僕は人々が嗅覚を奪われた世界で、アロマセラピストをしています。

梅屋さくら

文字の大きさ
上 下
40 / 62
Perfume3.悲痛な決断と伯剌西爾での三日間。

39. ひとりの人間だ。

しおりを挟む
 苦しそうな嗚咽が、ふう、ふう、と不自然な呼吸に変わってきた。
 深呼吸して、というヒカルにならって、同じように吸って吐いてを繰り返す。
 ヒカルは何度も肩と背中を往復させていた手を自分の膝上に戻して、力が抜けたように背もたれに寄り掛かる。そして、

「マコトは悪くないよとか陳腐な言葉しか浮かばないけどそんな慰め必要ないと思うから俺の今の気持ちをただ話すね」

 と沈黙を破った。

「ハルエさんのことはセラピストと患者っていうよりも、人と人の関係性が問題だったと思う。だからマコトにもフミヒコさんにも同じだけ彼女を救ってあげられるチャンスがあった。これは事実だ」

 彼にしては綺麗事でなく厳しい事実を突きつける語り口に、マコトは他の誰に言われるよりも大きな衝撃を受ける。
この場合、“救ってあげられた”という事実は何よりも鋭い凶器だ。
 ここで一旦言葉を区切り、彼の声色が優しくなってまた言葉が続けられる。

「俺が少し悲しいなと思うのは、マコトがハルエさんを救えなかったことから始まってセラピストは不幸だって結論に達したこと。君はね、自分がセラピストであることに縛られすぎだと思うよ。君はセラピストである以前に、ひとりの人間だ。よく考えて」

 そう言っておもむろに腰を上げると、勝手にキッチンに入って冷蔵庫を漁り始めた。
 そこそこ自炊をするマコトの冷蔵庫にはそれ相応の食材が入っている。中を見つつ、あるもので簡単に作れる料理を脳内に入っているレシピから探す。

「これ、使うね」

 シーチキン缶にマヨネーズと粉チーズを加えてすり潰すように混ぜ合わせ、マコトが薬味として切っておいてある青ネギを入れてふんわりと混ぜる。そしてそれを厚揚げに乗せてオーブントースターできつね色になるまで焼く。
 オーブントースターから取り出したそれは、良い香りの湯気を立ててヒカルの食欲をそそった。

「今日夕飯食べてないしね、食欲ないかもしれないけどこれくらいは食べよう」
「ちょうど小腹空いてきた。ありがとう」

 2人はコーヒーカップを片付けて今度はガラスのコップに緑茶を並々注いだ。

「いただきます」

 手を合わせて同時に料理を口に運ぶ。
 未だマコトは涙をぽろぽろと零していたものの、「美味しいな」と笑顔で言った。彼が涙を隠さずに見せてくれたことがヒカルは嬉しかった。

 ある日、マコトが駐車場とは逆方向へ歩いてクリニックから帰っていった。
 そのタバコを咥えた水色髪の男にヒカルは「柄悪いな」と笑いかけたら、彼もまた笑って何も言わずにタバコの箱を差し出す。

「吸いたいけどやめておくよ。これから何か用事?」

 箱をポケットに押し込み、咥えていたタバコを指で挟む。
 んー、と間を置いてから、

「これから花屋さんの家にお邪魔して、久しぶりに顔見せてくるんだ」

 と言った。

「そっか、きっと喜ぶね」
「だといいけどな」

 彼はヒカルに背を向けて、手をひらひらと振って真っ直ぐに歩いていった。
 その腕を下げたときヒカルは後ろから大声で叫んだ。

「マコト! 俺が、セラピストは幸せって思わせてやるからな!」

 マコトはもう1度腕を上げてブイサインを見せ、後ろ向きでも聞き取れるくらい「ははっ」と大胆に笑う。

「なあに青春してるのよ」

 背中が雑踏に消えていくのを見送っているとクリニックから出てきたイノウエにそう声を掛けられる。

「アヤノちゃん、明日から戻るって」
「……彼女は今どういう状態ですか?」
「『こういうことも乗り越えなきゃ』って思ってるみたい。あの子本当に強くて、尚更助けてあげたくなっちゃうわあ」
「頼もしいですね、ショックがとても大きかったと思うので心配してました」

