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閉鎖病棟の怪――幽霊と修業

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 雷鳴のような地響きは消え失せ、静寂がやってきた。

 切断された五感。無風。闇。それらが支配する消滅の世界――真の死へと墜ちたのかもしれなかった。

 キーーーン……。

 耳鳴りが水面みなもを揺らす波紋のように広がってゆく。水にもぐったような濁った音がざわりざわりと鮮明になってくる。

 ……ヒュ……ヒュ……。

 戻った手の感覚から、するっと何かがはずれた。

 ドサッ!

 無感情、無動のはしばみ色の瞳をゆっくり開けると、自分の右腕と白の袴の袖が見えた。足元から、女の声がゼイゼイと息をしながら聞こえてくる。

「はぁ……はぁ……やっと倒せた……。はぁ、はぁ……」

 霊力を使いすぎた倫礼が地べたに、崩れるように座り込んでいた。荒野はもうなく、ただの病室だった。

 暗幕と黒のペンキで塗りつぶされた窓。呼吸の音さえも聞こえない薄闇。生命維持装置につながれた患者たちが横たわるベッドの群れの間で、倫礼はあたりを見渡す。

「まだ出てくるのかな?」

 このまま戦闘が連続するのは正直今は遠慮したいところである。ホルター心電図の、

 ピ、ピ、ピ……。

 という規則正しい電子音が、あんなに不気味に思えたのに、今はだたの脈に聞こえる。夕霧は神経を研ぎ澄ましていたが、やがて、

「いや、気配はもうない」

 当面の危険は去り、倫礼の脳裏でピカンと電球が光った気がした。

「あっ! そうだ! 壊れた結界、こうしよう!」

 慣れた感じで矢を作り、天井へ弓を向けて、シュッと打ち上げ花火でも上げるように放った。

 ふたりの瞳の向こうで、金の光は広がった花火のように拡散して、真昼のようになった。

 四方八方へドームでも作るように飛んでいったが、やがて何事もなかったように、再び病室の薄暗い闇が広がった。

 敵もいなくなったというのに、というか何もないところへ浄化の矢を放つとは。夕霧は不思議そうな顔をした。

「何をした?」

 倫礼が座ったまま振り返ると、かがみこんでいる袴姿の背の高い男と、視線は一直線に交わった。彼女は得意げに微笑む。

「結界を浄化の壁にしました。だから、もうここに入ってこようとすると、そこで浄化されます」
「そうか」

 自分にない勘というものは、おそらくこんな感じなのだろう。だが、夕霧は予測の域から出れなかった。

 クタクタで、倫礼は弓を杖のようにして、よろよろと立ち上がった。フラフラとしながらも、両膝に手を置いて、おとなしくするのかと思いきや、病院中に響き渡るような大声を上げた。

「あぁっ!?!? 最初からそれをすればよかったですね?」

 計画性ゼロ。行き当たりばったりの無駄な人生。あまりのショック。自分のバカさ加減に打ちのめされて、倫礼はよろよろとベッドのヘッドボーに寄りかかった。

 さっきから一ミリも動いていない自分とは違って、オーバーリアクションの女を前にして、夕霧は珍しく目を細めた。

「気づくのが遅すぎだ」

 いつの間にか、役目を果たした弓は姿を消していた。倫礼は両手で頭を抱える。

「あぁ~、戦い方を学ばないといけないなぁ~。せっかくいただいた力だから、最大限に生かさないと……」

 人生まだまだ続く。やることはたくさんあるのである。とにかく、入ってきた場所へと戻ろうと、夕霧の前を通り過ぎようとした。

「とりあえず、家に帰って――」

 いつも腰が重いのに、武術の技を駆使して、夕霧は倫礼の前に立ちはだかった。そうして、端正な顔と地鳴りのような低い声でこう言ったのである。

「お前と結婚する――」
「はぁ?」

 倫礼は思いっきり聞き返した。

 どこにそんな恋愛要素があったのだ。B級映画並みな急展開である。倫礼はここに勝手に連れてこられただけで、たまたま一緒になったこの男と戦っただけで。

 白の袴の合わせの向こうにある、胸の内など知らない。だが、聞き間違えてはいないと思うのだ。しかし、あり得ないのだ。

 運命とは酷なもので、倫礼はそこで初めて気づいてしまった。

(あぁっ! すごいイケメンだったんだ。知らなかった!)

