世界でいちばん最後の

岩崎みずは

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世界でいちばん最後の

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 葬儀のときは、離れた場所から姿を目にしただけだった。啓樹の父、藤代は、相変わらず鋭い目をしていた。疲れているのだろう、顔色が悪い。気のせいか、前に見たときより老け込んだように思えた。
 匡平を見止めた藤代は、数メートル離れたところでぴたりと足を止めた。藤代が口を開きかけたそのとき、無人の受付カウンター奥の階段から、先の中年刑事と若い刑事、その後に続いて匡平の父親と啓樹が降りて来た。
 もう、こんな人騒がせなことはやめてくださいよ。中年の刑事が穏やかな口調で諭すように言い、匡平の父親が、すみません、とぺこりと頭を下げる。若いほうの刑事は、落ち着かなげにロビーを見回し、明らかな安堵の表情を浮かべた。沙都子の姿が無かったからだろう。きっとあの男は、今後、社会的立場の弱い未成年を補導したとき、居丈高な態度を取ることを考え直すに違いない。少なくとも、しばらくの間は。
 二人の刑事は建物の奥に姿を消した。
 匡平が声をかけるより先に、父親が藤代に気づいた。軽く会釈をし、それから啓樹を促すように優しく肩を叩く。ずっと無言のまま俯いていた啓樹が、そのとき初めて目線を上げた。
 匡平は見た。啓樹と藤代の視線がほんの束の間ぶつかり、絡まったのを。そして、啓樹のほうが先に目を逸らせたのを。
「ひろきッ」
 藤代の掠れた声が呼び掛けたとき、啓樹は匡平の父親の背中に隠れるように一歩後ろに退いた。
 藤代は、啓樹の側に駆け寄ろうとしたに違いない。だが、思い直したように動きを止めた。次の瞬間、藤代はいきなりその場に両手をついた。
「この度は、申し訳ありませんでした、矢口さん」
 これには流石に匡平の父親も驚いたようだ。
「なにをそんな。顔を上げてください、藤代部」
 藤代部長、と言おうとしたのだろう、匡平の父親は不意にその言葉を呑み込んだ。かつては同じ企業で働いていた管理職と一般社員。だがいまは、上司でも部下でもない、息子を持った只の父親同士だ。
「もう済んだんです。何もなかったんですよ。うちの子供も、啓樹くんも無事です。さあ、もう家に帰ろう」
 最後の言葉は匡平に向けられたものだった。
 藤代は疲れ切ったようにのろのろと上半身を起こした。だが、まだ手は床につけたままだ。土下座をする自分の父親を目にしても、啓樹の乾いた瞳に感情の揺れは見つけられない。匡平の父親が藤代を引っ張り上げるようにして、立たせた。
 肩幅が広い、がっしりとした体躯の長身の藤代。スーツに身を包んでいても、鍛えられた筋肉質の身体が隠されていることが分かる。そして、いまは疲れと苦悩に彩られてはいるものの、誰しもが認めるだろう彫りの深い精悍な顔立ち。若い頃はさだめし数多くの女性をときめかせていたことだろう。そのすぐ傍らに立つ匡平の父親は中背で吹けば飛ぶような痩躯だが、何故か匡平にはその瞬間、自分の父親が藤代より大きく見えた。
「啓樹」
 藤代は、もう一度呼びかけた。
「おまえは、何をやっているんだ。おまえも、ちゃんと矢口さんに謝罪しないか」
「いまさら父親ヅラするな」
 啓樹の目に、昏い光が宿った。
「あんたは勝手に出て行ったんだ。俺と母さんを捨てたんだ」
 一切の感情を交えない口調で、啓樹は言い放った。傍で聞いている匡平さえもが、胃に氷を含んだように感じる程の、冷たい声で。
 親子の再会。これが海外ドラマか映画なら、互いの本音をぶつけあい、或いは殴り合うかもしれないが、最後には大団円だ。だが、啓樹と藤代は、先に動いたほうが負けだとでもいうのか、5分前と同じ位置に立ち尽くしたまま、微動だにしない。藤代の言葉は、二人の間で空虚なまま消えていった。
「藤代のおじさん」
 堪らずに、匡平は割って入った。
 この男は、出生の秘密を知った啓樹がこれまでどれ程胸を痛めて来たか、苦しんできたか、それを知っているのだろうか。何故、いますぐに駆け寄って啓樹を抱き締めてやらないのだ?
