僕は人々が嗅覚を奪われた世界で、アロマセラピストをしています。

梅屋さくら

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Perfume3.悲痛な決断と伯剌西爾での三日間。

38. 受け入れるべき決断。

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 あのヒサシを訪問する前日以来のマコトの家。
 またコーヒー豆の袋が増えたくらいで、それ以外は何も変化はない。
 車内では互いに様々な事柄に思考を巡らせているのがわかっていたので何も話さなかった。彼らは思想にのめり込み、かつ空気を読むのが得意なタイプなので、快適な無言の時間を過ごして今の関係を築き上げているといっても過言ではない。
 家に入ってからも、湯の沸く心地良い音と彼らの靴下がフローリングの上を移動する布の擦れる音だけを耳にしていた。

「コーヒーはカフェインとコーヒーポリフェノールによるリラックス効果があるって研究結果が出ているからな」

 マコトがそう言ってカップを差し出す。
 ヒカルがお礼を言う間もなく、彼は言葉をそこにひとつずつ落とすように発した。

「連絡を受けて出張から帰ってきた旦那さんに花屋さんの近況を聞いた」

 もちろん彼の心情を思ってこちらからは連絡してないよ、向こうから俺に伝えてくれたんだ。
 そう前置きしてから、近年花の需要が減少していて花屋の経営に悩んでいたこと、そして夫婦唯一の息子が30歳になっても部屋から出て来ない、いわゆる“引きこもり”であり頭を抱えていたことを説明した。
 ヒカルは遺書にあった『花屋も、子育ても、何もかも失敗しました』の1文を思い出す。花屋の文字よりも子育ての文字のほうが歪んだ形であったことには意味があるのだろう。

「花屋の経営は厳しいにしても旦那さんがある程度稼いでるから息子さんが職に就かなくても金銭的には問題なかったみたいだけど、そういう問題ではなかったんだろうな」
「ハルエさんはきっと、子供を社会に出す段階になって初めて認められ得ると思ってたのかもね」
「産んで、健康に育てていく。それだけでも十分認められるのにそういう人に出会わなかったのかと思うと心苦しくて……俺が認めてあげれば良かった、ってそう思ってしまう」

 想いを必死で吐き出すようにか細い声だ。彼の指は無意味にカップの縁をなぞっている。
 そして彼女は旦那であるフミヒコに度々苦悩を吐露していたらしいことを話した。しかし毎回フミヒコは「悩んでいてはだめだよ」と返すだけだったということも。
 このように事実を述べるときの彼の声はいくらかその輪郭をはっきりさせる。この相違は想いを絞り出すときとは心への負担が違うことを感じさせた。
 再びその輪郭がぼやける。

「俺思うんだ。思い詰めていることを否定してはいけなかったんじゃないかって。思い詰めている人にどれほど寄り添って良い方向に導けるかが大切なんじゃないかって」

 ヒカルは半分ほどになったコーヒーにミルクを入れた。ミルクの白色は液面に柔らかく広がって、掻き混ぜた途端にコーヒーの黒色と絶妙に調和する。
 そのミルクの挙動をどちらも目で追いながら、マコトは言葉を続ける。

「自殺そのものを奨励するわけではもちろんないけど、『自殺したい』ってもし言われたならば、すぐに『自殺なんてだめだ!』じゃなくて『そういう判断をしたんだね』って1度はその大きな決断を受け入れてあげるべきなんじゃないかってずっと考えてる。それから原因や理由を聞きたいなって俺は思う。否定ってされるとけっこう辛いから」

 たしかにハルエも否定より受容を求めていただろう。
 診療のときもマコトと会話するときも事情や思い悩んでいることを話さなかったのは、否定されないためというのもひとつの理由かもしれない……ヒカルはそう思った。
 マコトは何も言わず立ち上がり、空になったカップにもう一杯熱々のコーヒーを注ぎ再びソファに座る。
 アロマを嗅ぐかのようにそのコーヒーの香りを胸の奥に満たして、口を付けずにテーブルに置いた。
 俯き、片手で両目を覆う。相当彼は参っているようで、ヒカルはクリニックで冷酷だと思ってしまった自分を恥じた。彼は努めて本当の気持ちを見せないようにしていたのだとやっと気付いた。

「俺たちはセラピストだなんて名乗っておきながら、隣の店の人すら守れない。死者を蘇らせる力もない」

 目を覆う手のひらの隙間から、透明な液体が溢れ出す。それは腕を伝って肘へ、肘から床にコーヒーを淹れるときと同じようにぽたりと落ちる。

「結局大切な人は救えない。やっぱりセラピストは不幸だ……っ!」

 言葉の最後はもうかすれ、押し潰されたようでかろうじて聞き取れた程度の声だった。
 ヒカルは声を抑えきれないほど泣く彼の隣に腰を下ろす。
しばらく空中を彷徨っていた手を彼の肩に乗せ、それをゆっくり背のほうに這わせた。
 「うっ」という泣く声に合わせて動く背中が痛ましく、ヒカルは思わず彼から目を逸らす。
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