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其の肆 冥戦剣変◆不破
飛竜烈伝 守の巻
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闇隠弐に身をやつし、獅子王と名乗る以前のかれの名は、不破主殿(ふわ・とのも)という。代々、神子上に仕えた武士の家系である。
かれの曽祖父の代に、不破の家は何らかの不祥事を起こした。過去の戦での功績故に、何とかお家の取り潰しは免れたものの、主君、神子上の温情に因って、辛うじて息を永らえていたに過ぎぬ。かれ、獅子王こと不破は、そんな過去の軋轢を、生まれながらにして背負っていた。
折りも折、長く子宝に恵まれなかった神子上に、嫡男が誕生した。家臣の間ですら石女(うまずめ)と真しやかに噂されていた正室の子ではない。傾国の美貌を持った、若い側室の子であった。それが紹巴である。
産後の肥立ちの悪さ故か、若い母親は、子を産み落として程なく世を去った。正室は、世継ぎを産むことの出来ぬ己れを恥じてか、或いは下賎の出に過ぎぬ側室如きに先を越されたことを苦にしてか、ある晩、喉を突いて自害し果てた。時を経ずして、病弱だった主君も亡くなった。
ともあれ、どういう巡りあわせか、不破は、生まれたばかりの主君の近侍として、城に上がることとなったのである。もっとも、紹巴の周囲は、何人もの守り役、老獪な男たちが固めていた。故に、むしろ不破の仕事は、守り役というよりは、最も主君の近くにいる護衛であり遊び相手、学友という立場であったというほうが正しい。
新たな主君となった神子上紹巴、かれが成長していくにつれ、保護者のような感情を持って(もっとも、家臣という身であれば、その言葉を口に出来よう筈もなかったが)かれを見守っていた不破は、いつしか、強い賛美に似た気持ちを抱くようになった。紹巴は、産みの母親の絶世の美貌をそのままに受け継いでいた。そして父親からは正しい血統の気高さと誇りを。更にかれは歳に見合わぬ、ずば抜けて利発な子供だった。紹巴より十も年長でありながら、学問の面で不破は紹巴に一度も敵うことがなかった。乗馬も、剣も、紹巴は驚く程に易々とこなした。紹巴にとって、あらゆることは、一度教えられれば、それで十分だった。指南役の者は皆、かれこそは百年に一人の逸材、天才だと舌を巻いたものである。
だが、同時に、かれの癇症は幼い時分より既にその片鱗を見せていた。
紹巴は、目に入る限りの小動物の命を奪うことに異常な程の執着を見せたのである。それも考えうる限りの残虐なやり方で。虫や小鳥。往来を行く罪の無い犬でさえ、紹巴の狂気にも似た殺意から逃れることは出来なかった。
行き着く果ての見えぬ紹巴の殺意の迸り、それは、かれの精神の不安定さに因るものだったのかも知れぬ。不破は、紹巴が白い指を血に染めるその都度、心を痛めた。紹巴の殺意が、いつか人間(ひと)に向けられるに違いないことを危惧していた。
紹巴と飛竜との出会い。
その日は、不破にとって、決して忘れることの出来ぬ一日となった。拭い去ることの叶わぬ、余りにも鮮明な記憶。
何がそれほどまでに紹巴を駆り立てるのか、幾日か前から傍目にもそれと分かるほど落ち着きを無くしていたかれは、不破一人を供に連れ、狩猟に出かけた。
手負いの小鹿を追い、常ならば滅多に足を踏み入れぬ山の奥深くに馬を進めたとき、藪を抜けたかれらの目の前に、一人の子供が姿を現したのだ。
紹巴の放った矢に傷つけられた瀕死の小鹿を後ろに庇うようにして、少年は立ちはだかっていた。
