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翡翠の姫――白の巫女

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 暗闇、無風、無音――
 
 ツーツーツー……。

 かすかな音が耳をくすぐり、貴増参を短い静寂から解放した。

 埃臭く本独特の湿った匂いは一瞬にして姿を消して、その代わりに、自分の全身を包み込むような、肌に重くまとわりつくようなジメジメした冷たい空気のベール。

 サワサワサワ……。

 潮騒のように遠くから近づいてくる、何かがかすれるように響くと、頬を風が通り過ぎていった。

 教授室の窓は開いていないし、破壊されたドアからもこんな強い風が吹くことなど、夜中の二時過ぎでは不自然だった。

 いつの間にか閉じていたまぶたをゆっくりと開ける。おそらく自分がいた場所ではないだろう。何がどうなっているかわからないが、別の空間にいるだろう可能性が大だ。

 何が待ち受けているが予測がつかないまま、優しさの満ちあふれた茶色の瞳が姿を表すと、そのレンズに映ったのは薄闇だった。

 あたりに何本も立っている縦の線は空高くへと伸びている。手の甲をなでる肌触りのよくないものを指先でつかむと、

「草……でしょうか?」

 しずくがいくぶんついていて、手のひらを滑り、地面へと落ちてゆく感触がする。顔を上げたが、生い茂る葉の群れで、星明かりも月も見えなかった。

 ポツ、ポツ……。

 降り始めの雨のように頬を叩いて、貴増参は手のひらを向け、空をうかがう。

「雨……?」

 見えたとしても、小さな葉っぱが集まった傘の向こうには、雨雲が広がる不機嫌な夜空があるのかもしれなかった。

 ツーツーツー……。

 足元でさっきから聞こえる大合唱は、虫の音のようだ。

「森、もしくは林の中でしょうか?」

 変事が起きているのは確かだった。だがしかし、そこにいつまでもこだわっているわけないはいかない。

 起きてしまった原因を知りたいところではあるが、どこにいるかで自分の取る言動は大きく変わる。素早く正確に把握しなくては。

 サワサワサワ……。

 吹きぬける風にこずえが揺れる。大学構内に林はある。だが、こんな深いものではなく、街灯のひとつぐらいはすぐそばにあるはずだ。それなのに、やっと慣れてきた目で見ても、濃い墨のような闇だった。

「どちらでしょう?」

 落とした覚えもなかったが、不思議なことに、手に持っていた光る勾玉はどこにもなかった。

 とにかく、この茂みから出なくては、状況を把握できるような場所へ行けない。

 草についた露であちこち濡れているであろうチェック柄のズボンと茶色の革靴で歩き出すと、虫の音はピタリと息を潜め、風が木々を揺らす音だけになった。

 湿ってはいるが静かで穏やかな夜で、地面から浮かび上がっている木の根元を慎重に避けながら、足を踏み込む。

 落ちている枝葉を踏み鳴らしつつ、草が絡みついて足がもつれないよう、大きく上げてはそうっと前へ出す。平地が続くとは限らない。一歩先は崖かもしれない。

 踏み外さないように慎重に進んでゆくと、突如少女の甲高い声が銃声のようにあたりに響き渡った。

「なぜじゃっ?!」

 誰が聞いても、穏やかではなく憤慨していた。貴増参は左足を半歩前に出したまま歩みを止め、あたりをうかがう。

(人の声……?)

 女子学生の声ということもあるが、時間帯と口調からすると違う可能性が高いだろう。今姿を表すのは得策ではない。

 息をひそめたまま、あたりを見渡すと、左手の下の方から、焚火の残り火のようなオレンジの光がにじんでいるのを見つけた。

(何でしょう?)

 さっきよりは少し明るくなったが、暗い茂み道。知らない場所。枝と湿った草を踏み分けながら、石橋を叩くように進んでゆく。

 すると、大きく勢いのある炎が眼下に広がった。自分は崖の上に立っていて、数十メートル下に焚き火がある。

 人体に有害なガスが出るという研究はもう何十年も前に発表されていて、今もその事実はくつがえされることはない。条例で禁止されており、火で物を燃やすことはできない。

 自分がいつも生活している場所ではない。常識だと思っていることが、通用しない可能性が出てきた。警戒心はさっきよりも自然と高められる。

「なぜ、われが黒なのじゃ!」 

 また少女の声が響き渡った。

 目を凝らしてよく見てみると、炎のまわりに人影が狂ったように円を描いて踊るように伸びていた。人々の服はみな黒で、まるで魔女のサバトに出くわしたようだった。

 貴増参は木の幹に背を預けて、原始的な明かりの火の照り返しから、身をそっと隠した。息を殺して、あごに手を当て、耳をすますと、パチパチとまきぜる音がかすかに聞こえた。