 彼女はムンクの叫びみたいに口をぱかっと開けて、それだけでは足らず、両手で顔を覆い、倒れ損ねたボーリングのピンみたいにグラグラと、その場で倒れそうになるほど揺れ出した。

(いや~! うなずきたくなる~~!)

 ポロポロと頭のネジがいくつか病院の床に落ちて、正常な思考回路が崩壊を迎えそうな気がした。

(しかも、落ち着いてたよね? もろタイプだぁ~)

 戦闘中の詳細が今ごろ、やけに鮮明に浮かび上がる。だが、倫礼はフラフラしていたのをピタリと止めて、両手がはずされると、ニヤケ顔ではなく、真剣な眼差しがあった。

「血の跡じゃないですよね?」
「その血痕ではない。夫婦になる結婚だ」

 プロポーズをした男。された女。ふたりの間で、押し問答みたいなボケとツッコミが繰り返される。

「――間に合ってます」

 プロポーズの答えとは到底思えないものが、夕霧に返ってきた。

「意味がわからん。何が間に合っている?」

 まっすぐツッコミを受けて、倫礼はスカートを落ち着きなく触る。

「それはまあ、笑いなんですが……」

 真剣に話しているのは十分わかった。それならば、自分も真摯に対応しなくては。倫礼は服を元へ戻して、三十七センチも背の高い男の瞳を見つめ返した。

「確かにふたりで力を合わせた方が、眠り病は減ってくんだと思います。ですが、結婚しなくてもそれは――」

 そんなプロポーズは向こう見ずであり、無謀だ、夢見物語だ。夕霧の地鳴りのような低い声が言葉途中で珍しくさえぎった。

「俺が結婚したい理由はそこではない」

 ホルター心電図の緑が、まるで蛍火のようにふたりを儚げに包み込む。

「どこですか?」
「合気に必要だからだ」

 人の数だけ、価値観はある。この男にとっての大切なものは、倫礼の中にはないものだった。

「合気って何ですか?」
「武術のひとつだ」
「どんなものですか?」

 夕霧が動かなくても、技がかかってしまう原因が告げられた。

「護身術だ。相手のふところ近くへ入らないと技はかけられないものだ」

 どうやったのか細かいことは知らない。だが、素晴らしい技だった。倫礼はそれらを思い返しながら、何気なく言葉を口にした。

「あぁ~、だから、人を愛することが必要不可欠なんですね?」

 倫礼が見ている前では使わなかったが、相手に触れることが第一条件。相手を拒んでいてはできない武術。

 道場へ行くたび口癖のように、結婚しないのかと問いかけてきた、あの年老いた声。夕霧は本当の意味を今やっと理解した。

「師匠はそれを教えたかったのかもしれん」
「師匠?」

 ここにいない人の名前が、程よい厚みのある唇から出てきて、倫礼は不思議そうな顔をした。だが、夕霧のはしばみ色の瞳は喜びに揺れる。

「お前のお陰で答えが出た」

 よくはわからないが、倫礼は微笑んだ。

「あぁ、答えが見つかって、よかったです」
「お前は人のこと優先だ」

 そんなことを言われると思って見なくて、倫礼はすっと真顔に戻った。

「どうしてですか?」
「普通役に立ててよかったと答える。お前の今の言葉は俺のことしか考えていない証拠だ」

 いつも人のことばかりで、自分のことはあと回し。いつも言われるのだ。一体、いつになったら自分のことをやるのかと。

 さっき会ったばかりの男にも同じことを言われて、倫礼の言葉は失速した。

「あぁ、そう……ですね」

 だがいいのだ。それが自分の個性なのだから。ただこうやって、すぐに気づく人がいなかっただけで。

 身を任せたら、どんなに楽なのだろう――

 十年前からたった一人で生きてきて、あの狭い1K六畳にはない、安心感が袴姿の男にはある。

 番狂わせで、出会うはずのなかった出来事を前にして、クルミ色の瞳は涙で視界が歪む。

 しばらく待っても言葉は返ってこず、静寂ばかりが広がっていたが、

「返事を聞きたい」

