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都会はやっぱりすごかった/1

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 多くの人が行き交う歩道の上で、白いデッキシューズがくるくる回ると、そびえ立つ高層ビル群も一緒にぐるぐると回転する。

「すごいね」

 おしゃれなカフェに大きな本屋、家具屋に、各方面へ行く電車が発着する駅。空中道路を走る車の列は、夏空に美しい線を規則正しく引いてゆく。

「これがビルっていうやつね」

 この次元の端に位置する、ど田舎からやってきた男――焉貴は、夏の日差しを逃れるように、建物の影を渡り歩いていた。

「何でもあるね~」

 ショーウィンドに映る山吹色のボブ髪は、ビル風に強くなびいた。アイスクリームショップのテラス席に、女子高校生がキャーキャーはしゃぎながら座っている。

 隣の家と言えば何キロ先が当たり前だった。見渡す限り大自然に囲まれいていた、焉貴には真新しい人の多さと距離感。

「にぎやかだね」

 デパートの中に入り、ガラス張りのエレベータに乗り込む。地面はみるみる遠くなって、遠くの海までよく見渡せた。

「――四十八階、画材売り場でございます」

 案内にそって、白いシャツと細身のパンツは、キリンや象といった様々な人たちに混じって、フロアへと出た。

「向こうの壁が霞んでて見えないじゃん」

 地平線ができ上がるくらい、広い売り場。焉貴は適当に瞬間移動をして、様々な筆を眺めながら、奥へと進んでゆく。

「いろいろあるね」

 客の目につきやすいよう、ひとつ手前に出ていた商品で足を止めた。何の変哲もない筆。強いて言えば、持ち手がセミオーダーで変えられるくらいのようだった。

『……あなたのお好きな太さや柔らかさなどに対応できる、画期的な新商品です!』

「どこがそうなの?」

 焉貴は手先が器用と言わんばかりのそれで、見本品を手に取った。

「――筆をお探しでしょうか?」

 女の店員の声がして、振り返ると鹿だった。焉貴は驚くわけでもなく、絵を描く心得がある人間として、正直に聞いた。

「そうじゃないんだけど、画期的な新商品がどうなってんのか知りたいの?」
「そちらは、携帯電話と同じ意識化接続を使って――」
「電話って何?」

 そんなものはあの田舎にはなかった。必要がなかった。電話を知らないという人は世の中たくさんいる。店員も慣れたもので、慌てることなく、わかりやすく説明をする。

「遠くの方とお話をするものです」
「そう。瞬間移動しないの?」

 神さまらしい発想だった。宇宙の果てまで自身のテリトリーなのだから、無限光年先だって、移動すればいいだけだった。

「これは、私個人の意見となってしまいますが……」
「いいよ。聞かせて」
「直接会いに行くまでもないのですが、伝えたいことがある時に、電話で相手と声だけで会話をします」

 ふたりが話している横を、龍の親子が浮遊して過ぎてゆく。

「そう、便利だね。携帯電話、どこにあんの?」

 この宇宙でこの先、知り合いや友人も増えてゆくだろうと思うと、焉貴の中で必要性が急上昇した。

「こちらの建物の一階部分にございます」

 高級ホテル顔負けの豪華な出入り口を、焉貴は思い出した。

「そう、ありがとう。で、これもその、携帯ってやつと一緒ってこと?」

 鹿の女性定員は、「えぇ」とうなずいて、筆を一本取り上げた。

「このようにですね、手に持ちまして、どのような筆にしたいかを思い浮かべるだけで、毛の部分が変化して太さを変えられます。また自身の好きな使用感にもできますよ」

 客が見ている前で、筆の長さや形が自由自在に変化した。いつも無機質なアンドロイドみたいだが、焉貴は感情を少し出して珍しく感心し、

「すごいね」

 筆をあちこちから眺め、毛先を触りながら、絵を描いてきた悩みのひとつを口にする。

「よくあるじゃん? 買ってみたけど、いまいち思ったように描けないとか。今浮かんでるのを書きたいのに、筆探してて創作意欲が落ちちゃうとかさ」
「えぇ、そちらのご要望にお応えするために、我が社とこちらのメーカとの共同開発で、先週から販売させていただいているものです」

 宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳が筆を見つめると、まるで女のヌードでも見ているようだった。

「用意する筆の数がずいぶん減らせていいね」
「さようでございます」

 店員がうなずくと、さっきまでの筆の話が嘘だったように、焉貴は話題転換をした。

「それで、絵具どこ?」
「こちらの棚の反対側にございます」
「そう、ありがとう。……これ、一本もらうわ」

 ずっと持っていた筆を、頬の横で見せびらかすように前後させた。

「ありがとうございます」

 頭を下げている店員を残して、白いデッキシューズは棚を回り込み、山吹色のボブ髪はかがむと、綺麗な頬に淫らにかかった。

「絵具の種類も豊富……」

 山肌を女の背中に例えて絵を描こうとして、一年も経ってしまっていた。

「あの肌の色を出したくてさ……。これとこれ、これもね」

 しかし、焉貴にしてみれば、過ぎた月日は数秒みたいなものなのだ。大きな手のひらに絵具をたくさん落としていった。
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