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Perfume4. セラピストの不幸と歴史の秘密。
59. 憎しみの光。
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「ア、アヤノちゃん? どうしたの、びしょ濡れじゃないか」
「近寄るな! ジャスミンの香りを嗅ぐだけで倒れてしまいそう」
傘を差し出そうと彼女に近付いたヒカルを、アヤノは拒絶した。嗅覚を持たない側であるという今までの振る舞いはすべて嘘だったことにヒカルは思い当たる。
ふんわりとした桃色のカーディガンとワンピースはクリニックでも見たことのある装いであったが、いつもは結っていた髪を下ろしていてまるで別人のようだ。茶色の髪の先から雨粒が滴る。前髪から覗くのは、鋭い光を湛《たた》えた瞳。
普段診察以外では鈍いヒカルでさえ分かる。
これは憎しみの光だ、と。
「あなたはいずれ、私か母を処刑しようとする。それは今日かもしれないし明日かもしれない。そんな恐怖に怯えて生きたこと、あなたはありますか?」
「処刑? 何のことか分からないんだけど」
「ジャスミンの香りは自由に生きてきたのに私たちにとっての脅威であり続け、キンモクセイの香りは出産する年齢も決められ、“命令”のことがひと時でも頭から離れることはない。これっておかしいと思いません?」
畳み掛けるような質問に、ヒカルは返す言葉を持たなかった。命令って何? と問い返す隙も与えずにアヤノは言葉を継ぐ。
「母が私を身篭った直後、父はどこからかキンモクセイの香りの噂を聞きました。キンモクセイの香りとの関わりを恐れ、腹の中の私ごと母を殺そうとした。命からがら逃げた母は、“協力者”に頼んで父の存在を抹消しました」
少し顔を上にして、顔で雨を受ける。高くはないが筋が通っていて形の良い鼻に雨粒が跳ねているのが見える。
ぎゅっと閉じた目を開けて曇天を眺めた。彼女の瞳を雨が打ってぴくりと瞼が動くものの、閉じようとはしない。
手を真っ直ぐ上に伸ばして雨に触れる。
「母はあまりのショックで父が豹変してからの記憶を失いました。今でも時々父のことを話す母の表情……それはとても愛おしそうで、父のことを愛していたのだということがよく分かる」
そう言った彼女の口角は少し上がっていた。
しかし手を下ろして再びヒカルに顔を向けたとき、その瞳には憎しみの光が戻っていた。
腰あたりに彷徨わせた手を、ヒカルは不思議と怯えて見ていた。本能的に悟る身の危険。しかしいざ迫る恐怖の前では人間は動くことさえ出来なかった。
振り上げた手には棘が三本ついたアイスピックが握られていた。
「ジャスミンの香り、さようなら!」
だめだ……そう思ったとき、
「やめろ!」
と背後から聞き慣れた声が聞こえた。
マコトが水の音を立てながら走ってくる。彼に気が付いたときアヤノは一瞬動きを止めて舌打ちをした。
「うあああ!」
彼女は泣くような、喚くような、どちらともつかぬ叫び声を上げ、目を瞑って思い切りアイスピックを振り下ろす。
意味のない手をかざしていたヒカルは何の痛みも感じなかった。
「う……っ」
しかし彼の目の前で、肩にアイスピックが刺さったままマコトが膝から崩れ落ちていった。服を通り越して滲む血を雨が流していき、彼の周りには赤い水溜りが出来た。
再び腰のあたりを探っていたアヤノの動きが固められる。
「アライアヤノ、現行犯で逮捕! 抵抗をやめなさい!」
彼女は警察に羽交い締めにされ、何も取り出すことなく手をだらんと下ろした。
うああ、と呻いたまま手錠を掛けられた彼女は引き摺られ、パトカーへと押し込まれる。
お前のせいで私たちは!
