僕は人々が嗅覚を奪われた世界で、アロマセラピストをしています。

梅屋さくら

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Perfume4. セラピストの不幸と歴史の秘密。

57. 遺した香り。

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 小鳥が朝を伝えるように鳴く中、ミカゲもマコトの車に乗ってクリニックへ入った。彼女が宿泊するホテルはクリニックから遠いため、彼が送り迎えをすることになったのだ。

「おはよう」

 いつも通り挨拶を交わすも、ヒカルはなんだかミカゲがマコトとの距離を測りかねているように見えた。喧嘩かとも思ったが、ミカゲはともかくマコトは喧嘩をするとは思えない。
 昨晩の食事で何があったのだろうと疑問を抱きつつ、ヒカルは昨夜届いた手紙のことを話す。

「タケヤマさん……そうそう、あのメープルシロップのときにお世話になった方。彼が末期癌を宣告されたらしいんだ。主治医ももう打つ手はないと」

 彼とヒカルはあの日以来、一ヶ月に一回程度手紙を送り合う仲になっていた。彼からはちょうど二ヶ月前、柔らかい声を意識してからというもの、子供に懐かれることが増え、さらには一人の女性と深い関係に進展したと嬉しそうな報告が届いていた。
 それから手紙は少し途絶え、昨夜。彼の筆跡は絶望が滲み出すかのように不安定であった。
 手紙を読んでヒカルは決心した。拳をぎゅっと握り、腕に筋肉が浮き上がる。

「俺は青いバラの治療効果について調査依頼を書いて協会に提出する。そして認可を受けて、タケヤマさんの癌を治す。じいちゃんは助けられなかったけど、せめてじいちゃんが遺した香りでタケヤマさんを助けたい」

 やる気漲る彼を見て、マコトもミカゲも思わず微笑む。

「おう、俺たちはペドロさんが持ってくる文献の調査を進めるよ。頑張ろう」

 ぱちん、と音を立ててハイタッチを交わした。

 ヒカルは通常通り診察を行いながら、患者の列が途切れた時間や昼食休憩の時間はすべて書類作成に充てた。アロマ協会という組織に新種の香りの認可を申請するために書く書類は膨大だ。そのうちの何枚かは不必要にさえ思えるような内容である。
 集中した彼の作業速度は相当なもので、ペドロがニッポンに到着するという夜六時までにひとまず書類をすべて作成し終えた。
 この後も協会と何度か文書のやり取りをしなければならないことは彼の経験上知っているが、とりあえずペドロに会いに行ける。マコトの運転で、ミカゲも連れ立って三人でペドロが宿泊しているというホテルへ向かった。
 ホテルのロビーで彼は待っていた。着慣れない浴衣をその身に纏って。金髪褐色肌の彼と和服は思いの外相性が良い。
 こちらに気付くと同時に椅子から立ち上がって深々と頭を下げる。伯剌西爾では挨拶のとき、握手やハグをする文化である。ニッポンに来るためにニッポン流の礼儀を学んできたのだ。
 これまで彼がニッポン語を分からないのを良いことに、「ヒカルを危ない目に遭わせたやつや、一発殴ったる」なんて言っていたミカゲも、彼のお辞儀を見て口をつぐんだ。
 マコトやミカゲとの初対面を果たすと、彼は大きなキャリーバッグを開いた。中には分厚い本が何冊も詰まっている。

「嗅覚、香り、歴史……そのようなキーワードに引っ掛かる文献はすべて持ってきました。皆さんの疑問の解決に貢献出来ると良いのですが」

 マコトはそれらを受け取って、抱えるようにして持った。そのうちの一冊を開くと、紙いっぱいに詰まったエイゴが視界に飛び込んでくる。これらを読まなくては調査は進まない。ついため息が溢れてしまう。
 文献に夢中になる二人をよそに、ヒカルはペドロと会話していた。

「あの騒動はその後どうですか」
「自業自得ですし、これを被害者《あなた》に言うのは間違いだとは思いますが、本当に大変でした。心が休まる日はなかった。しかし彼が僕を支えてくれたんです」

 そう言うと、ちょうど聞こえてきた足音のほうに視線を向けた。軽く片手を挙げて名を呼ぶ。

「ヴィトールさん!」

 何も言わずヒカルのほうに大股歩きで近付き、がしっと彼をハグした。ヒカルは恰幅の良い身体に押し潰されそうになる。
 ペドロの肩を何度も叩きながら、

「こいつを支えたのは俺! だけど、ニッポンに来られたから良し! ニッポンの美味い酒を堪能するから、ペドロ、お前もついてこいよー」

 と言って豪快に笑った。口を大きく開けて、がっはっはと笑う姿を見るとなんだか元気付けられる。

「僕はあんまりお酒強くないんですけどね」

 と困った顔を見せてはいたが、彼らの仲がさらに深まったのは明白だった。

 クリニックの前には協会からの文書を持ったモモンガが待っていて、ヒカルはそこで車を降りた。そしてマコトはミカゲを助手席に乗せたままホテルへ送る。
 文献はミカゲの宿泊するホテルに持ち帰った。小さな机だけではスペースが足りず、ベッドの上にまで本が散乱しているような有様である。
 それから数日、マコトたちはホテルで文献による調査を、ヒカルは協会との文書のやり取りを行う日々が続いた。
 とある豪雨の日。先にすべきことを果たしたのはヒカルだった。
 青いバラの香りが、癌治療薬として認可を受けたのである。
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