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DOUBT-1
DOUBT
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僕の新しいお母さんは、びっくりするほど綺麗で、しかも若い。
僕の本当のママ、つまり産みの母親が病気で死んじゃったのは、僕が幼稚園の頃だ。それから7年もの間、パパと父子二人だけの寂しい男所帯だったから、いつも優しくて剽軽なパパが初めて見せる怖いぐらい真剣な表情で、再婚してもいいかと訊ねてきたとき、僕は喜んで頷いた。
ホントのこと言うと、喜んだ振りをした。
パパと新しいお母さんとは、会社の仕事の関係で知り合ったんだそうだ。いつから付き合い始めたかは聞いていないけど、パパは多分、ずっと前からお母さんを家に迎え入れたかったんだと思う。でも、子供の僕を動揺させないために言い出せずにいたんだ。
だけど僕だって、今年は小学校の最高学年。歴史の授業で習ったけど、戦国時代には、今の五年生の年齢で元服(成人式)を迎えたという。僕はそれよりも一つ年上だ。新しいお母さんとも、ちゃんと大人として上手く付き合ってみせる。漫画やドラマに出てくるみたいな、新しいお母さんに懐かず反抗ばかりする我儘で頭の悪い子になってパパを困らせたりなんかしない。
そう決めていたんだけど。そのつもりではいたんだけど。
僕は、新しいお母さんが、怖い。
二、三日前のことだ。
夜、一度はベッドに入ったんだけど、喉が渇いてしまって、部屋を出て、台所に飲み物を取りに行こうとした。足音を忍ばせて一階に降りるとパパとお母さんはまだ起きていて、リビングでお茶を飲み、雑談しながらテレビのニュースとか見ていた。
僕は灯りをつけないままの踊り場で、リビングへ続くドアのノブに手をかけたまま、じっとしていた。パパとお母さんの、こんな会話が聞こえてしまったからだ。
本当にあなたは優柔不断なのよ。要らないものは、とっとと処分しなきゃ。
おまえ、そうは言うけどな。これでも10年以上も大事に見守ってきたんだ。
たとえそうだとしたって、いまはお荷物以外のなにものでもないわ。
パパもお母さんも、僕が薄いドア一枚隔てただけの、数メートルしか離れていない暗がりのなかで二人の会話を聞いているなんて思ってもいやしない。
いま、六年生なのよ。これから幾らお金が必要になると思ってるの?
それからなにかくぐもった小さな声でパパがなにか言ったみたいだけど、よく聞き取れなかった。
僕は、喉が渇いていることも忘れて、そっと部屋に引き返した。
背中が、イヤな汗で濡れていた。
処分。要らないもの。もう六年生。
それは、僕のことだ。
だって、パパが言っていたんだ。新しいお母さんのお腹のなかには、赤ちゃんがいるって。僕の弟か妹。でも、それを聞いたとき、どうしてだか分からないけど僕はあんまり嬉しいと思わなかった。
「おーい、ワタル。おまえのターンだぞ。なにぼーっとしてんだよ」
声を掛けられて我に返った。
僕は手札から妖怪を召喚し、後衛に置いた。そうだ、今日は久しぶりに数馬兄ちゃんが遊びに来てくれていたんだ。
「飽きたんだったら、なにか別のことやろっか?」
僕を気遣うみたいな言い方しているけど、カードゲームに飽きたのはきっと数馬兄ちゃんのほうだ。小学生がやる遊びなんて、大人には詰まらないだろう。数馬兄ちゃんは優しいから、そんなこと口に出しては言わないけど。
「ワタルの新しいお母さん、会いたかったなあ。美人だそうじゃないか」
新しいお母さんが来て、今日で一ヶ月くらいが経っていた。
僕は喉の奥で適当に返事をして、本棚からトレカ(トレーディングカード)の分厚いファイルを取り出し、ページをめくり始めた。
今日はパパとお母さんは隣町の親戚の家に挨拶に出掛けていて夜まで帰って来ない。
