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名を呼ぶことを許してやる/5

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 神界にある明智家の縁側――。

 紫の月が一番美しい十五夜。月見団子を飾り、光秀がたてた抹茶を、家族四人で楽しでいた。

 そこへすうっと人が現れ、月明かりが斜めに影を作る。それはここにいるはずの、蓮だった。分身が本体へと吸収されて戻り、落ち着き払った声で言った。

「――別れてきました」

 地球にいる人間の女の話だった。本体の倫礼は茶器をそっと床に置いて、静かにうなずく。

「そう。でも、それがあの子のためね」
「そうだ」

 苦い抹茶をごまかすために、蓮は団子をさりげなく頬張った。しっとりとした青の着物を着た母が言葉を添える。

「人の痛みを理解することは大切よ」

 名月を見上げる倫礼は、不意に吹いてきた秋風が葉を揺らす音に耳を傾ける。

「これであの子、うつ状態だって気づくのかしら?」
「気づかない」

 蓮は即座に否定した。母は抹茶を一口飲んで、もう一人の娘にエールを送る。

「我慢強いのよ、きっと」

 今も分身を地球へと置いている、おまけの倫礼の守護神――光秀には人間の娘の未来がはっきりと見えていた。

「しかし、それがかえって危険だ。誰かを傷つける・・・・・・かもしれぬ」

 何度未来をたどっても、同じ結果にいきついてしまう。それは家族も同じで、誰がやっても、おまけの倫礼の未来は前途多難だった。

    *

 冬へと向かう臨海地区。移動手段は頭上高くを走る電車だ。歩いている人は誰もおらず、遠くに見える遊園地の明かりを、地上にいる倫礼はひとりで涙目になりながら見つめた。

(悲しい。一人が寂しい……)

 思い出すのが辛いからと、イヤフォンで聴く音楽は新しいものへと変えた。

(でも、恋愛の話を見て涙をこぼすようになった)

 人生三十七年目を迎えようとしている彼女には、人より二十年ほど遅れた恋愛体験だった。彼女はポケットに手を突っ込んだまま、隣の駅までひとりで歩いてゆく。

(私は本当に恋をして、失恋をしたんだ)

 切なさも涙を流す回数も量も減らなかったが、手に入れたものが宝物のように思えた。

(これでよかった。人の痛みがわかるようになった)

 彼女はふと立ち止まり、都会の明かりで星が少ない空を見上げ、白い息を吐きながら、自分を守護してくれているだろう、神に向かって祈りを捧げる。

(神さま、ありがとうございます。そして、この悲しみから抜け出せる術をどうか私にお与えください)

 彼女の祈りはすぐ後ろに立っていた、光秀にしっかり届いていた。

    *

 ベンチャー企業に何とかバイトで入ったが、売り上げがまったくなく、たった三ヶ月で解雇された。

 失業保険で食いつなぐことがしばらく続いたが、何とか新しい職へついたのも束の間。

 仕事を始めて一ヶ月後。

(ん~? これはイエスかな? こっちはノー……)

 倫礼は心療内科の待合室で、記入用紙に回答していた。

 引き金となったのは昨日のこと、あのあと就いたコールセンタの仕事だったが、上司がひどくヒステリックで、この世界での父親の怒鳴り散らす声と重なってしまった。

 そして、仕事をしようとしたが、言葉が話せなくなっていたのだ。

(これって、二十歳の時と同じ症状だ。このままじゃ仕事ができなくなるから、病院に行こう)

 しかもそれだけでは収まらず、その上司を殴り倒そうとするイメージまでもが湧いてきてしまい、働くことに支障をきたしそうだった。

 そして、診察の番が回ってきて、さっきの記入シートの結果を見た、医師が告げた。

「鬱状態ですね」
「そうですか……」

 倫礼は自分が思っていた通りだったと、

(鬱病だ)

 頼れる人が誰もいないところで、悲観的な考えをしたのが原因だったのだと、彼女は簡単に納得した。

「薬を処方をしますから、そちらをお飲みになっていただいて、少し様子をみましょう」
「はい、ありがとうございました」

 倫礼はこうして、薬を飲んで暮らすこととなった。


 その日の夜、心のよりどころとしていた近所で雰囲気のいいバーに彼女はいた。そこの常連となっていて、病院での診察結果を、カクテルを飲みながら何気なく話した。

 カウンター席でよく一緒になる他の客は、タバコの煙を吐き出しながら優しく言う。

「鬱病っていうのはなってみないと、その辛さはわからないよな。でもさ、治るから大丈夫だ。今はゆっくり休めばいい」
「ありがとうございます」

 完治するのなら安心だ。薬を飲んでいればいつか治る。倫礼は明るい未来を夢見た。

    *

 コールセンターの仕事は結局クビとなり、次の職業を探して接客業へと就いた。薬もきちんと飲み続けたが、病状は良くなるところか悪化していった。

 くたくたに疲れ切って、家路へと続く線路の上にかかる陸橋へとやってきて、毎日足を止める。

 同じ時刻に終わる仕事。電車のダイヤも同じで、都心からの下り列車が自分へと、ライトがふたつの目のように猛スピードで迫ってくる。

「今、飛び降りたら死ねるのかな――?」

 網を乗り越え、タイミングを合わせ、線路へ飛び降りる。容易に想像できたが、倫礼は我に返って、頭をプルプルと振った。

「ううん、ダメダメ! 家に早く帰って、薬を飲もう! そして、眠って起きれば、嘘みたいに明日は忘れてるよ」

 柵にかけていた手が冷たくなっているのに、今頃気づくほど、おかしくなっていたが、彼女は持ち前の粘り強さで進んでゆく。

(だから、帰ろう、帰ろう!)

 家へとまた歩き出し、そして明日も同じ場所で、自殺するのを考える。薬の内容は変われども効果はなく、彼女は五年も鬱病で病院へ通うこととなるのだった。
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