「俺、ひろから全部、聞きました。だから、言わせてもらいます」
 藤代は形のよい眉をあからさまに顰めた。部外者の予期せぬ闖入を歓迎していないという表情だ。だが、匡平は怯みはしなかった。
「おじさんがひろを要らないなら、ひろは俺が貰います」
 匡平はゆっくりと啓樹に近づき、そして寄り添った。
「俺は、ひろが好きです。愛してます。この世界で一番最後までひろの味方だし、守っていくつもりです」
 これ程はっきりと言えたのは、先に沙都子にカムアウトしていたからだと思った。あの瞬間に、胸の閊(つか)えがスッととれたのだ。
 藤代は、匡平をじっと見つめたが、何も言わなかった。チラと自分の父親を見遣ると、こちらは口をあんぐりと開けている。だが、大事なのは、かれらの反応ではない。いま、もっとも大切なのは。匡平の指先に躊躇うように触れてきた啓樹の指先。匡平は、啓樹の指に自分の指を絡め、そして力強く握り締めた。
「啓樹。おまえからの手紙を読んだ」
 匡平と啓樹、そして固く繋がれた二人の手に、ゆっくりと巡らされた藤代の視線は、再び啓樹の上に注がれた。
「本当に、旭川に行くのか?」
 藤代の言葉に、匡平は思わず隣に立つ啓樹の表情を確かめなくなったが、ここで自分が動揺してどうする、と思い直し、前を、つまり藤代を真っ直ぐに見据えたままでいた。
「そうか」
 無言のままの啓樹のなかに、応えを読み取ったのだろう、藤代は深く長い息を吐いた。
「もう決めたのなら、それでいい。でも、ひとつだけ覚えておいてほしい」
 藤代が歩み寄って来た。啓樹の身体が一瞬震えるのが伝わり、大丈夫、俺がいる、という言葉の代わりに、匡平は繋いだ指に力を籠める。
 手を延ばせば啓樹の肩にも髪にも触れることの出来る距離で、藤代は足を止めた。だが藤代は、啓樹に触れようとはしなかった。一瞬、藤代の整った顔が奇妙に歪んだ。何故だか匡平には、それが、泣き出したいのを必死に堪えているひとの表情に見えた。
「おまえがどう思おうと、誰がなんといおうと、おまえは俺の子だ。俺と霜子の息子だ。おまえを大切に思っている、啓樹。これまでもそうだった。これからだって、ずっと」
 藤代は苦しげに、絞り出すようにそれだけを言うと、最後にもう一度、匡平の父親と匡平を見て、そして深々と頭を下げた。
 踵を返し去って行く背中を見つめながら、匡平は思った。あの、最敬礼とも呼ばれる最後の挨拶、藤代は、何を言わんとしていたのか、と。ご迷惑をお掛けしました、と匡平の父親に謝罪したのか、それとも、啓樹のことをよろしく、という、匡平に宛てたメッセージだったのか。
 そのとき、啓樹の身体がぐらりと傾き、匡平はすんでのところで腕のなかに抱きとめた。
「ひろ。大丈夫なのか?」
 匡平の呼びかけに啓樹は応えなかった。見れば、目を閉じたその顔は蒼白で、呼吸が浅く、早い。
 貧血でも起こしたのだろうか。男が貧血、などと、あまり聞いたことがないような気がするが、この数時間、啓樹が極度の緊張に晒されていたことを思えば、無理もない。
 気を失ったのかも知れない。抱きかかえるようにして壁際のソファに腰を降ろさせようとしたとき、囁くような声で啓樹がなにかを呟いた。
「え?」
 それは余りにも弱々しく、体温を分け合う程に近くにいる筈の匡平の耳にも、よく聞こえなかった。
「そんなに、悪いことをしたの?」
 もう一度、啓樹が口にする。
 一瞬、返答に詰まった。
 悪いことをしたのか、と訊かれたなら、そうだと言うほかはない。他人の家の乳児を無断で連れ出したのだ。まさか啓樹は、事の善悪まで判断がつかない状態なのだろうか。
「あのとき、お袋はこう言ったんだ。私がそんなに悪いことをしたの?って」