 絶対不動で、和装の色気漂う男。合気の中で生きている男。倫礼は目を少しこすって、はしばみ色の瞳をまっすぐ見上げた。

「素敵な理由だと思います。武術のために結婚をする。あなたしか持ってないかもしれない、世界でたったひとつの宝物みたいな理由だと思います」

 生き方は尊敬する。だからこそ、倫礼には迷いが生まれる。

「ですが……すぐには答えられないので、待ってくれますか?」
「構わん」

 待つことなど、苦痛でも何でもない、夕霧にしてみれば。倫礼は視線を外して、服のポケットを探そうとしたが、

「それじゃ、あとで連絡するので、携帯、携帯……!」

 思い出した。幽体離脱する前の、あの台所のシンクの前に、今も倒れているだろう自分の肉体のそばに落ちている携帯電話を。

「あぁ、そうか。ないんだ」

 記録するものがない。いつ戻るのかは知らない。だが、今は返事は返せない。運命の赤い糸は切れる寸前の繊維の細い伸びを迎えそうだった。

「この病院で働いている」

 いきなり、閉鎖病棟へと続くドアの前に連れてこられた。外来ではない。ありがたいことに健康で過ごしてきた、倫礼には入院病棟には縁がなかった。

「名前は何ですか?」
「セントアスタル病院だ」

 この国で知らない人はいないほど、有名な名前だった。

「あぁ~、あの国で一番大きい私立病院ですね?」
「そうだ」

 都会の大病院。医師の数などたくさんいるだろう。今のままでは、受付で門前払いである。

「あぁ、名前聞いてま――!」

 極めて重要なことに気づいて、倫礼は慌てて口をつぐんだ。深呼吸をして、

「私は、月雪 倫礼です。あなたは?」
「羽柴 夕霧だ」

 彼は何か反応してくるかと思ったが、目の前にいる女はどうもさっきからおかしいのだ。自分の顔を見ても態度を変えるわけでもなく、名前を名乗っても違う。

 無感情、無動のはしばみ色の瞳に見られているとは気づかず、固有名詞を覚えるのが苦手な倫礼は一生懸命、頭に叩き込んだ。

「そうですか」
「待っている」

 時間切れというように、乾いていない絵の具でも誤って手で擦ってしまったように、倫礼の姿がゆらゆらと横へと揺れ始めた。

「あぁ……はい……」

 彼女の戸惑い気味の声が残像のように聞こえると、夕霧は閉鎖病棟の廊下の途中に横たわっていた。肉体へと魂は無事戻り、袴ではなく、紺のスーツの体で立ち上がる。

 そうして、黒のビジネスシューズが銀の自動ドアへと歩き出し、閉鎖病棟から出ていった――――


 ――――倫礼はテーブルの上に乗っていた携帯の画面をかたむけた。

 二月二十一日、金曜日。十九時三十七分。

 チェーン店の居酒屋。金曜日の夜。にぎわいは一入ひとしおだ。ガヤガヤと話し声が外から聞こえてきて、食器のぶつかる音がする。

 いつも三点盛りなのに、なぜか五点盛りの刺身。いつもカウンター席なのに、なぜか奥の座敷。

 座布団二枚の上にゆったりと座っている倫礼は、飲みかけのビールジョッキに手をかけてぼんやりする。

 あれから、三ヶ月以上時間が経過しても、深緑の短髪で、無感情、無動のはしばみ色の瞳を持つ男の、地鳴りのように低い声は、さっきのことのように鮮明に浮かび上がる。

 ――待っている。

 やまびこみたいにこだまして、未だ迷路という通路で鳴り渡る。

 焦点の合わない、どこかずれているクルミ色の瞳の前でテーブルを挟んで、赤茶のふわふわウェーブの髪の、知礼がフライドポテトにマヨネーズを塗っていた。

「先輩、それで病院には行ったんですか?」

 ぼんやりしていた視界がはっきりとすると、海鮮サラダが目に入った。

「ううん。行ってないよ」
「どうして行かないんですか?」

 いつも頼まない、サラダに漬物盛り合わせに、ホッケまで乗っているテーブルを前にして、倫礼は今日までの失敗の日々を振り返る。

「修業をするだよね? 三日坊主どころか、一日坊主という繰り返しの人生を送ってる私には……っていうか、足を引っ張ると思うんだよね?」

