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青い涙
─7─別れ。そして……
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年が明けても、ボクらの生活は変わらなかった。
相変わらず彼は神官の長衣を着こんで、いつ終わるともしれない作業を続けている。
そしてボクは、寝台に丸まってそんな彼の姿を見つめている。
ふと、かりかりというペンが紙を削る音が止まった。
あわてて顔を上げると、彼が立ち上がり扉の方へ向かうのが見えた。
何事だろう。
瞬きするボクをよそに、彼は無言で扉を開く。
と、そこには、何やら包みを抱えた殿下が立っていた。
「どいてくれ。とにかく、中に入れろ」
「……わざわざのお運び、どういうことだ?」
そう言う彼の口元には、どこか斜に構えた笑みが浮かんでいる。
そう言えば孤児院からの帰り道で……。
「宴会、宴会。それがすんだら茶話会。一体あいつらは何を考えているんだ? まったく、ただの無駄遣いとしか思えない!」
殿下は深窓のお姫様らしからぬ大股で入って来るなりそう言い放つ。
扉を閉める彼に向かいテーブルの上にある物を片付けるよう、視線で命令した。
大当たりだろ? とでも言うようにボクを見てから、彼はテーブルの上を占領していた本と紙の束を寝台の上へと移動させる。
そうしてできあがった空間に、殿下は持ってきた荷物を広げ始めた。
銀の食器にティーセット。
もちろんそれは空ではなく、温かい湯気のたつ料理や菓子で満たされていた。
「……茶話会と宴会は無駄遣いと言ったのは、どこの誰だ?」
「さて、どこの誰だったかな」
そうはぐらかしてから、殿下は皿の一つを手に取り、寝台の上で固まっていたボクに歩み寄る。
そして、これはお前の分だ、と言って、それを床の上へと置いた。
「……わざわざ作らせたのか?」
「人間だけ食べて、こいつだけお預けという訳にもいかないだろう? 猫好きの侍女に教えてもらって、私が作った」
さて、遅まきながら新年の祝いといくか。
そう言う殿下を彼は呆れたように眺めていたが、やがてあきらめたようにつぶやいた。
「まるで、ままごとだな」
「腐るな。私の命令だ」
皿と殿下、そして彼をボクは代わる代わるみつめる。
やれやれ、とでもいうように彼がうなずくのを確認してから、ボクはすとん、と床へ降り立った。
「さて、始めるか。無礼講で構わないぞ」
「……酒も無いのに?」
「お前に酒は危険だ」
殿下の言葉に、珍しく彼はぐうの音も出ない。
どうやら今日は、彼にとって厄日らしい。
それを悟ってか、彼は不承不承椅子をひいた。
「あいにく俺は武骨な軍人で、執事じゃないからな。無作法で失礼する」
「だから、無礼講だと言っただろ?」
同時に室内には笑い声が響く。
たぶん、この家にきてから初めてのことだろう。
屈託なく笑う殿下。
どことなく居心地の悪そうな彼。
そんな二人の姿は、暖炉の光のせいも相まって、ボクにはとても、まぶしく見えた。
※
ささやかな宴が終わり、家には再び静けさが戻ってきた。
どうせまともな食事をとっていないんだろう、という殿下の配慮から、料理はすべて残っても日保ちがする物だった。
それを一通りまとめると、彼はボクに歩み寄る。
そしてボクをまじまじと見つめながら、言った。
「どうしたんだ? いつも大食らいのお前が……」
そう。
ありがたくもご相伴に預かったボクだったけれど、皿の中味は半分以上残っていた。
口に合わなかった、という訳ではない。
けれど……。
「どこか、具合でも悪いのか?」
言いながら彼は、不安げにボクの顔をのぞきこむ。
自分でも、なぜだか解らないよ。
首をかしげながらボクは寝台の上に飛び乗ろうとする。
けれど、とすん、といささか間抜け音と同時にボクは床へ落ちていた。
「……本当に、何してるんだ?」
呆れたように彼はボクを抱き上げると、寝台の上にのせる。
そして、今日は訳の解らないことばかりだ、と首をひねっていた。
※
それから、冬の日は穏やかに過ぎていった。
