陰陽少女(仮)

岩崎みずは

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陰陽少女(仮)

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「逃げるって言ってるの。早く」
 流咲に引き摺られるように、京子は境内の奥、林のなかに走り込んだ。
 雲が、再び月を覆い隠した。
 林のなかの少し開けた場所で、流咲はようやく京子の手を離した。優香が追って来る気配はまだない。
 京子は呻いた。心臓が今にも破裂しそうなほどに激しく脈打っている。
「今の、なんなの?優香になにがおこったっていうの?」
 その問いに、流咲は答えてはくれなかった。胸元から何かを取り出し、左手に持ち替える。暗がりのなかで目を凝らしてみると、それは短冊ほどの大きさの紙の束であることが分かった。
 流咲の右手にはいつの間にかペンが握られ、短冊になにか文字を書きつけている。
 手を休めないまま、流咲が独り言のように呟いた。
「やっぱりそうだった。優香さんの負のエネルギーは大き過ぎる。本当に呼び出してしまったんだわ、闇の象限に巣喰う存在を」
「ヤミノショウゲン?なんなの、それ」
「簡単に説明すれば、具象化した悪意の塊。ひとを呪う妄執が物理的な形を得て、現世に受肉したもの。つまりは、隠弐(おに)よ」
 簡単に説明、と言われても、京子には何が何やらさっぱりだった。
「あなたも見たでしょう、優香さんの持っていたあの本。田倉くんが和美さんに貸したのを預かっていた、なんて見え見えの嘘ね。優香さんは本気で、本に書いてある通りに和美さんを呪い殺そうとしたのよ」
 悪夢に和美が出てくると涙ながらに語った優香の言葉を思い出す。では、あれも全くの逆で、夜毎、和美の枕元に立っていたのは、優香の害意だったというのだろうか。
「田倉くんのバイクになにか細工したのかと思ったけど、きっと違うわね。隠弐に討たせたのよ」
 流咲が言わんとすることも、いまのこの状況も、京子の日常とあまりにかけ離れ過ぎていて、理解が追いついていかない。警察に連絡して助けを求める、とい うのも脳裏に浮かんだが、その考えは行動に移る前に霧散した。自分が何処を歩いているのか分からない、現実と悪夢の境界を彷徨っているようないまのこの状 態では、国家権力など途轍もなく遠い存在に思えた。
 だが、一つだけ京子にもはっきりと分かることがあった。早くここを離れ遠くへ逃げないと、怪物と化した優香に本当に殺されてしまう。
 振り返ると、流咲はまだ、紙に文字を書き入れる動作を続けていた。ただ、文字を書くために使っているのはペンではなかった。自らの指を歯で傷つけ、噴き出した血でなにかを認(したた)めている。
「さっきから何をしているのよ。早く逃げなくちゃ」
「少しだけ、静かにしていて」
 不意に、生臭い風が、京子の鼻を掠めた。思わず目線を上げると、京子たちが身を潜めている大木の枝で、なにかが動いたのが見えた。
「流咲さん、上」
 その言葉に弾かれたように、流咲が懐中電灯を頭上に向ける。光の輪の中に浮かび上がったものの姿に、京子は悲鳴をあげた。
 枝から逆さまにぶら下がった優香の蒼白な顔が、凄まじい形相で京子と流咲を睨んでいた。優香の瞳がぐるりと反転し、白目になる。罅割れた血だらけの唇が、ゆっくりと動いた。
「殺してやる。殺してやる」
 呪文のように、優香は、否、かつて優香であった筈の化物は、それだけを呟いている。
「伏せて、京子」
 言うなり、流咲が京子を突き飛ばした。湿った草むらのなかに突き倒されながら、京子は、優香の胎内から生えた異形の蛇がその禍々しい体を延ばし、不気味な鎌首を持ち上げて、流咲の手足に一斉に絡みつくのを見た。
「うぐッ」
 流咲が、小さく苦痛の声を漏らした。
 無数の蛇に巻き取られるように、流咲の体がゆっくりと持ち上げられていく。逃れようともがくすらりとした脚が、虚しく宙を蹴る。見る間に空中高く持ち上げられ、磔(はりつけ)になった形のその首に、新たな蛇が荒縄のように巻き付いた。
 恐怖のあまり、京子は声をあげることも出来なかった。蛇が、その全身の筋肉を禍々しく蠕動させ、流咲の身体を締め上げていく。軋むような音をたてているのは、たわめられた骨だろうか。
 苦痛に歪む、流咲の美しい貌。蛇の凄まじい力に必死に抗おうとする両の指。このままでは、細身の少女の全身の骨など、脆いガラスのように砕かれてしまう。
 やめて。お願い、流咲さんが死んじゃう。誰か、救けて。流咲さんを救けて!