 あのときって?そう問い返そうとして、匡平はハッとした。
 霜子の心を蝕み、夫との関係性を決定的に打ち砕く直接の原因となった、藤代の一言。中央公園で、啓樹は、こう語った。あのとき、母親が何と言ったのか、どうしても思い出せない、と。
 それは、嘘だった。想いの切実さ故に、幼い意識が吸い込んだ苦痛故に、啓樹は、口に出せなかったのだ。
「同じことを、俺が言わせてしまった」
 啓樹の震える指が、匡平のシャツの袖口をきつく掴む。
「学校を辞めて、北海道の伯父さんのところに行く、って言った。自分が本当にやりたいことを、もう一度考え直してみたかったんだ。元々、成人したら両親の元を離れようとは思ってた。それに」
 啓樹は、深く息を吸い、そして苦しげに吐いた。
「匡平とは、もう終わりだって思ったから。だから、遠い処に行きたかったんだ。お袋を追い詰めるつもりなんて、なかった」
 あんなに優しく微笑ったお袋の顔を、俺は一度も見たことがない。啓樹は消え入りそうな声で続けた。
 匡平の脳裏に、モノクロームの映像が浮かんだ。
 切っ掛けは、きっと、些細な口論だったに違いない。射し込む西日も力を失いかけた、セピア色に沈むリビングルーム。独立を望む息子を、母親が止める。どちらも言葉を荒げもしない、静かな攻防。束の間の沈黙のあと、母親は微笑する。優しい、風のような儚い笑みを見せて、言うのだ。私が、そんなに悪いことをしたの、と。
 いたたまれず、家を飛び出す息子。三十分か、それとも一時間後か。母親が心配になった息子は、マンションへ戻る。だが、そこに母親の姿は無い。開け放たれたままのバルコニーの硝子戸。薄闇のなか、カーテンだけが揺れている。
 匡平は啓樹を抱いたまま、仰向いた。視界に入るのは、微かに放電音を鳴らす蛍光灯だけだ。
 誰が悪いのだろう?どこでどう歯車が狂ったのだろう。
 ひとも羨む幸せな家族の筈だったのに。子は親を、親は子を、妻は夫を、夫は妻を、深く愛していた筈なのに。互いに延ばした手を掴むタイミングを間違ったがために、取り返しがつかぬことになってしまったのだ。
「ごめん、匡平。ごめん」
 突然、啓樹が咽び泣いた。
「俺、虹太ちゃんとちょっと一緒に居たかっただけなんだ。俺の世界が終わってしまう前に、最後に少しだけ、匡平の大切な存在(もの)と過ごしたかったんだ」
 匡平は無意識に、啓樹の髪を撫でていた。ひとの気持ちというのは、こんなにも重いのか、とぼんやり考えながら。重くて、息苦しくて、潰されるかも、と思いながらも、それでも、尚、愛しい。
 啓樹が、愛しい。
「ばーか。ナニ言ってんだよ、おまえ」
 言いながら、啓樹の額を軽く小突く。
「なにが、世界の終わりだよ。俺と終わったら、オプションで世界の終わりもくんのかよ」
 え?というように、啓樹が顔を上げる。
「俺が言ったこと、ちゃんと聞いてたか?愛してる、っつたろ。それもスルーかよ」
 啓樹の返事など待つ必要はなかった。匡平は、啓樹の細い頤(おとがい)を拳で掬うと、有無を言わせず唇を重ねた。驚いたものか、反射的に匡平を押し返そうとした啓樹の手頸が、次の瞬間、力を失った。体を匡平に預けたまま、初めて、啓樹のほうから匡平の舌に触れて来た。啄むような短いキスが、次第に熱の籠った、濡れた口接けへと変わる。
「あー。なんだ、その」
 夢中で唇を貪り合いながら、背後からの間延びした声に、目線だけを向ける。
「取り込み中に申し訳ないが。俺は、どうすりゃいいのかね?」
 自分の父親がそこにいることを、匡平は、すっかり失念していた。
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