「なぜじゃ! なぜ、我が黒なのじゃ!」

 遠すぎて、誰が話しているのかがわからない。内容もひどく断片的。ただ緊迫感は伝わってくる。やはり下手に動かない方が賢明だ。

 闇が広がる森の中を凝視し続けたまま、崖下へと意識を傾ける。情報はできるだけ多く持っていた方が、より正確な対策が取れる。さっきと同じ少女の声が話し続けていた。

「我の方が白の巫女よりも優れておるであろう」

 巫女――

 専門書で読んだことはあるが、自身の暮らしている国にはない文化。

(別の場所へ来た……ということでしょうか?)

 あの光る勾玉を月にかざしただけで、居場所が変わる。そんな非現実的なことが起きる理論がない。貴増参が半信半疑のまま、少女は噛みつくようにヒステリックになってゆく。

「なぜ、たった三日じゃっ?!」

 上着もネクタイもなく、ピンクのシャツだけ。肌寒い風にさらされていたが、貴増参にとってはそんなことはどうでもよかった。

(どちらの日数でしょう?)

 パズルピースみたいな話だった。なくさなければ、いつかピタリとはまる時が来て、完成図と近づくだろう。その時まで、記憶の浅い部分へとしまっておく。

「そちらは習わしでございますから……」

 男のなだめるようなたしなめのあとに、少女の金切り声が爪痕を鋭く残すように木々にこだました。

「習わし習わしと言いおってからに! 奪えばよかろう!」

 焚火の向こう側からひとつの影が突如立ち上がって、落ち着きなくウロウロし始めた。近くにいた影が細い線を伸ばして、座るように促しているのが見える。

「姫さま、じきに機会はめぐってまいります」

 男の手を払って、もうたくさんだと言うように、少女はイラついたように炎のまわりを足早に歩き回り、

「その話は半年も前から、おぬし申しておるだろう!」

 座っている他の人々を小突いたり、ブツブツと文句ではなく、罵倒に近いものを浴びせているようだった。

 あまり心地よいものではないが、その部分は別のものとして切り捨てて、貴増参は情報を集めてゆく。

 暴れていた少女を誰かが捕まえ、落ち着き払った様子で注意した。

「何事も時がかかるものでございます」
「我はこのような影の暮らしから、すぐにでもおさらばしたいのじゃ」 

 怒りが収まってきたようで、炎の向こう側へ少女が回り込んだが、オレンジ色の光の中に浮かび上がるのは、黒一色の袖口と裾が広い着物のようだった。

「姫さまのお辛い気持ちはよく存じております。ですが、何事も時期を見誤っては、うまくいくことも行かのうなります」

 年老いた声が静かにたしなめると、少女の声からとげとげしさは消え去った。

「あとどのくらい待てばよいのじゃ?」
「ひと月といったところでしょうか?」

 たった一ヶ月。それなのに、少女はあきれて物が言えないと言うような、妙にがっかりとした声を響かせ、

「まだそれほどあるとは……」

 ぶつくさと文句がしばらく続いた。

「呪いは跳ね返されるしの。天災も起きんしの。理不尽じゃ……」

 呪い、天災――

 文明が発展していないようだ。そうなると、過去に来たという可能性が高い。

 しかし、さっきから今までの記憶を洗い直しているが、今目の前で繰り広げられているような会話に関連づくような歴史はどこにも落ちていない。

 だた、呪いの跳ね返し。少女の態度。まわりの人々の話。それらから考えると、貴増参の心の中にはこの言葉が浮かぶのだった。

(不穏分子……)

 しかし、今のだけで結論づけるのは非常に危険である。あごに当てた手はそのままに、薪の爆ぜる音が時折あたりの崖肌にこだまするのをBGMにする。

 考古学から紐解いた歴史と今の話が合致するものがないか、もう一度懸命に探そうとする。

(ここはどちら――)

