世界でいちばん最後の

岩崎みずは

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世界でいちばん最後の

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 重い一枚ガラスを押し開けてシネコンのドアから体を外に押し出すと、間髪入れず強い西日がまともに匡平の眼に降った。温(ぬる)い空気が全身の皮膚に貼り付く感覚が、夏を迎えつつある季節を伝えてくるが、だからといって特別感慨深いこともない。
 あの作品は大ハズシだったな、とぼやきながらつく溜め息は、本日何度目だろうか。
 匡平の真後ろの座席に陣取った太った中年女がずっとスナック菓子をばりばり齧る音が気になって、ストーリーに全く集中出来なかったし、作品そのものの出来もいま一つだった。
「だいたい、なんだよあのオチは。太古の悪魔が蘇りましたって。悪魔とか出したら、もうなんでもアリになっちまうだろうが」
 SFやアクションのジャンルで特に観たいと思った洋画が無かったためにたまたま選んだだけのホラー作品だった。同じ監督が数年前にメガホンを取ったSF作品がわりと好きだったので、そこそこに期待はしていたのだが。
 こんなことなら、いつもとは趣向を変えてホラー映画を観よう、などと思うんじゃなかった。
 啓樹なら、どういう感想を述べただろうか。
 喉奥で映画の内容に毒づき、妖怪スナック貪り女に毒づき、そして大きな溜め息をもうひとつ。
 啓樹とはずっと会っていないし連絡もない。匡平から電話やメールをすることは出来なかった。自分が切り捨てられたなどと認めるのは癪に障るが、連絡を入れてこないのは、もう、それが啓樹の出した答えなのだと思う他はない。
 真っ直ぐ家に帰る気にもなれず、目的もなくショッピングモールをただ人混みに流されるようにそぞろ歩く。
 ゲーセンで遊ぶ気分でもないし、バーガーを齧る心境でもない。
 決まった女がいるときの休日の過ごし方は大概、親が留守のほうの部屋にしけこんで、DVDを観たりゲームをしたりゴロゴロしてなんとなくいちゃついて、そのまま流れでセックス、というのが定番だった。ここ数年は女が切れたことのない匡平だったが、パチ妊娠で匡平をカモろうとした女狐と完全に別れてからも、新しい彼女を作ろうという気に未だになれずにいた。匡平がフリーになったと知るや否や、アピってきた女が学校で二人ばかりいたが、どうにも食指が動かずどちらも素気無く断った。況(いわん)やナンパをや、だ。
 まさかあの程度のトラブルで精神的インポテンツに陥るほど、自分がデリケートだとは思っていないが、ここ暫く調子が狂っているのは、紛うことなき事実だ。
 一体どんな女となら、また付き合おうという気になれるのだろう。いい加減、十把一絡(じっぱひとから)げのギャル系は卒業したい。
 そのときふと、あの女の姿が脳裏に浮かんだ。
 思わず立ち止まってしまい、中年サラリーマンと危うく衝突するところだった。
 ほんの十分かそこら並んで歩き、挨拶程度の言葉を交わしただけだ。美人で可愛い、とは思ったが、だからどうこうしたいなどとは、あのときは考えなかった。
 でも確かに、自分の周りの女たちと、あの女とを無意識に比べていた気がする。あの女と並べれば、同年代の女子連中など、若いだけで中身のない安っぽい二流品としか思えなかった。だから興味が持てなくなっていたのだ。さもなければ、とっくに、手軽で尻軽な女を適当に見繕って新しい彼女の座に据えていたことだろう。
 図書館で出会った女司書。
 これが恋愛感情なのか、それとも目先の変わった相手への物珍しさ故の興味に過ぎないのか。自分の気持ちを確かめたくなった。

