世界でいちばん最後の

岩崎みずは

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世界でいちばん最後の

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 土曜日。
 朝早くから家を出たものの、向かう先は二駅先のいつものシネコンではない。利用したこともない路線の電車に乗り、降りたこともない駅で降りた。これまで一度も訪ねようと思ったこともない、啓樹のマンションの最寄り駅だ。
 母親が、駅からの簡単な地図を書いて渡してくれた。
 アポも取らずに訪問するわけだから午後になると相手が外出してしまうかも知れない。そう考えて早めに出てはきたが、とはいえ、現在時刻は朝の十時だ。流石に早すぎるので、小一時間ほど駅前のコーヒーショップとコンビニで時間を潰した。
 母親の手になる地図は簡略どころかかなりいい加減で、同じ道を数回行きつ戻りつし、電信柱で番地を確かめながらようやく辿り着くことが出来た。
 人をパシリに使うんなら、まともな地図くらい書きやがれ。そう心のなかで毒づきながら、目当ての建物を見上げる。
 駅に程近いが、商店街の雑踏からは数区画離れたこ洒落た住宅地の一角に、そのマンションはあった。想像していたほど大きくはないが、レンガ色のモダンな建物だ。
 オートロック式のエントランスから部屋番号をプッシュするときになってようやく、手土産を買い忘れていたことに気がついた。駅からここに来るまで、花屋や洋菓子店の前なら何度も通ったというのに。
 果たして、啓樹は在宅していた。留守であってくれれば、という淡い期待は、物の見事に打ち砕かれた。この期に及んで、匡平の裡には迷いがあった。
 突然の訪問に、啓樹は驚いた顔をしたものの、普段となんら変わらない穏やかな態度で、匡平をリビングに招き入れてくれた。
 促されるままソファに腰を下ろしたものの、どうも尻が落ち着かない。
 青を基調にした品のいい壁紙やラグ、磨き抜かれた硝子のローテーブル。子供ならずとも歓声をあげたくなるようなワイド液晶テレビ。リビングに隣接したダイニングも広々とした作りで、その奥の対面式キッチンで啓樹がコーヒーを淹れている姿が見える。
 匡平と母親が暮らしている築数十年のおんぼろアパートとは雲泥の差だ。
 啓樹の母親は留守のようで、それに少し匡平はホッとした。小学生のとき以来一度も会っていないし、おまけに、当時から啓樹を好き勝手に引き摺り回してばかりいた自分が、良い印象を持たれているとは到底思えないからだ。
 洋酒のボトルと高価そうなグラスがずらりと並んだサイドボードの上に、プレートや陶器の人形がこ綺麗にディスプレイされている。その前に、小さな銀色のフォトスタンド。赤ん坊の啓樹を抱いているかれの母親。隣は、スーツを着て生真面目な表情でこちらを向いている小学生の啓樹。筒を手にしているところを見ると、小学校の卒業式だろうか。
 物珍しいとはいえ他人の生活空間をじろじろ眺めるなど失礼だという常識くらい匡平も持ち合わせてはいるものの、やはり目が行ってしまう。
「はい、コーヒー」
 湯気のたつカップを両手に戻ってきた啓樹は、何故、こんなにも平然としていられるのだろう。
 啓樹が淹れてくれたコーヒーに口をつけながら、匡平は、サンキュ、としか返す言葉がない。
「えーと、お袋さんは?」
 母親から言いつかった仕事を片付けるんだ、とばかりの問いも、会話の切っ掛けとするには見事な空滑りの様相を見せ、啓樹からは、いま出掛けてる、と素っ気ない返事を引き出しただけで終わった。
 互いに無言のまま、五分が過ぎ、十分が過ぎる。胃がおかしくなりそうだ。
「コーヒー、おかわりは」
 啓樹に尋ねられ、自分のカップに目を落とすと、いつの間に飲み乾したのか空になっている。
「いや、要らない」
 よそ事に気を取られていたせいだろう、薫り高いコーヒーも、熱いだけでなんの味もしなかった。
「飲み物はいいからさ、部屋見せてよ、ひろの」
 返事を待たず、リビングを出ると勝手に奥に進む。互いを探り合うような沈黙も、時間稼ぎの無駄話も、マンションのバルコニーから階下に蹴り出したい気分だった。
 啓樹の部屋。間もなく成人を迎えようとしている青年の、想像し得る限り理想的な空間。
 壁一面を埋めるキャビネットに隙間なく並んだハードカバー。タイトルをちらと見たところ、実用書や小説の類が主らしかった。ネットワーク関連や情報処理系の参考書もかなりの数が揃っており、漫画ばかりが並んだ匡平の部屋の本棚とは大違いだ。
「別に、匡平が興味を持つような面白いものは、何もないと思うよ」
 照れているのか、迷惑がっているのか判断のつきかねる、独り言のような呟き。
 デスクの上になにか資格取得のための問題集。無意識に、匡平はその本を手に取り、ぱらぱらと頁を繰った。
 医療情報技師、というのはどういう資格だろう。聞いたこともない。
 そういえば、俺は、こいつを積極的に知ろうとしたことなんて今まで一度だってない。
 それにしても、色んなものが揃った部屋だ。パソコンに周辺機器、無造作にベッドサイドに転がっているスマホとタブレット端末。
「スマホとタブレット両方持つって、意味分かんねえ。どういう使い分けしてんの?」
 俺なんか、未だにガラケだぜ。この日本で今どきガラケユーザーの現役高校生なんて、俺くらいのもんじゃねえのか?
