波の旋律(おと)

岩崎みずは

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◆燦(さん)

波の旋律(おと)

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 夢を見ていた。
 六歳のときの自分。葉奈の結婚式だ。
 自分の両親の結婚式に参列する子供というのは、そう多くはあるまい。
 葉奈と二人だけで数日を過ごせると思ってやってきたオフシーズンの観光地だった。遊覧船や、大好きな童話の世界を再現した美術館、小動物と触れ合える牧場、水族館。
 思い描いて楽しみにしていたのに、それがまさか、結婚式とは。騙し討ちされたような気分で、到着早々、俺はひどく不機嫌だった。
 俺と葉奈の到着よりたっぷり半日遅れて、その男はやって来た。
 見上げるような大男、とまではいかないが、筋肉質のがっしりとした身体つき、労働者然とした埃っぽい身なり、いつ櫛を入れたのか分からない縺れた髪。顎にまばらに生えた無精ひげ。
 全体的に薄汚れた風体の男が、俺と葉奈の宿泊するホテルのスウィートルームに足を踏み入れてきたとき、俺は恐怖のあまり、もう少しで救けを呼びに部屋を走り出るところだった。だから、葉奈が嬉しそうにその男に寄り添ったときは、目を丸くした。
「りっくん、お父さんよ」
 そう言われたところで、手の込んだ悪ふざけを仕掛けられているとしか思わなかった。ついこの前、私立小学校の受験にわざと失敗したから、その罰として意地悪をされているんだ、と。
 だから、その翌日、真新しいよそ行きを着せられ、女の子でもあるまいに胸元には花まで飾られ、ホテルに隣接した教会で、それまで会ったこともなければこれからも会いたくもない大勢の男女に声を掛けられ馴れ馴れしく頭を撫でられる事態になっても、俺にはこれが現実なのだとはどうしても思えなかった。
 パーティの主役は、葉奈。
 純白のウェディングドレスに身を包み微笑む姿は、物語から抜け出してきたお姫様そのものだった。
 しかし。その横に立つ男の、なんと野暮ったく見劣りすることか。明らかに借り物のタキシードを窮屈そうに着て、葉奈の隣で相好を崩している。無精ひげこそなくなっていたが、寝癖のついたぼさぼさの髪は相変わらずだ。
 来客も同様に考えているのか、会場のそちこちで、呟きが聞こえる。
 あのお嬢様育ちが、なんの気紛れであんな男を選ぶのかねえ。
 どういう出自なの。新郎側の招待客、親類どころか、誰一人いないじゃない。
 遠巻きに、しかし無遠慮に自分に注がれる幾つもの視線。
 ほら、あの子だよ。
 ご覧よ、目元なんかそっくりだ。
 傍ではそう言いながら、かれらは俺の近くにくると、猫撫で声でこういうのだ。
 りっちゃん、おめでとう。やっとお父さんと暮らせるようになって良かったねえ。
 心にもない台詞。かつて子供であった筈の大人たちは疾うに忘れてしまっているのだろうか、六歳の子供であっても、周りの悪意や嘲笑は敏感に感じ取るということを。
 俺はその場から飛び出した。教会の扉を抜けて、庭園に飛び出し、様々な動物の形のトピアリー(刈り込み)の傍らを抜けて、走り続けた。
 ようやく息が切れて足を止めたとき、俺は、宿泊しているホテルの裏手にあたる湖に続く階段の上に立っていた。
 ホテルの泊まり客はほとんどが結婚式の参列者だ。いま、こんなところでくつろいで居る筈がない。それなのに、その青年は階段に腰掛けていた。
「やあ」
 俺に気づいたのだろう、振り向いて、手招きした。無視しても良かったのだが、俺は階段を降りて男に近づいた。隣に腰掛け、顔を見上げる。
 オジサン、という年齢ではない、お兄さんだ。端正な顔立ちは、どこか葉奈に似ていた。光沢のある高価そうな黒いスーツに純白のタイ。胸に、俺のとよく似た花を挿している。結婚式の招待客に間違いない。
「お兄ちゃん、誰。こんなとこで何してるの」
 知らない人について行ってはいけない、会話してもいけない、という教えを重々承知していながら、俺は男に尋ねた。
「何もしていない。あの妙なお祭り騒ぎが終わるまで時間を潰そうと思ってるんだ」
 後のほうの質問にだけ、青年は答えた。
「きみもそうなんだろう。あそこにいたくなくて、僕みたいに逃げ出してきたんだよね」
 そう言って、共犯者めいた笑みを浮かべる。
 その青年が、子供相手ではなく対等な大人のように会話し、接してくれていることに俺は気がついた。結婚式のパーティーを、妙なお祭り騒ぎ、と言い換えたのも気に入った。全くその通りだったのだ。得体の知れない招待客、これから一緒に生活するなど想像できない葉奈の結婚相手。
「あそこにいるヤツら、みんな嫌い。みんな消えちゃえばいい」
 かれが、ふ、と破顔う。
「あそこに来ている人たちは、きみのお母さんの親戚や、友達だ。でも、そんな理由だけで好きになれって言われても、困るよね」
 僕も正直、かれらは苦手だ。言い訳するように、そう付け足した。
「お父さんなんて要らない」
 声が震えた。言葉にした途端、葉奈をどこかで裏切ってしまったような気がして、胸がちくりと痛んだ。
 いつの間にか吐く息が嗚咽に変わり、俺は激しくしゃくりあげていた。
「おいで、律」
 かれがなぜ俺の名前を知っていたのか分からなかった。ただ、そのときの俺は、広げられた腕のなかに吸い込まれるように、かれの胸に抱かれていた。穏やかで、確かな心音。それを聞きながら、途方もない安堵感に包まれたことをよく憶えている。
 憶えている?
 これは夢ではなく、記憶だ。
 あれは、進二さん?
 目を覚ましたとき、デジタル時計の表示は既に八時を示していた。遮光カーテンを開けると、いきなり窓から光が流れ込む。
 そのときようやく、自分が、羽根布団にくるまって寝ていたことに気がついた。進二さんがかけてくれたのか。
 ベッドに腰掛けたまま、俺はしばらくぼうっとしていた。
 記憶が混乱している。
 俺は、ほんとうにあのひとに、十年前に出会っていたのか。
 だとしたら、何故、忘れてしまっていたのだろう。そして、これまで思い出しもしなかったのだろう。
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