 だが、そこまでだった。貴増参が考えることができのは。ガツっと後頭部に激痛が走り、

「っ!」 

 音は消え去り、視界も真っ暗になった――

 雑草だらけの茂みに倒れ、動かなくなった考古学者のそばに、いくつかの足音が近づいてきた。

 男のひとりがかがみ込んで、正体不明の体を仰向けにし、ピンクのワイシャツとチェック柄のズボンを眺め触る。

「見たことのない服だな」
「遠くの国の人間かもしれん」

 つゆのついた草がしゃくしゃくと鈍い音を立て、

「牢屋に放り込んでおけ」

 月のない夜に、黒い雲が筋を描いて風に流されてゆく。そんな風景に、ガタンと頑丈な扉が密かに閉まる音が物悲しく鳴いた――――


  ――――どれだけの時間が過ぎたとか、何が起きたのかよりも、ただ遠くの方で声がした。 

「……会いましょう ……きりで」

 絹のような滑らかさで、

「……ながら 今までの……」

 ガラス細工のように繊細な芯を持ち、もろい。

「……懐かしむ ……会いましょう」

 天へと導くような、柔らかな日差しのように包み込むような余韻。

 闇の底から意識が急速に戻ってきて、痛覚がズキズキと釘でも打たれたように頭を叩くように襲ってきて、

「っ……」 

 貴増参は苦痛で小さなうめき声を上げた。少し離れたところから、少女の歌声が弾むようなリズムで聞こえてくる。

「♪十六夜いざよいに会いましょう 二人きりで」

 くらむ目で声の出どころを探すと、白い布地と栗皮色の長い髪が、こちらに背を向けて立っていた。

「♪月影あびながら 今までのこと話して
 あなたと懐かし――」

 そこで、ゆりかごのようなゆったりとした揺れの旋律はプツリと止まった。

 気づかれた。だがしかし、隠れるような場所はない。鉄格子のような木の枠に三方を囲まれ、背後は壁と小さな高窓だけ。

 騒ぐわけでもなく、うかがうわけでもなく、衣擦れの音がサワサワとさざ波のようにして、軽めの足音が近づいてくる。カツカツでもなく、トントンでもなく、ピタピタと貼りつくようなものだった。 

「あ、気がつきましたか?」

 声をかけられて、貴増参はずいぶん驚いた。別人かと思うほど、声色がまったく違っていたからだ。

 窓際で背を向けて立っていて、振り返って近づいてきた。ずっと同じ少女のはずだ。それなのに、さっきまでの高く透き通った響きではなく、今は低くボソボソした声だった。

 理由を聞いてみたかったが、後頭部に痛みが走って、貴増参は思わず手で押さえた。

「……っ」

 生暖かい何かが指先に広がる。何かと思って、瞳の前に持ってくると、べったりと真っ赤な血がついていた。

 少女は両手で口を押さえて、目を大きく見開き、

「……大変! どうしよう? あっ、そうだ!」

 ピンとひらめいたと言うように、そらら中の壁に声が反響すると、すぐに真綿にでも吸収されたように消え去った。

「っ!」

 力むような声が上の方から聞こえて、大粒の雨がにわかに降り始めたようなビリビリと、何かを引き裂く音が押し寄せた。

「これを使ってください」

 指先の赤の向こうに差し出されたものは、白い繊維のほつれが細い尾をいくつも引く布の切れ端だった。型で抜いたように、残された着物を身にまとっている人を、貴増参は見上げる。