 京子は祈った。目を逸らすことも出来ずに、恐ろしい光景をただ見つめながら。
 苦しそうに息を吸い込みながら、流咲が言葉を発した。
「私を捕えたつもりかもしれないけれど、これであなたも動けない」
 いつの間に取り出したのだろう、まるで手品師のように、流咲は先程の白い紙の束を両手に広げ持っていた。
 流咲の唇が動く。何を言っているのか、京子には聞き取れない。
 紙の束が流咲の手を離れて舞い上がった。ふわりと地に落ちるかと思ったそのとき、全ての紙が光を放った。それはまるで意思を持つ短剣のように、蛇の胴体に深々と突き刺さった。苦痛の叫びをあげるのは、今度は優香のほうだった。
 蛇から解放された流咲は、猫のように空中で身体を捻ると、京子の目の前に膝をついて着地した。
「流咲。大丈夫?」
「ええ、平気よ」
 平気だと口では言いながらも、その額には脂汗が浮いている。脇腹を押さえて呻く流咲を、京子は手を貸して立ち上がらせた。
 ふと、足元に白い紙が数枚落ちているのに気づき、拾い上げる。流咲が手にしていたときにはナイフのように見えたのに、やはりただの短冊状の紙でしかな い。なんと読むのかは分からないが、一枚には『勾陣』、別の一枚には『南斗』さらにもう一枚には『三台』という語句が血文字で記されている。
「情けないわね。肋骨をやられてるみたい。あなたを助けるって言ったのに」
 流咲が、よろめきながらもなんとか自分の足で立ったのと同時に、怪物も二人から少し離れた場所に着地していた。
「小娘が。我の邪魔だてをする者は、赦さんぞ」
 怪物の唇から吐き出された声は、高校生の少女のものではなかった。低くくぐもった、地のそこから響くような、不気味に嗄れた声。
 紙の刃でたったいま切断された筈の蛇の身体が一か所に集まり重なっていく。それは融け合うように形を変え、やがて猛禽に似た嘴を持った、悍ましい龍の姿となった。
「京子。射るのよ」
「え?」
「そのペンダントを、あの怪物目掛けて射るの」
 言われて初めて、京子は自分が握り締めた拳のなかになにか持っていることを知った。開いた手のなかに入っていたのは、あの、五角の星のペンダントだった。
「いつの間に?」
 おそらく、京子を庇った流咲に押し退けられたあの瞬間に、するりと手の中に潜り込まされたのだ。
「射るって言われても。弓も矢も無いのに」
 泣きそうになりながらそれだけを言うと、意外にも、流咲は微笑んだ。
「大丈夫。私が力を貸す」
 ふ、と全身が軽くなった。
 何故かは分からない。流咲の言葉と同時に、自分の周囲が柔らかな光に包まれたような気がした。その光は、流咲を中心に放射状に放たれている。
 京子は目を閉じた。目を瞑っていても、自分を守るように囲んでいる光の渦の存在を感じた。震えて動くこともままならなかった四肢に力が戻った。
 両足を左右に少し開く。弓道で『足踏み』と呼ばれる所作だ。ゆっくりと左手を持ち上げ、延ばす。自分は、見えぬ弓を握っている。そうイメージしながら。それから右手で見えぬ矢をつがえ、弦を引いた。
「汝、誇り高き尊星の眷属よ」
 いつの間にか京子の隣に立っていた流咲が、なにか言葉を唱え始めた。
 流咲の心が流れ込んでくるような気がした。呪文を唱えているのが流咲なのか、自分なのか、京子には分からなくなっていた。でも、そんなことはどうでもいい。気持ちが安らいだ。まるで、母親の腕に抱かれた幼子のように。
 猛禽の嘴を持つ巨大な龍が、優香の身体を離れて、京子たちに躍りかかった。
「五芒の星に宿りて、魔性を滅ぼせ」
 呪文の言葉と同時に、京子は、見えぬ矢を放った。
 矢は龍の頭部目掛けて一直線に飛び、閃光を放った。白い焔の塊が龍の身体を一瞬にして呑み込んだ。
 眩しさに思わず目を閉じた京子の鼓膜を裂く、断末魔の叫び。
 京子が目を開けたとき、龍の形をした怪物の姿は既になく、同じ形の真っ黒に焦げたようものが地面に長々と横たわっているだけだった。そこに絡みついているものを、流咲が拾い上げた。
「これが無ければ、ちょっと危なかったかな。私たち、運が良かった」
 黒く焦げてはいたが、それは銀のペンダントだった。
「五芒星の形って、洋の東西を問わず、もともと邪気を祓う霊力が備わっているの。陰陽では、清明桔梗印とも呼ばれているわ。優香さんにとっては逆運になるから手放したほうがいい、ってあのとき忠告したんだけど」