 匡平の言葉に、啓樹が困ったように曖昧に笑う。
 昔からそうだった。啓樹は、持ち物を自慢するような俗物ではないが、同年代の若者が欲しいと思うようなものは、およそなんでも持っている。子供の頃ならプラレールや高価なラジコン、そんなの今更羨みはしないが、いまなら最新機種のモバイルにデジカメ。そして、それ以上のものも。
 上品でセレブな両親、秀でた学業成績。啓樹の人柄を慕い集う友人たち。将来の展望、なんの翳りもない見通し。おまけに品行方正なイケメンときた。格差もここまでくると、もはや自嘲の溜息すら出なくなる。
 自分の娘が、彼氏を紹介すると言って招いたのが啓樹なら、厭な顔をする親などどこにもいないだろう。
 ひきかえ、俺はどうだ。
 頭の悪い元ヤンで、親も絵に描いたような貧乏人。将来性など欠片(かけら)もなく、人望もこれまた皆無。たまに寄ってくるヤツがいるかと思えば性根の腐った狡猾な連中ばかりで、信頼出来る友達の一人もいない。
 手札はカスばかりで、失いたくないものなど、なにも思い浮かばない。
 啓樹が、じっと匡平を見つめいている。視線がぶつかったとき、先に目を逸らしたのは匡平のほうだった。
 これまで啓樹の隣にいることで一度だって卑屈になったり劣等感を持ったことなどなかった。なのに、なんだ、このおかしな状況は。
 言わなければならない、いい加減、覚悟を決めて。
 自分たちの関係は、何か変わるのか。それとも、何も変わらないまま、終わりを迎えるのか。
「ごめん、匡平。俺のせいで混乱させて。悪かったって思ってる」
 いきなり、啓樹がそう言ったとき、匡平は、何か別の言葉と聞き間違えたのかと思った。
「はあ?何が」
 どうして啓樹が謝らなければならないのか、なにに対しての謝罪なのか、匡平には分からない。
「匡平、俺がコクったとき、なんて言ったか、覚えてる?」
 そんなの、覚えている訳がない。そこまで記憶力が良かったら、赤点教科など半数に減っていることだろう。
「いや、わりいけど」
 啓樹の口調は、平坦だった。
「俺が匡平を好きで、匡平はそれをスルーして終わり、って言ったんだ。だから俺も、それで納得した。元々、何かを求めてた訳じゃないし」
 そういえばあのとき、確かに、そんなふうなことを返した。考えなしに言った台詞で、悪気は無かった。そう謝ればいいのだろうか?
