47 / 62
Perfume3.悲痛な決断と伯剌西爾での三日間。
46. 左頬に刻む。
しおりを挟む
はっと振り向くと、目と鼻の先で鋭い刃が軌道を描く。咄嗟に上体を反らせていなければちょうど目のあたりを切られていただろう。
ナイフを持ったガタイの良い男の腕を掴む。筋肉のついた太い腕は抵抗するが、ヒカルは我を忘れるほど必死に力を入れて掴んでいるため逃げられない。
片腕を抑えたままもう片方の腕に視線を滑らせ、そのまま身体全体を素早く眺める。しかしナイフ以外の凶器はなさそうだ。
掴まれた腕は抵抗をやめて、ナイフが手から滑り落ちた。
ヒカルが安堵の息をついたとき、男はもう片手で落下するナイフの柄を器用に掴んだ。そしてそのまま刃は再びヒカルの顔を無遠慮に横切ろうとした。
「いっ……」
刃物はヒカルの左頬に3センチメートルほどの切り傷を刻んだ。
しかしあの勢いのナイフを振るわれたことを考えると、それほどの傷で済んだのは不幸中の幸いと言えよう。
頬を通り過ぎて空を切るナイフを足で蹴り飛ばし、もう抵抗の手段が残っていない男の腕を軽く引く。そして足を掛け、地面に仰向けに転がした。
ヒカルよりだいぶ大きな身体を持つ男であったが、幼い頃短期間習っていた柔道の知識がここで活きた。ちょうど“合う”と体重や体格に関係なくいとも簡単に投げられるのだ。
未だ腕を押さえ込まれたまま無様に転がった男を冷静に見ると、彼の肌がイエローであることに気が付いた。凹凸が少ない、アジア系の顔立ちだ。
彼はもう抵抗の姿勢を見せていない。ただヒカルとは絶対に目を合わせようとしなかった。
「ペドロさんに、雇われたのですか」
静かにニッポン語でそう尋ねると、男は一瞬だけヒカルと目を合わせ、何も言わずに再びその視線をカラフルな建物に向けた。
「Are you hired by Mr.Pedro?」
同じことを、今度はエイゴで尋ねる。
すると彼は今度は一切視線を向けることなく小さく頷いた。先ほど返答がなかったのは、ニッポン語が分からなかったからかと合点する。
騒ぎを聞きつけた警察がバタバタと駆けて来た。防刃ベストを着て、角ばった帽子を被るその姿は、ニッポンの警察とそっくりだな、だなんて呑気なことを考えているうちにアジア人の男は警察に連れられて行った。
彼はきっと、いわゆる悪の組織の中でもかなり地位が低い人物であろう。トップはナイフを持って街中で襲い掛かるなんてハイリスクな仕事は行わないはずだ。
ただ上に命じられただけだと思うと彼を逃してやってくれと乞いたくなるがどうせヒカルにそんな力はない。
気分が重いままヒカルも事情聴取のため警察に連れられて柔らかい椅子に案内された。
警察官から聞いた話では、切りかかった男はまだ十九歳だという。ヒカルより二つも歳下で、伯剌西爾では成人ではあるものの、ニッポンの法制度では未成年である。
彼が事の経緯を正直に話したためヒカルは突然襲われたことくらいしか話すことはなかった。
頬の切り傷は消毒され、ガーゼを当てられている。消毒液が傷に滲みた。
手続きなど面倒な手順を待つ間、ヒカルは伯剌西爾の街を少しでも楽しもうとした。とは言っても警察で出来ることは窓から見える青色の建物を眺めるくらいだが。
すると窓の外を何かが物凄い速さで横切って行くのが見えた。
「ん?」
目を凝らして見ていると、先ほどより速度を落として再び何かが横切った。
それは灰色の翼を大きく広げるハヤブサだった。
胸元の黄色が、青色の建物に映える。
ちょうど窓の下に急降下していくのを見て傍に立っているいかつい警察官に、
「恐らくハヤブサが私宛てに手紙を持ってきました。取ってきて良いですか」
と尋ねると、制止されて警察官が取りに行った。
「あのハヤブサがくちばしに咥えていましたが」
彼はハヤブサに翻弄されたようで、渡された手紙は破れる寸前というくらいボロボロだった。
ハヤブサを使うミカゲのことを説明し、くちばしの開かせ方を教え忘れたことを謝ると、彼は意外にも人懐っこい笑顔を見せた。
「初めて間近で見たのですが、遊ばれていたのですね。手紙ぐちゃぐちゃですみません」
室内の空気が少し緩む。
手紙には案の定ミカゲの文字が並んでいた。
『伯剌西爾に行くなら私にも声掛けてや! どうせ行ったならそっちの図書館に嗅覚の歴史に関する文献がないか見てきてくれへん? あったら片っ端から借りてきて』