 持続性がまったくない自分。何度もトライしてみたが、計画倒れという言葉が真っ青なほど、崩壊の序曲を奏でる毎日。

 知礼のとぼけた黄色い瞳は驚きで見開かれた。

「そこですか! 先輩の心配事は?」
「え……?」

 思ってもみなかった反応をされて、倫礼は反省も忘れて、女二人で飲み屋に来たのに、なぜかテーブルを挟んで座っている左斜め前の知礼をじっと見つめた。

 だが、それに応えることはなく、フライドポテトは口へと運ばれてゆく。

「相手の方の名前は何ていうんですか?」
「羽柴 夕霧さんだよ」

 覚えた。というか、あの日から何度も思い出して、忘れるはずがない。ビーズの指輪はおしぼりをつかみ口を拭く。

「それは行かなくて正解だったかもしれません」

 唐揚げに箸を伸ばそうとしていた、倫礼の手はふと止まった。

「どういうこと? さっきと言ってること逆になってるけど……」
「行っても会えないです」
「会えない……?」

 来いと言われたのに、あの病院で働いていると聞いたのに。何が起きているのかわからない倫礼は、ビールでのどの渇きを一度うるおした。

 可愛くデコされた携帯電話を持ち上げて、知礼がブラウザ画面を見せる。

「先輩、ネットで調べなかったんですね」
「え……?」

 会った人をネットで調べる。そんな習慣は倫礼にはない。だいたい載っていないだろう、本名で。

 だが、長年の付き合いがある後輩がわざわざ指摘するくらいだ。倫礼なりに理由を見つけてきた。

「確かにイケメンだったけど……」

 あれだけの端正な顔だ。どこかで写メを撮られて、ネットに流出しているかもしれなかった。

 携帯電話を傍らに置いて、ネギまの規律が壊されてゆく様が、向かいの皿の上で始まりそうだった。

「先輩、世の中知らなすぎです」
「羽柴さん、どんな人? っていうか、有名人だった?」

 倫礼は首をかしげながら、食べ損ねた唐揚げに再び箸を伸ばした。知礼は置いたはずの携帯電話を取り上げて、画面をじっと見つめる。

「ですが、先輩、チャンスはめぐってきたみたいですよ」

 唐揚げはまた、皿にぽとりと力なく落ちた。

「知礼、ずいぶん話にマキが入ってるみたいだけど……」

 自分と違って、前のめりではない後輩。携帯電話は小さな手でバッグへしまわれた。

「入りますよ。今、彼氏から店にもう入ったと、メールが来ましたから」

 それなら納得である。座敷席で、この料理の量は。和食を好きな男なのだろう。自分と知礼が口にしない、魚料理に野菜があるのだから。

「とうとうご対面だ。イケメンだという知礼の彼氏と!」

 座布団二枚分に座っていたのを、倫礼は慌てて横滑りして一枚を直し始めた。知礼の彼氏が来るのであって、自分のそばには座らないのに。

 どんな人が来るのかと思って、ふすまの向こうに神経を傾けると、他の女性客の黄色い声が響いた。

「きゃあっ!」
「あれって、そうじゃない?」
「あの人でしょ?」

 座敷にまで聞こえるほどの大声だ。ただ者ではない。

「えっ!? こんなところで?」
「背やっぱり高い!」
「かっこいい!」

 テレビに出ている有名人が突如街中に現れたような大騒ぎ。襖を開けなくても、写メのフラッシュが大量にかれているのは、容易に想像できた。

 倫礼は持っていた割り箸もテーブルへ落とし、白のモヘアのスカートを手のひらで何度も縦になぞった。

「ん? 有名人? 知礼の彼氏って……」

 どんな男かと思っていたら、向こう側の襖がすっと開いた。影になって見えないが、はつらつとした少し鼻にかかる男の声が響いた。

「よう! 知礼、遅くなって、すまなかった。なかなかしぶとくてな」

 ひまわり色の短髪と若草色の瞳。日に焼けたスポーツが好きそうな青年が顔を表した。座敷に立っている人が登場。

「あぁ、あぁっ!」

 倫礼は慌てて立ち上がった、失礼にならないように。