「ワタル、喉が渇いた。冷蔵庫からなにか飲み物取って来てくれよ」
床に寝そべった数馬兄ちゃんの長い脚が、僕の腰の辺りをつんつん蹴る。僕はトレカのファイルを眺めるのに忙しかったので、顔もあげないで応えた。
「えー。自分で勝手に取りに行けばいいじゃん。自分ちみたいなもんなんだから」
さすがにお母さんが家に居たら、僕だって数馬兄ちゃんに一人で台所に行けなんて言わない。
うわあ、意地悪なヤツだなあ、とかなんとか呟きながら、億劫そうに立ち上がり、部屋を出て行く数馬兄ちゃんの背中をチラ見して、くすっと笑ってしまった。トントントンっと軽快に階段を降りて行く音に耳を澄ませる。
大学生の数馬兄ちゃんは、近所に住んでいるわけでも、親戚のお兄ちゃんでもない。小学校三年生のときからの僕の親友、タカトのお兄ちゃんだ。いや、お兄ちゃんだった。タカトは去年、塾の帰りに交通事故で亡くなったのだ。
タカトが生きている頃は、数馬兄ちゃんと僕はそんなに親しい間柄ではなかった。タカトの家にはしょっちゅう遊びに行っていたけど、数馬兄ちゃんは家に居ないことが多かったし、家に居たって、大学生は小学生の僕らと遊んでなんかくれない。顔を合わせてもせいぜい挨拶をする程度だった。
でも、タカトは数馬兄ちゃんが自慢で、宿題を教えて貰ったこととか、なかなか先に進めないゲームのステージでもたもたしていたら、お兄ちゃんがスっと隣に座ってあっという間に全クリした、なんていう話を自分の手柄みたいに話すから、僕はそれ程関心がないみたいな態度で聞いてはいても、内心ではタカトが羨ましくて仕方なかった。
タカトはいいヤツだった。三年生のクラス替えで同じクラスになって、タカトと僕はあっという間に意気投合した。屈託がなくて明るくて、冗談ばかり言っていつも周りの皆を笑わせていた。そんなタカトが突然に死んでしまうなんて。
タカトのお葬式には、クラスの全員で参列した。タカトは人気者だったから皆が泣いていた。特に、タカトと僕と三人で遊んだり宿題をすることが多かった北条くんは、すごく泣いて泣いて呼吸が出来なくなっちゃって、担任の先生が車で家まで送って行ったくらいだ。お焼香のとき、僕はこっそりお兄ちゃんを目で探したけど、見つからなかった。多分、北条くんと同じくらい、いや、家族なんだからそれ以上だと思うけど、ショック過ぎてその場に居ることが出来なかったに違いない。それくらい兄弟仲が良かったんだ。
タカトが亡くなって一ヶ月くらいのときだったと思う、僕と北条くんは学校帰りに数馬兄ちゃんに呼び止められた。数馬兄ちゃんは僕ら二人を喫茶店に連れて行き、ケーキとジュースをご馳走してくれ、それから、手にしていた大きな紙袋から取り出した携帯ゲーム機とトレーディングカードの分厚いファイルを北条くんと僕にくれた。タカトの宝物を、いちばん仲の良かったきみたちに形見として貰って欲しい、そう言って、数馬兄ちゃんがハンカチを目に押し当てるのを見て、北条くんは喫茶店だというのにわんわん泣いて、僕も泣いた。
それ以来、数馬兄ちゃんは僕たちによく連絡をくれ、一緒に遊んでくれるようになった。キャッチボールをしたり、ゲームをしたり。数馬兄ちゃんは背が高くてカッコよくて頭もいい。サッカーも超巧くて、リフティングの技とかも教えてくれる。それになにより優しい。
北条くんは親が厳しくて学習塾のほかにも絵とか水泳とかの習い事をさせられていて、数馬兄ちゃんとはそんなに会えないので、いつも残念がっている。北条くんに申し訳ないと思いながらも、数馬兄ちゃんを独り占め出来ることが僕はなんだか嬉しかった。
最初のうちは、ワタルくん、数馬お兄さん、と呼び合っていたけど、互いへの呼び方が砕けたものになるのにそう時間はかからなかった。
