上 下
118 / 243

光を失ったピアニスト/3

しおりを挟む
 怪我もない、病気もない世界で、今日の主役が床の上に倒れるという光景に、まわりで演奏を聞いていたスタッフたちは、不思議そうな顔をした。

「どうしました?」
「光命さん?」

 あっという間に人垣ができて、

「光命さん?」
「眠ってる?」

 一人事情を知っている弁財天は驚いて、慌ててステージ上を走っていった。スタッフをかき分けて、神経質な頬に紺の髪がもつれ絡みついているのを見つけ、弁財天は白いカットソーの肩を揺さぶった。

「光? 光?」

 ビューラーで巻いたみたいに綺麗なまつ毛は一ミリも動くことなく、腕がだらりと体の脇から床へ落ちた。

(気を失ってる……。気絶が起きてしまった)

 危惧していたことが現実になってしまった。弁財天はそれでも取り乱すことはなく、すぐそばにいたスタッフに指示を出す。

「病院、病院に連絡して!」

 場所の名前は聞いたことがあるが、利用する人など皆無に等しい世界で、スタッフたちは何が何だかよくわからず、全員目を丸くして驚き声をとどろかせた。

「えぇっ!?」
「いいから病院よ!」

 それから数時間後、会場の入り口周辺では、チケットの払い戻しの案内が何度も繰り返されていた――

    *

 首都の中心街にある、ガラス張りの高層ビル。吹き抜けのエントランスから、二階の回路へと登る階段。

 龍が最上階へエレベータも使わず、まっすぐ上へと登ってゆく様は雄大だが、人々は慣れたもので、それぞれ忙しそうにフロアを歩いていた。

 個性的な服装をした猫が二足歩行で、反対側からくる人の横を通り過ぎようとすると、

「お疲れ様です!」
「あぁ、この間の音源ありますか?」

 資料を抱えていた人間の男が急に立ち止まり、勢いよく振り返った。かぎ爪のついた手のひらが向けられると、瞬間移動で四角いものが現れた。

「携帯電話に入ってますよ」
「ちょっとエフェクターをいじりたいので、データいただけますか?」
「いいですよ」

 ネットを経由するのではなく、弓形ゆみなりの鋭い瞳が画面を見つめると、必要なファイルが空中に半透明で浮かび上がり、そのまま人間のスタッフがポケットから取り出した携帯電話に吸収されるように消え去った。

 意識化で操作できるそれは、データの送受信は視線の動きでできる。便利な時代を神々は、人間として生きていた。

 そんなやり取りをしている廊下の一番奥にあるのは、自社ビルを持つ恩富隊の社長室。窓の外には今日も太陽がなくても綺麗な青空が広がる。

 ブラインドカーテンからの隙間から入り込む日差しは、デスクに飾られた花々を通り越して、床へと伸びていた。

 秘書もいない人払いされた応接セットのソファーに、部屋のあるじである弁財天が座り、ひどく残念そうにため息をついた。

「そう。ツアーは全て中止でいいのね?」

 念を押すように聞き返された、向かいの席に座る光命は、冷静な水色の瞳を曇らせていたが、あくまでも平常心をたもったまま、「えぇ」と優雅にうなずき、

「倒れないという可能性がゼロになるまでは、行うことはできません。先日のように、楽しみにしていらっしゃった方々の気持ちを傷つけることはしたくありません」

 ツアーの初日、ピアノを弾いている途中で切れてしまった記憶は、次は病院の天井からだった。

 開演時刻どころか、日付は翌日になっていて、後悔してもし切れず、思わず硬く閉じたまぶたの感触は今でも忘れない。

 弁財天は何度も説得してみたが、他人優先の光命が一番したくなかったことが起きてしまい、誰の言葉も彼には届かなかった。

 やり直しから帰ってきて、少し様子がおかしいと思っていた。

 何か力になれることはないかと、弁財天も聞こうと努力をしてみたが、光命は硬く心を閉ざし、のらりくらりと交わすだけで、決して口を開こうとはしなかった。結局防ぐことはできず、こんな形になってしまった。

 ツアーは中止すると言った、ひどく疲れた様子の光命を、弁財天は優しく微笑んで心配する。

「そう、わかったわ。CDはどうするの?」
「今の体調のままでは、レコーディングのスケジュールも決められません。ですから、そちらもしばらくお休みにします」

 耳にかけていた後毛が落ちると、細い指先ですぐにかけ直すのに、それもしない。光命が必死に何かを耐えながら話しているのは、長く生きている弁財天には痛いほどわかった。

「そう。光がそう言うなら仕方がないわね」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 激情という獣を、冷静な頭脳という盾で飼い慣らし、光命は事務的に話を終えて、スプリングコートを手にして帰るような仕草を見せた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~

伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華 結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空 幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。 割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。 思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。 二人の結婚生活は一体どうなる?