「君の服ではありませんか……」  

 どこかずれているクルミ色の瞳。栗皮色の長い髪はクシでよくとかされているようで、明かり取りの小さな炎の中でも、十分な光沢を放っていた。

 どこからどう見ても、十代後半の少女。着ているものは白の着物だけ。頭には小さな子供がお花畑で遊んだみたいに、草の冠をつけていた。

「破いたので、服ではなく、今はただの布です」

 貴増参の中で、小さな違和感が浮かび上がった。自分のような見ず知らずの人間に、自身の服を引き裂くなど。

 だが、今の言葉のやり取りを思い返すと、何を言っても、少女は理由をつけて、布地を自分へと差し出すだろう。しかも、傷を放っておくわけにもいかない。

「ありがとうございます」

 素直に受け取り、頭に当てると、心なしか痛みが引いた気がした。

 少女以外には人はおらず、ずいぶん狭い空間で、小さな松明たいまつが壁にふたつだけ。鉄格子ではないが、木の棒が縦に何本も自分を囲むように床から天井に埋められている。

 錠前がついていて、踏み固められた土が床がわり。頭上高くにある窓からは、星がいくつか見えても、流れてゆく雲のせいですぐに闇夜となってしまう。

 目の前にしゃがみ込んでいる少女は、檻に入っているわけでもなく、自分から離れていくわけでもなく、話しかけてくるわけでもない。

 見張り。それにしては少々おかしい。今も自分に微笑みかけていて、服を裂いてまで、怪我の心配をしている。

 夢。それもおかしい。この頭の痛みが否定する。

 やはり自分の知らない場所へ、突然来てしまった、が可能性として一番高いだろう。いつ終わるのか。だいたい、終わりが来るのかも不明である。

 一番、都合のいい話はこうだ。何かでもう一度元の位置へ戻れば、牢屋からも抜けられ、怪我もしていないかもしれない。

 だが、そうそう世の中、自分の思う通りにいかない。現実として受け止め、対策を練る、が必要だ。とにかく、この世界の情報を集めないと、何もできない。

 発掘作業で怪我をするなどよくあることで、くるくると頭に布を巻きつけて、端をズレ落ちてこないように結わいた。

「君も捕まってるんですか?」
「ん?」  

 予想外のことを聞かれたようで、少女は顔を大きく前に突き出し、まぶたを激しくパチパチさせた。

 物珍しそうに木の棒の並びを眺めていたが、やがて、牢屋に入れられている貴増参を指差して、

「……あなたは捕まってるんですか?」

 焚火を見下ろす茂みの中で、背後から近づく足音にも気配にも気づけず、後頭部に激痛が走って、目を覚ましたのはついさっきだ。

「記憶にはないんですが、どうやらそうみたいです。君は違うんですか?」

 自分がここへ運ばれた時、少女はいなかったのか。だが、檻に入っている自分を見て、拘束されているのかとわざわざ聞いてくる。どうもおかしいようで、少女から返ってきた返事も意外なものだった。

「私は隠れてます」 

 ボケているわけでもなく、少女は真面目に答えているようだ。彼女が立っていた場所を見ると、鏡や鈴が朱色の布を結びつけて置いてあった。

 服装と調度品からすると、平民ではないだろう。牢屋のそばで、隠れている少女に、貴増参は次の質問を投げかけた。

「何からですか?」
「影からです」

 文化が違うのだ。相手にとっては当たり前のことが、自分にとっては未知の世界だ。

「そうですか」 

 貴増参はただ相づちを打った。謎だ。

 影から隠れる――

 影に隠れる、ならわかるが、場所と時間を忘れてしまいそうになり始める。何もかもが輪郭と音を失い、貴増参はマイワールドの旅路へ着こうとした。

 少女は少女で、ピタピタと足音を立てて、衣擦れの音を右へ左へ落ち着きなく連れて行っては、貴増参の前に戻ってくるを繰り返す。

 ふたりそろって、思考の航海をしていたが、少女がやがて立ち止まって、難しそうな顔でボソボソとつぶやいた。 

「向こうの人が捕まえたのかしら?」

 さっきまで何も聞こえなかったのに、少女の声が貴増参の胸の奥へと流れ込んだ。今までの情報が透かし絵のように浮かび上がる。

 焚火のそばにいた少女の服は黒。
 あのオレンジ色の炎のまわりで交わされていた会話。
 今目の前にいる少女の服は白。

 何かの罠なのか。それとも、この少女に警戒心がもともとないのか。どちらかはわからないが、聞けば答えてくる可能性は大だ。

 貴増参はにっこり微笑んで、優しく問いかけた。

「白の巫女とはどなたのことですか?」
「私のことです」

 すんなり即答だった。巫女という立場からなのか、素直で正直な心の澄んでいる少女だった。

 普段、講義などで関わる女子学生たちと、さほど年齢は変わらないというのに。まったくスレていない。

 講義の内容で質問があると、生徒たちに言われ、よく聞いてみると、自分の誕生日やプライベートを問われるばかり。

 あのガタイのいい明引呼ほどではないが、自惚うぬぼれるつもりもないが。百歩譲っても、自分もモテる男に入るのだろう。ただ嬉しいものではない。外見だけであって、本来の自分を誰も見ていないのだから。

