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其の弐 因果流転◆再戦
飛竜烈伝 守の巻
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そこに存在したのは、悪意だった。
あの戦いの後、姿を消したと思った鬼たちが、或いはそのなかの誰かが、竜よりも先にこの場所に戻り、痕跡を残していた。
石垣の前に、小山のように積み上げられた小動物の死骸。
累々と積まれた屍は、竜の肩の高さにも及んでいた。四肢をバラバラにされた肉塊は、野良犬や仔猫ばかりではなかった。鳥や、切断された太い蛇の胴体までもが混ざっている。
一体、何を。何てことをしやがるんだ。
腹の底から湧き上がる怒りに、竜は、拳を固く握り締めた。何の罪もない生き物たちの、無意味な虐殺。吐き気を感じた。
だがそれは、頭蓋を割られ、内臓(はらわた)を引き摺りだされ、挙句に見世物のようにそこに曝されている動物たちの骸から漂う血の臭いが理由ではない。抵抗できぬものの血にその手を穢した者の心に潜む、底知れぬ冷たく邪悪な狂気に対しての、言葉に出来ぬ程の憤りのせいだ。
屍で築かれた山の上に、ある標(しるし)が残されていた。
高峰を制した登山家が頂上に記念の国旗を立てるように、砂遊びに興じる子供が完成した砂山の天辺に棒を埋め込むように、血塗れの肉塊に半ば埋もれた、見覚えのある刀。
怪士、と呼ばれていた男の刀に違いなかった。ただ怯えて逃げようとしていた絵里の背後を狙った、卑劣で冷酷な、あいつのものだ。
奴が、この屍の山を築いたのか。竜が再び、この場所に戻ることを予想して。竜の前に、この吐き気を催す創作品を示すために。
竜は、自分に向けられた怪士の狂気じみた怒りと、一種異様な執着とを感じた。そしてあの男は、いまここにいるのだろうか。
ひょっとしていまこの瞬間も、何処かに身を潜め、俺を狙っているのか?
辺りは、物音一つしない。
竜は、呼吸を整えた。深く、静かに、息をつく。竹刀袋を投げ捨て、腰に構えた刀をいつでも抜けるように、鯉口を切る。
来るなら来いよ。俺は、逃げも隠れもしない。
耳が痛くなる程の静寂。
凍結された過去に支配された三ノ輪城址。そこにいつしか、霧が漂い始めた。濃い乳白色の幕が、周りの風景から竜を閉ざし、伸ばした手の先も見えぬ程に辺りを包み込む。
張り詰めた全身の筋肉に、緩やかに絡みついてくるものがあった。鋭くささくれ、捻じれた神経を冷やすように、あくまでも柔らかく、そして悪夢のような優しさで。
不意に、全身の血液が足の先から地面に吸い取られていくような酩酊感。痺れて力の抜けた指から、刀が足元に滑り落ちた。一体、どうしたことか。自分の意思で体を動かすことが、もはや困難だった。何者かに因る、強制的な五感の支配。
背後に人の気配を感じた。咄嗟に振り向いた竜の前に、意外な人物が立っていた。
「こんなところで何してるの、竜」
いつものようにポニーテールに白いリボンを結び、真ん丸に目を見開いた、絵里だった。
「何って、お前こそどうしたんだよ、こんな朝っぱらから」
途方もない安堵感が胸に広がる。霧の中から現れた、見知った少女の姿。
「あたし?あたしはね」
絵里が悪戯っぽく笑う。
「竜に会いに来たの。だって、あたしはずうっと前から」
妙な違和感があった。絵里がこんなところに一人で現れる筈がない。
ゆっくりと近づいてきた絵里の指が、奇妙に艶めかしい仕草で竜の頬に触れる。
「絵里?」
軽い電流に触れたように、全身が痺れている。薄いフィルターを通して絵里と自分の遣り取りを眺めているような、可笑しな気分。決して不快なものではない、そこにはある種の甘い陶酔があった。思いがけない力で絵里の腕が竜の首に巻き付く。薄桃色の唇が、竜のそれに触れようとする。甘い息が頬に、唇にかかった。
これって。何かが違う。何か、間違ってる。
「やめろ」
竜は、絵里を振り払った。その勢いで、絵里は腰から落ちるように地面に倒れた。
「何するの?」
驚愕と非難に見開かれた絵里の目が竜を見上げる。それを打ち消すように竜は叫んだ。
「お前は絵里じゃない。あいつは、こんなことしない」
地面に突き倒された格好になった絵里、或いは絵里の形をした物は、半身を起こしてにやりと竜に笑いかけた。
「そう。だって、あたしは昨日、竜の目の前で死んだんだもの」
殺されたの、こんなふうに。そんな言葉が、耳元を掠めた。
次の瞬間、何もない空間に潜んだ見えぬ刃に斬りつけられたように、突然、絵里の細い首が裂け、そこから血が噴き出した。
バカな。こんなの、現実である筈がない。俺は、幻覚を見てるんだ。
どうしてあたしを救けてくれなかったの、竜?