声掛けるって言ってももう休み取れないだろとか大量の文献なんか持ち帰れないだろとか、そういう些細な突っ込みどころはあったものの、ヒカルはこの手紙からとあるアイデアが浮かんだ。
「ペドロ……ペドロ・アルメイダと話をすることは出来ませんか」
「あなたは彼に二回も危険な目に遭わされている。彼の話を聞く権利はあると思いますが、いかんせん、彼は誰ともまともに話そうとしませんので難しいかと」
「お願いします。今のように多くのものを失ったままでは彼はもう、一生希望を見られない」
ヒカルの熱意に押され、警察官はペドロのもとへと案内する。
ひどく底冷えする部屋にいたペドロは、金髪の輝きが鈍くなったように見えた。
ナイフを持ったガタイの良い男の腕を掴む。筋肉のついた太い腕は抵抗するが、ヒカルは我を忘れるほど必死に力を入れて掴んでいるため逃げられない。
片腕を抑えたままもう片方の腕に視線を滑らせ、そのまま身体全体を素早く眺める。しかしナイフ以外の凶器はなさそうだ。
掴まれた腕は抵抗をやめて、ナイフが手から滑り落ちた。
ヒカルが安堵の息をついたとき、男はもう片手で落下するナイフの柄を器用に掴んだ。そしてそのまま刃は再びヒカルの顔を無遠慮に横切ろうとした。
「いっ……」
刃物はヒカルの左頬に3センチメートルほどの切り傷を刻んだ。
しかしあの勢いのナイフを振るわれたことを考えると、それほどの傷で済んだのは不幸中の幸いと言えよう。
頬を通り過ぎて空を切るナイフを足で蹴り飛ばし、もう抵抗の手段が残っていない男の腕を軽く引く。そして足を掛け、地面に仰向けに転がした。
ヒカルよりだいぶ大きな身体を持つ男であったが、幼い頃短期間習っていた柔道の知識がここで活きた。ちょうど“合う”と体重や体格に関係なくいとも簡単に投げられるのだ。
未だ腕を押さえ込まれたまま無様に転がった男を冷静に見ると、彼の肌がイエローであることに気が付いた。凹凸が少ない、アジア系の顔立ちだ。
彼はもう抵抗の姿勢を見せていない。ただヒカルとは絶対に目を合わせようとしなかった。
「ペドロさんに、雇われたのですか」
静かにニッポン語でそう尋ねると、男は一瞬だけヒカルと目を合わせ、何も言わずに再びその視線をカラフルな建物に向けた。
「Are you hired by Mr.Pedro?」
同じことを、今度はエイゴで尋ねる。
すると彼は今度は一切視線を向けることなく小さく頷いた。先ほど返答がなかったのは、ニッポン語が分からなかったからかと合点する。
騒ぎを聞きつけた警察がバタバタと駆けて来た。防刃ベストを着て、角ばった帽子を被るその姿は、ニッポンの警察とそっくりだな、だなんて呑気なことを考えているうちにアジア人の男は警察に連れられて行った。
彼はきっと、いわゆる悪の組織の中でもかなり地位が低い人物であろう。トップはナイフを持って街中で襲い掛かるなんてハイリスクな仕事は行わないはずだ。
ただ上に命じられただけだと思うと彼を逃してやってくれと乞いたくなるがどうせヒカルにそんな力はない。
気分が重いままヒカルも事情聴取のため警察に連れられて柔らかい椅子に案内された。
警察官から聞いた話では、切りかかった男はまだ十九歳だという。ヒカルより二つも歳下で、伯剌西爾では成人ではあるものの、ニッポンの法制度では未成年である。
彼が事の経緯を正直に話したためヒカルは突然襲われたことくらいしか話すことはなかった。
頬の切り傷は消毒され、ガーゼを当てられている。消毒液が傷に滲みた。
手続きなど面倒な手順を待つ間、ヒカルは伯剌西爾の街を少しでも楽しもうとした。とは言っても警察で出来ることは窓から見える青色の建物を眺めるくらいだが。
すると窓の外を何かが物凄い速さで横切って行くのが見えた。
「ん?」
目を凝らして見ていると、先ほどより速度を落として再び何かが横切った。
それは灰色の翼を大きく広げるハヤブサだった。
胸元の黄色が、青色の建物に映える。
ちょうど窓の下に急降下していくのを見て傍に立っているいかつい警察官に、
「恐らくハヤブサが私宛てに手紙を持ってきました。取ってきて良いですか」
と尋ねると、制止されて警察官が取りに行った。
「あのハヤブサがくちばしに咥えていましたが」
彼はハヤブサに翻弄されたようで、渡された手紙は破れる寸前というくらいボロボロだった。