病気と事故の違いはあっても、ママを失くしている僕と、弟を失くした数馬兄ちゃんは、どこか気持ちが通じるというか、数馬兄ちゃんは僕にタカトの面影を重ねているところがあるみたいで、ときどき、黙ったまま僕のことをじっと見ている。どうしたの、って訊くと、ちょっと赤くなって慌てて視線を逸らす。だから僕は、数馬兄ちゃんが僕のことを見つめていても気づかない振りをするようにしている。
数馬兄ちゃんが部屋に戻ってきた。手にしたトレイに、氷と麦茶を入れたグラスが二つ載っている。なんだかんだ文句を言いながらも、ちゃんと僕の分も持って来てくれる数馬兄ちゃんが好きだ。
「ワタルお坊ちゃま、午後のお茶をお持ち致しました」
「ご苦労、爺」
誰が爺じゃーと数馬兄ちゃんが僕をカーペットの上に押し倒してお腹をくすぐるので、僕は声をあげて笑ってしまった。僕は時々、数馬兄ちゃんのことを本当のお兄ちゃんなんだと錯覚しそうになるときがある。ちょうど今みたいなときだ。
タカトが死んでしまったことは本当に悲しくて辛いけど、トレーディングカードがぱんぱんに入ったファイルよりも素晴らしいものを、タカトは僕に遺していってくれた。
本当はパパたちが帰って来るまで一緒に居て欲しかったけど、大学の友達から急な呼び出しが入ったとかで、数馬兄ちゃんは夕方の六時頃、申し訳なさそうに帰って行った。それから二時間くらいして、パパとお母さんが戻って来た。
パパは、お土産にお寿司を買ってきてくれていた。いつもなら飛びついて食べるところだけど、今日もそうしていいものかどうか、つい新しいお母さんの顔色を伺ってしまう。
案の定、新しいお母さんはパパの顔と、手にした寿司折を交互に見たあと、いつもの醒めた声で僕に言った。
「お夕飯は、オムライスを用意してあったでしょう。レンジで温めて食べるようにメモを書いておいた筈だけど、ワタルくん、食べなかったの?」
お母さんは、顔は美人だけど、冷たい感じで、あまり表情を変えない。声をあげて笑っているところも僕は見たことがない。
僕は何て答えたらいいか分からず、黙ってしまった。
数馬兄ちゃんが帰った後、お母さんが作ってくれたオムライスを確かに食べたけど、チキンライスのケチャップの量が足りないのか、僕好みの味ではなかった。苦手なグリーンピースもたくさん入っていて、独特の薬っぽい匂いがした。なんとか半分くらい食べたけど結局、残してしまった。残した分は、そのまま家のゴミ箱に捨てたらお母さんに見つかってしまうので、コンビニのレジ袋に何重にも包んで、外の集積所まで捨てに行った。
昔、ママが作ってくれたオムライスは、グリーンピースなんか入っていなくて、もっとケチャップの甘くて優しい味がした。
「お夕飯を食べたのに、こんな時間にお寿司だなんて。いま、小学生の肥満が問題になっているのに、あなたってほんとに無頓着なんだから」
台詞の前半は僕に、後半はパパに対しての苦言で、パパは困ったような顔で、曖昧に笑った。ホワイトオークのダイニングチェアに腰掛けたり立ち上がったりして、うーむ、この椅子はやっぱり脚がぐらぐらしてる、修理に出すか買い換えなきゃダメだなーなんて、状況を誤魔化すみたいにぶつぶつ独り言を呟いたりして。
「それもそうだな。ワタル、お寿司は冷蔵庫に入れておいて、明日一緒に食べよう」
そう言われてしまったら、僕も頷くしかなかった。パパはお母さんに頭が上がらないみたいだ。
まだ同居して一ヶ月そこそこなのに、もうお母さんと僕はぎくしゃくしている。ついこの間も、学校から帰って喉が渇いたので冷蔵庫からコーラを出して飲もうとしたら、それを見咎められた。そんなものを飲んでいたらカルシウム摂取が阻害されて成長が止まるのよ。お父さんはこれまで何にも言わなかったの?と、まるで現行犯で泥棒でも捕まえたみたいに言うので、僕はその場で固まってしまった。パパにそんなことを言われたことなんか一度もない。パパの好きなビールと僕の好きなコーラは、うちの冷蔵庫のマストアイテムだ。これまでは。
