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主人は執事をアグレッシブに叱りたい/3

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 今や、主人と執事だけの部屋はカオスと化していた。新聞紙はソファーから雪崩が起きたように斜めに絨毯へ落ちてゆきたいが、涼介の体重がかけられ、それが叶わない。そこへ、紅茶がセピア色のシミを残す音が、ピチャピチャと響いている。
 慌てている執事のお陰で、急激な作戦変更が余儀なくされた、主人は心の中で優雅に降参のポーズを取る。

 困りましたね。
 そうですね……こちらも使いましょうか。
 そちらのほうが、涼介が非常に困るという可能性が高くなり、99.99%――

 悪戯が過ぎる、崇剛の視界には様々なものが、それぞれの状況で一気に入ってきた。
 しかし、デジタルな頭脳の持ち主は慌てるわけでもなく、こんな声を発しながら体を前後に揺らす。
「んっ! んっ! んんっ!」

 十二.私の吐息交じりの声に、涼介は戸惑っているように見えた――
 
 ヒューヒュと窓から入り込む風が、崇剛の行く手をさえぎるのだ。何かに悪戦苦闘している崇剛とは対照的に、涼介は薄暗い視界でソファーに仰向けに寝転がったまま、主人の苦しく色欲漂う声だけが耳に入り乱れてくる。
(な、何で、そんな喘ぎ声みたいなの出してるんだ?)
 かチャッと金属みたいなものが床に落ちる音がし、崇剛の冷静な瞳に映った光景を捉えた。

 おや? 包帯止めが取れ、こちらが解けてしまいました。
 そうですね、こうしましょうか。

 崇剛は左手を自分へ引き戻し、涼介の上らから一旦身を引いた。
「包帯を巻きつけてもよろしいですか?」

 十一.部屋にあるものを使い、涼介を勘違いさせる――
 わざと、名詞をひとつ抜かしています。

 視界が急に鮮明になった、涼介の前に現れたのは、策略的な主人が右手から左手へと包帯を一直線に伸ばし、眼前で見せつけている姿だった。
「ど、どういうことだ?」
「何も考えられないように、して差し上げます」
 崇剛は包帯を少しだけずらし、その隙間から、執事の顔を見下ろした。

 七.涼介に私の言葉を勘違いさせる――
 同性同士の大人の話に、勘違いしていただくという意味です。

 策略的な主人の手中にすでに落ちてしまっている執事は、驚きすぎて言葉が最後まで言えなかった。
「な、何を言って……!」
(お、お前も俺も同性愛者じゃないから、イクことにはならないだろう)
 聖霊師という悪霊と生死を賭けて戦う主人。その立場をよく理解していない執事に、崇剛の罠は容赦なく次々と放たれる。
「体で感じていただきます」

 七をもう一度です。
 勘違いは脳でおきます。
 従って、体です。
 ですから、嘘は言っていません。

 ルールはルールの主人らしい、心の内だった。対する執事は今ももれなく勘違い中。
「そ、それって……!」
(俺を開発するってことか!?)
 言いよどんでいる執事を前にして、主人は余裕の笑みでわざと質問をした。涼介が答えられない可能性が高いと踏んでいて。
「どうしたのですか?」
 冷静な水色の瞳の端には、一番下に絨毯、その次に新聞紙、さらにその上に涼介の右腕の順番で光景が映し出されていた。

 ソファーの上の新聞紙に、私が左腕をついた時には滑り落ちるという可能性が78.98%――
 残りの21.02%は何も起きない。
 起きない時には、わざと落ちましょうか――。

 執事を策略に陥れるという快楽に溺れてしまっている、優雅な主人の手口はどんどん巧妙になっていた。
「ど、どうって……!?」
 涼介は途中で気づいた。崇剛の罠のひとつに。理由を言わされてなるものかと思い、口を慌ててつぐんだ。
 相手が戸惑っているうちに、崇剛は瑠璃色の貴族服にあらかじめ忍ばせておいた、包帯止めをひとつ取り出した。
(いつ、はずれるかわかりませんからね。きちんと用意してありましたよ)
 器用に左手だけで、とけてしまった包帯を巻きつけ、金具を布に食い込ませて綺麗に元へ戻した。
 執事を一番困らせる罠へと、崇剛は着実に導いてゆく。涼介の顔の横に再び左手を置いた崇剛。主人がソファーの上で、執事を押し倒しているシチュエーションの中で、優雅な声がリスタートをかける。
「それでは、始めますよ」

