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Perfume4. セラピストの不幸と歴史の秘密。
58. 隠されていた歴史。
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嗅覚を奪われたことと引き換えに可能になった、香りによる治療。この治療法のメリットの一つとして挙げられることは治験が不必要になったことである。
香りによる治療では、体内に薬が直接流れ込むのではなく、薬物中の成分が嗅細胞に付着することによって発生する信号が全身に行き渡る。すべての人類の嗅細胞は等しく、嗅覚を失った代わりに強い免疫を獲得したために拒絶反応を起こすことはない。つまり年齢、性別、人種などによって効果が異なる心配もないのだ。
香りの成分を分析し、成分中に目的の効果が認められ次第認可が下りる。ゆえにヒカルが認可を申請してからわずか数日で認可を示す文書が届いた。
この喜びをまずはマコトに伝えたかった。
閉店後、彼はいつもミカゲのホテルにいることを知っていた。それゆえに手紙を出そうとか明日の朝クリニックに来るまで待とうとか、そういうことは頭に浮かばなかった。
濡れないように認可の書類の入った封筒を革のバッグに丁寧に仕舞って、自らの足でホテルへ向かうことにしたのだ。
大通りではなく、初夏にタナカさんのバニラの香りを辿って入った細い路地を通る。書類を受け取ってからというもの大通りを歩くにはあまりにも顔の緩みが抑えきれていなかった。
傘を差していても吹き込んで服を濡らすほどの雨で、路地には水溜りが出来ていた。走るには水溜りは深い。やや大股で歩く彼の背後から水を踏み付けた足音がした。
エイゴの連なる文献に目を通し、特に目ぼしい記述が見つかることもなくまた次の文献に手を伸ばす。それを繰り返す作業音のみがマコトたちの鼓膜を揺らす。
マコトが一冊の本を読み終わり、はあ、とため息をついて目を瞑りながら何気なくページを始めまでぺらぺらとめくった。目を開けたとき、見返し……すなわち表紙を開いて最初にあるページが輝いたように見えた。
その輝きに惹きつけられて紙を見つめていると、その紙の素材が他とは少し異なることに思い当たった。別に指で擦ったときの感触が異様なわけでも、色が他よりくすんでいるわけでもない。しかし何かが明らかに“違う”のだ。
指の腹で何度も撫で、傷がつかない程度に爪を立てて引っ掻く。すると茶色がかった紙からぼんやりと黒い文字が浮かび上がってきた。
「あ、あの、ミカゲさん! 隠されていた歴史が分かるかもしれません!」
そう叫ぶと、彼女は声とも言えぬような音を出して隣に座った。
ミカゲと肩を寄せて見返しを触ってみる。文字がはっきりせず、今度はコインで擦る。ようやく判別できる文字が浮かび、二人で声を合わせて読み上げた。
「キンモクセイの香りを持つ者の子孫は必ずキンモクセイの香りを受け継ぐ。その特異性から、彼らは三十歳までに子を作らねばならぬという命令を神より下された」
キンモクセイの香り。そう聞いてマコトたちの頭には、可愛らしい笑みを見せる少女の顔が浮かんだ。
この記述には続きがあった。続きを読み上げることに恐れを抱きながらもなお彼らは声を重ねる。
「この命令を良く思わぬのがジャスミンの香りを持つ者である。彼らはキンモクセイの香りの者を処刑して根絶しようとしたが、時が経つにつれて皆が神の命令を忘れ、覚えているのはキンモクセイの香りの者のみとなった。しかしジャスミンの香りの者は齢《よわい》二十一の年のうち一日のみ命令のことを思い出したかのようにキンモクセイの香りを探し、見つけ次第処刑を行う。ゆえにキンモクセイの香りはジャスミンの香りを現在に至るまで恐れ、復讐の機会を窺ってきたのである」
ジャスミンの香りと聞いて彼らはヒカルのことを思い浮かべずにはいられなかった。ヒカルはつい先日二十一歳を迎えたばかりである。
窓では遮れないほどの雨の音も相まって、なんだか嫌な予感がした。
「嗅覚が奪われた原因は香りによる処刑だったんだな……ヒカル、クリニックの二階にいれば良いが、どうしてだろう、あそこにはいない気がする」
「奇遇やな、私もや。雨やし出来る保証はないけどハヤブサにヒカルの匂いを辿って案内してもらうか」
「でしたら俺の能力が使えるかもしれません!」
彼らはホテルの玄関に立ち、ミカゲはその腕にハヤブサを止まらせた。
マコトはジャスミンの香りを想像した。その想像に引っ張られて、ヒカルの輝くような笑顔の記憶も蘇る。
ミカゲは彼の能力を知らなかったが、男性特有のオレンジの香りはそのままに本来のローズの香りが薄くなり、代わりに彼からジャスミンの香りが漂うのを感じた。それをハヤブサに嗅がせ、
「お願い、この香りを持つ人のところまで連れて行って!」
と言った。
するとハヤブサは翼を大きく開き、一瞬で遠くへ飛び去っていってしまった。傘を差してハヤブサを追うが、なかなか見つからない。
「やっぱりだめだったかな……早くその香りの元へ行くことは出来るけど、“案内”はハヤブサの仕事の範疇外だし」
ミカゲが弱音を吐いたとき、彼らは細い路地の前に止まってこちらを見つめるハヤブサと目が合った。早くここに来い、と言っているようだ。