でも、これからは新しいお母さんが、うちのルールを変えていくのかも知れない。
「そうそう、ワタルくん。お父さんと話し合ったのだけれど」
お母さんが、ちょっとだけ優しい声で言う。
「この前、コーラは子供の成長によくないからダメって言ったけれど、いきなり全面禁止はあなたも辛いでしょうから、一日一杯だけなら飲んでいいことにするわ」
急に僕の機嫌を取るみたいな口調が、なんだかワザとらしい。パパが、良かったな、ワタル、なんてお母さんを援護するみたいに言ってるけど、ちっともよくなんかない。
「どうしたの、飲みたくないの?」
なんだかすっかり気持ちが萎んでいてコーラが欲しい気分ではなかったけど、飲まないとお母さんに反抗しているみたいな雰囲気になってしまう。
「じゃあ、一杯だけ」
冷蔵庫から2リットルのペットボトルを取り出すと、小さなグラスにコーラを注ぐ。既に封を切ってあったボトルからは、炭酸の抜け出るシュっという間抜けな音がした。
一日に一杯だけって。この家でコーラを飲むのは僕だけだから、一人で2リットルを飲みきる頃には、炭酸なんか完全に抜けてしまっている筈だ。それでは、美味しくもなんともない。
僕はグラスには口をつけないまま、それを手に、二階の自分の部屋に戻った。なんでだろう、ちょっとだけ涙が出そうになる。別に新しいお母さんは僕が嫌いだから意地悪をしているんじゃない。絶対だ。それは分かってる。
鏡を見ると、鼻の頭を赤くした今にも泣きそうなナサケない僕の顔が映る。
気持ちを切り替えるつもりで、すっかりぬるくなってしまったコーラを、一気に飲み干した。
その晩、僕は何度も何度も吐いて、夜中にパパの車で病院に運ばれた。
僕の本当のママ、つまり産みの母親が病気で死んじゃったのは、僕が幼稚園の頃だ。それから7年もの間、パパと父子二人だけの寂しい男所帯だったから、いつも優しくて剽軽なパパが初めて見せる怖いぐらい真剣な表情で、再婚してもいいかと訊ねてきたとき、僕は喜んで頷いた。
ホントのこと言うと、喜んだ振りをした。
パパと新しいお母さんとは、会社の仕事の関係で知り合ったんだそうだ。いつから付き合い始めたかは聞いていないけど、パパは多分、ずっと前からお母さんを家に迎え入れたかったんだと思う。でも、子供の僕を動揺させないために言い出せずにいたんだ。
だけど僕だって、今年は小学校の最高学年。歴史の授業で習ったけど、戦国時代には、今の五年生の年齢で元服(成人式)を迎えたという。僕はそれよりも一つ年上だ。新しいお母さんとも、ちゃんと大人として上手く付き合ってみせる。漫画やドラマに出てくるみたいな、新しいお母さんに懐かず反抗ばかりする我儘で頭の悪い子になってパパを困らせたりなんかしない。
そう決めていたんだけど。そのつもりではいたんだけど。
僕は、新しいお母さんが、怖い。
二、三日前のことだ。
夜、一度はベッドに入ったんだけど、喉が渇いてしまって、部屋を出て、台所に飲み物を取りに行こうとした。足音を忍ばせて一階に降りるとパパとお母さんはまだ起きていて、リビングでお茶を飲み、雑談しながらテレビのニュースとか見ていた。
僕は灯りをつけないままの踊り場で、リビングへ続くドアのノブに手をかけたまま、じっとしていた。パパとお母さんの、こんな会話が聞こえてしまったからだ。
本当にあなたは優柔不断なのよ。要らないものは、とっとと処分しなきゃ。
おまえ、そうは言うけどな。これでも10年以上も大事に見守ってきたんだ。
たとえそうだとしたって、いまはお荷物以外のなにものでもないわ。
パパもお母さんも、僕が薄いドア一枚隔てただけの、数メートルしか離れていない暗がりのなかで二人の会話を聞いているなんて思ってもいやしない。
いま、六年生なのよ。これから幾らお金が必要になると思ってるの?
