36 / 62
Perfume3.悲痛な決断と伯剌西爾での三日間。
35. そこで見てて。
しおりを挟む
オオサカから来た彼女がそちらへ戻ってから2ヶ月経ってもう季節は冬。
家に泊めたことを話すとヒカルが散々冷やかしてきたが、それももう収束してきた頃だ。
彼女は毎日のように院長に怒られて大変だといったような手紙をマコトに送って来ていたが、彼は新しい情報を得ない限り返信はしていない。
クリニックは暖かいので油断して薄着で看板を出しに外へ行ったヒカルがぶるぶると震えつつもどうにか作業をしていると、彼の真後ろに人が立った。
彼をふわりとキンモクセイの香りが包む。
「あの」
可愛らしい声。聞き覚えがある。
「新井《あらい》綾乃《あやの》です、以前母が、あの、お世話になって、あの、働きたいと……」
「覚えているよ、今日は診療に来たの?」
夏に腹痛を訴える母と共に来院し、卒業したらクリニックで働きたいと言っていた彼女だ。
彼女はふわふわの茶色がかった髪をツインテールにして、無地の大きいワンピースを着ている。清純で、素朴で、かつ彼女に最も似合う服装だった。
「あの、少しでも早くセラピストのお仕事を学びたくて、あの、お忙しいとは思ったのですが、あの、これしか思い浮かばなくて」
アヤノは上手く自分がここにきた経緯を説明出来ず吃《ども》っていたが、ヒカルの優しい笑顔を見てずいぶん気持ちが楽になった。
真っ直ぐ彼の目を見てから、頭を深く下げる。
「お願いします、この冬の間だけここで働かせてください!」
「いいよー」
思っていたよりも遥かに早く軽い返答に、アヤノはただでさえ丸い目をさらに丸くする。
ヒカルはドアを開けて、招き入れた。
「ほら入って。制服とかは受付で資料を整理してるマコトに聞いてね。今日はただ俺の診療を見てて」
「は、はい!」
暖かい院内に入るとすぐにマコトと目が合う。ヒカルとは対照的な冷たい雰囲気に身体がすくむ。
彼はアヤノとの面識はなく、開院前ですよと言いかけたがその前にヒカルが話し始めた。
「この子、冬の間だけクリニックのお手伝いしてくれるよ。俺の側につかせるから準備して」
「あなたはまたすぐに迎え入れて……」
マコトはため息をつきつつもアヤノに握手を求めて笑った。その笑顔は思ったよりもずっと優しくて自分が彼の言葉とは裏腹に歓迎されているとわかる。
それから彼は「靴はスニーカー、髪も結ってあるからオッケー」と服装をチェックしながら新品のシャツとエプロンを棚から取って渡した。
女性用の更衣室に案内してほしいと指示されたイノウエは、アヤノを見るなり抱き締める。
「はああ可愛い! こんな若い女の子が入って来てくれておばさん嬉しい」
浮かれた表情のまま戸惑う彼女の手を引いて更衣室へ入っていってしまった。
その様子を見ていたマコトたちは、
「イノウエさん、よく『娘も欲しい』みたいなこと言ってたもんな」
「やっぱり俺たち男だけじゃ不満だったかな? じゃあ俺は第一診療室で仕事を始めるよ」
ヒカルは「あはは」と朗らかに笑いながら手をひらひらと振って診療室へ入っていく。
よく来院する老人が何度も頭を下げて退室するのと入れ替わる形で制服のエプロンを着たアヤノが入室した。
シンプルなシャツを着たその姿はOLというより学生服のようで彼女の実年齢よりも幼く見える。
「今日はただそこで見ててね」
言われた通りこの日彼女は何にも触らず、一言も言葉を発さず、部屋の角に背筋を伸ばして立っていただけだった。
彼を見ていて飄々としているヒカルの診療の合間と診療中のギャップの大きさに目を奪われる。
診療するとき嗅覚に集中するからか、しばらく虚ろな目をしてやがて閉じる。
彼の金色の睫毛が自由に動くそのさまを1日中じっと見ていた。
翌日、誰よりも早く出勤したアヤノを一同がめちゃくちゃに褒めた。
ヒカルはすでにクリニックの前につくられた患者の列を見てこの日の忙しさを予見しつつ、彼女に指示を出す。
「今日はマコトの仕事を見てて。第二診療室ね」
そう言って彼はもう患者をクリニックへと入れた。
この日ヒカルを見ていたのと同じようにマコトを見ていて気付いたのは、ヒカルとは診療のやり方が本質的に違うことだった。
ヒカルは集中して香りを嗅ぐことによって最も適切な香りを閃く、いわば“天才型”だ。一方マコトはじっくりと考え込んで今まで文献などから手に入れた知識を探り当てて適した香りを導き出す、いわば“思考型”。
どちらも常人には到底できない芸当だということはセラピストではないアヤノにもわかる。
彼は相変わらずぶっきらぼうな話し方をしていたが、出来るだけ彼女に仕事を見せてやろうとしていることはヒカルだけが理解していた。
家に泊めたことを話すとヒカルが散々冷やかしてきたが、それももう収束してきた頃だ。
