をしたくても、本人が拒否していることに、手を貸すわけにもいかず、自分と違って、己の気持ちを隠してしまう、おまけの倫礼から、蓮はプイっと顔を背けた。
「それなら、それでいい。忘れるなら、忘れろ。そう決めているのなら、それがお前のためだ」
ひねくれ神のお陰で、青の王子は一層遠くなった。それでもなぜか気になる蓮は、さっきの紙に印字されていた名前をつぶやく。
「光命……。知らないやつだ。曲、恩富隊。そこで働いているのか? だが、あれはもうだいぶ前のものだ。そこにいないかもしれない」
何とかしてやろうとしている自分に蓮は驚いて、銀の長い前髪をサラサラと左右へ揺らす。
「なぜ俺が気にする必要がある? おまけが言わないなら、俺も気にしなくていいんだ」
感情を抜きにして、理論で考えれば簡単なことだ。
光命は永遠に続く真実の愛に出会っている。別れることは決してない。
おまけはいつか消滅して、倫礼の一部分になる。
本体の倫礼は光命を愛していないどころか、知らない。
おまけの倫礼も会ったことも話したこともない。
光命は存在さえも知らないだろう。
魂も宿る価値のない人の想いは間違いとして、世界の大きな歯車に組み込まれる運命なのだ。邪神界がもたらした残骸として、歪みを訂正されながら過去へと変わる。
「そもそも、死んだらいなくなるおまけが神に恋をしても意味がないだろう」
倫礼がまだ今よりも若く、最近のように耐えて泣くこともしなかった、彼女の姿から察するに、おまけは今でも青の王子に憧れ、消滅してしまうまでずっと想い続けるのだろう。
誰も傷つけたくなくて、誠実でありたいがために、忘れ続けたまま潜在意識の中で密かに愛してゆくのだろう。
そんな健気な女はいつか消えていなくなる――。生まれ変われることもなく、存在しなかったことになる。
守護神として、夫として蓮の視界が涙ににじむ。
「お前の望みを、俺は叶えてはやれない……。いや、もう何年も前の話だ。相手は結婚しているに決まっている。叶わないなら、忘れてしまったほうがいい。それが俺にできることだ」
神様もたった一人で生きているわけではない。人間が思っているよりもはるかに多くの人が神として存在している。その中の一人として、まわりと調和を取りながら毎日を過ごしているのだ。
勝手に動くことはできない。ましてや、永遠に生き続ける神の男が相手だ。その後の影響は計り知れない。
「とにかくあれは見なかった。そういうことだ。俺には関係ない」
本人が触れてほしくないのなら、神も触れないことだ。それでも、蓮にとって愛している女には変わりがなかった。
「だが、これは叶えてやれる」
もうすぐ四十一歳を迎える人間の女は、まだまだ夢見る少女で切実なる願いを抱いていて、守護神である夫は叶えてやることにした。
「物質界でお前のそばにいてやる。俺に似ている人間の男を探す。そうして、俺の魂の波動をそいつに与える。それがお前の望みなら、俺はそうする」
こうやって守護神が動くと、人間である倫礼の現実も動き出した。職場を変えざるを得ない出来事が起き、彼女はまた自分の忍耐力のないせいだと責めたが、運命の出会いが待っている職場にすんなり就労が決まるのであった。
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