「どうも初めまして、月雪 倫礼と申します。知礼にはいつも話をうかがってます」

 フードつきのコートを脱ごうとしていた手を止めて、男はさわやかに微笑んだ。

「成洲 独健だ。よろしくな。とりあえず、落ち着いて座ってくれ」
「あぁ、ありがとうございます」

 倫礼は座布団にストンと座り直して、中央にあった、ホッケと漬物の盛り合わせに海鮮サラダの皿を、独健の前に押し出した。だが、知礼によって、こっちに戻された。

「え……? あれ?」

 誰の分だ、このメニューは。適当に脱ぎ捨てられた彼氏のコートを、知礼は綺麗に折りたたんで、奥へと置いた。

「独健さん、もう一人はどうなったんですか?」
「帰るって言って聞かなかったんだが、無理やり引っ張ってきた」

 向かいの席で、お互いの距離感が大人なら誰が見ても、男女の関係なんだなとわかるカップル。その暗号みたいな会話を聞いて、倫礼は和食の皿たちに視線を落とした。

「ん?」

 未だ開いたままの襖の意味はこれだったのか。店員がどうも通りづらそうに過ぎてゆく。雷光のように店内が青白く光るを繰り返している。

「三人だとどうかと思って、もう一人男を連れてきた。いいか?」

 倫礼は通路から、独健の若草色の瞳に慌てて視線を移した。

「……あ、あぁ、大丈夫です」
「おい、いいって。靴を脱いで座敷に上がれよ」

 独健は畳に片腕をついて、襖の隙間から向こうをのぞき込んだ。するとこんな返事が返ってくるのだ。

「一食でも違うものを食ったら、気が乱れる。だから、外では食わ……」

 どこかで聞いたことがある声が聞こえたような気がした。

「そう言うと思って、お前のために和食をきちんと頼んでおいたからな。ここまで来て、往生際がよくないぞ」

 合点がいった。このテーブルの上を行ったり来たりしている料理は、倫礼の右隣に座る男のためのものだったのだ。

「そういうことか」

 左側が閉まり、それと入れ替えというように右側の襖がすっと開いた。背がずいぶん高く顔は上の敷居に隠れていて見えない。

 高級なひざ下までのロングコートから長い足が畳へ乗って、かがんだ髪の色は深緑。

 座敷へ入り、後ろ手で襖が閉められると、あごのシャープなラインと無感情、無動のはしばみ色の瞳が、倫礼の前に姿を現した。

「え……?」

 どこかで見たことがある。こんなに明るいところではなく、もっと暗い……。

「先輩にプロポーズした人ってこの人ですよね?」

 知礼に聞かれて、あの閉鎖病棟の薄闇の中と、白と紺の袴と、アサルトライフルと弓と……。

「お前がプロポーズした女の子って、この子のことか?」
「そうだ」

 どこかずれているクルミ色の瞳を見るのは、別世界に神経をかたむけたような視線だった。見た目など関係ない。中身――気の流れは同じだ。一度会ったら忘れない。

 服が違う。会った場所が違う。だが、この絶対不動の安心感と、神のような畏敬は忘れない。

「そうだね、たぶん……。おかしいけど、初めて会うから……ちょっと感じが違うけど……」

 温度もある。匂いもある。光もある。そんな空間で、二月という真冬なのに、コートは着ているが、マフラーはないという夕霧に釘付けになる。

 この身長で袴姿だったら、やはりあの閉鎖病棟で会った男と同じであった。

 倫礼は我に返って、落ち着きなくビールのジョッキを触ったり、おしぼりを握りしめたりし出した。

 向かいの席で、知礼の可愛らしい声が聞こえ、

「独健さん、やっぱり知らないみたいです、先輩は」

 艶やかな動きで、あぐらをかいた夕霧に、独健は皮肉たっぷりに言ってやった。

「そうか。相変わらず言葉数が少なすぎだな。プロポーズしたのに、職業を言わないなんてな」
「職業……?」

 押し寄せてくる男の色香の隣で、倫礼はおしぼりを畳に思わず落とした。ネクタイを揺すぶって、緩めている夕霧は、地鳴りのような低い声で言い返す。

「それは言わんでいい」