 図書館へ行けばそこに目指す相手がいると分かっているのに、何となく億劫で、二日が経ち三日が経った。
 もしこれが恋愛感情だとするなら、匡平には未知の世界だ。
 今まで何人の女と寝たか覚えてすらいないが、そのなかの誰か一人でも、一度でも好きだと思ったことがあるかと尋ねられたら、答えに窮する。周りの目にどう映ろうと、実際の匡平はリア充とは程遠い。
 そもそも、俺は、初恋、なんてものを経験したんだろうか。
 そんなことを考えながら、図書館の前に立ったのは、その週末の学校帰りだった。
 前回は母親の使いで、閉館間際に本を返却しに来た。そのときは静まり返っていた建物も、流石に平日の四時過ぎという時刻だけあり、制服を着た学校帰りの高校生や中学生がちらほらと出入りしている。
 自分に縁がないところ、例えるならば、若い女性客で賑わうデパートの化粧品売り場にでも迷い込んでしまったような感覚に陥りかけた。
 自動ドアのガラス越しに中を覗き込むと、カウンターに、見覚えのある親父が一人。相変わらずくそ田舎の役場の戸籍係りのようだ。あの女司書は、姿が見えなかった。
 席を外しているのか、それとも今日は休みなのか。
 不在ならばこんなところに長居する必要もない。そう思いながら、何故か帰る気になれない。
「あの、通していただけますか」
 声に振り返ると、ベビーカーを押し、三歳くらいの女の子の手を引いた若い母親だった。
 図書館入口の自動ドアの前を行ったり来たりうろうろしている匡平が不審者にでも見えたのだろう、入館出来ずに困っていたらしい。
「あ、すんません」
 頭を下げて脇に退くと、母親はあからさまにホッとした笑顔を浮かべ、建物の中に吸い込まれていった。それを横目で追いながら思わず苦笑する。下手をすれば飛び掛かられるとでも思っていたに違いない。他人にそういう反応をされるのは慣れっこなので、今更腹も立たないが。
 学校帰りに制服姿で来て良かった、と思った。学生です、と無言のアピールをしていれば、多少胡散臭がられはしても、警備員を呼ばれる程の事態にはなるまい。ドアの前を行きつ戻りつ、やっていることは、自分でも呆れるほどに挙動不審ではあるが。
 でも、いい加減に今日は帰ろう。
 他人の目が気になるというより、自分の行動が幾分ストーカーのように思えてきて、諦めて戻ろうとしたところで、背後から声をかけられた。
「神崎さん」
 出来過ぎている。これじゃ少女漫画か韓流ドラマだ。
 そう思いながらも、つい口元が綻びかけるのを堪え、態と仏頂面で振り向いた。
「ああ、こないだの。こんちはっす」
 なあにが、こないだの、だ。さも偶然といった態度を装う自身の白々しさに、笑ってしまいそうだった。
 これが二度目となる、件(くだん)の女司書は、やはり野暮ったかった。
 分厚い眼鏡、なんの油っ気もないバサリとおろしただけのロングヘア。今どきどこで売っているんだ、そんなワンピ?と訊きたくなるような田舎臭いダンガリーのシャツワンピースの上に、エプロンを着けている。エプロンと言っても、新居で旦那を出迎える若奥様が身に着けるコケティッシュな雰囲気のものではない、帆布のような硬そうな生地の『ザ・作業着』といった代物だ。そそられないことこの上ない。
 でも、見ていて不思議と和む。そう思うのは、自分の目がどうかしてしまっているのだろうか。
「今日も本の返却ですか?」
 曖昧に答えながら、エプロンの左胸に留められたプレートの苗字を横眼で掠め取る。印刷されていた文字は『佐藤』。平凡過ぎる程平凡な名だ。
 どこか出掛けるのか、と尋ねると、これから車で十五分程の距離にある区民センターへ椅子を取りに行かなければならない、という。
「椅子?なんで椅子?」
 週末に図書館のイベントで幼児向けの絵本の読み聞かせ会が催されるが、今回ゲストに招いた読み手が若い母親の間で名の知れた有名人だったため予想外に応募が殺到し、急遽、会議室から大ホールに会場を変更することとなった。そのため、パイプ椅子の数が足りなくなったらしい。
「司書さんて、椅子運んだり、そんな力仕事もするんですか?」
 少し意外な気がした。
 日がな一日、カウンターの内側に座り込んで返却日のことでがみがみ言っているだけじゃないんですよ、と悪戯っぽく笑ったのは、最初に出会ったときのことをネタにしたのだ。匡平は思わず微笑した。多分、今まで関係を持ったどの元カノが同じようなことを言ったとしても、ムッとする以上の感情は生まれないだろうけれど、何故かこの女の言動に限っては、可愛いと思ってしまうのだ。
 建物の裏手の駐車スペースまで並んで歩いた。自分が少しも警戒されていないらしいのが、匡平には不思議だった。普通、顔見知り程度かそれ以下の繋がりしかない若い男が、馴れ馴れしく隣を歩いてついて来たら、まともな女なら迷惑そうな顔をするか、少なからず困惑するだろう。
 匡平が傍に居ることを嫌がってはいない。というより、むしろ好意を持たれていると感じる。ただそれが恋愛に結びつく類の気持ちからなのか、単純な気安さなのか、分からない。
「佐藤さん」
 思わず呼び掛けていた。
「俺、いま暇なんで。仕事手伝います」
 もう少し、一緒に居たいと思った。
 いえ、そんなの悪いですから結構です、と体よく断られる。そうなるのを半ば覚悟していた。だが、突然の提案に少し驚いたような表情を見せた相手は、にっこりと微笑み、答えた。
「助かります。是非、お願いします」

