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神の旋律

月夜の幻想曲(ファンタジア)/1

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 一夜を共にしたわけでもなく、ただの相棒の女。朝食も終えたというのに、リョウカがレンの部屋から出てゆくことはなかった。

 彼も彼で、それを少しおかしいと思っていたが、まゆの繊維が蜘蛛くもの巣のように引っかかるように、彼女を追い出そうとする心を包み込み、どこかへやってしまった。

 雨は相変わらず、打楽器を力任せに鳴らすようなフォルティッシモで、窓ガラスに叩きつけては拒まれ、残念無念というように白い雫を涙のように残して滑り落ちてゆく。

 重くたれ込める灰色の雲より高くにある空で、太陽は西へと次第に傾き、時は過ぎてゆく。

 リピートし続けていたヨハネ受難曲は本当に終章を迎え、悲哀の熱情のようなヴァイオリンの音色が部屋を飛び跳ねては落ちてに変わっていた。

 身を引き裂くような運命に打ちひしがれて、立っていられないほどの眩暈めまいを覚え、崩れるように座り込むような旋律。瞳に溜まった涙が寒さに凍えるようにゆらゆらと揺れるような弦の震え。

 白いバスローブはレンの体からいつしか消え、完璧と言わんばかりの全身黒のシャツと細身のズボン。ゴスパンクロングブーツはベルトのバックルが幾重にも整列し、リズムを取るたびに金具が歪む。

 ベッドに腰を下ろしたままうかがい見る。記憶にないのに、知っている女を。斜め向こうのふたりがけのソファーに身を埋めて、ラッグから適当に取った雑誌をめくっては、リョウカは読んで楽しんでいる。

 朝食に話したきり何も言わず、それぞれのことをして過ごしている。それなのに、心地よい安心感で、これがよく言う、空気みたいな存在なのだろう。当たり前にそばにあるが、ないと困るもの。

 しかし、やはりおかしいのだ。前にもこうやって、同じ空間を共有したことがある、そんな気にさせる。だからこそ、レンは必死に思い出そうとする。

 いつのことだ?――

 落ちてくるブラウンの長い髪を手でかき上げ、背中へ落とし戻す仕草。サイドテールに置いてあるマグカップを雑誌に気を取られながら、飲もうとして火傷する行動。

 どこで見たんだ?――

 既視感デジャヴ。この言葉がしっくりくる。

 出口の見つからない迷路を何度も同じ場所へ戻り歩いているようで、密かに地底深くで活火山が活動するように怒りのマグマが腹のあたりで、グツグツと煮立つ。

 知らず知らずのうちに、左の指先が何かを押さえるように動き出した。レンは自分自身の行動さえ霧に煙るようにわからなくなってゆく。

 俺は何をしている?――

「これ何て曲?」

 リョウカに問われた、レンの綺麗な唇からスラスラと曲名が出てきた。

「バッハ シャコンヌ 無伴奏ヴァイオリン パルティータだ」
「長い名前ね。覚えるのが大変だわ」

 雑誌から視線も上げず、文句だけが聞こえた。こんな簡単なことも知らないとはと思い、レンは鼻でバカにしたように「ふんっ!」と笑い、言葉を説明しようとしたが、

「シャコンヌは曲の形式――」
「ずいぶん詳しいわね。どうしてかしら?」

 開きっぱなしの雑誌の上で、頬杖をついたリョウカに問われた、レンは口をつぐんだ。

「っ……」

 指摘されてみればそうだ。自分は悪魔の殺し屋。それなのに、クラシックを好む。それはおかしくない。だが、曲の構成まで答えようとするのは、少し行き過ぎているようだった。

 なぜ答えられる?――

 ヴァイオリンの絹のような柔らかで躍動感のある旋律に、雨音がこうべを垂れてダンスの申し込みをし、手を取り合って部屋の中で不規則に舞う。

 いつまでたっても返事は返ってこない。さっきから様子もおかしい男。リョウカはそれ以上追求もせず、

「ヴァイオリンね……」

 適当に曲名は削ぎ捨てて、楽器の名前だけをポツリとつぶやき、雑誌を持ち上げると、ミニスカートにも関わらず、彼女は大きく足を組み替えた。

 パンツがのぞいたが、そんなことに興味もない。いやどうでもよかった。それよりも、レンは体の違和感に意識を取られていた。さっきから不規則に動いている左指先に。

 音が鳴ると一緒に動く?――
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