 元の世界へ戻れる保証はどこにもない。だが、気楽というものだ。色眼鏡で自分を見る女子学生はどこにもいない。それでも、考古学はある。

 それならば、存分に好きなことをしよう。牢屋に入っている間も、有意義なものにしようと、貴増参は目の前にいる少女から言葉という発掘作業を決心した。

 あごに手を当てたまま、どこか遠くを見ている男を、少女はぼうっと見つめる。

 ピンクのシャツにチェック柄のグレーのズボン。革靴。という見たこともない服。仕草も言葉遣いも上品。

 いや、それだけではなく、頬に少し土汚れがついているだけで、少し色白の肌に、柔らかなカーキ色のくせ毛。優しさの満ちあふれた茶色の瞳で、それはどこまでも澄んでいる。

 こんな大人を今まで見たことがなかった。とても綺麗で、きっと心もそうなのだろう。

 自分を見ても頭を下げるでもなく、普通に話してくる。少女にとっては、貴増参はすでに特別な人だった。

 クルミ色の瞳に映る、茶色のそれを、自分の目にさらに映す。
 茶色の瞳に映る、クルミ色のそれを、自分の目にさらに映す。
 合わせ鏡のような、お互いの瞳。

 しばらく、そんな沈黙が流れていたが、貴増参の唇が動き、

「難しいなぞなぞですが、僕はこういうのはわりと得意です」
「え……? なぞなぞではなかったんですが……」

 どこかボケ感があることがいなめない男に、少女は不思議そうな顔をした。貴増参はその視線を気にせず、脳裏の中には今までの話が並んでいた。 

 黒。
 白の巫女。
 三日だけ。
 影に隠れる。
 古代の文化。

 檻の中にいる考古学者は、少女ににっこり微笑みかけた。

「ピンと来ちゃいました」
「答えは何ですか?」

 檻の外にいた巫女は細かいことは気にせず、マイペースの男に話を合わせた。貴増参はあごに当てていた手を解いて、

「月ではありませんか?」
「あたりです」

 少女は手品でも見たみたいに、目をキラキラと輝かせた。可能性が事実として確定してゆく。少女が答えることによって。

(太陰暦を使っている国……)

 五年も時間を忘れるほどの研究熱心な貴増参だ。なぜか考古学のことに関しては記憶を喪失することがない。いつもの癖が出て、片っ端からこの場所と少しでも重なり合う事例がないか探した。

 しかし、どこにもなかった。そうなると、まったく違った世界へ来てしまったことになる。

 少女にしてみれば、話してもいないのに、当ててくる男。目に見えない霊感も必要とされる巫女。いやそんな非現実的な世界で生きてきた少女は、この男に単純に興味を惹かれた。

「どうしてわかったんですか?」
「ちょっとした勘です」

 ちょっとした嘘――
 あの教授室へ戻るのか、戻らないのかわからない身。だからこそ、貴増参は多くは語らない。

 そんな心理が隠されているとは知らず、白の巫女は素直に褒めた。

「素敵です」
「ありがとうございます」

 貴増参は丁寧に頭を下げながら、自分が培ってきた法則で、今いるこの国の情勢を客観視する。

(彼女は国の一番上の人物。すなわち、この国は他を受け入れる柔軟性のある文化。それは裏を返せば、規律を乱しやすい文化)

 新しいものを積極的に取り入れ、発展してゆく未来を持つ国。しかしそれは、いいとは言えない面も内へ招き入れてしまうデメリットを持っていた。

 月明かりのない夜。
 隠れている。
 三日。
 焚き火の前での話。

 そこから出てくる答えを、貴増参は少女へ質問という方法にとって変えた。

「黒の巫女とともに、ふたりで国を治めているということでしょうか?」

 白の巫女がウンウンとうなずくと、純白の巫女服の肩で、栗皮色の髪がサラサラと揺れ動いた。

「そうです。月が出てる時は私が表に出ます。隠れてる時は黒の巫女が表に出ます」
「そうですか」

 にっこり微笑みながら、貴増参は間を置く言葉を使った。そうして、頭の中で整理する。

(二大勢力。内部分裂……そのような国の行く末は……少なくともふたつ)

 必要なものだけが、考古学者の脳裏に並べられる。

 非常に不安定な情勢。
 黒の巫女の言葉と態度。
 呪いの跳ね返し。
 天災は起きない。

(ひとつは内部紛争で国は分裂。もしくは、崩壊……)