薄汚れたその身形(みなり)は、猟師か炭焼きの子にしか見えぬ。突然、藪のなかから現れた、馬に跨った二人の侍を目にしてさえ、図々しくも少年は慌てる気配も無い。
小僧、そこを退け。
不破は馬を降り、一喝した。紹巴が生来の癇症を爆発させ、その幼い少年を無礼討ちにでもするのではないかと、なによりもそれを怖れたのだ。
退かぬ。
分からぬか?その鹿、我が主、神子上紹巴さまの獲物ぞ。
如何に怖れ知らずの無知な下賎の子供であろうとも、紹巴の名を口にすれば、畏れ入って平伏するものであろうと不破は思った。しかし、不破の意に反して、少年は傲然とかれを見上げ、首を横に振った。
この小鹿、誰のものでもない。山に住む動物の命は、この山の神のもの。如何にお城の殿様といえど、その理を変えることなど出来ぬ筈。
そのとき、紹巴が少年の側に馬を進めた。
不破は主君を見上げた。瞬時、不破の脳裏に、手綱を引かれ躍りかかる獰猛な馬の前足と、蹄にかけられ、血だらけになって地面に倒れ臥す少年の姿が浮かんだ。不破は目を閉じた。
だが。
次の瞬間、予想だにせぬことが起きた。紹巴は笑い出したのである。
面白いことをほざくな、小童。
楽しそうに、紹巴は言った。
名は、何と言う?
その問いに、少年は一瞬、首を傾げ、そして答えた。
俺に名前などは無い。親もいない。俺は生まれたときから、一人でこの山に住んでいる。
不破は、半ば呆気にとられて主君と少年との会話を聞いていた。
ならば、名をくれてやろう。そうだな、小鹿を庇ったおまえには、鹿丸という名などどうだ。それとも、兎か狐のほうが気に入るか。
皮肉な、どこか相手を試すような紹巴の声。だが、少年は臆することも無く、毅然と言い切ったのだ。その澄んだ瞳を、真っ直ぐに紹巴に向けて。
俺は、地に生きる者にはならぬ。地上のものには、何の興味もない。
そして続けて、こう言った。自分は、龍だと。いつか、天へ駆け上る龍となると。
理由は分からない。だが、衝撃だった。体が震える程の。
かれの曽祖父の代に、不破の家は何らかの不祥事を起こした。過去の戦での功績故に、何とかお家の取り潰しは免れたものの、主君、神子上の温情に因って、辛うじて息を永らえていたに過ぎぬ。かれ、獅子王こと不破は、そんな過去の軋轢を、生まれながらにして背負っていた。
折りも折、長く子宝に恵まれなかった神子上に、嫡男が誕生した。家臣の間ですら石女(うまずめ)と真しやかに噂されていた正室の子ではない。傾国の美貌を持った、若い側室の子であった。それが紹巴である。
産後の肥立ちの悪さ故か、若い母親は、子を産み落として程なく世を去った。正室は、世継ぎを産むことの出来ぬ己れを恥じてか、或いは下賎の出に過ぎぬ側室如きに先を越されたことを苦にしてか、ある晩、喉を突いて自害し果てた。時を経ずして、病弱だった主君も亡くなった。
ともあれ、どういう巡りあわせか、不破は、生まれたばかりの主君の近侍として、城に上がることとなったのである。もっとも、紹巴の周囲は、何人もの守り役、老獪な男たちが固めていた。故に、むしろ不破の仕事は、守り役というよりは、最も主君の近くにいる護衛であり遊び相手、学友という立場であったというほうが正しい。
新たな主君となった神子上紹巴、かれが成長していくにつれ、保護者のような感情を持って(もっとも、家臣という身であれば、その言葉を口に出来よう筈もなかったが)かれを見守っていた不破は、いつしか、強い賛美に似た気持ちを抱くようになった。紹巴は、産みの母親の絶世の美貌をそのままに受け継いでいた。そして父親からは正しい血統の気高さと誇りを。更にかれは歳に見合わぬ、ずば抜けて利発な子供だった。紹巴より十も年長でありながら、学問の面で不破は紹巴に一度も敵うことがなかった。乗馬も、剣も、紹巴は驚く程に易々とこなした。紹巴にとって、あらゆることは、一度教えられれば、それで十分だった。指南役の者は皆、かれこそは百年に一人の逸材、天才だと舌を巻いたものである。
