僕は人々が嗅覚を奪われた世界で、アロマセラピストをしています。

梅屋さくら

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Perfume1.アロマセラピストは幸せ?

2. バニラの香りを辿って。

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 院へ足を踏み入れた途端、2人は慌ただしい空気に気が付いた。
 マコトはヒカルの腕を掴んだまま、小走りで目の前を通り過ぎるセラピストサポーター、つまり看護師のような役割である井上《いのうえ》郁子《いくこ》という女性を引き止めて、

「何があったのですか?」

 と尋ねると、イノウエはサポーターを30年程度経験しているベテランらしく簡潔に事情を話した。
彼女はいかにも中年というような丸みを帯びた体型をしており、さらにその身長の割に短い足を懸命に動かしていたせいか、かなり息が切れている。

「先ほど連絡があって、タナカさんがまた酷い腹痛を起こしたからここに来たいと……」

 イノウエが話し終わる前にヒカルは院を飛び出して行った。
まだすぐそこにいるかもしれない。
彼の頭にはそのことしかなかった。
 先ほどタナカさんを見送った方向に進んで1つ目の分岐に差し掛かり、彼はまた目を瞑り、息を深く吸った。
 女性特有のバニラのような香りと、赤ちゃんの甘ったるいミルクの香りが右からする。
 右に曲がって、2つ目の分岐点。
鼻を使うまでもなく、左から苦しそうな女性の息が聞こえた。

「タナカさん!」

 彼女は赤ちゃんを抱く腕に力を込めたまま、足の力が抜けたように小さくなって壁にもたれかかっていた。
 汗ばんだ額と小刻みすぎる呼吸音。
 ヒカルは慌ててタナカさんを抱きかかえた。

「この子が……危ない……」

 はっとする。
たしかに彼女が抱いていた赤ちゃんは、布にくるまれたままタナカさんの腕から滑り落ちようとしていた。
ヒカルはタナカさんのことを考えるあまり、彼女が抱いている赤ちゃんのことまで気が回らなかったのだ。
 その光景がスローモーションに見えつつも、ヒカルの手はもう動かない。
赤ちゃんがタナカさんの腕からちょうど落ちようか、というときに誰かに抱きかかえられた。

「おい、危ないだろ! 状況をよく見て動け!」
「マコト!」

 マコトが息を切らしていた。
彼もヒカルと同じように嗅覚を活かしてヒカルたちを追ってきたのだ。

「早くクリニックに戻ろう。薬の調合はイノウエさんに指示してきた」

 母の腕ではないことに気が付いた赤ちゃんが大きな泣き声を出して「離してくれ」と言わんばかりに抗議したが、彼らは何も言わずに院へと走った。
 院に着いた頃、汗をあまりかかない体質のマコトも髪が張り付くくらい汗をかいていた。

 院に入るとすぐにタナカさんをベッドへ寝かせた。
 イノウエが緑色の瓶をヒカルに渡す。
その瓶の半分は液体で満たされている。
これがセラピストの使う香りの瓶、いわゆる“薬”である。
 ヒカルはその瓶の蓋を開け、香りを嗅いだ。
小さく頷いて、その瓶の中身をマスクの形をしたシートに数滴垂らした。

「これをしてください」

 腹を押さえて丸くなっていたタナカさんはそのマスクを受け取り、少し震えた手で紐を耳にかける。
 そして息を吸った瞬間に彼女の全身の力が抜け、丸まっていた姿勢も戻った。
痛みに歪んでいた表情も穏やかになり、ただ睡眠をとっているときと同じ表情になった。
まだ少し意識が遠くにあるような様子ではあったが、かなり楽になったようで呼吸も遅くなっていた。

「出産でこの腹痛体質も治るんじゃないかって期待してたけど、そうもいかないわね」
「そうですね。せめてこの香りを携帯させてあげられたら良いのですが」
「法律が変わらない限りは無理だな」

 ヒカルは視線をタナカさんの穏やかな表情から窓の外に移してため息をついた。

「“アロマセラピーはアロマセラピストの監督の下でのみ行う”ね……もちろん嗅覚がないと薬の区別が付かないから仕方ないだろうけど、タナカさんを見てるとそうも言っていられないよな」

 マコトとイノウエも、ヒカルにつられて何の変化もない窓の外に目を向けて、静かに頷いた。
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