悲痛な叫びが穏やかだった街に響いた。
ミカゲがヒカルたちの姿を認めたと同時に警察に連絡をしたが、マコトが刺された後に連絡をした救急車が到着するまでには多少の時間を要した。ヒカルの元への案内やこれらの連絡においてハヤブサの存在は非常に重要であったと言えるだろう。
痛みに顔を歪めるマコトのそばでヒカルは膝をついて彼の頭に触れていた。鼻につんとくる血の臭いがよりヒカルの鼓動を速くする。
「マコト、ごめんマコト、俺のせいで。もう少しで救急車が来るはずだから……ああだめだ、何も言わなくていい」
ヒカルは嗅覚が鋭い。ゆえに焦点の定まらない目でヒカルを見つめるマコトの香りが次第に変わっていくのを感じた。
血生臭さの奥にあるマコト自身のローズの香り。そのさらに奥にある男性特有のオレンジの香り。問題は血生臭さでもローズでもなくこのオレンジだった。
女性特有のバニラの香りに変化していったのだ。
にわかには信じがたいがヒカルが香りを間違えるわけがない。さらにマコトの能力である“思い通りの香りを出せる”ことを考えると、常時意図的にオレンジの香りを出していたとしてもおかしくはない。
マコトの顔を見つめたまま混乱するヒカルを見て彼は力なく笑った。
「はは、いつもみたいに能力が扱えないや。お前には嗅ぎ取られてるんだろ? ごめんな、ずっと隠しごとをしていて」
「そんなこと良いから、ほら、救急車が来た!」
ふっと意識を失った彼、もとい彼女は、担架に乗せられて救急車へと運ばれていった。ヒカルとミカゲが同乗する。
救急隊員による処置が施されるのを見ながら、
「あの少女が知っているかは知らんけど、処刑対象は“キンモクセイの香りの女性”や。マコトくんのご家族は、“女性”の部分だけどこからか聞きつけたんやろな。せやから性別を偽れと言われたんやと」
とマコトの事情を説明した。
そもそも処刑のこと自体理解出来ていないヒカルは、そっか、と曖昧な返事をする。
しばしの沈黙ののち、ミカゲは掠れた声で、
「……ごめんな、間に合わなくて」
と言った。ヒカルは静かに首を横に振ると、ミカゲが握り締めている手を上からそっと包み込んだ。
調査が間に合わず守れなかった者と、何も知らずに親友の身を危険に晒してしまった者。彼らは自責の念に押し潰されそうになりながらもどうにか体温を分け合って、マコトの苦しそうな声に耐えていた。
「近寄るな! ジャスミンの香りを嗅ぐだけで倒れてしまいそう」
傘を差し出そうと彼女に近付いたヒカルを、アヤノは拒絶した。嗅覚を持たない側であるという今までの振る舞いはすべて嘘だったことにヒカルは思い当たる。
ふんわりとした桃色のカーディガンとワンピースはクリニックでも見たことのある装いであったが、いつもは結っていた髪を下ろしていてまるで別人のようだ。茶色の髪の先から雨粒が滴る。前髪から覗くのは、鋭い光を湛《たた》えた瞳。
普段診察以外では鈍いヒカルでさえ分かる。
これは憎しみの光だ、と。
「あなたはいずれ、私か母を処刑しようとする。それは今日かもしれないし明日かもしれない。そんな恐怖に怯えて生きたこと、あなたはありますか?」
「処刑? 何のことか分からないんだけど」
「ジャスミンの香りは自由に生きてきたのに私たちにとっての脅威であり続け、キンモクセイの香りは出産する年齢も決められ、“命令”のことがひと時でも頭から離れることはない。これっておかしいと思いません?」
畳み掛けるような質問に、ヒカルは返す言葉を持たなかった。命令って何? と問い返す隙も与えずにアヤノは言葉を継ぐ。
「母が私を身篭った直後、父はどこからかキンモクセイの香りの噂を聞きました。キンモクセイの香りとの関わりを恐れ、腹の中の私ごと母を殺そうとした。命からがら逃げた母は、“協力者”に頼んで父の存在を抹消しました」
少し顔を上にして、顔で雨を受ける。高くはないが筋が通っていて形の良い鼻に雨粒が跳ねているのが見える。
ぎゅっと閉じた目を開けて曇天を眺めた。彼女の瞳を雨が打ってぴくりと瞼が動くものの、閉じようとはしない。
手を真っ直ぐ上に伸ばして雨に触れる。