 七.涼介に私の言葉を勘違いさせる――
 手が届かなく、未だ直せていないのです。
 先ほどの、身も心も危険であるという可能性が92.67%から、さらに上がり97.65%――
 涼介には少し重たい想いをしていただきましょうか。
 従って、今までで一番困っていただきます。

 可能性の数値が変われば、主人の罠も変化を遂げる。当然の対処だったが、何かが執事に物理的にのしかかるような予感が色濃く漂っていた。
 にわかに春風が吹いてきて、カーテンを舞い上げる。崇剛の不自由な右手がそれをつかもうとしたが、振りをしているだけだった。
 策略的な主人は、素直過ぎる執事の上でバランスをわざと崩し、左腕をソファーと涼介の間に挟まっていた新聞の上へ落とした。

 そうして、涼介にとっては悲劇の幕開けがやってきた――。
 ソファーの端に、策略神父の左腕が乗った。斜面を越えれば、床へと真っ逆さまに落ちていって、崇剛が涼介を下敷きにするのは目に見えた。
 オー マイ ガット――。
 新聞紙の摩擦のなさに、崇剛の左肘が滑り、床に向かって落ちて、執事が衝撃で息を詰まらせ、
「っ!」
 遅れて主人は思わず苦痛の声を小さくもらした。
「っ!」
 策略家の予想通りになってしまったが、物事はまだ動いていた。全体的にソファーの背もたれと反対側に傾いている崇剛の体は、落下の危険性が十分あった。

 崇剛の身を包んでいるシルクのブラウス。
 と、
 涼介の洗いざらしのシャツ。
 
 は、今やぴったりとくっついていた。下から、床、絨毯、ソファー、涼介、崇剛の順で見事なまでに重なっている。
 主人の貴族服の内ポケットに潜ませてある、魔除のローズマリーの香りが、執事の鼻をいつもより強くくすぐる。
 涼介の左腕は、ソファーの隙間に挟まってしまい、動かせる右腕だけで勢いをつけて、
「んっ!」
 本当に押し倒してくるとはどういうつもりだ。と不快に思いながら、体を左へよじり、崇剛から顔を遠ざけようとした。
 その反動で、上に乗っていた主人の体が斜め下――ソファーのまわりに敷いてあった絨毯へ向かって落ち始めた。
「っ……!」

 ひとつ前の、私の言動で導き出した可能性の通り、こちらのままでは、私は床へ滑り落ちます。
 涼介は私を、いつも以上に気にかけているように見える。
 従って、涼介が私を助けるという可能性が99.78%――
 こちらのことによって、私たちふたりが動けなくなるという可能性は99.99%……かもしれませんね。

 男ふたりだけの部屋で、両者の身の拘束。危険な罠が迫っているとも気づかず、素直で正直な執事は、主人の今の具合を思い出した。
(このままだと、崇剛が床に落ちる。手を怪我してる。今日の朝まで気を失ってた。助けないといけない。右手はソファーに埋もれてて使えない。だから、左腕でこいつを抱き寄せて……!)
「っ!」
 策略家の予想通り、崇剛の線の細い体は、涼介の男らしい腕で支えられた。そうして、涼介は死角を作られたり、言葉を色々とかけられている内に、崇剛の左足が未だに床についていることに気づいていなかった。