だが、同時に、かれの癇症は幼い時分より既にその片鱗を見せていた。
紹巴は、目に入る限りの小動物の命を奪うことに異常な程の執着を見せたのである。それも考えうる限りの残虐なやり方で。虫や小鳥。往来を行く罪の無い犬でさえ、紹巴の狂気にも似た殺意から逃れることは出来なかった。
行き着く果ての見えぬ紹巴の殺意の迸り、それは、かれの精神の不安定さに因るものだったのかも知れぬ。不破は、紹巴が白い指を血に染めるその都度、心を痛めた。紹巴の殺意が、いつか人間(ひと)に向けられるに違いないことを危惧していた。
紹巴と飛竜との出会い。
その日は、不破にとって、決して忘れることの出来ぬ一日となった。拭い去ることの叶わぬ、余りにも鮮明な記憶。
何がそれほどまでに紹巴を駆り立てるのか、幾日か前から傍目にもそれと分かるほど落ち着きを無くしていたかれは、不破一人を供に連れ、狩猟に出かけた。
手負いの小鹿を追い、常ならば滅多に足を踏み入れぬ山の奥深くに馬を進めたとき、藪を抜けたかれらの目の前に、一人の子供が姿を現したのだ。
紹巴の放った矢に傷つけられた瀕死の小鹿を後ろに庇うようにして、少年は立ちはだかっていた。
薄汚れたその身形(みなり)は、猟師か炭焼きの子にしか見えぬ。突然、藪のなかから現れた、馬に跨った二人の侍を目にしてさえ、図々しくも少年は慌てる気配も無い。
小僧、そこを退け。
不破は馬を降り、一喝した。紹巴が生来の癇症を爆発させ、その幼い少年を無礼討ちにでもするのではないかと、なによりもそれを怖れたのだ。
退かぬ。
分からぬか?その鹿、我が主、神子上紹巴さまの獲物ぞ。
如何に怖れ知らずの無知な下賎の子供であろうとも、紹巴の名を口にすれば、畏れ入って平伏するものであろうと不破は思った。しかし、不破の意に反して、少年は傲然とかれを見上げ、首を横に振った。
この小鹿、誰のものでもない。山に住む動物の命は、この山の神のもの。如何にお城の殿様といえど、その理を変えることなど出来ぬ筈。
そのとき、紹巴が少年の側に馬を進めた。
不破は主君を見上げた。瞬時、不破の脳裏に、手綱を引かれ躍りかかる獰猛な馬の前足と、蹄にかけられ、血だらけになって地面に倒れ臥す少年の姿が浮かんだ。不破は目を閉じた。
だが。
次の瞬間、予想だにせぬことが起きた。紹巴は笑い出したのである。
面白いことをほざくな、小童。
楽しそうに、紹巴は言った。
名は、何と言う?
その問いに、少年は一瞬、首を傾げ、そして答えた。
俺に名前などは無い。親もいない。俺は生まれたときから、一人でこの山に住んでいる。
不破は、半ば呆気にとられて主君と少年との会話を聞いていた。
ならば、名をくれてやろう。そうだな、小鹿を庇ったおまえには、鹿丸という名などどうだ。それとも、兎か狐のほうが気に入るか。
皮肉な、どこか相手を試すような紹巴の声。だが、少年は臆することも無く、毅然と言い切ったのだ。その澄んだ瞳を、真っ直ぐに紹巴に向けて。
俺は、地に生きる者にはならぬ。地上のものには、何の興味もない。
そして続けて、こう言った。自分は、龍だと。いつか、天へ駆け上る龍となると。
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