 しばらくクリニックを休んでいたアヤノの様子をイノウエが定期的に見に行っていた。彼女は彼女なりにあのショックを乗り越えようとしていると知って、アヤノの強さを改めて思い知る。

「どうしてマコト君はハルエさんのこと“花屋さん”なんて職業で呼ぶのかしらね」
「俺もそれ不思議で、前に聞いたことがあるんです。そうしたら『そんなに距離を詰めたら別れがあまりにも辛くなるから』だって」
「どうせ職業で呼んでも別れは辛いでしょうに。そういうよくわからない理論、彼らしいわ」

 2人は妙に納得して、この日の仕事を終えた。
 ハルエの一件以来クリニック中になんだか重苦しい空気が漂っていたのだが、ヒカルはこの日を境に全員の雰囲気が一変したように思えた。皆がそれぞれの着地点を見つけた、そんな風に。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

スローライフとは何なのか? のんびり建国記

久遠 れんり
ファンタジー
突然の異世界転移。 ちょっとした事故により、もう世界の命運は、一緒に来た勇者くんに任せることにして、いきなり告白された彼女と、日本へ帰る事を少し思いながら、どこでもキャンプのできる異世界で、のんびり暮らそうと密かに心に決める。 だけどまあ、そんな事は夢の夢。 現実は、そんな考えを許してくれなかった。 三日と置かず、騒動は降ってくる。 基本は、いちゃこらファンタジーの予定。 そんな感じで、進みます。

異世界の貴族に転生できたのに、2歳で父親が殺されました。

克全
ファンタジー
アルファポリスオンリー:ファンタジー世界の仮想戦記です、試し読みとお気に入り登録お願いします。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

テンプレな異世界を楽しんでね♪~元おっさんの異世界生活~【加筆修正版】

永倉伊織
ファンタジー
神の力によって異世界に転生した長倉真八(39歳)、転生した世界は彼のよく知る「異世界小説」のような世界だった。 転生した彼の身体は20歳の若者になったが、精神は何故か39歳のおっさんのままだった。 こうして元おっさんとして第2の人生を歩む事になった彼は異世界小説でよくある展開、いわゆるテンプレな出来事に巻き込まれながらも、出逢いや別れ、時には仲間とゆる~い冒険の旅に出たり 授かった能力を使いつつも普通に生きていこうとする、おっさんの物語である。 ◇ ◇ ◇ 本作は主人公が異世界で「生活」していく事がメインのお話しなので、派手な出来事は起こりません。 序盤は1話あたりの文字数が少なめですが 全体的には1話2000文字前後でサクッと読める内容を目指してます。

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

巻添え召喚されたので、引きこもりスローライフを希望します!

あきづきみなと
ファンタジー
階段から女の子が降ってきた!? 資料を抱えて歩いていた紗江は、階段から飛び下りてきた転校生に巻き込まれて転倒する。気がついたらその彼女と二人、全く知らない場所にいた。 そしてその場にいた人達は、聖女を召喚したのだという。 どちらが『聖女』なのか、と問われる前に転校生の少女が声をあげる。 「私、ガンバる!」 だったら私は帰してもらえない?ダメ? 聖女の扱いを他所に、巻き込まれた紗江が『食』を元に自分の居場所を見つける話。 スローライフまでは到達しなかったよ……。 緩いざまああり。 注意 いわゆる『キラキラネーム』への苦言というか、マイナス感情の描写があります。気にされる方には申し訳ありませんが、作中人物の説明には必要と考えました。

処理中です...