その顔に、諦めにも似た卑屈な笑いを浮かべたまま、切断された絵里の首が、ぼとりと地に落ちた。
「絵里」
叫ぼうとした声は、掠れた呟きにしかならなかった。金縛りにでもあったように動けない。
昨日の悪夢は終わってはいなかったのか?俺が絵里を無事に逃がしたと思ったのは間違いで、こっちが本当で現実なのか?
そうだ、俺は、蓮だけじゃない、絵里を救うことすらも出来なかった。
心を真黒に塗り潰そうとする絶望と苦悩。膝が震え、自分の足で体を支えていられない。竜はその場にがくりと膝をついた。
「それで、竜はどうするつもりなの」
決してその声の主を間違えることはない、懐かしい、心地よい響き。竜は顔を上げた。
「蓮」
蓮が目の前に立っている。哀しそうな顔で、竜と、首を切り落とされた絵里の亡骸とを見下ろしている。
「蓮、俺は」
絵里を、お前を守りたかった。精一杯、やったつもりだったのに。
「でもこれが、竜がやったことの結果じゃないか」
澄んだ瞳が、突き放すような冷たい光を湛え、竜を捉えた。
最後に見たのと同じ、破れた血だらけのワイシャツを身に着けた、ずぶ濡れの蓮。なのに、この威圧感は何なのだろう。
竜は激しく首を横に振った。己れの無力さが呪わしかった。ふと、蓮と遊んだ幼い頃のことが胸に甦った。
子供の頃、裕福な家庭に育った蓮の持ち物が羨ましくて、玩具やゲームを無理矢理に取り上げたり乱暴に扱い壊してしまったことが幾度かあった。そんなとき蓮は、一瞬、哀しそうな顔をするものの、決して竜を責める言葉など口にすることはなく、優しく微笑んで、竜を安心させるように言ってくれたものだ。
大丈夫。竜ちゃんが悪いんじゃないよ、竜ちゃんのせいじゃない。
お願いだ、昔みたいに、もう一度そう言ってくれ。大丈夫だって、俺のせいじゃないって。じゃないと俺、おかしくなっちまいそうだよ、蓮。
無性に、蓮に触れたかった。
全く力の入らない両手足を何とか動かし、いざるように、竜は蓮の側に行こうとした。
延ばした指先が蓮の手に触れようとした瞬間、目の前の蓮の姿が揺らぎ、硝子のように砕け散った。
「れ、ん」
竜は、たった今まで蓮が立っていた筈の空間を抱き締めた。
激しい眩暈を覚え、打ちひしがれた竜が再び両膝を地についたとき。落とした刀の椽金(ふちがね)が指の先に触れた。竜は刀を掴んだ。
「つ、うッ」
突然、右の拳に焼け付くような痛みが走った。
あの文字、不動が飛竜の徴だと言った赤い痣が、再び竜の拳に浮かび上がっている。その痛みが、幻惑の淵に溺れようとしていた竜の精神(こころ)を、一気に現実に引き戻した。
幻覚だ。俺は、幻を見ていたんだ。
氷のような目をした蓮も、首を切断された絵里も、竜の心の暗部が生み出した幻でしかなかったのだ。
恐らく、この霧こそが、自身の心の暗闇を具現化して見せていたものの正体だったのだろう。突然に立ち籠めた霧に包まれたときには、既に敵の術中に嵌まっていたのだ。
竜は立ち上がった。と同時に、麻痺していた感覚が研ぎ澄まされて行くのが分かる。
詰まらぬな。
脳裏に響く、陰鬱な声。
あと僅か一歩というところで、正気に戻りおったか。もう少しで貴様の精神を破壊してやれたものを。