 数日前に連絡を入れておいたという区民センターの担当者が用意してくれていたパイプ椅子を、沙都子が運転するワゴン車に積み込んだ。沙都子、というファーストネームは、行きの車のなかで教えられた。
「サトーサトコ?」
 二度訊きしてしまった自分の口を慌てて押さえる。和やかに流れる折角のこの空間を、いまの一言で打ち壊してしまったのでは?常識のないバカ高校生だと思われて、これで敬遠されたりしないだろうか。
 だが、沙都子は気にする風もない。
「そうなんです。子供の頃はよくからかわれました」
 だから、子供心にも、早く大人になって苗字が変わるといいな、と思っていたんです。
 そう言われて初めて、沙都子が独身なのだと分かった。今の今まで、気にもしていないというより、迂闊な話だが、沙都子が既婚者であるかも、という発想にすら及ばなかったのだ。
 だが、しかし。
 さり気なく、独身だとアピールされたと深読み出来なくもない。ということは、沙都子は多少なりと自分に気があるのだろうか。
 そうでなければ、会って二度目だというのに、ここまでフランクに話をしてくれる理由が分からない。確かに一度、頭の悪過ぎるヤンキーから助けたと言えば助けた。それで俺のことを好きになったとでも?否、そんな些細なことを恩に着て、ましてやそれで惚れるなど、そんな女はスパイダーマンのヒロインMJくらいのものだ。
 チラと運転席を見る。沙都子は、髪をアップにしている。
 運転中、邪魔になるからだろう、ワゴン車に乗り込み、シートベルトを締める前、何処からか魔法のように取り出した飾り気のない髪留めで器用に纏めたのだ。その所作に我知らず見惚れていたので、沙都子に促されるまで匡平は助手席のシートベルトを締めることも失念していた。
 やっぱり、思った通りだ。髪を上げているほうがいい。これで、コンタクトにでもしてくれれば猶更いい。
 そう思いながらも、イイ女でいるのは自分の前だけにしてくれ、という気もする。誰かほかの男に言い寄られるのは困る。ほかの男の前では兎に角ダサい野暮ったい女でいて欲しい。例えば、あの親父司書の前とか。
 こんなことを考えるのは、やはり惚れているからだろうか?
 俺は、沙都子のことが好きなのか?
 不躾に歳を尋ねるわけにはいかないが、匡平との年齢差は十歳ではきかないだろう。ひょっとしたら一回りくらい違うかも知れない。常識で考えれば、そのくらいの年齢の大人の女は、匡平如き高校生など相手にしない。
 パイプ椅子を運んでやったとき、沙都子は少女のように見えた。パイプといえども一脚が三キロ近くある。しかも全部で二十脚だ。沙都子の力では一脚ずつ持ちあげるのがやっとで、汗で濡れた額に前髪が貼り付いていた。俺がやりますよ、と沙都子の手から荷物を奪い、五脚ずつ荷紐で縛ってワゴンの後部座席に積み込み終えたとき、向けられた賞賛のような目線が、誇らしいと同時に照れ臭かった。自分がヘラクレスにでもなったような気がした。
「少し休憩して行きましょうか」
 この先の信号を左に曲がれば図書館、というところで、沙都子がいきなりハンドルを右に切った。
 休憩?それってまさか。一瞬、ギクリとして匡平は身体を強張らせた。いやいや、ホントにまさかだ。沙都子はそんな女ではない。というより、初心な童貞小僧じゃあるまいし、何をパニくっているんだ、俺は?
 赤くなったり青くなったりの匡平の思惑を余所に、ワゴン車が滑り込んだのはファーストフード店のドライブスルーだった。沙都子は自分にはオレンジジュースを注文し、何にします?と言わんばかりに匡平を振り返る。
 ああ、休憩って、文字通りの。
 ホッとするやらガッカリするやらで何も言えずにいると、じゃあ、適当に注文しますね、と笑い、バーガーとポテトとドリンクのセット、それと期間限定とやらのボリューミーなハンバーガーをもう一つオーダーしてくれた。
「高校生の男の子ですもの、そのくらいは軽く召し上がりますよね」
 確かにハンバーガーの二つや三つ、軽く平らげるくらいの食欲は持ってはいるが、気のある女に『男の子』と言われるのは、少なからずショックだ。
「俺、子供じゃねえし」
 ぷいと横を向いて拗ねて見せると、沙都子は微笑んだ。初めて会ったときに匡平が、ずっと見ていたい、そう思ったあの表情で。
「間違えました。男の子、じゃなくて、殿方、に訂正します」
 敵わない、と確信した。何を言っても、やっても、翻弄される。
 LikeなのかLoveなのか、4対6くらいな気がする。でも、一緒に居ると落ち着くし、何より心地いい。
 匡平が食べ終えるタイミングを器用に計ったように、車は、ゴールでありスタート地点でもあった図書館の駐車場に戻った。
 イベント会場まで椅子を運ぶと言う匡平を、それには及ばないと沙都子が制した。当日の午前中、有志のボランティアが来てくれるので、彼らから仕事を取り上げるわけにはいかないから、と笑う。そしてこうも言った。
「バーガー程度の報酬で、これ以上働いて貰ったら、問題が起こります」
 問題ならもう起こっている。俺は、あんたにマジで惚れるかもしれない。
「俺、ぶっちゃけ、女の人に奢って貰うのって慣れてないんで」
 態と、乱暴に言う。視線を逸らしたままで。
「だから今度、お返しさせてください」
 その、迷惑でなければ、の話ですけど、と少し慌てて言い添えると、沙都子が含羞んだように微笑む。
「本当ですか?嬉しいです」
 そのあとに続いた沙都子の台詞に、匡平は背後に倒れ込みそうになった。
 私も、以前から匡平さんのことをもっと知りたいと思ってました。出来たらもっと仲良くなりたいので、宜しくお願いします。
 少女漫画の愛の告白のような言葉が飛び出してくるとは思わなかった。
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