彼女は毎日のように院長に怒られて大変だといったような手紙をマコトに送って来ていたが、彼は新しい情報を得ない限り返信はしていない。
クリニックは暖かいので油断して薄着で看板を出しに外へ行ったヒカルがぶるぶると震えつつもどうにか作業をしていると、彼の真後ろに人が立った。
彼をふわりとキンモクセイの香りが包む。
「あの」
可愛らしい声。聞き覚えがある。
「新井《あらい》綾乃《あやの》です、以前母が、あの、お世話になって、あの、働きたいと……」
「覚えているよ、今日は診療に来たの?」
夏に腹痛を訴える母と共に来院し、卒業したらクリニックで働きたいと言っていた彼女だ。
彼女はふわふわの茶色がかった髪をツインテールにして、無地の大きいワンピースを着ている。清純で、素朴で、かつ彼女に最も似合う服装だった。
「あの、少しでも早くセラピストのお仕事を学びたくて、あの、お忙しいとは思ったのですが、あの、これしか思い浮かばなくて」
アヤノは上手く自分がここにきた経緯を説明出来ず吃《ども》っていたが、ヒカルの優しい笑顔を見てずいぶん気持ちが楽になった。
真っ直ぐ彼の目を見てから、頭を深く下げる。
「お願いします、この冬の間だけここで働かせてください!」
「いいよー」
思っていたよりも遥かに早く軽い返答に、アヤノはただでさえ丸い目をさらに丸くする。
ヒカルはドアを開けて、招き入れた。
「ほら入って。制服とかは受付で資料を整理してるマコトに聞いてね。今日はただ俺の診療を見てて」
「は、はい!」
暖かい院内に入るとすぐにマコトと目が合う。ヒカルとは対照的な冷たい雰囲気に身体がすくむ。
彼はアヤノとの面識はなく、開院前ですよと言いかけたがその前にヒカルが話し始めた。
「この子、冬の間だけクリニックのお手伝いしてくれるよ。俺の側につかせるから準備して」
「あなたはまたすぐに迎え入れて……」
マコトはため息をつきつつもアヤノに握手を求めて笑った。その笑顔は思ったよりもずっと優しくて自分が彼の言葉とは裏腹に歓迎されているとわかる。
それから彼は「靴はスニーカー、髪も結ってあるからオッケー」と服装をチェックしながら新品のシャツとエプロンを棚から取って渡した。
女性用の更衣室に案内してほしいと指示されたイノウエは、アヤノを見るなり抱き締める。
「はああ可愛い! こんな若い女の子が入って来てくれておばさん嬉しい」
浮かれた表情のまま戸惑う彼女の手を引いて更衣室へ入っていってしまった。
その様子を見ていたマコトたちは、
「イノウエさん、よく『娘も欲しい』みたいなこと言ってたもんな」
「やっぱり俺たち男だけじゃ不満だったかな? じゃあ俺は第一診療室で仕事を始めるよ」
ヒカルは「あはは」と朗らかに笑いながら手をひらひらと振って診療室へ入っていく。
よく来院する老人が何度も頭を下げて退室するのと入れ替わる形で制服のエプロンを着たアヤノが入室した。
シンプルなシャツを着たその姿はOLというより学生服のようで彼女の実年齢よりも幼く見える。
「今日はただそこで見ててね」
言われた通りこの日彼女は何にも触らず、一言も言葉を発さず、部屋の角に背筋を伸ばして立っていただけだった。
彼を見ていて飄々としているヒカルの診療の合間と診療中のギャップの大きさに目を奪われる。
診療するとき嗅覚に集中するからか、しばらく虚ろな目をしてやがて閉じる。
彼の金色の睫毛が自由に動くそのさまを1日中じっと見ていた。
翌日、誰よりも早く出勤したアヤノを一同がめちゃくちゃに褒めた。
ヒカルはすでにクリニックの前につくられた患者の列を見てこの日の忙しさを予見しつつ、彼女に指示を出す。
「今日はマコトの仕事を見てて。第二診療室ね」
そう言って彼はもう患者をクリニックへと入れた。
この日ヒカルを見ていたのと同じようにマコトを見ていて気付いたのは、ヒカルとは診療のやり方が本質的に違うことだった。
ヒカルは集中して香りを嗅ぐことによって最も適切な香りを閃く、いわば“天才型”だ。一方マコトはじっくりと考え込んで今まで文献などから手に入れた知識を探り当てて適した香りを導き出す、いわば“思考型”。
どちらも常人には到底できない芸当だということはセラピストではないアヤノにもわかる。
彼は相変わらずぶっきらぼうな話し方をしていたが、出来るだけ彼女に仕事を見せてやろうとしていることはヒカルだけが理解していた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
『収納』は異世界最強です 正直すまんかったと思ってる
農民ヤズ―
ファンタジー
「ようこそおいでくださいました。勇者さま」
そんな言葉から始まった異世界召喚。
呼び出された他の勇者は複数の<スキル>を持っているはずなのに俺は収納スキル一つだけ!?