それからなにかくぐもった小さな声でパパがなにか言ったみたいだけど、よく聞き取れなかった。
僕は、喉が渇いていることも忘れて、そっと部屋に引き返した。
背中が、イヤな汗で濡れていた。
処分。要らないもの。もう六年生。
それは、僕のことだ。
だって、パパが言っていたんだ。新しいお母さんのお腹のなかには、赤ちゃんがいるって。僕の弟か妹。でも、それを聞いたとき、どうしてだか分からないけど僕はあんまり嬉しいと思わなかった。
「おーい、ワタル。おまえのターンだぞ。なにぼーっとしてんだよ」
声を掛けられて我に返った。
僕は手札から妖怪を召喚し、後衛に置いた。そうだ、今日は久しぶりに数馬兄ちゃんが遊びに来てくれていたんだ。
「飽きたんだったら、なにか別のことやろっか?」
僕を気遣うみたいな言い方しているけど、カードゲームに飽きたのはきっと数馬兄ちゃんのほうだ。小学生がやる遊びなんて、大人には詰まらないだろう。数馬兄ちゃんは優しいから、そんなこと口に出しては言わないけど。
「ワタルの新しいお母さん、会いたかったなあ。美人だそうじゃないか」
新しいお母さんが来て、今日で一ヶ月くらいが経っていた。
僕は喉の奥で適当に返事をして、本棚からトレカ(トレーディングカード)の分厚いファイルを取り出し、ページをめくり始めた。
今日はパパとお母さんは隣町の親戚の家に挨拶に出掛けていて夜まで帰って来ない。
「ワタル、喉が渇いた。冷蔵庫からなにか飲み物取って来てくれよ」
床に寝そべった数馬兄ちゃんの長い脚が、僕の腰の辺りをつんつん蹴る。僕はトレカのファイルを眺めるのに忙しかったので、顔もあげないで応えた。
「えー。自分で勝手に取りに行けばいいじゃん。自分ちみたいなもんなんだから」
さすがにお母さんが家に居たら、僕だって数馬兄ちゃんに一人で台所に行けなんて言わない。
うわあ、意地悪なヤツだなあ、とかなんとか呟きながら、億劫そうに立ち上がり、部屋を出て行く数馬兄ちゃんの背中をチラ見して、くすっと笑ってしまった。トントントンっと軽快に階段を降りて行く音に耳を澄ませる。
大学生の数馬兄ちゃんは、近所に住んでいるわけでも、親戚のお兄ちゃんでもない。小学校三年生のときからの僕の親友、タカトのお兄ちゃんだ。いや、お兄ちゃんだった。タカトは去年、塾の帰りに交通事故で亡くなったのだ。
タカトが生きている頃は、数馬兄ちゃんと僕はそんなに親しい間柄ではなかった。タカトの家にはしょっちゅう遊びに行っていたけど、数馬兄ちゃんは家に居ないことが多かったし、家に居たって、大学生は小学生の僕らと遊んでなんかくれない。顔を合わせてもせいぜい挨拶をする程度だった。
でも、タカトは数馬兄ちゃんが自慢で、宿題を教えて貰ったこととか、なかなか先に進めないゲームのステージでもたもたしていたら、お兄ちゃんがスっと隣に座ってあっという間に全クリした、なんていう話を自分の手柄みたいに話すから、僕はそれ程関心がないみたいな態度で聞いてはいても、内心ではタカトが羨ましくて仕方なかった。
タカトはいいヤツだった。三年生のクラス替えで同じクラスになって、タカトと僕はあっという間に意気投合した。屈託がなくて明るくて、冗談ばかり言っていつも周りの皆を笑わせていた。そんなタカトが突然に死んでしまうなんて。
タカトのお葬式には、クラスの全員で参列した。タカトは人気者だったから皆が泣いていた。特に、タカトと僕と三人で遊んだり宿題をすることが多かった北条くんは、すごく泣いて泣いて呼吸が出来なくなっちゃって、担任の先生が車で家まで送って行ったくらいだ。お焼香のとき、僕はこっそりお兄ちゃんを目で探したけど、見つからなかった。多分、北条くんと同じくらい、いや、家族なんだからそれ以上だと思うけど、ショック過ぎてその場に居ることが出来なかったに違いない。それくらい兄弟仲が良かったんだ。