助けてください!エリート年下上司が、地味な私への溺愛を隠してくれません

和泉杏咲
恋愛
両片思いの2人。「年下上司なんてありえない!」 「できない年上部下なんてまっぴらだ」そんな2人は、どうやって結ばれる? 「年下上司なんてありえない!」 「こっちこそ、できない年上の部下なんてまっぴらだ」 思えば、私とあいつは初対面から相性最悪だった! 人材業界へと転職した高井綾香。 そこで彼女を待ち受けていたのは、エリート街道まっしぐらの上司、加藤涼介からの厳しい言葉の数々。 綾香は年下の涼介に対し、常に反発を繰り返していた。 ところが、ある時自分のミスを助けてくれた涼介が気になるように……? 「あの……私なんで、壁ドンされてるんですか?」 「ほら、やってみなよ、体で俺を誘惑するんだよね?」 「はあ!?誘惑!?」 「取引先を陥落させた技、僕にやってみなよ」

【修正版】可愛いあの子は。

ましろ
恋愛
本当に好きだった。貴方に相応しい令嬢になる為にずっと努力してきたのにっ…! 第三王子であるディーン様とは政略的な婚約だったけれど、穏やかに少しずつ思いを重ねて来たつもりでした。 一人の転入生の存在がすべてを変えていくとは思わなかったのです…。 ✻こちらは以前投稿していたものの修正版です。 途中から展開が変わっています。

身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】 妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。

逃した番は他国に嫁ぐ

基本二度寝
恋愛
「番が現れたら、婚約を解消してほしい」 婚約者との茶会。 和やかな会話が落ち着いた所で、改まって座を正した王太子ヴェロージオは婚約者の公爵令嬢グリシアにそう願った。 獣人の血が交じるこの国で、番というものの存在の大きさは誰しも理解している。 だから、グリシアも頷いた。 「はい。わかりました。お互いどちらかが番と出会えたら円満に婚約解消をしましょう!」 グリシアに答えに満足したはずなのだが、ヴェロージオの心に沸き上がる感情。 こちらの希望を受け入れられたはずのに…、何故か、もやっとした気持ちになった。

私の好きなひとは、私の親友と付き合うそうです。失恋ついでにネイルサロンに行ってみたら、生まれ変わったみたいに幸せになりました。

石河 翠
恋愛
長年好きだった片思い相手を、あっさり親友にとられた主人公。 失恋して落ち込んでいた彼女は、偶然の出会いにより、ネイルサロンに足を踏み入れる。 ネイルの力により、前向きになる主人公。さらにイケメン店長とやりとりを重ねるうち、少しずつ自分の気持ちを周囲に伝えていけるようになる。やがて、親友との決別を経て、店長への気持ちを自覚する。 店長との約束を守るためにも、自分の気持ちに正直でありたい。フラれる覚悟で店長に告白をすると、思いがけず甘いキスが返ってきて……。 自分に自信が持てない不器用で真面目なヒロインと、ヒロインに一目惚れしていた、実は執着心の高いヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。 この作品は、エブリスタ及び小説家になろうにも投稿しております。 扉絵はphoto ACさまよりお借りしております。

【完結】待ってください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ルチアは、誰もいなくなった家の中を見回した。 毎日家族の為に食事を作り、毎日家を清潔に保つ為に掃除をする。 だけど、ルチアを置いて夫は出て行ってしまった。 一枚の離婚届を机の上に置いて。 ルチアの流した涙が床にポタリと落ちた。

【完結】側妃は愛されるのをやめました

なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」  私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。  なのに……彼は。 「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」  私のため。  そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。    このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?  否。  そのような恥を晒す気は無い。 「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」  側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。  今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。 「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」  これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。  華々しく、私の人生を謳歌しよう。  全ては、廃妃となるために。    ◇◇◇  設定はゆるめです。  読んでくださると嬉しいです!

処理中です...