「重要なことだろう」
「俺はなりたくてなったわけではない」

 どうも話がおかしくて、倫礼が間に割って入った。

「私立セントアスタル病院の医師……ですよね?」

 あの病院で働いているということは、そういうことだろう。だが、知礼の赤茶のふわふわ髪は横に揺れた。

「合ってますけど、正確ではないです」
「え……?」

 倫礼はまじまじと見つめた。それでは、この横に座っている男は一体何者なのだろうか。

「お前が言わないなら、俺が代わりに言ってもいいんだが……」

 独健の言葉も絶対不動で切り捨て、夕霧は珍しく軽くため息をついた。

「…………」

 本人からはどうも聞き出せないようだ。

「どういうこと?」
「先輩、ネットで調べてください。本人が言いたくないみたいですから」

 公共の場に出ているのなら、プライベートでもない。それでも、倫礼は携帯電話を手にして、丁寧に頭を下げた。

「あぁ、じゃあ、失礼します」
「構わん」

 本人の了承を得て、倫礼は意識化でつながっている携帯電話の画面を見つめた。それだけで、勝手に入力されてゆく。

 『はしば』のひらがなだけで、予測変換にフルネームが出てきた。よほどの有名人である。検索をかけると、意外なサイトがヒットした。

「ニュース……?」

 一番上にあったものを開き、声に出して記事を読み始めた。

「私立セントアスタル病院の未来に光見える――。前院長と長男を眠り病によって亡くしたが、次男、羽柴 夕霧さんが院長に就任……」

 大病院の院長――

 だが、倫礼が気になったのはそこではなかった。地位や名誉などどうでもいいのだ。

 自分と同じように家族を亡くしている、隣にいる男は。あの夜、あの閉鎖病棟にいたのは、院長として見回っていたからなのだと、倫礼は勝手に判断した。

「お疲れさまです」

 ねぎらって、頭を深々と下げたが、夕霧に日本刀で藁人形でも切るように、バッサリ切り捨てられた。

「意味がわからん」

 しんみりした雰囲気が一気に消え失せた。倫礼が驚き声を上げたことによって。

「えぇっ!?!?」

 自分のことは自分で守れる。あの時の女だ、間違いない。無感情、無動のはしばみ色の瞳は珍しく微笑み、細められた。

「お前はいつでも変わらん」

 自分と同じものを見て、自分と同じような武器を持っている。あの時の男だ、間違いない。倫礼は恐れもせず見上げ、言い返してやった。

「あなたもです」

 ふたりのやり取りを前にして、独健と知礼は顔を見合わせて、意味ありげに微笑み合った。

 乾杯もすみ、会話もそれなりに進み、料理の量が三分の一ぐらいになったころ――

 夕霧は箸を置いて、倫礼に話を切り出した。

「返事を聞きたい」

 居酒屋のざわめきが沖へと引いてゆく波のように遠ざかった気がした。倫礼はジョッキを持とうとしていた手を止めて、誠実に断ろうとした。

「合気は私にはできないと思うので……」

 動画サイトで見た。型を教えるものもあった。だが、目の前で見たあれは、そういうものではなく、もっと別のことからできている気がした。世界が違いすぎる。

 しかし、夕霧からしてみれば、見当違いもはなはだしかった。

「お前には一生かかっても、合気は極められん」
「え……?」

 拍子抜けした倫礼が、さっきから食べているものが全てを物語っている。

 唐揚げ、焼き鳥、刺身は醤油を大量につける。油、肉、塩分。全て、胸の意識を強くするものだ。落ち着きがないことなど一目瞭然である。

「合気は前にも説明したが、護身術だ。待ち続けることができない人間には、不向きだ」

 向かってきた敵だけを倒す技だ。追いかけていくような人間にはできないのである。

「そうですか……」

 断ろうとしていたが、倫礼は心のどこかで残念に思った。それでも仕方がない。イエスかノーのどちらかしか、もう答えはないのだから。これ以上待たせるのは、誠実とは言えない。