 まだ肩で息をしながら流咲が呟く。
「怪我はしていない?京子」
「何言ってんの。自分のほうがボロボロじゃない」
 京子は、大丈夫だという返事の代わりに小さく頷き、笑顔を作ってみせた。
 足元の黒い煤の塊を、風が攫っていく。それは徐々に形を崩しながら、数秒もしないうちに塵となって消えた。その場所には始めから何も無かったかのように。
「優香はどうなったの?まさか、死んじゃったの?」
 流咲は境内の向こうを指さした。優香が倒れている。駈けつけてみると、優香は気を失っているようだったが、破れた服の下にはなんの傷もなかった。
 流咲に促され、京子は救急に電話した。
「体のほうは問題はないわ。でも、精神(こころ)がどうかは分からない。優香さんの邪心が邪霊を招き、殺意が隠弐を動かしていたんだから」
 京子は、着ていたハーフコートを脱ぐと、倒れたままの優香に着せ掛けてやった。
 京子と流咲は、救急が到着する前に、その場を後にした。
 無言のまま、しばらく肩を並べて歩く。そう言えば、いつの間に「京子」「流咲」とお互い呼び捨てで名前を呼び合うようになったのだろう。
「田倉くんも、悪人にはなりきれなかったのね。田倉くんが和美さんを突き飛ばさなければ、あのとき隠弐に討たれていたのは和美さんのほうだった。おそらく、無意識のうちに邪気を感じて、和美さんを庇ったんだわ。ろくな男じゃないとはいえ、結局は、和美さんに惚れていたのね」
 横目で流咲を見つめる。
「あなたって、本当にひとの恋バナ好きね。そういうの、昔の言葉でデバガメっていうのよ」
 流咲が肩を竦める。折れた肋骨は、もう大丈夫なのだろうか。
「あたし、あなたが何者かまだ聞いていないんだけど」
 流咲は困ったように頭を掻いた。
「味方を必要としている者の味方よ。言い方を変えれば、正義の使者。それじゃいけないかしら」
 またひとを煙にまこうとしている。余程、自分の正体を明かしたくないのだろうか。
 まだ流咲には訊きたいことが山ほどあった。でも、いちばん知りたいことはどうしても口に出せない。
 どうして自分が危険な目にあってまで、救けてくれたのか。あのとき、流咲と心が通じ合ったように思った、あれは何だったのか。
 そんなことを考えながら歩いているうちに、いつの間にか駅前の大通りに差し掛かっていた。バイク事故の現場はすっかり片付けられたらしい、車は淀みなく流れていく。
「ここならタクシーが拾えるし、電車もまだ動いてる。一人で帰れるでしょ、京子」
 素っ気ない流咲の態度。京子は、流咲の服の袖口を掴んで詰め寄った。
「あなたね、ひとをおちょくるのもいい加減にしなさいよ。ここであたしを放り出して、それで全部終わりにするつもりなの?あたし的には、話はまだ終わっていないんだから」
 流咲の顔に、悪戯っぽい微笑が広がった。
「顔に書いてある。私があなたを救けた理由が知りたいんでしょう?」
 流咲の瞳が、近づいてくる。
「え?」
 心臓が早鐘のように脈を打つ。時間が止まったような気がした。或いは、止まればいいと思った。桜色の流咲の唇。それが目の前にある。
 ラストシーンはキスで終わる。子供向けの童話の定番。童話に出てくるのは王子様とお姫様で、お姫様同士ではない。でも、流咲とだったら。
 京子は目を閉じた。
 が、次の瞬間、流咲の指が京子の頬を軽く弾いた。
「言ったじゃない。あなたの顔はすごく読みやすい、って。そんな単純おバカなコを、正義の味方としては放っておけないでしょう」
 流咲が楽しそうに笑う。
「ちょっと。なによ、おバカって」
 笑顔に釣り込まれ、京子は握っていた流咲の袖口を放してしまった。その一瞬を計ったように、流咲は素早く京子から離れた。
「縁があったらまた会えるわ。じゃあね、京子」
 その一言を残して、学校の屋上で最初に出会ったときと同じように、流咲は京子の前から姿を消した。
 後を追うことは出来なかった。
 いちばん訊きたかったことは、とうとう言えず仕舞いだった。そして、いちばん言いたかった言葉も。
 あなたがあたしのことをどう思っているか、まだ聞いていない。
 それに、あたしがあなたをどう思っているか、話してもいない。
 まだ、胸がドキドキする。
 京子は、たったいままで流咲に触れていた筈の手を握り締めた。
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