雨に濡れるのも厭《いと》わずにハヤブサの元へ駆けつけると、その路地を進んだ先に二つの人影が見えた。
それは傘を差したヒカルの後ろ姿と、傘も差さずにヒカルと向き合うアヤノだった。
香りによる治療では、体内に薬が直接流れ込むのではなく、薬物中の成分が嗅細胞に付着することによって発生する信号が全身に行き渡る。すべての人類の嗅細胞は等しく、嗅覚を失った代わりに強い免疫を獲得したために拒絶反応を起こすことはない。つまり年齢、性別、人種などによって効果が異なる心配もないのだ。
香りの成分を分析し、成分中に目的の効果が認められ次第認可が下りる。ゆえにヒカルが認可を申請してからわずか数日で認可を示す文書が届いた。
この喜びをまずはマコトに伝えたかった。
閉店後、彼はいつもミカゲのホテルにいることを知っていた。それゆえに手紙を出そうとか明日の朝クリニックに来るまで待とうとか、そういうことは頭に浮かばなかった。
濡れないように認可の書類の入った封筒を革のバッグに丁寧に仕舞って、自らの足でホテルへ向かうことにしたのだ。
大通りではなく、初夏にタナカさんのバニラの香りを辿って入った細い路地を通る。書類を受け取ってからというもの大通りを歩くにはあまりにも顔の緩みが抑えきれていなかった。
傘を差していても吹き込んで服を濡らすほどの雨で、路地には水溜りが出来ていた。走るには水溜りは深い。やや大股で歩く彼の背後から水を踏み付けた足音がした。
エイゴの連なる文献に目を通し、特に目ぼしい記述が見つかることもなくまた次の文献に手を伸ばす。それを繰り返す作業音のみがマコトたちの鼓膜を揺らす。
マコトが一冊の本を読み終わり、はあ、とため息をついて目を瞑りながら何気なくページを始めまでぺらぺらとめくった。目を開けたとき、見返し……すなわち表紙を開いて最初にあるページが輝いたように見えた。
その輝きに惹きつけられて紙を見つめていると、その紙の素材が他とは少し異なることに思い当たった。別に指で擦ったときの感触が異様なわけでも、色が他よりくすんでいるわけでもない。しかし何かが明らかに“違う”のだ。
指の腹で何度も撫で、傷がつかない程度に爪を立てて引っ掻く。すると茶色がかった紙からぼんやりと黒い文字が浮かび上がってきた。
「あ、あの、ミカゲさん! 隠されていた歴史が分かるかもしれません!」
そう叫ぶと、彼女は声とも言えぬような音を出して隣に座った。
ミカゲと肩を寄せて見返しを触ってみる。文字がはっきりせず、今度はコインで擦る。ようやく判別できる文字が浮かび、二人で声を合わせて読み上げた。
「キンモクセイの香りを持つ者の子孫は必ずキンモクセイの香りを受け継ぐ。その特異性から、彼らは三十歳までに子を作らねばならぬという命令を神より下された」
キンモクセイの香り。そう聞いてマコトたちの頭には、可愛らしい笑みを見せる少女の顔が浮かんだ。
この記述には続きがあった。続きを読み上げることに恐れを抱きながらもなお彼らは声を重ねる。
「この命令を良く思わぬのがジャスミンの香りを持つ者である。彼らはキンモクセイの香りの者を処刑して根絶しようとしたが、時が経つにつれて皆が神の命令を忘れ、覚えているのはキンモクセイの香りの者のみとなった。しかしジャスミンの香りの者は齢《よわい》二十一の年のうち一日のみ命令のことを思い出したかのようにキンモクセイの香りを探し、見つけ次第処刑を行う。ゆえにキンモクセイの香りはジャスミンの香りを現在に至るまで恐れ、復讐の機会を窺ってきたのである」
ジャスミンの香りと聞いて彼らはヒカルのことを思い浮かべずにはいられなかった。ヒカルはつい先日二十一歳を迎えたばかりである。
窓では遮れないほどの雨の音も相まって、なんだか嫌な予感がした。
「嗅覚が奪われた原因は香りによる処刑だったんだな……ヒカル、クリニックの二階にいれば良いが、どうしてだろう、あそこにはいない気がする」
「奇遇やな、私もや。雨やし出来る保証はないけどハヤブサにヒカルの匂いを辿って案内してもらうか」
「でしたら俺の能力が使えるかもしれません!」
彼らはホテルの玄関に立ち、ミカゲはその腕にハヤブサを止まらせた。
マコトはジャスミンの香りを想像した。その想像に引っ張られて、ヒカルの輝くような笑顔の記憶も蘇る。
ミカゲは彼の能力を知らなかったが、男性特有のオレンジの香りはそのままに本来のローズの香りが薄くなり、代わりに彼からジャスミンの香りが漂うのを感じた。それをハヤブサに嗅がせ、
「お願い、この香りを持つ人のところまで連れて行って!」
と言った。
するとハヤブサは翼を大きく開き、一瞬で遠くへ飛び去っていってしまった。傘を差してハヤブサを追うが、なかなか見つからない。
「やっぱりだめだったかな……早くその香りの元へ行くことは出来るけど、“案内”はハヤブサの仕事の範疇外だし」
ミカゲが弱音を吐いたとき、彼らは細い路地の前に止まってこちらを見つめるハヤブサと目が合った。早くここに来い、と言っているようだ。
雨に濡れるのも厭《いと》わずにハヤブサの元へ駆けつけると、その路地を進んだ先に二つの人影が見えた。
それは傘を差したヒカルの後ろ姿と、傘も差さずにヒカルと向き合うアヤノだった。
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