「お前は、怪士」
竜は叫んだ。霧が晴れ、拓けた視界の中に、尚も無残に築かれた獣の屍の山、その上に傲然と立った鬼の名を。
怪士は面を着けていなかった。その代わりに、左腕で顔面を隠すように覆っている。
「お前、面はどうしたんだ?」
本当は訊かずとも分かっている。怪士の面は、昨夜の戦いで、竜の最初の一撃で砕かれたのだ。
「俺が壊してやった面の代わりに、てっきり今日はヒョットコの面でも着けてくるかと思ったぜ」
わざと相手の怒りを誘うべく、軽口を叩く。怪士から目を離さぬようにしながら、竜は僅かずつ間合いを詰めた。
「俺は、お前を許さない」
低い声が漏れた。
絶対に、許さない。何の咎(とが)もない動物たちを殺し、その亡骸を足蹴にしていることを。絵里を、蓮の姿を、俺の心のなかの大切なものを弄んだお前を。
素顔を隠した男が嗤う。
「愚かな小僧が。許さない、だと?この俺が、貴様の許しを請わねばならぬ理由がどこにある?」
怪士は、屍の山から刀を引き抜いた。
「これは昨夜、貴様の手の中で穢された。だが、血の粛清を持って、我が刀は再び甦る」
闇の深淵から響くような声が、竜の耳を刺す。
怪士が跳ぶ。その瞬間、竜ははっきりと見た。怪士の素顔を。否、怪士には顔というものがなかった。そこにあったのは、目鼻の区別もつかぬ程に焼け爛れ、膨れ上がった真っ黒い肉塊。
紛れもなく闇の次元から姿を現した、悪霊の姿だった。
頭上から凄まじい殺気を籠めて振り下ろされた一撃を、竜は辛うじて受け止めた。刃が悲鳴をあげ、火花が散った。
「貴様は馬鹿か。そんな玩具で、どうしようというのだ」
「なに?」
怪士の嘲笑に、一瞬、戸惑う。しかし一呼吸の後、竜は、己れが手にするものを見て愕然とした。
見た目は同じでも、それは、刀ではなかった。どこで間違えたのだろう。竜が、たった今この瞬間まで後生大事に持っていたものは、真剣ではない。古びた合金製の練習刀に過ぎなかった。
「え、ナンだよ、これは」
敵の初太刀をまともに受けるには、竜の技術は余りにも未熟だった。衝撃に耐えられなかったのだろう、緑青(ろくしょう)の浮いた脆い刀身は、怪士の刃とぶつかった部分からポキリと折れた。
「貴様の間抜けさ加減、覚えておいてやろう。そして、未来永劫、この世から消え失せろ、飛竜」
ぼかりと空いた歯のない空洞から狂気じみた笑いが迸り出た。同時に、積み上げられた死骸の山が音をたてて崩れ落ちる。血煙のなか、竜は再び怪士の姿を見失った。
何処だ?何処に行きやがった?
竜は折れた模造刀を投げ捨てた。
「闇隠弐衆が一、この怪士。昨夜は不覚にも遅れを取ったが、本来ならば貴様ごとき小僧にしてやられる俺ではないわ」
大気が騒めく。獣の咆哮に似た轟音と共に、突風が舞う。地に落ちた枯草が竜巻のように舞い上がる。
次の瞬間、それは鋭い無数の刃と化してあらゆる方向から一斉に竜に襲い掛かった。
「怪士とは、妖かし。野山に巣食う魑魅魍魎の意」
何処からか響く、暗い声。それは竜の周りで螺旋を描くように遠くなり近くなりしながら、次第に大きくなっていく。
野山に巣食う、魑魅魍魎、だと?