タカトが亡くなって一ヶ月くらいのときだったと思う、僕と北条くんは学校帰りに数馬兄ちゃんに呼び止められた。数馬兄ちゃんは僕ら二人を喫茶店に連れて行き、ケーキとジュースをご馳走してくれ、それから、手にしていた大きな紙袋から取り出した携帯ゲーム機とトレーディングカードの分厚いファイルを北条くんと僕にくれた。タカトの宝物を、いちばん仲の良かったきみたちに形見として貰って欲しい、そう言って、数馬兄ちゃんがハンカチを目に押し当てるのを見て、北条くんは喫茶店だというのにわんわん泣いて、僕も泣いた。
それ以来、数馬兄ちゃんは僕たちによく連絡をくれ、一緒に遊んでくれるようになった。キャッチボールをしたり、ゲームをしたり。数馬兄ちゃんは背が高くてカッコよくて頭もいい。サッカーも超巧くて、リフティングの技とかも教えてくれる。それになにより優しい。
北条くんは親が厳しくて学習塾のほかにも絵とか水泳とかの習い事をさせられていて、数馬兄ちゃんとはそんなに会えないので、いつも残念がっている。北条くんに申し訳ないと思いながらも、数馬兄ちゃんを独り占め出来ることが僕はなんだか嬉しかった。
最初のうちは、ワタルくん、数馬お兄さん、と呼び合っていたけど、互いへの呼び方が砕けたものになるのにそう時間はかからなかった。
病気と事故の違いはあっても、ママを失くしている僕と、弟を失くした数馬兄ちゃんは、どこか気持ちが通じるというか、数馬兄ちゃんは僕にタカトの面影を重ねているところがあるみたいで、ときどき、黙ったまま僕のことをじっと見ている。どうしたの、って訊くと、ちょっと赤くなって慌てて視線を逸らす。だから僕は、数馬兄ちゃんが僕のことを見つめていても気づかない振りをするようにしている。
数馬兄ちゃんが部屋に戻ってきた。手にしたトレイに、氷と麦茶を入れたグラスが二つ載っている。なんだかんだ文句を言いながらも、ちゃんと僕の分も持って来てくれる数馬兄ちゃんが好きだ。
「ワタルお坊ちゃま、午後のお茶をお持ち致しました」
「ご苦労、爺」
誰が爺じゃーと数馬兄ちゃんが僕をカーペットの上に押し倒してお腹をくすぐるので、僕は声をあげて笑ってしまった。僕は時々、数馬兄ちゃんのことを本当のお兄ちゃんなんだと錯覚しそうになるときがある。ちょうど今みたいなときだ。
タカトが死んでしまったことは本当に悲しくて辛いけど、トレーディングカードがぱんぱんに入ったファイルよりも素晴らしいものを、タカトは僕に遺していってくれた。
本当はパパたちが帰って来るまで一緒に居て欲しかったけど、大学の友達から急な呼び出しが入ったとかで、数馬兄ちゃんは夕方の六時頃、申し訳なさそうに帰って行った。それから二時間くらいして、パパとお母さんが戻って来た。
パパは、お土産にお寿司を買ってきてくれていた。いつもなら飛びついて食べるところだけど、今日もそうしていいものかどうか、つい新しいお母さんの顔色を伺ってしまう。
案の定、新しいお母さんはパパの顔と、手にした寿司折を交互に見たあと、いつもの醒めた声で僕に言った。
「お夕飯は、オムライスを用意してあったでしょう。レンジで温めて食べるようにメモを書いておいた筈だけど、ワタルくん、食べなかったの?」
お母さんは、顔は美人だけど、冷たい感じで、あまり表情を変えない。声をあげて笑っているところも僕は見たことがない。
僕は何て答えたらいいか分からず、黙ってしまった。