ボクは日がな一日、寝台の上で丸まって作業を続ける彼を見つめている。
時折彼は作業の手を止めてボクの方に視線を投げかけてくる。
そのたびボクは、大丈夫、と声を上げるのだけど、彼の顔から不安の色は消えない。
「本当に、どうしたんだ?」
立ち上がり、彼は、寝台の上のボクと床の上に置かれた皿とを見比べる。
「あれから全然食ってないじゃないか」
言いながら彼はボクの傍らに腰をおろすと、ボクを抱き上げ膝の上にのせた。
インクで汚れた暖かい手は、ボクの喉元、そして背を優しくなでる。
そして彼はつぶやくように言った。
熱は無いようだな、と。
室内には、弱々しいけれど柔らかな暖かい冬の光が差し込んでくる。
その日だまりの中で、ボクは小さくあくびをした。
とにかく、眠かった。
目を開けていたいのだけど、まぶたが重くて仕方がない。
けれど。
ボクは、顔を上げた。
背に置かれた彼の手が、わずかに震えていたからだ。
そう、まるで初めてこの家に来て、古ぼけた剣をなでていた時のように。
「しっかりしろよ……」
深い夜空のような彼の瞳が、ボクを見つめている。
相変わらず、どこか泣きそうな瞳が。
子ども頃と、全然変わっていないね。その寂しい目は。
鼻先にのびてきた彼の指先を、ボクはぺろりとなめた。
「……お前……一体……」
かすれた彼の声が、室内に響く。
その時、暖炉の薪が、ぱちん、とはぜた。
低い嗚咽が、彼の口からもれてくる。
堰を切ったかのように、涙が彼の頬を伝い落ちていた。
何を泣いているんだよ。君はもう大人だろう?
言おうとしたけれど、上手く力が入らない。
再び強い眠気が、ボクを襲った。
目を閉じようとしたボクを、彼は強く揺さぶった。
「冗談はやめろよ……俺は……」
本当に君は、変わってないね。
街で会った時のそのまんま。
全部一人で背負いこんで、本当は泣きたいのに、必死にその重さを我慢して。
「すぐに薬師の神官を呼んで来るから……だから……」
こんなに優しいのに、どこか不器用で危なっかしいところまで、あの時のまんま。
だからボクは、君を放って置けなかったんだ。
いつものように、彼はボクの頭をくしゃくしゃとかき回す。
それがなぜか、今は心地よかった。
彼の頬から、水滴がぽたぽたとボクの背中に落ちてくる。
だから、泣くなって。女々しいって殿下に笑われるよ?
一声上げてから、ボクは目を閉じた。
心地良い暖かさに包まれて。
眠りに落ちる前の刹那、彼がボクの体に顔を埋めてくるのを感じた。
ごめんね。春になったら、また君を待っているつもりだったんだけど……。
最後に一言、伝えておくね。
──今までありがとう。いつまでも一緒だよ。──
※
「まだこんな所にいたのか? 本隊はとっくに出たぞ」
歯切れの良い女性の声に、青年は振り返った。
癖のないセピアの髪が、風に揺れる。
「一日や二日、遅れてもどうってことないだろう。第一、俺の姿が見えない方が参謀どもは機嫌が良いんじゃないか?」
斜に構えた笑顔からもれてくる言葉は、どこか不自然で感情がない。
やれやれとでもいうようにため息をつくと、女性は青年を見つめた。
「参謀はともかく、お前がいるのといないのでは、戦況に関わる」
「生きて帰って来ても睨まれるだけだから、割りにあわないな」
「それは……」
「戯れ言だ。今日中には出る」
言いながら通り過ぎて行こうとする青年の腕を、女性は掴んだ。
「待て。猊下にはちゃんとご挨拶したんだろうな?」
「……何も今生の別れという訳じゃない」
素っ気なく言い放つと、青年は掴まれた腕を振りほどき、歩み始めた。
着いて来るな、との無言の圧力を感じたのか、女性は青年の後を追うのをやめた。
そして、視線を地面の一点に落とす。
「……お前の主人は、相変わらずだな」
そうつぶやくと、女性はそっとかがみこみ、小さな土饅頭を優しくなでる。
その前には、パンの欠片が錆びた銀の皿に置かれていた。
「じゃあ、私もおとなしく待つとしようか」
瞬間、彼女は周囲を見回した。
小さな猫の声が聞こえたような気がして。
「安心しろ。必ずあいつは帰ってくるさ」