昨日の石飛礫といい、先程の霧といい、怪士という男は、自然界にあるものを思いのままに操ることが出来るとでもいうのか。
身を隠す場所すらもない。
前に飛び、後ろに退いて、竜は必死に身を躱そうとした。しかし、如何せん武器の一つも持たぬ状態、見る間に服は裂け、手足に負った深い切り傷からは真っ赤な血が噴き出した。
剃刀のような切れ味の草の刃に足の腱を切られ、竜は前のめりに地面に転がった。
「死ね」
突如、空間から姿を現し、一瞬にして間合いを詰めた怪士の刃が、竜に躍りかかった。眼の奥で火花が散った。
振り下ろされた刃に真っ二つにされるかの瞬間。
竜と、怪士の間を割るように飛び込んできた、小柄な人間の体。見覚えのある、白い胴着。
「婆ちゃん?」
竜は己れの目を疑った。
竜を庇い、怪士の刃をその身に受けたのは、家でまだ寝ている筈の祖母、虎だった。
あの戦いの後、姿を消したと思った鬼たちが、或いはそのなかの誰かが、竜よりも先にこの場所に戻り、痕跡を残していた。
石垣の前に、小山のように積み上げられた小動物の死骸。
累々と積まれた屍は、竜の肩の高さにも及んでいた。四肢をバラバラにされた肉塊は、野良犬や仔猫ばかりではなかった。鳥や、切断された太い蛇の胴体までもが混ざっている。
一体、何を。何てことをしやがるんだ。
腹の底から湧き上がる怒りに、竜は、拳を固く握り締めた。何の罪もない生き物たちの、無意味な虐殺。吐き気を感じた。
だがそれは、頭蓋を割られ、内臓(はらわた)を引き摺りだされ、挙句に見世物のようにそこに曝されている動物たちの骸から漂う血の臭いが理由ではない。抵抗できぬものの血にその手を穢した者の心に潜む、底知れぬ冷たく邪悪な狂気に対しての、言葉に出来ぬ程の憤りのせいだ。
屍で築かれた山の上に、ある標(しるし)が残されていた。
高峰を制した登山家が頂上に記念の国旗を立てるように、砂遊びに興じる子供が完成した砂山の天辺に棒を埋め込むように、血塗れの肉塊に半ば埋もれた、見覚えのある刀。
怪士、と呼ばれていた男の刀に違いなかった。ただ怯えて逃げようとしていた絵里の背後を狙った、卑劣で冷酷な、あいつのものだ。
奴が、この屍の山を築いたのか。竜が再び、この場所に戻ることを予想して。竜の前に、この吐き気を催す創作品を示すために。
竜は、自分に向けられた怪士の狂気じみた怒りと、一種異様な執着とを感じた。そしてあの男は、いまここにいるのだろうか。
ひょっとしていまこの瞬間も、何処かに身を潜め、俺を狙っているのか?
辺りは、物音一つしない。
竜は、呼吸を整えた。深く、静かに、息をつく。竹刀袋を投げ捨て、腰に構えた刀をいつでも抜けるように、鯉口を切る。
来るなら来いよ。俺は、逃げも隠れもしない。
耳が痛くなる程の静寂。
凍結された過去に支配された三ノ輪城址。そこにいつしか、霧が漂い始めた。濃い乳白色の幕が、周りの風景から竜を閉ざし、伸ばした手の先も見えぬ程に辺りを包み込む。
張り詰めた全身の筋肉に、緩やかに絡みついてくるものがあった。鋭くささくれ、捻じれた神経を冷やすように、あくまでも柔らかく、そして悪夢のような優しさで。
不意に、全身の血液が足の先から地面に吸い取られていくような酩酊感。痺れて力の抜けた指から、刀が足元に滑り落ちた。一体、どうしたことか。自分の意思で体を動かすことが、もはや困難だった。何者かに因る、強制的な五感の支配。
背後に人の気配を感じた。咄嗟に振り向いた竜の前に、意外な人物が立っていた。
「こんなところで何してるの、竜」
いつものようにポニーテールに白いリボンを結び、真ん丸に目を見開いた、絵里だった。
「何って、お前こそどうしたんだよ、こんな朝っぱらから」
途方もない安堵感が胸に広がる。霧の中から現れた、見知った少女の姿。
「あたし?あたしはね」
絵里が悪戯っぽく笑う。
「竜に会いに来たの。だって、あたしはずうっと前から」
妙な違和感があった。絵里がこんなところに一人で現れる筈がない。
ゆっくりと近づいてきた絵里の指が、奇妙に艶めかしい仕草で竜の頬に触れる。
「絵里?」
軽い電流に触れたように、全身が痺れている。薄いフィルターを通して絵里と自分の遣り取りを眺めているような、可笑しな気分。決して不快なものではない、そこにはある種の甘い陶酔があった。思いがけない力で絵里の腕が竜の首に巻き付く。薄桃色の唇が、竜のそれに触れようとする。甘い息が頬に、唇にかかった。
これって。何かが違う。何か、間違ってる。
「やめろ」
竜は、絵里を振り払った。その勢いで、絵里は腰から落ちるように地面に倒れた。
「何するの?」
驚愕と非難に見開かれた絵里の目が竜を見上げる。それを打ち消すように竜は叫んだ。
「お前は絵里じゃない。あいつは、こんなことしない」
地面に突き倒された格好になった絵里、或いは絵里の形をした物は、半身を起こしてにやりと竜に笑いかけた。
「そう。だって、あたしは昨日、竜の目の前で死んだんだもの」
殺されたの、こんなふうに。そんな言葉が、耳元を掠めた。
次の瞬間、何もない空間に潜んだ見えぬ刃に斬りつけられたように、突然、絵里の細い首が裂け、そこから血が噴き出した。
バカな。こんなの、現実である筈がない。俺は、幻覚を見てるんだ。
どうしてあたしを救けてくれなかったの、竜?