ハヤブサを使うミカゲのことを説明し、くちばしの開かせ方を教え忘れたことを謝ると、彼は意外にも人懐っこい笑顔を見せた。
「初めて間近で見たのですが、遊ばれていたのですね。手紙ぐちゃぐちゃですみません」
室内の空気が少し緩む。
手紙には案の定ミカゲの文字が並んでいた。
『伯剌西爾に行くなら私にも声掛けてや! どうせ行ったならそっちの図書館に嗅覚の歴史に関する文献がないか見てきてくれへん? あったら片っ端から借りてきて』
声掛けるって言ってももう休み取れないだろとか大量の文献なんか持ち帰れないだろとか、そういう些細な突っ込みどころはあったものの、ヒカルはこの手紙からとあるアイデアが浮かんだ。
「ペドロ……ペドロ・アルメイダと話をすることは出来ませんか」
「あなたは彼に二回も危険な目に遭わされている。彼の話を聞く権利はあると思いますが、いかんせん、彼は誰ともまともに話そうとしませんので難しいかと」
「お願いします。今のように多くのものを失ったままでは彼はもう、一生希望を見られない」
ヒカルの熱意に押され、警察官はペドロのもとへと案内する。
ひどく底冷えする部屋にいたペドロは、金髪の輝きが鈍くなったように見えた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説

スローライフとは何なのか? のんびり建国記
久遠 れんり
ファンタジー
突然の異世界転移。
ちょっとした事故により、もう世界の命運は、一緒に来た勇者くんに任せることにして、いきなり告白された彼女と、日本へ帰る事を少し思いながら、どこでもキャンプのできる異世界で、のんびり暮らそうと密かに心に決める。
だけどまあ、そんな事は夢の夢。
現実は、そんな考えを許してくれなかった。
三日と置かず、騒動は降ってくる。
基本は、いちゃこらファンタジーの予定。
そんな感じで、進みます。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

巻添え召喚されたので、引きこもりスローライフを希望します!
あきづきみなと
ファンタジー
階段から女の子が降ってきた!?
資料を抱えて歩いていた紗江は、階段から飛び下りてきた転校生に巻き込まれて転倒する。気がついたらその彼女と二人、全く知らない場所にいた。
そしてその場にいた人達は、聖女を召喚したのだという。
どちらが『聖女』なのか、と問われる前に転校生の少女が声をあげる。
「私、ガンバる!」
だったら私は帰してもらえない?ダメ?
聖女の扱いを他所に、巻き込まれた紗江が『食』を元に自分の居場所を見つける話。
スローライフまでは到達しなかったよ……。
緩いざまああり。
注意
いわゆる『キラキラネーム』への苦言というか、マイナス感情の描写があります。気にされる方には申し訳ありませんが、作中人物の説明には必要と考えました。
侯爵令嬢に転生したからには、何がなんでも生き抜きたいと思います!
珂里
ファンタジー
侯爵令嬢に生まれた私。
3歳のある日、湖で溺れて前世の記憶を思い出す。
高校に入学した翌日、川で溺れていた子供を助けようとして逆に私が溺れてしまった。
これからハッピーライフを満喫しようと思っていたのに!!
転生したからには、2度目の人生何がなんでも生き抜いて、楽しみたいと思います!!!
転生したら脳筋魔法使い男爵の子供だった。見渡す限り荒野の領地でスローライフを目指します。
克全
ファンタジー
「第3回次世代ファンタジーカップ」参加作。面白いと感じましたらお気に入り登録と感想をくださると作者の励みになります!
辺境も辺境、水一滴手に入れるのも大変なマクネイア男爵家生まれた待望の男子には、誰にも言えない秘密があった。それは前世の記憶がある事だった。姉四人に続いてようやく生まれた嫡男フェルディナンドは、この世界の常識だった『魔法の才能は遺伝しない』を覆す存在だった。だが、五〇年戦争で大活躍したマクネイア男爵インマヌエルは、敵対していた旧教徒から怨敵扱いされ、味方だった新教徒達からも畏れられ、炎竜が砂漠にしてしまったと言う伝説がある地に押し込められたいた。そんな父親達を救うべく、前世の知識と魔法を駆使するのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる