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月にウサギはいない/3

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 まるで自分たちの関係みたいに、太陽の光を浴びて金色に輝く月を、太陽海神は眺める。

「今までと政治が違うんだから、仕事もいろいろ変わっていくだろう?」
「兄上は決めたんですか?」

 婿にいった兄は胸を張って、堂々と言い張った。

「俺は小学校の体育教師になる。夫婦で教師だ」
「学校の先生……?」

 月主命はぽつりつぶやく。金色の草原が風に吹かれ、大きく波打った。この世界は子供が生まれたら、親が物事を教え大きくなってゆくそれが当たり前だった。それなのに、人間界と同じように学校という教育機関を作るとは、陛下は今までと違った風を吹かせていた。

    *

 どこかずれているクルミ色の瞳の前で、ステーキが器用に切られていた。小さな肉片をフォークで口に運んでは、奇跡来は肉汁に翻弄され、思わずまぶたを閉じる。そして、水をガブガブと一気飲みして、またステーキに挑む。

「――月にウサギがいるって信じてるか?」

 人間界も少しずつ時は流れていて、奇跡来は買い物へ行って料理をするという生活からおさらばしていた。食事はもっぱら外食。

 お洒落なレストランで、ステーキを口にしながら、月のウサギについて返事を返した。

「ん~、まぁまぁ信じてるかな」
「夢がないなぁ~」
「いたら面白いと思うけどね」

 昼間からビールを飲んで、フライドポテトも一緒に頬張る。コウはウェスタンな店内をくるくると浮遊する。

「この間、陛下が月を訪れたら、ウサギと一緒に踊って歌ってた神様が見つかったんだ」
「本当にいたっ!?」

 奇跡来のフォークが思わず手から落ちて、皿でがちゃんと音を立てた。死んで帰れば、月でウサギに会えるという現実を前にして、彼女は自分の常識を変えなくてはいけないと思った。

 しかし、コウは話の続きを語る。

「でもな、そのウサギは姿を変えられた人間だった」
「何だか、どこでも手厳しいね。神様の世界もさ。姿変えられちゃうなんて、童話みたいだ」

 人間なりに奇跡来は心配した。人ではなくウサギだった間の、彼らの心はどんな想いでいたのかと。

 コウは特に気にした様子もなく、飲まないとやっていられない人の心情を語った。

「陛下が最初に訪れた時、ウサギは酒を欲しがったんだぞ」
「夢がないな、そこは」

 飲んだくれ親父おやじみたいなウサギを、奇跡来は想像した。月の表面に酔っ払って、あちこちで伸びたまま眠っているウサギの群れ。殺伐とした現実だった。

「ちなみに、陛下はそのウサギのやつらのことを、酒くれウサギ・・・・・・って呼んだ」
「そのままだ」

 奇跡来はゲンナリした。陛下がどんな人物かは知らないが、そのまわりに飛び跳ねながら集まってくるウサギたち。それを目の当たりにした陛下としては、そういう名をつけるしかないほど、衝撃的だったのかもしれない。

 コウは隣の空席に腰掛け、手にいきなりフォークを出して、奇跡来のステーキをちょっとだけつまみ食いした。

「人間の姿でずっといたやつは、そのまま月に今も住んでる」
「気に入ったのかな? その場所が」

 味に変化をつけるため、塩をぱぱっとかけて、奇跡来はまた肉汁を味わい、グラスの水を一気飲みした。

「今はたった一人で住んでるから、名前をこう変えたんだ。月主命」

 神様の名前はどんなに横文字でも、漢字表記があるのが常識だと、奇跡来は先日教わったばかりだった。しかし、綺麗にまとめられた名前を前にして、食べる手を止める。

「ん? どういう漢字?」
「月はルナだろ?」
「うん。他の言語使うなんてかっこいいね。っていうか知的、いや頭がよさそうだ、その神様は」
「そこのぬしだから、

 フォークを握りしめたまま、奇跡来はうんうんとうなずく。

「やっぱり頭がよくて、センスもいい神様だ」

 しかし、今まで何人かの神の名を聞いてきた彼女は、ある疑問点にぶつかった。

「思うんだけどさ。のみことってよく名前につくけど、それってどういう意味? 何人もつけてるってことは、固有名詞とはまた違うよね?」

 霊的な肉片は減ってゆくが、現実のステーキはなくならない、コウのつまみ食い。

「尊称のひとつだ。昔の人間の子供に『丸』とかついてただろ? あれは、『くん』とか『ちゃん』って意味だ。それと同じ」
「ってことは、月主さま・・みたいな感じだ。ファンクラブみたいだね」

 花束を持った女子に囲まれる、男性神を冗談で思い浮かべて、奇跡来は一人でニヤニヤし、グラスに入った水を飲もうとして氷がカランと涼しげな音を立てた。

 コウは説教を軽くする。神様ファンクラブを勝手に作っている、分をわきまえない人間の女に。

「そういう軽々しいものじゃないぞ」
「でも、神さまだから、さま・・はつくよね?」

 奇跡来の脳裏には、やはり神殿か何かから出てくる、神様をファンクラブの女子が出待ちしている様子が浮かんでいた。しかし、彼女は面白がっているだけで、特に何の感情も抱いていない。単なる傍観者。

 ステーキを再び切り始めて、まわりの客の話し声や店のBGMなどを聞きながら、肉汁体験を満喫する。

「ふふ~ん♪ ふふ~ん♪」

 神さまの世界のステーキ肉は全てなくなり、コウは大きく膨れ上がったお腹をさすりながらゲップをして、話の続きを語る。

「それから数日後に、月主が陛下に舞を奉納にきた。ウサギだった人たちとな」
「ウサギと一緒に、男の神様が舞を踊る……?」

 神に奉納する神楽がすぐさま浮かんだ。着物を着て、しゃくや扇子などを持って、ゆっくりと舞う。しかし、それを取り囲むウサギの群れ。

 奇跡来はステーキを飲み込み、首を傾げた。

「どこがどうって言うのがわからないけど、何だかその神さまおかしい感じがする。ウサギの中央で踊る神さま?」
「そうだ。素晴らしい舞だったぞ」

 コウは見てきたようで、大いに感心していた。奇跡来はフォークをノロノロと持ち上げるが、

「そうか。でも、何だか要注意な人物――っていうか神さまな気がする……」

 勘の鋭い彼女には、嫌な予感が漂っていた。
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