その顔に、諦めにも似た卑屈な笑いを浮かべたまま、切断された絵里の首が、ぼとりと地に落ちた。
「絵里」
叫ぼうとした声は、掠れた呟きにしかならなかった。金縛りにでもあったように動けない。
昨日の悪夢は終わってはいなかったのか?俺が絵里を無事に逃がしたと思ったのは間違いで、こっちが本当で現実なのか?
そうだ、俺は、蓮だけじゃない、絵里を救うことすらも出来なかった。
心を真黒に塗り潰そうとする絶望と苦悩。膝が震え、自分の足で体を支えていられない。竜はその場にがくりと膝をついた。
「それで、竜はどうするつもりなの」
決してその声の主を間違えることはない、懐かしい、心地よい響き。竜は顔を上げた。
「蓮」
蓮が目の前に立っている。哀しそうな顔で、竜と、首を切り落とされた絵里の亡骸とを見下ろしている。
「蓮、俺は」
絵里を、お前を守りたかった。精一杯、やったつもりだったのに。
「でもこれが、竜がやったことの結果じゃないか」
澄んだ瞳が、突き放すような冷たい光を湛え、竜を捉えた。
最後に見たのと同じ、破れた血だらけのワイシャツを身に着けた、ずぶ濡れの蓮。なのに、この威圧感は何なのだろう。
竜は激しく首を横に振った。己れの無力さが呪わしかった。ふと、蓮と遊んだ幼い頃のことが胸に甦った。
子供の頃、裕福な家庭に育った蓮の持ち物が羨ましくて、玩具やゲームを無理矢理に取り上げたり乱暴に扱い壊してしまったことが幾度かあった。そんなとき蓮は、一瞬、哀しそうな顔をするものの、決して竜を責める言葉など口にすることはなく、優しく微笑んで、竜を安心させるように言ってくれたものだ。
大丈夫。竜ちゃんが悪いんじゃないよ、竜ちゃんのせいじゃない。
お願いだ、昔みたいに、もう一度そう言ってくれ。大丈夫だって、俺のせいじゃないって。じゃないと俺、おかしくなっちまいそうだよ、蓮。
無性に、蓮に触れたかった。
全く力の入らない両手足を何とか動かし、いざるように、竜は蓮の側に行こうとした。
延ばした指先が蓮の手に触れようとした瞬間、目の前の蓮の姿が揺らぎ、硝子のように砕け散った。
「れ、ん」
竜は、たった今まで蓮が立っていた筈の空間を抱き締めた。
激しい眩暈を覚え、打ちひしがれた竜が再び両膝を地についたとき。落とした刀の椽金(ふちがね)が指の先に触れた。竜は刀を掴んだ。
「つ、うッ」
突然、右の拳に焼け付くような痛みが走った。
あの文字、不動が飛竜の徴だと言った赤い痣が、再び竜の拳に浮かび上がっている。その痛みが、幻惑の淵に溺れようとしていた竜の精神(こころ)を、一気に現実に引き戻した。
幻覚だ。俺は、幻を見ていたんだ。
氷のような目をした蓮も、首を切断された絵里も、竜の心の暗部が生み出した幻でしかなかったのだ。
恐らく、この霧こそが、自身の心の暗闇を具現化して見せていたものの正体だったのだろう。突然に立ち籠めた霧に包まれたときには、既に敵の術中に嵌まっていたのだ。
竜は立ち上がった。と同時に、麻痺していた感覚が研ぎ澄まされて行くのが分かる。
詰まらぬな。
脳裏に響く、陰鬱な声。
あと僅か一歩というところで、正気に戻りおったか。もう少しで貴様の精神を破壊してやれたものを。
「お前は、怪士」
竜は叫んだ。霧が晴れ、拓けた視界の中に、尚も無残に築かれた獣の屍の山、その上に傲然と立った鬼の名を。
怪士は面を着けていなかった。その代わりに、左腕で顔面を隠すように覆っている。
「お前、面はどうしたんだ?」
本当は訊かずとも分かっている。怪士の面は、昨夜の戦いで、竜の最初の一撃で砕かれたのだ。
