僕は人々が嗅覚を奪われた世界で、アロマセラピストをしています。

梅屋さくら

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Perfume4. セラピストの不幸と歴史の秘密。

50. 賢い子。

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 桜が咲き始めた頃も、ヒサシは変わらずヒカルたちのクリニックでセラピストとして勤務していた。
 初めは「先生が見ていらっしゃる」と緊張していたマコトも彼がいることにすっかり慣れ、普通にセラピスト同士での意見交換をしたり、資料を渡して患者の診察を頼んだり出来るようになった。ただ、ヒサシは今はもう教授の任を退いているので『先生』と呼ばれることを好んでいなかったが、マコトが『ヒサシさん』という呼び名に慣れることはなかった。
 看護師の仕事も板についてきたヒカル。そこに桜の花びらを纏うようにして現れたのはアヤノである。
 カールした茶色の髪をポニーテールに結った彼女は、たった数ヶ月だというのにぐっと大人になったように見える。

「第一志望の大学に、推薦入学が決まりました!」

 ピースサインをして、その指を開いたり閉じたりする。

「おめでとう! 待ってたわよ。じゃあまたここでアシスタント出来るのかしら?」
「高校では授業がありますし、大学からも課題を出されているので毎日は出来ないんですけど……土日はまた働かせていただきたいです!」
「もちろん大歓迎よ! ね、院長さん」

 アヤノとわちゃわちゃハグをしたりジャンプしたりしながらイノウエがそう尋ねる。
 ヒカルは、「もちろん」と言って、アヤノと握手を交わした。
 看護科を選択したという彼女に進学先を聞くと、そこは看護科としてニッポン最高峰の大学であった。イノウエは受験を考えたことすらないほどの高難易度である。

「ところどころの言葉から賢い子だなあとは思っていたけれど、本当に優秀なのねえ」

 息子のイオリと重ね見て、「うちの子もこうなってくれたら」など言っているイノウエを、しわがれた声が呼ぶ。

「この患者について聞きたいのだが……おっと、お客様かな?」
「そっか会うのは初めてか。紹介するね。この子はアシスタントとして働いてくれるアヤノちゃん。そしてこっちが俺のじいちゃんでセラピストのヒロセヒサシ」

 ヒサシの名を聞いた途端、アヤノは目を輝かせた。

「ヒロセ先生! いくつか論文を拝読しました、最近で言うと『青いバラ』についてであったり」

 それから彼女はいくつか論文のテーマを挙げ、ヒサシの独特な観点や意見に感動したことをあらゆる言葉で伝えた。
 看護師を目指してから、つまりこの1年もない間に彼女はセラピストの世界について知識を深めていた。香りに関する論文を探しているうちにヒサシの論文に行き当たったのはなんら不思議なことではない。彼は多くの論文を書き上げた、著名なセラピストであるからだ。
 興奮して頬を紅潮させる彼女を、ヒサシは苦笑して制止する。

「ありがとう。まだ私はここでセラピストの仕事をするから、よろしく頼むよ」

 彼らは握手を交わし、ヒサシはイノウエとの情報交換を始めた。
 どうして彼がここで働いているのかを知らない彼女に、ヒカルは伯剌西爾であったことを話した。彼女は賢い、ゆえに話されたこと以上に詮索することはしなかった。

 それから一ヶ月、ヒカルの嗅覚は回復し、徐々にヒサシはクリニックで働く日数を減らしていった。
 彼はもう、完全な引退となる。
 それはヒカルたちはもちろん、まだ知り合って間もないアヤノ、ともに働いてきたイノウエ、ヒカルから担当を替わった患者たちでさえ残念に思った。物腰が柔らかく、そして確かに優秀な彼は、人々に尊敬されて当然である人物であるからだ。
 出勤最後の日、閉院時間を迎えて各々が資料の整理や片付けに取り掛かる。

「この後、ご飯でも行きませんか?」

 ヒサシが以前言ったのとほぼ同じ台詞を、今度はマコトが発する。
 皆が手を止め、

「もちろん行く! な、じいちゃんも行けるでしょ?」
「ああ、若い皆との会話はボケ防止になるしな」
「ヒカルくんが言い出すかなあと思って様子伺ってたのよ、行きたいわね」
「わ、私も、短い間ですがお世話になったので、あの、一緒に」

 と彼の提案に目を輝かせた。

「そういえば私、素敵なイタリアン見つけたんですよ! ほらほら、このシカゴピザ! チーズがとろっと……」
「イノウエさん、まず片付けちゃいましょう」
「はい、ごめんなさい」

 雑誌の切り抜きをどこからか出して見せる彼女を、ぴしっと止めるマコト。彼らの“いつもの会話”を聞いて、ヒサシはくすくすと楽しそうに笑っていた。
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