僕は人々が嗅覚を奪われた世界で、アロマセラピストをしています。

梅屋さくら

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Perfume3.悲痛な決断と伯剌西爾での三日間。

45. 秘密の悪。

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 額に冷たい感触がしてゆっくりと目を開ける。額を通じて熱が冷たいそれに奪われていくようで気持ちいい。

「目が覚めたか!」

 起き抜けには頭に響くほどの大きすぎる声。ベッド脇の小さな椅子に座ってこちらを見ていたのはヴィトールだった。
 彼の笑い声は相変わらず豪快に聞こえるが、ヒカルはその中の少々の翳りを聞き取った。
 横たわったまま白く殺風景な部屋を見渡しながら、

「私は何を?」

 と尋ねたとき、鼻腔が腫れ上がっている感覚に気が付いた。鼻詰まりらしい発音しか出来ない。特に、な行とま行が。
 普通だったら空気の匂い……例えば清潔な空気であるとか澱んだ空気であるとかが常に分かっているというのに、ヒカルはそれを一切感じ取れていなかった。
 ヴィトールはその異変に狼狽《うろた》える彼から目を逸らす。

「あいつ……ペドロがミスターヒロセに嗅がせたのは恐らく、嗅覚を奪うアロマだ」
「セラピストにアロマは効かないはずでは?」
「あれは脳を経由して全身に信号が送られるとかそういう話じゃない、直接鼻腔を刺激する毒物だ。アロマ云々ではなく、ずいぶん昔には“化学薬品”なんて呼ばれていたものだ」

 ヒカルは久々に聞いた“化学薬品”という言葉に耳を疑った。
 化学は現在も材料分野等には発展を続けているものの、薬学分野ではその足はほとんど止まっている。治療はアロマで十分だし、数少ないセラピストのために薬を作る物好きな企業などないからである。

「どこからそんなものを?」

 そう尋ねると、ヴィトールは大きなため息をついて頭を抱えた。
 あの底抜けに明るい彼はどこへやら、か細い声で話し始める。

「それがな、よく分からないんだ。警察が購入履歴を見つけたが、その販売元となっている会社は端《はな》から存在しないらしい。今警察で取り調べを受けているあいつは口を開こうとしないし……」

 そこまで話して彼は突然周囲を気にし始めた。そして耳に口を寄せ、一層小さい声で、

「警察ははっきり言わないが、あの様子はきっと“Secret Evil”が関係している」

 と言った。
 シークレットイビルと直訳すると秘密の悪?
 首を傾げるヒカルにやきもきしつつも、彼はさらに声を落とす。

「伯剌西爾で有名な犯罪集団だよ。こういう裏が見えない犯罪には大概関わっていると言われている。実際に手を下すわけじゃないからなかなか捕まらないらしいんだ」

 ヒカルは、ペドロが思っていたより深く悪の世界に踏み込んでいたことを知った。
 そんな犯罪集団と関わってまで自分を。そう思うと胸が痛い。

『僕だってたくさん努力してきたのに祖父の目には写れなかった!』

 あの薬品を嗅いだ後の彼の発言が脳内に蘇り、こだまする。
 過呼吸気味で発せられたその言葉は悲痛な響きをはらんでいた。ヒカルは彼に許しがたいことをされたというのに、少々の同情さえ抱いていた。
 また、院長、すなわちペドロの祖父の『会いたかったよ!』という歓迎の言葉も同時に想起される。
 院長のああいう姿を、ペドロはどういう表情で見ていたのだろうか。
 ああいう姿を見るたびに彼の抱く“劣等感”は肥大化していったのだろうか。
 考えれば考えるほど彼に感情移入して苦しくなっていく。気分を切り替えようと、

「少し外を歩いてきます」

 と言ってベッドから立ち上がった。
 ヴィトールは付き添いを申し出てくれたが、ヒカルは一人になりたかったので断った。そんな彼の気持ちを汲んだのか、ヴィトールは静かに「気を付けて」とだけ言って送り出した。

 伯剌西爾の街は非常に平面的で、ヴィヴィッドな緑や青で全面が塗られた建物や赤で窓が縁取られた建物が並ぶ、まるで絵のような街並みだ。青空との対比でさらにその鮮やかさは増して見える。
 広い道の端を建物を見上げながら歩いていると、自分がおもちゃの世界に入ってしまったような感覚に陥る。
 ここまでの鮮やかさは人を現実から少々引き離すのだ。
 薄いシャツとスラックスでも汗ばむ陽気の中、太陽を背に、ひたすら下りゆく坂を進む。
 自分の影を見て風に煽られた髪を整えていると、その影に他人の影が融合した。雑踏の騒がしさの中に、背後から近寄る足音を聞き取る。

「ヒロセ、ヒカル?」

 訛りのあるニッポンゴが掛けられた。
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