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鎮魂曲

─30─旅立ち

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「……本当に、行くつもりなの?」

 慈愛に満ちた大司祭の茶色の瞳は、卓を挟んで目の前に座す『息子』を見つめている。

「ようやく、書写が終わりました。聖地リンピアスへ納めるならば、エドナの両大公の目が自国の中に向いている今を置いて他にはありません」

 常の如く感情が全く感じられない声が、それに答える。
 下級神官の長衣をまとったシーリアスは、だが今日はその髪を無造作に束ねていた。

「確かに、自分が犯したことは、記録上抹消されたことですし、あくまでも非公式な物ですから、高官達も何も言えないとは解っています。ですが……」

 一端言葉を切り、自分を見つめる『母』の視線から逃れるように、シーリアスはうつむく。

「自分について公文書に記載されている事実は、それこそ他者の血で塗り固められています。それでは……」

「……エドナの目がこちらに向いていないからこそ、殿下をお守りしなければならないのではないの?」

「血と汚物にまみれた今の自分では、それに相応しくはありません」

 せめてしかるべき地位を、と殆ど即答と言って良い速さで戻ってきたその言葉に、カザリン=ナロードはようやく折れた。
 困ったような表情を浮かべながら、用意されていた封筒を卓上に置く。
 それはルウツ大司祭の名で記された、正式な聖地への通行証だった。
 だが、そこに記されている名は、『無紋の勇者』と畏れられているそれではなかった。
 前触れもなく失われてしまった『過去』に彼を繋ぎ止める、唯一のそれだった。

「どうやら、決心は変えられないようね……。でもこれだけは約束してちょうだい。必ず帰ってくると」

「……自分が犯した罪が許されれば、すぐにでも……。ですが……」

 言いながら、彼は腰の短剣を抜いた。
 驚く大司祭の目の前で、彼はおもむろに束ねられていた髪を切り落とした。
 肩までの長さになった、セピアの髪が揺れる。
 そして、彼は切り落としたそれを卓の上に置いた。

「万一、自分が戻れなくなったら、これを父と母の側に埋めてください。お願いします」

「そんなことを言うのなら、これは渡せなくてよ」

 書状を引き戻そうとするカザリン=ナロードに、彼は慌てて言った。

「あくまでも、万一です。エドナが……死神が動き出す時までには、戻ってきます」

 その真剣な口調に、カザリン=ナロードは苦笑を浮かべる。
 どこか不器用なところは、皇帝の妹姫とそっくりだ、と思いながら。
 
「解ったわ。でも、これだけは覚えておいてね。貴方の戻るべき所は、決して無くなることはないと」

 寂しげな『母』に、彼は立ち上がり書状を受け取る。
 そして大司祭の手の甲に口づけをし、聞き取れないくらいの小さな声で言った。
 
「ありがとうございます。……母上」

     ※

 墓地での一件があった一週間後、ユノーは彼の上官の家を訪ねた。
 心ばかりの礼を伝えるために。
 けれど、兵舎の建ち並ぶ一角の外れにあるその家は静寂に包まれていた。

「どうやら遅かったな」

 そこにいたのは皇帝の妹姫、ミレダである。
 慌てて姿勢を正すユノーの鼻腔にわずかに残った邪気よけの香の残り香が入ってくる。

「失礼ですが、司令官閣下は……」

「あいつなら巡礼の旅に出た」

 当分は戻ってこないだろう、そうあきらめたように言うミレダに、ユノーは思わず問うた。

「では、皇都の守りは……また争いがあった時はどうなるのですか? あの方無しでは……」

 言い過ぎた。
 そう思い口を閉ざすユノーの目前に、ミレダはある物を示した。
 青い石があしらわれたそれは、戦場で常にその人の手に合った……。

「あいつの宝剣だ。戻ってくるまでお前に預ける」

「本気ですか? 殿下はまさか小官に使いこなせるとでも思っておられるのですか?」

 だが、ミレダの目は笑ってはいない。
 冗談ではなく、本当にあの人は姿を消してしまったのだ。
 改めてユノーは実感した。
 そんなユノーを見やりながら、ミレダは真摯な口調でこう言う。

「ジョセ卿と私が何とかする。やつが見込んだお前なら何とかなる」

 その一言で、ユノーはある物を感じた。
 すなわち、この場を離れたその人と、目の前の妹姫との堅い信頼と絆を。
 もはや断ることはできなかった。
 ユノーはひさまずき、恭しくその宝剣を戴いた。

「新たなる騎士に武運あれ」

「皇帝陛下に栄え有れ」

 二人きりの叙任式。
 だがその宝剣はずっしりと重くユノーの双肩にのしかかった。

「当面の間死神は動かないと、奴は言っていた。今はただ信じるしかないな」

 諦めにも似たミレダの苦笑につられて、ユノーの顔にもわずかに笑みが浮かぶ。
 そう、今は傷ついたあの人の心が癒されるのを待つしかない。
 そして見えない均衡を保つしかない。
 思いながら、ユノーは改めて宝剣の重さを感じていた。

 大陸歴一四八年は、静かに終わろうとしていた。

     鎮魂曲 完
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