「俺が壊してやった面の代わりに、てっきり今日はヒョットコの面でも着けてくるかと思ったぜ」
わざと相手の怒りを誘うべく、軽口を叩く。怪士から目を離さぬようにしながら、竜は僅かずつ間合いを詰めた。
「俺は、お前を許さない」
低い声が漏れた。
絶対に、許さない。何の咎(とが)もない動物たちを殺し、その亡骸を足蹴にしていることを。絵里を、蓮の姿を、俺の心のなかの大切なものを弄んだお前を。
素顔を隠した男が嗤う。
「愚かな小僧が。許さない、だと?この俺が、貴様の許しを請わねばならぬ理由がどこにある?」
怪士は、屍の山から刀を引き抜いた。
「これは昨夜、貴様の手の中で穢された。だが、血の粛清を持って、我が刀は再び甦る」
闇の深淵から響くような声が、竜の耳を刺す。
怪士が跳ぶ。その瞬間、竜ははっきりと見た。怪士の素顔を。否、怪士には顔というものがなかった。そこにあったのは、目鼻の区別もつかぬ程に焼け爛れ、膨れ上がった真っ黒い肉塊。
紛れもなく闇の次元から姿を現した、悪霊の姿だった。
頭上から凄まじい殺気を籠めて振り下ろされた一撃を、竜は辛うじて受け止めた。刃が悲鳴をあげ、火花が散った。
「貴様は馬鹿か。そんな玩具で、どうしようというのだ」
「なに?」
怪士の嘲笑に、一瞬、戸惑う。しかし一呼吸の後、竜は、己れが手にするものを見て愕然とした。
見た目は同じでも、それは、刀ではなかった。どこで間違えたのだろう。竜が、たった今この瞬間まで後生大事に持っていたものは、真剣ではない。古びた合金製の練習刀に過ぎなかった。
「え、ナンだよ、これは」
敵の初太刀をまともに受けるには、竜の技術は余りにも未熟だった。衝撃に耐えられなかったのだろう、緑青(ろくしょう)の浮いた脆い刀身は、怪士の刃とぶつかった部分からポキリと折れた。
「貴様の間抜けさ加減、覚えておいてやろう。そして、未来永劫、この世から消え失せろ、飛竜」
ぼかりと空いた歯のない空洞から狂気じみた笑いが迸り出た。同時に、積み上げられた死骸の山が音をたてて崩れ落ちる。血煙のなか、竜は再び怪士の姿を見失った。
何処だ?何処に行きやがった?
竜は折れた模造刀を投げ捨てた。
「闇隠弐衆が一、この怪士。昨夜は不覚にも遅れを取ったが、本来ならば貴様ごとき小僧にしてやられる俺ではないわ」
大気が騒めく。獣の咆哮に似た轟音と共に、突風が舞う。地に落ちた枯草が竜巻のように舞い上がる。
次の瞬間、それは鋭い無数の刃と化してあらゆる方向から一斉に竜に襲い掛かった。
「怪士とは、妖かし。野山に巣食う魑魅魍魎の意」
何処からか響く、暗い声。それは竜の周りで螺旋を描くように遠くなり近くなりしながら、次第に大きくなっていく。
野山に巣食う、魑魅魍魎、だと?
昨日の石飛礫といい、先程の霧といい、怪士という男は、自然界にあるものを思いのままに操ることが出来るとでもいうのか。
身を隠す場所すらもない。
前に飛び、後ろに退いて、竜は必死に身を躱そうとした。しかし、如何せん武器の一つも持たぬ状態、見る間に服は裂け、手足に負った深い切り傷からは真っ赤な血が噴き出した。
剃刀のような切れ味の草の刃に足の腱を切られ、竜は前のめりに地面に転がった。
「死ね」
突如、空間から姿を現し、一瞬にして間合いを詰めた怪士の刃が、竜に躍りかかった。眼の奥で火花が散った。
振り下ろされた刃に真っ二つにされるかの瞬間。
竜と、怪士の間を割るように飛び込んできた、小柄な人間の体。見覚えのある、白い胴着。
「婆ちゃん?」
竜は己れの目を疑った。
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