 暗雲が立ち込めているような国の行く末。目の前にいる、どこからどう見ても十代後半の少女が巻き込まれているであろう政治。

 だが、事実はどこにもない。今までの話で判断するのは危険だ。だからこそ、もうひとつの結論を出すのは、先送りにする。

 ヒューヒューと通り抜ける風が咆哮ほうこうする。それを遠くで聞きながら、貴増参はあごに手を当て、考え続ける。 

(ですが、内部紛争だけではおかしい……)

 すれ違う事実たち。白の巫女の態度からすると、自分がここにいることを知らないようだった。

 そうなると、黒の巫女側に自分が捕まった。それが事実に近いだろう。しかし、矛盾が出てくるのだ。

(僕が黒の巫女の話を聞いたかもしれないと、彼らは判断している可能性が高い)

 人の口には戸は立てられない。

(白の巫女に僕を近づければ、僕から反対勢力の情報が渡ってしまう危険が上がります。しかし、僕はここにいます)

 黒の巫女の荒げた声は、あの高い茂みにいる自分にまで届いていた。見張りをしていた誰かに、それを見られていたと考えるのは当然のことだった。

 だが、目の前にいる白の巫女は、表情を曇らせるわけでもない。

(そうなると……。単なる、白と黒の対立ではない。という可能性が出てきた)

 さっき見送った危険性という残り火が、徐々に大きな炎になってゆく予感を覚える。

「他国との国交で最近変わったことはありませんでしたか?」

 さっきまでと全然違ったことを聞かれて、白の巫女は首を傾げ、遠くの壁をじっと見つめ、

「ん~~?」

 しばらく考えていたが、パッと表情を明るくして、人差し指をすっと顔の横に持ち上げた。

「あぁ、ありました!」

 貴増参は思った。自分も大概のんびりしている性格だが、どうやっても政治戦略にけている、少女には見えなかった。

「どのようなことですか?」
「半年前から、東の国から布地が安く手に入るようになったと聞きましたよ」 

 見ず知らずの自分へと、簡単に自分の服を破いて、渡してきた原因はこれだったのかもしれない。

 だが、誰かに聞いた、だ。この白の巫女ならば、事実と違っていても、部下の言葉を鵜呑みにする可能性がないとは言い切れない。

 だからこそ、貴増参は問うた。

「相手はどのような理由だと説明してましたか?」
「新しい方法で入手が簡単になったからだと言ってました」

 何の支障もなく、薄紅の唇から言葉が出てきた。貴増参はにっこりと微笑んで、ただうなずき返す。

「そうですか」

 これ以上は自分には何も言えない。考古学という見地から歴史の一ページとして、傍観者となるだけだ。

「国の名前は聞けたりしますか?」
「はい。ここが谷和紀やわき大国で、東の国が可夢奈かむなです」

 貴増参は聞いた名をそのまま繰り返した。

「ヤワキ、カムナ……」

 専門書のページが何冊も同時にめくられてゆく。だが、どこにもそんな国の名前はなかった。

(僕の知らない歴史上の場所。もしくは、まったく違う世界に来た……どちらなのでしょう?)