 倫礼はジョッキに再び手を伸ばそうとした。前のめりの、早とちりの女と違って、落ち着きを失わない、野菜と魚しか口にしない夕霧の、地鳴りのような低い声が続いた。

「俺がお前に望んでいる修業はそれではない」

 独健と知礼は押し問答しているふたりを、黙ったまま視線だけで追いかけていた。

 終わったはずの会話。それなのに、呼び止められて、

「え……? どんな修業ですか?」

 動きやすくするために、極力短く切られた深緑の髪。

「相手の懐近くへ入る修業だ」
「あぁ、この間言ってましたね。それが合気だって……」

 あの夜のことはよく覚えている。大抵のことは忘れてしまうのに。どうしてだかわからないが。

「技を今以上磨くためには、結婚することが必要だ」

 人を愛することが絶対条件。愛という道の入り口で、この男はずっと待っている。それに応えるために……。自分に足りないものは――

「あぁ……。相手の懐に入る……」

 倫礼は違うところで、ピンときてしまった。

「あぁっ!」

 全員の視線が、大声を上げた食い下がられている女に集中した。

「お前はいつも大騒ぎだ」

 シリアスシーンが一秒たりとも続かない女。夕霧の目は自然と緩んで、細められるのだった。だが、倫礼にとってはとても重要なことなのだ。

「ひとつ、聞きたいことがあります」
「何だ?」

 今はこげ茶のスーツを着ているが、袴姿だった、あの夜。この男を背にして、弓を自分の手に呼び寄せた時のこと。あの感覚を足し算すると、倫礼の中ではこうなった。

「教会に通ってるんですか?」
「なぜ、そんなことを聞く?」

 プロポーズの話だった。それなのに、全然違うところに話が飛び、夕霧は不思議そうな顔をした。

 実際の背以上の高さを感じた。何かあるのだろう、そこには。

「聖堂の縦にピンと張りつめた空気と、羽柴さんの――」
「夕霧でいい」

 倫礼は少し口ごもっていたが、

「……夕霧さんの雰囲気が似てたから、通ってるのか思ったんです」
「それは、正中線という気の流れの影響だ」

 やはり、武術で説明できた。倫礼は他のことなどすっかり忘れて、身を乗り出した。

「どういうものですか?」
「体を上下に貫き、宇宙の果てにまで伸ばすものだ」
「宇宙に果てってあるんですね?」
「ある」

 水を得た魚。男という生き物は、一点集中になりやすいものだ。得意分野の話になると、夢中で話してくる。それを聞くくらいの度量がないと、妻としてはやっていけないのだ。

 何か接点を。そう願って、倫礼は聞いた。

「それって、私にできますか?」
「高度な気の流れだが、合気よりはできるかもしれん」

 兆しが見えた。

「どうやってやるんですか?」
「正座しろ」

 上下に高さを感じるものだ。座敷に座れとは、これ何故なにゆえにである。

「立ってやるんじゃないんですか?」
「座っている方が難しい」

 夕霧師範代は厳しかった。倫礼は放り投げていた両足を引き寄せて、行儀よく正座した。

「はい」

 誰が見ても、師匠の言う通りの姿勢になった弟子だったが、専門用語が飛んでくる。

「腰が落ちている」
「腰が落ちる????」

 倫礼は座布団を穴があくほどじっと見つめた。下は畳である。奈落の底へでもいくような言い方である。これ以上は落ちないはずである。

「骨盤の一番下に座骨というものがある。そこで全体重を支えるようにする」

 腰のあたりが後ろに出て丸みを描いていたが、いやでもまっすぐ伸びたのだった。倫礼は目を輝かせる。

「あぁ、どうやっても姿勢よくなりますね」

 前のめりの弟子に、師匠から即行指導。

「まだだ」
「あぁ、はい」

 今のでできるくらいなら、高度な気の流れとは言わないのである。

「仙骨――」
「せんこつ?」

 弟子は師匠の話を折るのである、こうやって。

「骨盤の間にある腰側の逆三角形の骨だ」
「あぁ、そんなのあったんですね」

 重要な骨なのに、名前を覚えてもらえないという、悲劇が起きているのだった。

「骨盤と仙骨の間に、仙腸せんちょう関節というものがある。それは内側に入り込むように曲がる」

 肘や膝の関節が一定方向にしか曲がらないのと一緒である。

「内側に曲げるか……」

 しかし、腕や膝のように、動かしやすいものではなく、倫礼は難しい顔をしながら、また触れることもなく、一生懸命考えるだけで、動かそうとする。

 絶対不動の師匠もこれ以上は一人でできないと見極め、今教えている正中線を使って、畳の上から艶やかに立ち上がった。

「うつ伏せになれ」
「あぁ、はい」

 集中力で羞恥心など簡単に打ち消され、三枚並んだ座布団の上に、倫礼は自宅の床でくつろぐように横になった。

 骨盤の位置である。前回の肩甲骨とは違って、乙女大事件である。だが、そんなことなど、ふたりとも気づかず、修業は続いてゆく。

「内側へ押す」

 白いモヘアのスカートの後ろに、合気という芸術のような素晴らしい技を生み出す手は添えられて、上から押さえ込んだ。