 他の人から見れば、ソファーの上で抱き合っている状態になってしまった、主人と執事。罠がまだ順調に進行中の崇剛は、心の中で密かにくすくすと笑う。
(私が予測した通り、動きてきますね、涼介は。しばらく、こちらの体勢で困りながら、懺悔していただきましょうか)
 少し落ち着きを取り戻した涼介は、崇剛の下でまぶたを不思議そうにパチパチと瞬かせていた。
(ど、どうして、俺が崇剛を抱きしめてるみたいになったんだ?)
 主人のデジタルな策に引っかかっていると、執事はまだ気づいていなかった。お互いの顔が少しだけ左右にズレている、絶妙なバランスで止まったまま。耳元から聞こえてくる崇剛の息遣いに神経を集中させ、状況を打開しようと、涼介は試みる。
「お、お前! 起き上がれ!」
「できませんよ」
 ソファーとひまわり色の短い髪を見つめたまま、崇剛は標的には見えない位置で、至福の時というように微笑んだ。
(今までで一番、困っているみたいです)
 こんな密着した体勢で話されれば、声の振動は嫌でも体から伝わってきて、涼介は悲鳴を上げそうになった。
「どっ、ど、どうしでだっ?!」
 涼介は戸惑う。どうしようもないほど体が重なってしまったことに。
 崇剛は流暢に説明する。左足の膝が床にきちんとついたままで。
「私は右手を怪我していますし、左腕はあなたに抱き寄せられていて、動かせないのです。ですから、自分の体を自身で起こせないみたいです」
 主人の体の自由を奪ってしまった執事。抜け道がどこかにあるはず。そうでなければ、永遠にこの状態が続いてしまう。感覚的な涼介は何とか解放される方法を見つけてきた。
「誰か呼んで――」
「そちらもできません」
 執事の手の内は、主人には当然計算済みのもので、言葉の途中でさえぎった。涼介は崇剛の重みを感じながら、不思議そうな顔をする。
「どういう……ことだ?」
 そこまで言った時に、執事はピンときた。主人に招かれ、部屋に入ってすぐに聞こえてきた、
 カチャン!
 という木と鉄がぶつかったような音が何を意味していたのかを。ことは重大を通り越して、破滅的だと気づいた涼介は、表情を引きつらせた。
「さっきのって……まさかっ!」
 アグレッシブに叱りたい執事がやっと、自身の思考回路に追いついてきたのかと思い、主人は優雅な声で平然と言ってのけた。
「先ほど、私はドアの鍵を内側からきちんと閉めました。ですから、誰も部屋へ入ってくることはできません」
 崇剛はいつだって、全ての可能性を考えて言動を起こしているのだ。今の状況が他の使用人や召使の目にはどう映るのかさえも。

 私が涼介の上に乗っているように、他の方からは見える。
 こちらの状況を見た方は誤解するでしょうね、私と涼介が男色家だと。
 どなたかに見られては困りますからね。
 ですから、鍵は最初にかけましたよ――

 用意周到な主人。いくら素直で正直な執事でも、他にも何かあると気づいて、言葉が途中から失速していった。
「お前の部屋の鍵って……」
「えぇ、あなたと私しか持っていません――」
 空から雷でも落ちてきたような衝撃を受けて、涼介はとうとう崇剛にチェックメイトされてしまった。
 執事は大きなため息をつき、主人の手強さを痛感した。
「お前また……。部屋に入った時から、懺悔させることを考えてたのか。でも、どうしてこんなことするんだ? 今まで、俺の上に乗ったことなんてなかっただろう」
 そうしてようやく、

 二.涼介に懺悔させる――

 にたどり着いた。崇剛は今までと違って、珍しく真剣な面持ちで、執事の体に自分のそれを重ねたまま問いただし始めた。
「何を、私に言わなかったのですか? 人が死ぬかもしれないのです。そちらを放置することは、到底、赦されることではありません」
 祓いの館に住んでいると人々に噂される、聖霊師は強い懸念を抱いていた。涼介は静かに目を閉じて一呼吸を置き、再びまぶたを開けると、窓から入り込む風に揺れるカーテンを見上げた。さっきまでの慌てぶりはどこかへ消え去り、静かに、
「同じ人物から、何度かお前に会いたいって電話があった。ずいぶん、おどおどした感じだった」
 床にさっきから立ち膝をしたままの左足で、崇剛は痛みに耐えながら、執事が答えられないと知りつつわざと聞いた。
「最初に連絡があったのは、いつですか?」
「俺は崇剛じゃないからな……。昨日の……瞬と風呂に入ろうとした時だから、夜の八時過ぎ……?」
 執事は自分の大雑把さをひどく反省した。今は持っていない、うる覚えのメモを懸命に思い出そうとする。
「分数……まして、秒数まで覚えてない。テーブルの上に置いた、メモを見れば……だけど、俺たちは動けない。どうすれば――」
 こうして、遊びが過ぎる主人は長々と数字の羅列を口にし始めた。
「最初の連絡は、昨日の四月二十八日、木曜日。二十時十四分十八秒。二回目は、二十時三十七分二十六秒。三回目は、二十時五十九分三十七秒。四回目は、二十一時七分四十三秒。五回目は、二十一時二十七分五十八秒。六回目は、明けて、四月二十九日、金曜日、七時四十五分二十八秒。今朝です。七回目は、八時三分三十四秒。八回目は、八時四十五分二十四秒……朝食のあとに、二回も連絡があったみたいです。それでも、涼介は私に伝えなかったのですね」
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