 あごに手を当てたまま動かなくなってしまった男の綺麗な顔を、どこかずれているクルミ色の瞳は落ち着きなくうかがっていた。

 ふたりの頭上高くで黒い雲が尾を引いて、いくつも空を流れてゆき、建物の外で草の揺れる音と虫の音がしばらく響いていた。

 だが、ふたりの沈黙は別の女によって破られた。

「リンレイさま、夕食を持ってまいりました」

 ふたりの視線が一緒に向けられた先には、桃色の質素な着物を着た二十代前半の女が立っていた。手にはお膳を持っており、姫に似て、どこかとぼけている感が漂っている。

「あら? もうそんな時間?」

 振り返った栗皮色の髪の向こうで、女の黄色い瞳は貴増参へと一度向けられたが、

「さようでございます」

 すぐに白の巫女へと戻された。問い詰められるわけでもなく、注意をするわけでもなく、ただそれだけ。

 ゴザの上にきちんと座り直した、リンレイに食事が差し出された。ほのかな食べ物の匂いが香る。

「ありがとう」

 侍女が隣に控えると、巫女は窓を見上げて、少しだけため息をもらした。 

「月が出てないと、やっぱり時間がわからないわね」
「その上、この大雨の連続でございますからね」
「そうね」

 少女と女は頭を同じように並べて、窓の外をしばらく眺め、貴増参を置き去りにしていた。

 大学教授は普段見慣れている女子大生たちの友人の距離より、ふたりの関係性が心なしか近いように感じた。

 虫の音だけが三人の間に涼しげに響いていたが、白の巫女の服が衣擦れの音をともなって、貴増参に振り返った。

「あ、お夕飯は食べましたか?」
「いいえ、夕食前に飛ばされてしまったので……」

 来た方としてはそれであっているが、もともとこの世界にいた、リンレイとしてはおかしい限りで、

「飛ばされた??」

 一時停止したみたいに、瞬きもしなくなった。妙な間が三人に広がる。

「…………」
「…………」
「…………」

 両脇に座っている貴増参と侍女を、リンレイは瞳だけを動かしてうかがっていたが、小さくため息をついた。

「はぁ……」

 険しい顔をして、床の隅を見つめる。

(誰もツッコミがいない……!)

 しかし、何か思いついたように、目を大きく開いた。リンレイは貴増参に振り返って、得意げに微笑む。

「パピルスですか?」
「パピルスをこちらの国では使ってるんですか?」

 拍子抜けするほど、スルーされた昔の紙の名。だがここでくじけては、せっかく軌道に乗せた話がまた脱線してしまうのである。リンレイは素知らぬふりで、

「ここでは使ってはませんが、シルレ、どこだったかしら? 以前話していた、商人が言ってたのは……」 

 赤茶の肩につくかつかないかの髪を、後ろでひとつに縛っているシルレは、後れ毛を耳にかけながら、あきれたため息をついた。

「姫さま、相変わらず、記憶力崩壊ですね。三つ先の西の国でございます」
「そちらの国の名前はうかがえますか?」

 貴増参からの質問に、リンレイは落ち着きなくパチパチとまぶたを動かし、侍女の横顔をのぞき込んだ。

「名前は……言ってなかったわよね?」
「はい、申しておりませんでした」

 侍女の返事を聞いて、貴増参は壁に寄りかかり、

「そうですか」

 あごに手を当てて考え始めた。

(過去なのでしょうか? それとも……)

 次の質問が貴増参からやって来る前に、先制攻撃を放たなければ、ボケに挟み撃ちされるのである。リンレイは素早く話を切り出した。

「それで、夕飯は食べますか?」

 対する男は慌てるわけでもなく、どこまでもマイペース。にっこり微笑んで、しっかりと返事を返してきた。

「食べます」

 リンレイは侍女へと振り返って、言葉を続けようとしたが、 

「じゃあ、シルレ――」

 途中でさえぎられた。窓からのぞく夜空を見上げ、シルレは手のひらを天井へ向ける。

「姫さま、それがここのところの雨続きで、作物が腐ってしまい、あまりないのでございます」

 侍女の残念そうなため息がもれると、貴増参は冷たい地面からすっと立ち上がった。

「それでは僕はいただきません」

 リレレイはお膳を持って、貴増参の手が伸ばせる、牢屋のすぐそばへトンと置いた。

「食べないのはよくないです。こちらは差し上げます」

 偽善でも何でもなく、知らない土地へ来て、捕まって不自由している男。白の巫女へと政治がめぐってくれば、解放することは簡単だ。この男の未来はこの先も続くからこそ、英気を養わないと。

 貴増参は腰を壁に預けたままかがみ込んで、姫へお膳を押し返した。姫がいなくなれば、国は迷走するだろう。一人分しかないのなら、考古学者の自分ではなく、為政者いせいしゃにである。

「君の分がなくなります」
「いえ、私は大丈夫――」

 どっちも引かない性格。それぞれの譲れない理由があるからこそ。お膳の行ったり来たりがどこまでも続いていきそうだったが、ふたり同時にお腹がグーッと鳴った。

「あ……」

 相手のことばかりで、自分は後回し。そんなふたりの、優しさの満ちあふれた茶色の瞳と、どこかずれているクルミ色の瞳は、気まずそうに見つめ合った。 

「…………」
「…………」

 考古学ばかりの貴増参。今までにいなかったタイプの人間と接するリンレイ。何と切り出していいかわからず、彼と彼女は苦笑いをするばかりだった。だがしかし、しっかり者の侍女が取り持った。

「ふたりで分けて召し上がってください」

 貴増参をさっとかがみ込んで、ある意味強情な姫の顔をのぞき込み、

「そうしましょうか?」
「はい」

 リンレイは珍しく微笑んで、どっちが客人かわからなくなった。そうしてまた始まる。どこかずれているクルミ色の瞳は、貴増参の足元を見て、慌てて姫は立ち上がり、何もない土間へ白い着物ごとどいた。

