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閉鎖病棟の怪

死の帳降りて/2

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 夕霧は心得ていた。

 ――相手に感謝する。

 真心を込めて、背後にいる敵へと心の中で頭を深々と下げ、

 ――装填そうてんする。撃つ。

 淡々と作業をこなし、

 ズバーンッッッ!
 スバーンッッッ!

 銃声が病室に鳴り響き、断末魔がすぐさま上がった。

「うぎゃぁぁぁっっ!!」
「きゃあぁぁぁっっ!!」

 ゆらゆらと煙のように消え去るが、視界の端で右肩に真っ白な手が乗せられた。少しだけ後ろを振り返るが、その持ち主はいない。

 手だけが自分の肩をつかんでいる。迷うことなく、銃口を自分の体へ向ける。

 ズバーンッッッ!

 銃弾は体を貫通し、手という部品はピクピクっと痙攣して、どさっと廊下に落ちた。悲鳴を上げる口がない。体の一部分だけ。やましさがそこにあるから、全身が見えないのだろう。

 その時だった。室内のはずなのに、急に真正面から突風が吹き荒れたのは。

「っ……」

 防御反応で思わず目をつむる。故意に作られた、ほの一瞬の隙だった。

「あはははは……っ!」

 女のあざ笑うような声が響き渡る。それは、耳から聞こえるものではなく、体の内で精神汚染するように、何重ものやまびこを呼んでとどろく。

 無感情、無動のはしばみ色の瞳が再び開くと、点滅する非常口灯の緑の下に、首をおかしな方向に傾けている白い着物姿の女が立っていた。

 うつむき加減で、顔を見ることはできない。黒の長い髪は縛られることもなく、乱れ絡みついている。

 夕霧はライフルを構えようとしたが、パパッと閃光が走るように、女の幽霊は姿を消し、次の瞬間には、武器との間合いが取れない位置に立っていた。

 数十センチの至近距離で、女が顔を上げると、大きく開かれた眼球は白目ばかり。

 気味の悪い笑みを浮かべる口の赤がやけに印象的。粘り気のある、どす黒い血が今にも青白い唇から滴り落ちそうだった。

 理論で考えれば、あるはずもない現実――幻だ。幽霊に血などない。肉体のものなのだから。

 夕霧は惑わされることなく、後方へ銃口を向けていたライフルを持ち直そうとした時、全身が硬直したように動かなくなった。

 ――金縛り。

 それでも焦ることなく、解いていこうとする。武術を使って。

 ――相手の呼吸と合わせる。
 相手の操れる支点を奪う。
 それを肩甲骨まわりで回す。
 合気。

 技を発動させたが、

 ――効かん。

 あちこちから白い手がたくさん伸びてきて、悪霊に拘束をかけられ、死出の旅路への波止場に無防備に立たされた。

 閉鎖病棟の廊下でただ一人。自分がここへ入ってきたことを知っている人間はいない。院長の許可が出ない限り出入り禁止区域。誰も助けにこない――

 そうして、勝ち誇ったように女は笑い、

「あはははは……っ!」

 すっと姿が消え去ると、真正面から自分の首を狙って、鋭利な鉛色が手裏剣のように横に回転しながら猛スピードで迫ってきた。

 シュリュ、シュリュ、シュリュ……!

 それさえも、動かせない体のまま夕霧は恐れもせず、まっすぐ対峙する。あっという間に近づいてきたブーメランの刃は、雲を切るようにのどを通り過ぎ始め、

「っ……」

 血が出ることはなく、首と体を別々の塊に切断して、背後ですうっと消え去った。

 視界が横滑りする、体を残したまま。次に景色が床へとあっという間に落ちて、遅れて自分の体がすぐ横でドサっと崩れ落ちる音が聞こえた。

 急速に意識が薄れ、まぶたが勝手に閉じてゆく。朦朧とする中で、禍々しい女の声が響いた。

「死ぬがよい。魂の切断の放置は、いずれ消滅へとつながる。しんの死だ」

 どこの世界からもいなくなる。悲劇的結末カタストロフィーへと向かって、夕霧の時間はカウントダウンが始まった。

    *


 1K六畳のアパート。ドレッサーの前で、濡れたぼさぼさの髪が、ドライヤーからの温かい風にあおられている。

「ふふ~ん♪」

 間接照明ふたつの、ほのかな癒しの光の中で、口ずさむ鎮魂歌レイクエム

 風呂上がりの髪を、ノリノリで乾かしていた颯茄は、視界の異常を感じて、床に置いていた照明の青を見つめた。

「ん?」

 ほんの一瞬、明かりが寸断された気がした。まばたきと言えば、瞬きとも言えるほど、短い暗闇。どこかずれているクルミ色の瞳を鏡に映して、

「ふふ――」

 再び歌い出そうとすると、ストロボみたいな電気の切断が起きた。
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