 啓樹は続けた。
「匡平らしいな、って思った。でも匡平はスルーなんて出来ない。それが好意でも悪意でも、匡平は自分に向けられた感情に無関心でいられるほど、神経が太くないんだ」
「はあ?なんだよ、それ」
 話についていけない。頭のいい奴は、論法も変則的なのだろうか。
「だから、その。カラオケボックスでのことだけど、なんか変な雰囲気になっちゃったけど、あれは、事故みたいなもので」
 言葉を選びながら説明するのに疲れたのか、啓樹が、苦笑を浮かべる。
「多分、匡平が考えてるような重大なことじゃないよ。俺は気にしてないし」
 その言葉に、何かが、匡平のなかで音をたてた。
「俺は、気にすんだよ」
 匡平自身が驚く程の低い唸りに、啓樹の表情が強張るのが分かった。
「俺がお前のこと、なんも考えてないっていうのかよ。俺がただ雰囲気に流されて、お前に触れただけだって」
「そうだよ。だって普段、俺のこと空気みたいにしか思ってないだろ」
 皮肉を言っているのではない、ただ淡々と真実を語っている、そんな口調だった。
 受け身主体の無口な筈の植物の突然の反撃。反撃というより、今まで出来るだけ見まいとしてきた痛いところをまともに突かれた気がした。
 啓樹の言う通りだ。男に好きだと告げられて華麗にスルー出来るものなら、いまこんなところになど居ない。
 でも、俺がお前を大切だって思ってるのは、嘘じゃない。
 言いたいことはある筈なのに、それは融けて固まった鉛のように胸の裡を圧迫するだけで、言葉となって出てこない。だから、いつもの突発的な攻撃性が頭を擡(もた)げた。
 これから自分が、言ってはいけないことを言い、やってはいけないことをするのだと、どこかで明確に意識していた。
「幼稚園のときにさ、白雪姫の公演あったの、憶えてる?」
 不意打ちの問いに当惑したように啓樹が瞬きをする。話の展開について来れないのだ。当然だ、匡平にしたところで、なんでいきなりこんな話題を持ち出したのか、自分でも理解不能なのだから。
 情操教育の一環とやらで、地域の劇団を園に招き、本格的な演劇や人形劇を鑑賞出来るイベントが年に一度、催されていた。
 毒林檎にやられた白雪姫を王子のキスが目覚めさせ、ハッピーエンド。やけに真に迫った魔女の姿の恐ろしさに泣き喚く園児続出だったあの催しが、子供のその後の人格形成になにか意味あるものを残すことが出来たかどうかは、残念ながら匡平の知るところではないが。
 年少だった匡平が憶えているくらいだから、啓樹が記憶していることは間違いない。
「あの話ってさ、もし、白雪姫が、キスはいいけどセックスは絶対やだって言ったら、どうなったと思う?」
 啓樹は目を伏せたまま、首を横に振った。分からない、か、答えなくない、か。どちらの意味にも取れる。
「命救ってやって、城に連れ帰って、そんで拒まれたら、王子は姫の首締めて、もっぺん棺桶に叩き込みたくなるんじゃねーの?」
 それだけ言うと、匡平は、やにわに啓樹の両肩を掴んで、後ろの壁に強く押し付けた。
「よせ、そんな真似」
 啓樹は匡平を押し返そうとした。匡平はそんな抵抗など無視して、片手で啓樹の両手首をまとめて掴み、頭上に縫い止めた。
「やめろって、匡平」
 それまで無表情だった啓樹の顔が驚愕に塗り替えられ、蒼白になる。
 歳下の相手に無理やり押さえ込まれる、考えられる限り男として最も屈辱的な状況。しかし、体格が殆ど一回りも違う匡平に力で敵わないことなど百も承知なのだろう、離せ、と絞り出すように呟くと、拒絶の徴(しるし)に、啓樹は首を横に振った。最初は力なく、そして激しく。
「はあ?なんで?」
 せせら笑って、顎に指をかけると、啓樹が小さく息を飲む。
「あんときの続きだよ。お前だって嫌じゃねーんだろ」
 指の腹と掌(てのひら)全部を使って唇、顎、そして喉を、わざと淫らな動きで撫で回す。顔を背けた啓樹は、固く目を閉じたままだ。
 凌辱、という単語が、頭に浮かんだ。
 白い清潔なシャツの釦(ボタン)に指がかかると、啓樹は激しく頭を振り、身を退こうとした。それを許さず、匡平は啓樹の両手首に一層強く指を喰い込ませた。啓樹の容(かたち)の良い眉が、苦痛に歪む。
「そんなこと、思ってない」
「好きだって言ってきたの、お前のほうだろが。俺は流されやすいんでね、好きっていわれりゃヤりたくなるんだよ。俺にこうされて、嬉しいだろ。嬉しいって言えよ」
 啓樹は小さく、それでも叫んだ。
「違う。こういうんじゃない。こんなつもりじゃ」
 足の間に膝を割り入れる。拒絶の呻きが啓樹の唇から洩れた。
「じゃ、どう思ってたんだよ」
 好きってのは、ヤりてえ、ってことじゃないのか?そうじゃない「好き」があんのか??
