上 下
88 / 132
白銀の決意

─8─別れ

しおりを挟む
 衝撃を受けながらも、僕は公爵の言葉を一言も聞きもらすまいと身をかがめた。
 そんな僕に、公爵はささやくような声で告げた。

「……良いか。この先伏魔殿とも言える宮中で生き長らえたいのであれば、これから言うことをしかと聞け」

 そう言う公爵は、恐ろしい形相をしていた。
 その勢いに飲み込まれて、僕はうなずいた。

「……愚かであれ。決して自らの才をひけらかすでない。ただひたすらに、暗愚を装うのだ」

 皇帝に連なる血筋の者となれば、いつ国家転覆の旗印にされるかわからない。
 未だ幼い女帝の権威が確立していない今、自らの地位を確固たるものにするため、後見人たる宰相が血の粛清をふるうだろう。

「……私は、最後でしくじった。この身体を蝕んでいるのは、おそらく先帝陛下に盛られたのと同じ……」

 消え入りそうな公爵の声。
 その時僕は悟った。
 公爵は自分の尊厳をかなぐり捨てて僕を守ろうとしてくれていたのだ、と。
 泣きそうになりながら、僕はその手を握り返した。

「すまない……お前を守るためとはいえ、酷なことをした。けれども私は……」

 言いさして、公爵は激しく咳込む。
 もう言葉を発するだけで、その命が削り取られているようだった。
 僕はこぼれ落ちる涙を拭くことなく、首を激しく左右に振った。

「充分です。もう充分です。公爵閣下……いえ、父上……」

 その時だった。
 今まで見たことがない優しげな微笑を浮かべる公爵の目から、前触れもなく涙がこぼれ落ちる。
 やせ細った手が、再び僕の髪をなでた。
 骨と皮だけになっていたが、その手はとても暖かくそして優しかった。

「……先帝陛下の形見は、表に出すな。今はまだ早すぎる。時が来るのを待つのだ」

 確かにそのとおりだろう。
 皇帝も、宰相も、血眼になって探しているはずの切り札だ。
 今持ち出しては、僕は適当な罪状を付けられて、処刑されるのが関の山だ。
 けれど……。

「でも、僕は一体どうすれば……。いつまで待てばいいんですか?」

 僕の問いかけに、公爵は目を伏せ静かに言った。

「陛下が善政をひかれるならば、表に出さずとも良い。たが、万一道を誤られたら……」

「誤られたら?」

「信頼をおける仲間を……。一人でことを成そうとするな」

 公爵の言葉に、僕はうなずいた。
 そんな僕の様子に、公爵は満足そうに目を閉じた。

「わかったのなら、行きなさい。今日のことは、決して口外してはならぬ」

 言い終えると、公爵は胸元で手を組む。
 数歩後ずさると、僕は公爵に向けて深々と一礼した。
 これが、僕と公爵の親子としての、最初で最後の会話になった。

 それから一度も目を覚ます事はなく、公爵はひっそりと息を引き取った。
 僕は、この上なく危険な世界にただ一人取り残された。
 執事の手を借り葬儀を執り行ううち、僕は今まで公爵によって守られていたということを思い知らされた。
 陛下の使者として葬儀にやってきたマリス侯は、値踏みするような目で僕を見る。
 形ばかりの礼を尽して弔意を示す侯の目は、どこまでも鋭かった。
 この人から僕は逃れなければならない、公爵のためにも生き残らなければならないと決心した。
 そのために僕にできることと言えば、公爵の『遺言』を実行することだけだった。
 愚かであれ、才をひけらかすなという言葉を忠実に守った。
 その日から僕は、不本意ながら暗愚を演じる道化になった。
 日がな一日宮殿の書庫に潜り込み、一心不乱に書物を読みふけったり、絵画や彫刻を生業にする人達のところに入り浸ったりした。
 そうこうするうちに、次第に妹姫様やあの少年とも疎遠になっていった。
 成人し、僕が正式にフリッツ公爵家の家督を継いだ時、人々は僕を陰でこう呼んだ。

 『父親譲りの愚昧ぐまい公』と……。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

夫を愛することはやめました。

杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

私はいけにえ

七辻ゆゆ
ファンタジー
「ねえ姉さん、どうせ生贄になって死ぬのに、どうしてご飯なんて食べるの? そんな良いものを食べたってどうせ無駄じゃない。ねえ、どうして食べてるの?」  ねっとりと息苦しくなるような声で妹が言う。  私はそうして、一緒に泣いてくれた妹がもう存在しないことを知ったのだ。 ****リハビリに書いたのですがダークすぎる感じになってしまって、暗いのが好きな方いらっしゃったらどうぞ。

公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌

招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」 毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。 彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。 そして…。

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

処理中です...