数馬兄ちゃんが帰った後、お母さんが作ってくれたオムライスを確かに食べたけど、チキンライスのケチャップの量が足りないのか、僕好みの味ではなかった。苦手なグリーンピースもたくさん入っていて、独特の薬っぽい匂いがした。なんとか半分くらい食べたけど結局、残してしまった。残した分は、そのまま家のゴミ箱に捨てたらお母さんに見つかってしまうので、コンビニのレジ袋に何重にも包んで、外の集積所まで捨てに行った。
昔、ママが作ってくれたオムライスは、グリーンピースなんか入っていなくて、もっとケチャップの甘くて優しい味がした。
「お夕飯を食べたのに、こんな時間にお寿司だなんて。いま、小学生の肥満が問題になっているのに、あなたってほんとに無頓着なんだから」
台詞の前半は僕に、後半はパパに対しての苦言で、パパは困ったような顔で、曖昧に笑った。ホワイトオークのダイニングチェアに腰掛けたり立ち上がったりして、うーむ、この椅子はやっぱり脚がぐらぐらしてる、修理に出すか買い換えなきゃダメだなーなんて、状況を誤魔化すみたいにぶつぶつ独り言を呟いたりして。
「それもそうだな。ワタル、お寿司は冷蔵庫に入れておいて、明日一緒に食べよう」
そう言われてしまったら、僕も頷くしかなかった。パパはお母さんに頭が上がらないみたいだ。
まだ同居して一ヶ月そこそこなのに、もうお母さんと僕はぎくしゃくしている。ついこの間も、学校から帰って喉が渇いたので冷蔵庫からコーラを出して飲もうとしたら、それを見咎められた。そんなものを飲んでいたらカルシウム摂取が阻害されて成長が止まるのよ。お父さんはこれまで何にも言わなかったの?と、まるで現行犯で泥棒でも捕まえたみたいに言うので、僕はその場で固まってしまった。パパにそんなことを言われたことなんか一度もない。パパの好きなビールと僕の好きなコーラは、うちの冷蔵庫のマストアイテムだ。これまでは。
でも、これからは新しいお母さんが、うちのルールを変えていくのかも知れない。
「そうそう、ワタルくん。お父さんと話し合ったのだけれど」
お母さんが、ちょっとだけ優しい声で言う。
「この前、コーラは子供の成長によくないからダメって言ったけれど、いきなり全面禁止はあなたも辛いでしょうから、一日一杯だけなら飲んでいいことにするわ」
急に僕の機嫌を取るみたいな口調が、なんだかワザとらしい。パパが、良かったな、ワタル、なんてお母さんを援護するみたいに言ってるけど、ちっともよくなんかない。
「どうしたの、飲みたくないの?」
なんだかすっかり気持ちが萎んでいてコーラが欲しい気分ではなかったけど、飲まないとお母さんに反抗しているみたいな雰囲気になってしまう。
「じゃあ、一杯だけ」
冷蔵庫から2リットルのペットボトルを取り出すと、小さなグラスにコーラを注ぐ。既に封を切ってあったボトルからは、炭酸の抜け出るシュっという間抜けな音がした。
一日に一杯だけって。この家でコーラを飲むのは僕だけだから、一人で2リットルを飲みきる頃には、炭酸なんか完全に抜けてしまっている筈だ。それでは、美味しくもなんともない。
僕はグラスには口をつけないまま、それを手に、二階の自分の部屋に戻った。なんでだろう、ちょっとだけ涙が出そうになる。別に新しいお母さんは僕が嫌いだから意地悪をしているんじゃない。絶対だ。それは分かってる。
鏡を見ると、鼻の頭を赤くした今にも泣きそうなナサケない僕の顔が映る。
気持ちを切り替えるつもりで、すっかりぬるくなってしまったコーラを、一気に飲み干した。
その晩、僕は何度も何度も吐いて、夜中にパパの車で病院に運ばれた。
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