 倫礼は自分の内側から聞こえた音にびっくりする。

「うわっ! バキバキいいました!」

 テーブルを挟んだ向こう側で行われている行為を、知礼は隣にいる独健に言葉で変換した。

「お尻触ってますよね?」
「触ってるな」
「修業という名のセクハラですか?」
「いや、彼女がそう思ってないなら、違うだろう?」

 倫礼は座布団の列を乱しながら起き上がり、夕霧は正中線を崩さず、座ろうとする。

「固まっていた関節が動いたからだ」
「よし、これでもう一回!」

 シュパンと、倫礼は行儀よく素早く正座し直した。いつまで見ていても仕方がない。ふたりきりの世界。

 独健はビールを一口飲んで、枝豆の皿を知礼へ差し出した。

「俺はいいと思うんだが……」
「そうですね」
「修業の話を聞いてくれる女はそうそういないだろう?」
「聞くどころではなく、先輩、楽しそうです」

 知礼と独健はふさから豆を取り出して、同時に口の中へ入れる。

「俺たちのことを忘れてるだろう?」
「はい。眼中にないですね」

 夕霧の無感情、無動のはしばみ色の瞳は、倫礼の肩を後ろから眺めていた。

「右利きだ」
「どうしてわかるんですか?」
「右肩が下がっているからだ」

 このままいくと、この理由の説明まで始まりそうな勢いである。

「そんなのまでわかるんですね? すごいなぁ、武術」

 感心した倫礼の言葉で、やっと会話が途切れ、独健の鼻声が割って入った。

「なぁ、いいか?」

 夢から覚めたみたいに、倫礼と夕霧はこっちへ振り返った。

「はい?」
「何だ?」

 あの閉鎖病棟で、敵の悪霊たちを散々待たせたみたいなふたりに向かって、

「夫婦で邪気退治がいいと思うんだが、どうだ?」
「同じものも見えて、武器も同じように持ってますし、いいと思います」

 ふたりして話が脱線していた。倫礼ははっとして、

「あぁ、そうか、そうだった。返事返してなかった」

 価値観が一緒。そんな人はそうそう世の中にはいない。これを運命と言わずして、何と言うのだろうか。戸惑いなどもう必要ない。

 倫礼は正座したまま、くるっと右へ四十五度向き直って、三つ指をそろえるではないが、深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします」
「よろしく頼む」

 お見合いでもしたように、お互いが頭を下げると、独健のはつらつとした声が響き、

「それじゃあ、ふたりの門出を祝して、乾杯!」

 掲げられた四つグラスがテーブルの中央で、カツンと心地よい音を響かせた。

 いつ幽体離脱するのかはわからない。だが、眠り病の患者が収容されている病棟へ行けば、そこに霊的な結界が張られていない限り、本当の病魔を倒して浄化して、次に来る悪霊と邪気から守ることはできる。

 魂が食われることを防げる以外の何物でもない。この国の闇が明けるのももうすぐだ。決して平坦な道のりではないが――

 今まで話していたのが嘘みたいに、会話もなく、修業なく、それぞれ料理に手を伸ばし始めた。

 さっき食べようとしたが、驚いて盛り皿に落としたサクサクの衣を倫礼は割り箸でつかんだ。

「この唐揚げおいしいよね?」

 タメ口。それに応えたのは、今日会ったばかりの独健だった。

「何で味はつけてるんだろうな?」
「俺は魚がいい」

 夕霧も気にした様子もなく、自分の好みを主張した。それを聞いて、倫礼は彼とは視線を合わせず、

「はい。ホッケ」

 まるで妻が夫に渡すように、慣れた感じで皿が出された。息がぴったりで、夕霧がそれを普通に受け取ると、知礼のどこかで聞いたことがあるような話がまた出てきた。

「今度家で取って、みんなで食べましょうか?」
「そうだね、四人でね」

 倫礼がフライドポテトに添えてあったマヨネーズを唐揚げに塗っていると、知礼が箸を止めた。

「先輩、違いますよ。十八人です」
「えぇっ!?」

 今度は、唐揚げが取り皿の上にポトリと落ちた。おしぼりを落ち着くなく触り、倫礼は個室の壁で誰もないはずの後ろに振り返って、キョロキョロする。

「あれ? あとの十四人はどこから出てきたんだろう?」
「知礼はみんなを幸せにする人だよな」

 チョリソーにケチャップをつけたのをかじった独健の真正面で、夕霧が拳を口に当てて、噛みしめるように笑った。

「くくく……」

 知礼の黄色の瞳は少しだけ大きく見開かれた。

「みなさん、今の話はなかったことにしてください。ノンフィクションでした」
「あはははは……っ!」

 倫礼が珍しく声に出して笑うと、夕霧のこげ茶のスーツの腕にもたれかかり、間合いゼロになっても笑い転げていた。

 そうして、画面がすっと真っ暗になると、

 =CAST=

 羽柴はしば 夕霧/夕霧命
 成洲なりす 独健/独健
 月雪つきゆき 倫礼/倫礼
 山吹やまぶき 知礼/知礼

 白字も全て消え去った。fin――――
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