そんなふざけた事になったうえ俺たちを呼び出した国はなんだか色々とヤバそう!
このままじゃ俺は殺されてしまう。そうなる前にこの国から逃げ出さないといけない。
勇者なら全員が使える収納スキルのみしか使うことのできない勇者の出来損ないと呼ばれた男が収納スキルで無双して世界を旅する物語(予定
私のメンタルは金魚掬いのポイと同じ脆さなので感想を送っていただける際は語調が強くないと嬉しく思います。
ただそれでも初心者故、度々間違えることがあるとは思いますので感想にて教えていただけるとありがたいです。
他にも今後の進展や投稿済みの箇所でこうしたほうがいいと思われた方がいらっしゃったら感想にて待ってます。
なお、書籍化に伴い内容の齟齬がありますがご了承ください。
【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。
ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる
色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
凡人がおまけ召喚されてしまった件
根鳥 泰造
ファンタジー
勇者召喚に巻き込まれて、異世界にきてしまった祐介。最初は勇者の様に大切に扱われていたが、ごく普通の才能しかないので、冷遇されるようになり、ついには王宮から追い出される。
仕方なく冒険者登録することにしたが、この世界では希少なヒーラー適正を持っていた。一年掛けて治癒魔法を習得し、治癒剣士となると、引く手あまたに。しかも、彼は『強欲』という大罪スキルを持っていて、倒した敵のスキルを自分のものにできるのだ。
それらのお蔭で、才能は凡人でも、数多のスキルで能力を補い、熟練度は飛びぬけ、高難度クエストも熟せる有名冒険者となる。そして、裏では気配消去や不可視化スキルを活かして、暗殺という裏の仕事も始めた。
異世界に来て八年後、その暗殺依頼で、召喚勇者の暗殺を受けたのだが、それは祐介を捕まえるための罠だった。祐介が暗殺者になっていると知った勇者が、改心させよう企てたもので、その後は勇者一行に加わり、魔王討伐の旅に同行することに。
最初は脅され渋々同行していた祐介も、勇者や仲間の思いをしり、どんどん勇者が好きになり、勇者から告白までされる。
だが、魔王を討伐を成し遂げるも、魔王戦で勇者は祐介を庇い、障害者になる。
祐介は、勇者の嘘で、病院を作り、医師の道を歩みだすのだった。
【完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
大工スキルを授かった貧乏貴族の養子の四男だけど、どうやら大工スキルは伝説の全能スキルだったようです
飼猫タマ
ファンタジー
田舎貴族の四男のヨナン・グラスホッパーは、貧乏貴族の養子。義理の兄弟達は、全員戦闘系のレアスキル持ちなのに、ヨナンだけ貴族では有り得ない生産スキルの大工スキル。まあ、養子だから仕方が無いんだけど。
だがしかし、タダの生産スキルだと思ってた大工スキルは、じつは超絶物凄いスキルだったのだ。その物凄スキルで、生産しまくって超絶金持ちに。そして、婚約者も出来て幸せ絶頂の時に嵌められて、人生ドン底に。だが、ヨナンは、有り得ない逆転の一手を持っていたのだ。しかも、その有り得ない一手を、本人が全く覚えてなかったのはお約束。
勿論、ヨナンを嵌めた奴らは、全員、ザマー百裂拳で100倍返し!
そんなお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる