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白銀の決意
─8─別れ
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衝撃を受けながらも、僕は公爵の言葉を一言も聞きもらすまいと身をかがめた。
そんな僕に、公爵はささやくような声で告げた。
「……良いか。この先伏魔殿とも言える宮中で生き長らえたいのであれば、これから言うことをしかと聞け」
そう言う公爵は、恐ろしい形相をしていた。
その勢いに飲み込まれて、僕はうなずいた。
「……愚かであれ。決して自らの才をひけらかすでない。ただひたすらに、暗愚を装うのだ」
皇帝に連なる血筋の者となれば、いつ国家転覆の旗印にされるかわからない。
未だ幼い女帝の権威が確立していない今、自らの地位を確固たるものにするため、後見人たる宰相が血の粛清をふるうだろう。
「……私は、最後でしくじった。この身体を蝕んでいるのは、おそらく先帝陛下に盛られたのと同じ……」
消え入りそうな公爵の声。
その時僕は悟った。
公爵は自分の尊厳をかなぐり捨てて僕を守ろうとしてくれていたのだ、と。
泣きそうになりながら、僕はその手を握り返した。
「すまない……お前を守るためとはいえ、酷なことをした。けれども私は……」
言いさして、公爵は激しく咳込む。
もう言葉を発するだけで、その命が削り取られているようだった。
僕はこぼれ落ちる涙を拭くことなく、首を激しく左右に振った。
「充分です。もう充分です。公爵閣下……いえ、父上……」
その時だった。
今まで見たことがない優しげな微笑を浮かべる公爵の目から、前触れもなく涙がこぼれ落ちる。
やせ細った手が、再び僕の髪をなでた。
骨と皮だけになっていたが、その手はとても暖かくそして優しかった。
「……先帝陛下の形見は、表に出すな。今はまだ早すぎる。時が来るのを待つのだ」
確かにそのとおりだろう。
皇帝も、宰相も、血眼になって探しているはずの切り札だ。
今持ち出しては、僕は適当な罪状を付けられて、処刑されるのが関の山だ。
けれど……。
「でも、僕は一体どうすれば……。いつまで待てばいいんですか?」
僕の問いかけに、公爵は目を伏せ静かに言った。
「陛下が善政をひかれるならば、表に出さずとも良い。たが、万一道を誤られたら……」
「誤られたら?」
「信頼をおける仲間を……。一人でことを成そうとするな」
公爵の言葉に、僕はうなずいた。
そんな僕の様子に、公爵は満足そうに目を閉じた。
「わかったのなら、行きなさい。今日のことは、決して口外してはならぬ」
言い終えると、公爵は胸元で手を組む。
数歩後ずさると、僕は公爵に向けて深々と一礼した。
これが、僕と公爵の親子としての、最初で最後の会話になった。
それから一度も目を覚ます事はなく、公爵はひっそりと息を引き取った。
僕は、この上なく危険な世界にただ一人取り残された。
執事の手を借り葬儀を執り行ううち、僕は今まで公爵によって守られていたということを思い知らされた。
陛下の使者として葬儀にやってきたマリス侯は、値踏みするような目で僕を見る。
形ばかりの礼を尽して弔意を示す侯の目は、どこまでも鋭かった。
この人から僕は逃れなければならない、公爵のためにも生き残らなければならないと決心した。
そのために僕にできることと言えば、公爵の『遺言』を実行することだけだった。
愚かであれ、才をひけらかすなという言葉を忠実に守った。
その日から僕は、不本意ながら暗愚を演じる道化になった。
日がな一日宮殿の書庫に潜り込み、一心不乱に書物を読みふけったり、絵画や彫刻を生業にする人達のところに入り浸ったりした。
そうこうするうちに、次第に妹姫様やあの少年とも疎遠になっていった。
成人し、僕が正式にフリッツ公爵家の家督を継いだ時、人々は僕を陰でこう呼んだ。
『父親譲りの愚昧公』と……。
そんな僕に、公爵はささやくような声で告げた。
「……良いか。この先伏魔殿とも言える宮中で生き長らえたいのであれば、これから言うことをしかと聞け」
そう言う公爵は、恐ろしい形相をしていた。
その勢いに飲み込まれて、僕はうなずいた。
「……愚かであれ。決して自らの才をひけらかすでない。ただひたすらに、暗愚を装うのだ」
皇帝に連なる血筋の者となれば、いつ国家転覆の旗印にされるかわからない。
未だ幼い女帝の権威が確立していない今、自らの地位を確固たるものにするため、後見人たる宰相が血の粛清をふるうだろう。
「……私は、最後でしくじった。この身体を蝕んでいるのは、おそらく先帝陛下に盛られたのと同じ……」
消え入りそうな公爵の声。
その時僕は悟った。
公爵は自分の尊厳をかなぐり捨てて僕を守ろうとしてくれていたのだ、と。
泣きそうになりながら、僕はその手を握り返した。
「すまない……お前を守るためとはいえ、酷なことをした。けれども私は……」
言いさして、公爵は激しく咳込む。
もう言葉を発するだけで、その命が削り取られているようだった。
僕はこぼれ落ちる涙を拭くことなく、首を激しく左右に振った。
「充分です。もう充分です。公爵閣下……いえ、父上……」
その時だった。
今まで見たことがない優しげな微笑を浮かべる公爵の目から、前触れもなく涙がこぼれ落ちる。
やせ細った手が、再び僕の髪をなでた。
骨と皮だけになっていたが、その手はとても暖かくそして優しかった。
「……先帝陛下の形見は、表に出すな。今はまだ早すぎる。時が来るのを待つのだ」
確かにそのとおりだろう。
皇帝も、宰相も、血眼になって探しているはずの切り札だ。
今持ち出しては、僕は適当な罪状を付けられて、処刑されるのが関の山だ。
けれど……。
「でも、僕は一体どうすれば……。いつまで待てばいいんですか?」
僕の問いかけに、公爵は目を伏せ静かに言った。
「陛下が善政をひかれるならば、表に出さずとも良い。たが、万一道を誤られたら……」
「誤られたら?」
「信頼をおける仲間を……。一人でことを成そうとするな」
公爵の言葉に、僕はうなずいた。
そんな僕の様子に、公爵は満足そうに目を閉じた。
「わかったのなら、行きなさい。今日のことは、決して口外してはならぬ」
言い終えると、公爵は胸元で手を組む。
数歩後ずさると、僕は公爵に向けて深々と一礼した。
これが、僕と公爵の親子としての、最初で最後の会話になった。
それから一度も目を覚ます事はなく、公爵はひっそりと息を引き取った。
僕は、この上なく危険な世界にただ一人取り残された。
執事の手を借り葬儀を執り行ううち、僕は今まで公爵によって守られていたということを思い知らされた。
陛下の使者として葬儀にやってきたマリス侯は、値踏みするような目で僕を見る。
形ばかりの礼を尽して弔意を示す侯の目は、どこまでも鋭かった。
この人から僕は逃れなければならない、公爵のためにも生き残らなければならないと決心した。
そのために僕にできることと言えば、公爵の『遺言』を実行することだけだった。
愚かであれ、才をひけらかすなという言葉を忠実に守った。
その日から僕は、不本意ながら暗愚を演じる道化になった。
日がな一日宮殿の書庫に潜り込み、一心不乱に書物を読みふけったり、絵画や彫刻を生業にする人達のところに入り浸ったりした。
そうこうするうちに、次第に妹姫様やあの少年とも疎遠になっていった。
成人し、僕が正式にフリッツ公爵家の家督を継いだ時、人々は僕を陰でこう呼んだ。
『父親譲りの愚昧公』と……。
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