何よりお前が待っているんだからな。
そう言って笑うと、女性はその場を後にした。
暖かな木漏れ日が降り注ぐ、その場所を……。
青い涙 完
相変わらず彼は神官の長衣を着こんで、いつ終わるともしれない作業を続けている。
そしてボクは、寝台に丸まってそんな彼の姿を見つめている。
ふと、かりかりというペンが紙を削る音が止まった。
あわてて顔を上げると、彼が立ち上がり扉の方へ向かうのが見えた。
何事だろう。
瞬きするボクをよそに、彼は無言で扉を開く。
と、そこには、何やら包みを抱えた殿下が立っていた。
「どいてくれ。とにかく、中に入れろ」
「……わざわざのお運び、どういうことだ?」
そう言う彼の口元には、どこか斜に構えた笑みが浮かんでいる。
そう言えば孤児院からの帰り道で……。
「宴会、宴会。それがすんだら茶話会。一体あいつらは何を考えているんだ? まったく、ただの無駄遣いとしか思えない!」
殿下は深窓のお姫様らしからぬ大股で入って来るなりそう言い放つ。
扉を閉める彼に向かいテーブルの上にある物を片付けるよう、視線で命令した。
大当たりだろ? とでも言うようにボクを見てから、彼はテーブルの上を占領していた本と紙の束を寝台の上へと移動させる。
そうしてできあがった空間に、殿下は持ってきた荷物を広げ始めた。
銀の食器にティーセット。
もちろんそれは空ではなく、温かい湯気のたつ料理や菓子で満たされていた。
「……茶話会と宴会は無駄遣いと言ったのは、どこの誰だ?」
「さて、どこの誰だったかな」
そうはぐらかしてから、殿下は皿の一つを手に取り、寝台の上で固まっていたボクに歩み寄る。
そして、これはお前の分だ、と言って、それを床の上へと置いた。
「……わざわざ作らせたのか?」
「人間だけ食べて、こいつだけお預けという訳にもいかないだろう? 猫好きの侍女に教えてもらって、私が作った」
さて、遅まきながら新年の祝いといくか。
そう言う殿下を彼は呆れたように眺めていたが、やがてあきらめたようにつぶやいた。
「まるで、ままごとだな」
「腐るな。私の命令だ」
皿と殿下、そして彼をボクは代わる代わるみつめる。
やれやれ、とでもいうように彼がうなずくのを確認してから、ボクはすとん、と床へ降り立った。
「さて、始めるか。無礼講で構わないぞ」
「……酒も無いのに?」
「お前に酒は危険だ」
殿下の言葉に、珍しく彼はぐうの音も出ない。
どうやら今日は、彼にとって厄日らしい。
それを悟ってか、彼は不承不承椅子をひいた。
「あいにく俺は武骨な軍人で、執事じゃないからな。無作法で失礼する」
「だから、無礼講だと言っただろ?」
同時に室内には笑い声が響く。
たぶん、この家にきてから初めてのことだろう。
屈託なく笑う殿下。
どことなく居心地の悪そうな彼。
そんな二人の姿は、暖炉の光のせいも相まって、ボクにはとても、まぶしく見えた。
※
ささやかな宴が終わり、家には再び静けさが戻ってきた。
どうせまともな食事をとっていないんだろう、という殿下の配慮から、料理はすべて残っても日保ちがする物だった。
それを一通りまとめると、彼はボクに歩み寄る。
そしてボクをまじまじと見つめながら、言った。
「どうしたんだ? いつも大食らいのお前が……」
そう。
ありがたくもご相伴に預かったボクだったけれど、皿の中味は半分以上残っていた。
口に合わなかった、という訳ではない。
けれど……。
「どこか、具合でも悪いのか?」
言いながら彼は、不安げにボクの顔をのぞきこむ。
自分でも、なぜだか解らないよ。
首をかしげながらボクは寝台の上に飛び乗ろうとする。
けれど、とすん、といささか間抜け音と同時にボクは床へ落ちていた。
「……本当に、何してるんだ?」
呆れたように彼はボクを抱き上げると、寝台の上にのせる。
そして、今日は訳の解らないことばかりだ、と首をひねっていた。
※
それから、冬の日は穏やかに過ぎていった。
ボクは日がな一日、寝台の上で丸まって作業を続ける彼を見つめている。
時折彼は作業の手を止めてボクの方に視線を投げかけてくる。
そのたびボクは、大丈夫、と声を上げるのだけど、彼の顔から不安の色は消えない。