「毎日、匡平の顔が見たい。声が聞きたい。一緒に出掛けて並んで歩いて、毎晩メール出来たらいい、とかは思ってた。でも、それ以上は考えてない。触れたいとも思ったことない」
 匡平の詰問に応える啓樹の声は力なく掠れ、喘ぎながら目を瞬かせる、その睫毛の長さに今更ながらハッとする。
 軽く脅かすだけのつもりだった。啓樹に、何かちょっとした仕返しをしてやりたかった。
 この上なく乱暴に、理不尽に扱われながらも、啓樹は大声をあげも、死に物狂いに暴れもしなかった。ただ、目をきつく綴じたまま、力弱い抵抗を繰り返すだけだ。
 主義に反するから、女に乱暴したり、性交渉を無理強いしたことはない。だから、匡平は、こういうシーンを想像することはあっても、体験したことがなかった。しかし、征服欲というものは、この地球上のどの種の牡にも生まれついて備わっている。
 啓樹は女ではない。しかも年上で、頭がよくて人望もあって、誰の目から見ても匡平などより遥かにランクが上の人間だ。その相手を、こんなふうに力ずくで支配している。何も感じるな、というほうが無理な話だ。
 膝を深く挿し入れ、ぐいと腰を密着させると、啓樹は唇を噛みしめた。
 固くなり始めたものを太ももに押し付けてやると、喉の奥で鋭い息を衝き、逃れようと身体が撓(しな)る。その姿は妙に扇情的で、一瞬、初心な振りをして実はこいつ俺を誘っているのか、と錯覚しそうになった。
 しかし。どうやらそうではないらしかった。
 駆け引きなどではない、本当に怯え、嫌がっている。その証拠に、啓樹の額には脂汗が浮かび、両腕にはびっしりと鳥肌が立っている。
 交感神経をそこまで緊張させなければならないほどの防御反応を示されて初めて匡平は我に返った。
「ちッ」
 それと分かるほどに大きく舌打ちし、匡平は啓樹の身体を解放した。
「ああ、止めたやめた、アホらし。超シラけんですけど」
 ここで終わってホっとしたのが実は自分のほうでした、などと悟られたくはなかった。わざと乱暴にフローリングの床に腰をおろす。
 顔を上げる気にもなれず、床の一点を激しく睨みつけた。
 二律背反がべき乗で思考回路がコリジョンを起こしている。いや、デッドロックか?何が言いたいんだ俺は?兎に角もう、ぐちゃぐちゃだ。
 この際、目からビームでも発射して、床に大穴が開けばいい。穴を掘って入りたい、ではない。啓樹を放り込んでやる。それで地獄にでも堕ちてしまえ。
 啓樹は一目散に逃げ出すだろう、当然だ、真っ昼間からレイプされかけたんだから。下手すりゃ警察に通報でもされるかも、などと霞がかったような意識の隅でぼんやりと思う。どうだっていい。
 だが、いつまでたっても、部屋を飛び出す気配はない。
 それどころか。
「匡平、大丈夫?」
 背後から、啓樹の声。まだ少し呼吸は乱れているものの、ほぼ平時と変わらないほどに落ち着いた口調。
 大丈夫、だと、そう言ったのか?たった今、俺がなにしたか分かってんのか。なのに俺の心配だと?
「シャツの釦、取れなくてよかったよ。匡平、思い切り引っ張るんだもの」
 なに能天気なこと言ってんだ。それとも、自分は天然です、レイプされかけても気にしないんですう、みてえな新たなキャラだてか?
 マジに、馬鹿じゃねえの?
 指先が、肩にそっと触れる。
 うるせえ、俺に構うな。犯すぞ。
 そう毒づいて咬み付いてやろうとした。口を開きかけた匡平の唇に、啓樹の指があてがわれた。しい、という言葉とともに。
「好きだよ、匡平」
 ぽつりと、啓樹が呟く。
 肩に置かれた手を振り払おうとして思い直し、俯いたまま、冷たい啓樹の指先に、そっと手を添えた。
「俺も、好きだ」
 匡平の手のなかの啓樹の細い指。
 鼻の奥が、ツンと痛んだ。危うく涙が転がり落ちそうになり、乱暴に瞬きを繰り返す。 
 この指を握りしめて幼稚園に通っていたことを、不意に思い出したのだ。
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