「それから、これも使ってください」

 姫が座っていたゴザを今度は譲り合い始める。

「それでは、君の服が汚れてしまいます」
「あなたの服が汚れます」
「いいえ、君の――」

 侍女の声が割って入ると、

「ふたりとも、ゴザは腐りませんから今持ってきます」

 貴増参とリンレイの声が同時に響いた。

「お願いします」

 一度出て行った侍女はすぐに戻ってきて、格子の隙間から、新しく持ってきたゴザは無事に手渡され、木の柵を間に挟んで、貴増参とリンレイは向き合って座った。

 箸などなく、手づかみだが、それが当たり前で、貴重な食料を分け合う。

 川魚の焼き物を相手がつまむと、自分もそれを口へと運ぶ。次は雑穀米の椀を差し出して、相手が取ると戻ってきて。

 時々、同じ皿に手をかけ、押そうとすると相手もそうしていて、力の競り合いが起きる。それなぜかおかしくて、お互い微笑み合ってが続いた。

 だがすぐに、何も言わなくても、お互いがそれぞれの食べたい料理を相手に差し出してが、スムーズに行くようになった。

 そばに控えていた侍女がその様子を黙って見ていたが、ふと話し出した。

「姫さま、ふたつ国を行った向こうに、素晴らしい土器職人がいるとの噂を今日聞きました」

 貴増参の食べる手が止まったが、リンレイのそれも皿から遠のき、姫の瞳からは料理は消えて、侍女のとぼけた顔ばかりになった。

「それはぜひ、呼ばないといけないわね」

 こんなところに、助手の候補がいた。貴増参は自分がどこにいるのかもすっかり忘れ、思わず話に割って入った。

「素焼きのうつわのことですか?」
「土器にご興味が?」 

 こんなところに、話のわかる人がいた。リンレイはシルレから顔を真正面へ戻し、目をキラキラと輝かせた。貴増参はにっこり微笑んで、こんなことを言う。

「えぇ。僕にとってはドキドキの土器です」
「親父ギャグ!」

 姫は親指を立てて、歯をキランと輝かせたが、侍女はなぜか急に慌て始めた。

「それは大変です。怪我をします!」

 明らかに、どこか遠くの宇宙へ大暴投。リンレイはがっくりと肩を落とし、とぼけた黄色の瞳をのぞき込んだ。 

「もう。シルレ、どこに話を投げたの~?」

 天然ボケに聞いても、困るのである。ボケようとしてボケているのではないのだから。

 しかし、さっき会ったばかりの男の羽布団みたいに柔らかな声が得意げに告げた。

「僕はわかっちゃいました」

 他の部下たちはいつもお手上げで、放置がやっとの対処なのに。カーキ色のくせ毛を持つ男に、リンレイは尊敬の眼差しを送る。

「どこですか?」
「ドキドキをトゲトゲに聞き間違っちゃったみたいです」

 姫は毎回思うのだ、器用なボケをかます侍女だと。こうやって、隠れている間は退屈しがちだが、シルレの大暴投が救ってくれるのだ。リンレイは幸せな気持ちになって、侍女に優しい眼差しを向けた。

「それは確かに怪我をするわね。というか、持ちづらさ全開だわね」

 だが、ツッコミとしては何とも中途半端というか、ごくありきたりなものを返してしまったリンレイ。誰も拾うことなく、妙な間が三人を包み込む。

「…………」
「…………」
「…………」

 ボケとボケに囲まれた姫は、自分も同じボケに回って、笑いと取りに行くことは許されないことを今やっと悟って、かなり遅らせながら侍女にツッコミを入れた。

「って! シルレ、違うわ。落ち着かないの、ドキドキ。文字数しか合ってないわよ」

 侍女は安堵のため息をもらして、ホッと胸をなでおろした。

「あぁ、そっちですか。よかったです」

 聞き間違いを訂正しただけだ。それなのにどこまで待っても、シルレの小さな唇は動くことなく、

「話終わってるわよ!」

 姫は侍女に先に進ませるように促したが、シルレは丁寧に頭を下げて、

「それでは、失礼します」

 ゴザからすうっと立ち上がった。

「え……?」

 あまりのことに、リンレイが固まっている隙に、侍女はふたりを残して、部屋から出ていき、虫の音と風が吹きぬける音がしばらく続いていた。
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