「本当に、どうしたんだ?」
立ち上がり、彼は、寝台の上のボクと床の上に置かれた皿とを見比べる。
「あれから全然食ってないじゃないか」
言いながら彼はボクの傍らに腰をおろすと、ボクを抱き上げ膝の上にのせた。
インクで汚れた暖かい手は、ボクの喉元、そして背を優しくなでる。
そして彼はつぶやくように言った。
熱は無いようだな、と。
室内には、弱々しいけれど柔らかな暖かい冬の光が差し込んでくる。
その日だまりの中で、ボクは小さくあくびをした。
とにかく、眠かった。
目を開けていたいのだけど、まぶたが重くて仕方がない。
けれど。
ボクは、顔を上げた。
背に置かれた彼の手が、わずかに震えていたからだ。
そう、まるで初めてこの家に来て、古ぼけた剣をなでていた時のように。
「しっかりしろよ……」
深い夜空のような彼の瞳が、ボクを見つめている。
相変わらず、どこか泣きそうな瞳が。
子ども頃と、全然変わっていないね。その寂しい目は。
鼻先にのびてきた彼の指先を、ボクはぺろりとなめた。
「……お前……一体……」
かすれた彼の声が、室内に響く。
その時、暖炉の薪が、ぱちん、とはぜた。
低い嗚咽が、彼の口からもれてくる。
堰を切ったかのように、涙が彼の頬を伝い落ちていた。
何を泣いているんだよ。君はもう大人だろう?
言おうとしたけれど、上手く力が入らない。
再び強い眠気が、ボクを襲った。
目を閉じようとしたボクを、彼は強く揺さぶった。
「冗談はやめろよ……俺は……」
本当に君は、変わってないね。
街で会った時のそのまんま。
全部一人で背負いこんで、本当は泣きたいのに、必死にその重さを我慢して。
「すぐに薬師の神官を呼んで来るから……だから……」
こんなに優しいのに、どこか不器用で危なっかしいところまで、あの時のまんま。
だからボクは、君を放って置けなかったんだ。
いつものように、彼はボクの頭をくしゃくしゃとかき回す。
それがなぜか、今は心地よかった。
彼の頬から、水滴がぽたぽたとボクの背中に落ちてくる。
だから、泣くなって。女々しいって殿下に笑われるよ?
一声上げてから、ボクは目を閉じた。
心地良い暖かさに包まれて。
眠りに落ちる前の刹那、彼がボクの体に顔を埋めてくるのを感じた。
ごめんね。春になったら、また君を待っているつもりだったんだけど……。
最後に一言、伝えておくね。
──今までありがとう。いつまでも一緒だよ。──
※
「まだこんな所にいたのか? 本隊はとっくに出たぞ」
歯切れの良い女性の声に、青年は振り返った。
癖のないセピアの髪が、風に揺れる。
「一日や二日、遅れてもどうってことないだろう。第一、俺の姿が見えない方が参謀どもは機嫌が良いんじゃないか?」
斜に構えた笑顔からもれてくる言葉は、どこか不自然で感情がない。
やれやれとでもいうようにため息をつくと、女性は青年を見つめた。
「参謀はともかく、お前がいるのといないのでは、戦況に関わる」
「生きて帰って来ても睨まれるだけだから、割りにあわないな」
「それは……」
「戯れ言だ。今日中には出る」
言いながら通り過ぎて行こうとする青年の腕を、女性は掴んだ。
「待て。猊下にはちゃんとご挨拶したんだろうな?」
「……何も今生の別れという訳じゃない」
素っ気なく言い放つと、青年は掴まれた腕を振りほどき、歩み始めた。
着いて来るな、との無言の圧力を感じたのか、女性は青年の後を追うのをやめた。
そして、視線を地面の一点に落とす。
「……お前の主人は、相変わらずだな」
そうつぶやくと、女性はそっとかがみこみ、小さな土饅頭を優しくなでる。
その前には、パンの欠片が錆びた銀の皿に置かれていた。
「じゃあ、私もおとなしく待つとしようか」
瞬間、彼女は周囲を見回した。
小さな猫の声が聞こえたような気がして。
「安心しろ。必ずあいつは帰ってくるさ」
何よりお前が待っているんだからな。
そう言って笑うと、女性はその場を後にした。
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