「母はあまりのショックで父が豹変してからの記憶を失いました。今でも時々父のことを話す母の表情……それはとても愛おしそうで、父のことを愛していたのだということがよく分かる」
そう言った彼女の口角は少し上がっていた。
しかし手を下ろして再びヒカルに顔を向けたとき、その瞳には憎しみの光が戻っていた。
腰あたりに彷徨わせた手を、ヒカルは不思議と怯えて見ていた。本能的に悟る身の危険。しかしいざ迫る恐怖の前では人間は動くことさえ出来なかった。
振り上げた手には棘が三本ついたアイスピックが握られていた。
「ジャスミンの香り、さようなら!」
だめだ……そう思ったとき、
「やめろ!」
と背後から聞き慣れた声が聞こえた。
マコトが水の音を立てながら走ってくる。彼に気が付いたときアヤノは一瞬動きを止めて舌打ちをした。
「うあああ!」
彼女は泣くような、喚くような、どちらともつかぬ叫び声を上げ、目を瞑って思い切りアイスピックを振り下ろす。
意味のない手をかざしていたヒカルは何の痛みも感じなかった。
「う……っ」
しかし彼の目の前で、肩にアイスピックが刺さったままマコトが膝から崩れ落ちていった。服を通り越して滲む血を雨が流していき、彼の周りには赤い水溜りが出来た。
再び腰のあたりを探っていたアヤノの動きが固められる。
「アライアヤノ、現行犯で逮捕! 抵抗をやめなさい!」
彼女は警察に羽交い締めにされ、何も取り出すことなく手をだらんと下ろした。
うああ、と呻いたまま手錠を掛けられた彼女は引き摺られ、パトカーへと押し込まれる。
お前のせいで私たちは!
悲痛な叫びが穏やかだった街に響いた。
ミカゲがヒカルたちの姿を認めたと同時に警察に連絡をしたが、マコトが刺された後に連絡をした救急車が到着するまでには多少の時間を要した。ヒカルの元への案内やこれらの連絡においてハヤブサの存在は非常に重要であったと言えるだろう。
痛みに顔を歪めるマコトのそばでヒカルは膝をついて彼の頭に触れていた。鼻につんとくる血の臭いがよりヒカルの鼓動を速くする。
「マコト、ごめんマコト、俺のせいで。もう少しで救急車が来るはずだから……ああだめだ、何も言わなくていい」
ヒカルは嗅覚が鋭い。ゆえに焦点の定まらない目でヒカルを見つめるマコトの香りが次第に変わっていくのを感じた。
血生臭さの奥にあるマコト自身のローズの香り。そのさらに奥にある男性特有のオレンジの香り。問題は血生臭さでもローズでもなくこのオレンジだった。
女性特有のバニラの香りに変化していったのだ。
にわかには信じがたいがヒカルが香りを間違えるわけがない。さらにマコトの能力である“思い通りの香りを出せる”ことを考えると、常時意図的にオレンジの香りを出していたとしてもおかしくはない。
マコトの顔を見つめたまま混乱するヒカルを見て彼は力なく笑った。
「はは、いつもみたいに能力が扱えないや。お前には嗅ぎ取られてるんだろ? ごめんな、ずっと隠しごとをしていて」
「そんなこと良いから、ほら、救急車が来た!」
ふっと意識を失った彼、もとい彼女は、担架に乗せられて救急車へと運ばれていった。ヒカルとミカゲが同乗する。
救急隊員による処置が施されるのを見ながら、
「あの少女が知っているかは知らんけど、処刑対象は“キンモクセイの香りの女性”や。マコトくんのご家族は、“女性”の部分だけどこからか聞きつけたんやろな。せやから性別を偽れと言われたんやと」
とマコトの事情を説明した。
そもそも処刑のこと自体理解出来ていないヒカルは、そっか、と曖昧な返事をする。
しばしの沈黙ののち、ミカゲは掠れた声で、
「……ごめんな、間に合わなくて」
と言った。ヒカルは静かに首を横に振ると、ミカゲが握り締めている手を上からそっと包み込んだ。
調査が間に合わず守れなかった者と、何も知らずに親友の身を危険に晒してしまった者。彼らは自責の念に押し潰されそうになりながらもどうにか体温を分け合って、マコトの苦しそうな声に耐えていた。
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