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1巻
1-3
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案の定、勇者さんはものすごく嫌そうな顔をした。でも折れないぞ。
「愛称だよ。私の世界で『ハッピー』とは幸福という意味があるの。縁起がいいと思わない? 先代の名前のラッキーは幸運という意味で、これもとても縁起がいいでしょ? それに倣って」
私がそう言うと、勇者様はしばらく考え込んでから頷いた。
「幸福か。それはいいかもしれない。よし、その名で呼ぶことを許す」
なんとなく偉そうだけど、認めてくれてよかった。
こうして、私は今代の勇者ハッピーと共に黒竜王を倒す旅に出ることになった。帰る道がいつ現れるのかわからない今、少しでも可能性があるならやるしかない。
それに……見た目だけは理想を絵に描いたようなイケメン勇者と二人旅というのも、悪くないかもしれない。性格は悪そうだけどね!
2
神殿の外には緑豊かな庭園が広がっている。石畳の小道がまっすぐに延びる両脇に、石の柱が立ち並ぶ。厳かな雰囲気の広い神殿の敷地を、勇者ハッピーについて歩いていくと、大きな門があった。
そういえば、この神殿はどんなところにあるんだろう? 神殿というからには、聖なる地にあったりするのかな。
そんなことを考えながら門を一歩出た瞬間、私は驚く。
「わぁ!」
人々が行き交い、商店が立ち並ぶ――神殿は、街のど真ん中にありました。しかも結構な繁華街の中心だ。
「なんか意外……」
呟いた私に、勇者ハッピーが面白くなさそうに聞く。
「何がだ?」
「いや、神殿ってもっと秘境的なところにあるものだと思っていたから」
正直に答えると、ハッピーは肩を竦めてさっさと歩きはじめた。
「ここは首都だ。ほら行くぞ」
「そっか、首都なんだ。――あっ、待って」
私は慌ててハッピーに続く。こうなった以上、置いていかれては困る。
首都というだけあって、街は人も多くて賑やか。いろいろなものを商う店らしきものもたくさん見えるし、人の声や音楽が聞こえてくる。色合いはパステル調で、日本に比べると華やか。
なるほど、勇者選定から旅立ちまで急展開だったのに、すぐに支度をしてもらえたわけだ。お店がこんなに近くにあるなら、余裕だっただろう。
行き交う人達は皆、地球では見ないような髪の色や様々な肌の色をしている。ハッピーの緑色の髪や神官さんの青色の髪は、そんなに珍しいものではなさそうだ。
やや背が高くて細身な人が多く、体の作りや顔立ちは、地球の人とそう変わらない。
男性は長衣にズボンの組み合わせ、女性はスカートの人が多い。ジャージ姿の私は浮いているかもしれない。
観察しながら歩いていると、見るもの聞くものすべてが初めての異世界のはずなのに、不思議とあまり違和感がないことに気がついた。むしろ、しっくりきている気がする。そんな自分が一番謎。
確かに人やものの色彩は違うのに、なんというかこう――既視感があるのだ。
日本の普通の民家っぽい瓦屋根の木造建築なのに、壁が渋いピンクで瓦がミントブルー。重厚な白い石造りの洋風の建物は、壁のレリーフが松と亀に似た生き物で、ドアじゃなく格子の引き戸。イスラムのモスクみたいな重厚な建物のてっぺんに、シャチホコっぽい飾りが載っている――などなど。とてもちぐはぐで、面白い。
なんだかちょっと旅行気分。せっかくだから道草したくなっちゃうな。
きょろきょろ辺りを見ながら進む私に、ハッピーが呆れ顔で言う。
「あまりきょろきょろするな。それにお前、もう少し普通に歩けないのか?」
そういえば、私は神殿の中と同じく、跳ねるように歩いている。というか、歩こうとすると跳ねてしまう。ハッピーは普通に歩けるので、私の歩き方がお気に召さないらしい。そう言われてもなぁ。
「わざと跳ねてるわけじゃないんだよ。でもなんだか、体がフワフワしていて」
ああ、本当に体が軽い。
きっとここルーテルは、地球とは重力の加減が違う世界なんだろう。私の力が強くなったのも、体が軽くて歩くだけで跳ねてしまうのも、多分そのせいだ。
私は重力や科学はよくわからないから、原理を解明することはできないけれど、とりあえず体に害はなさそうだからよし。そういうことにしておく。
ハッピーを見ると、ぴょんぴょんしている私とは対照的に、足取りは重い。
彼と私は、リュックみたいな袋に入った旅の荷物を背負っている。出発前に一応確認したところ、中にはテントや日用品、水、着替えなどが入っていた。
その荷物に加えて、ハッピーはいかにも勇者様という鎧っぽい装備品に、大きな聖剣を腰に下げている。結構な重量のはずだ。
それを見て、私はひらめいた。
「そうだ。荷物はあなたの分も私が持つね」
二人分の大きな荷物を両肩に背負うと、私の歩き方はなんとなく普通に近くなった気がする。怪力のせいか私は重く感じないし、ハッピーの足取りは少し軽くなった。
私の重石代わりになる上に、ハッピーの負担を減らせるなら、一石二鳥だ。これいいかも。
というわけで私は、早々に勇者様の荷物持ちという立場になった。どんな役割だってあるだけで気が楽というものだ。
しかし、ハッピーは少々複雑そうにしている。
「正直、荷物を持ってもらえてありがたい。それに石を握り潰すような怪力だから、お前が無理していないことはわかる。……しかし、傍から見たら俺は、女に荷物を持たせる酷い男なんじゃないだろうか」
ハッピーは俺様な性格のわりに、人の目を気にするのか……
それはともかく、私はものすごく基本的なことを聞いておきたい。
「大丈夫だよ、誰も気にしないって。それより、旅はずっと徒歩なの?」
どこまで行くか知らないが、世界がどうのと規模の大きな話だった。交通手段は他にないのだろうか?
ハッピーはこっちも向かずに答える。その横顔は綺麗だけどやっぱり不機嫌そう。
「当面は歩きだ。西の森にいるという先代勇者を探すのが第一目的だが、近隣の様子を見たり、黒竜王の情報収集をしたりもしたいからな。それに、道中人助けをするのも勇者の務めだ」
「……それもそうね」
ハッピーの話はごもっともだけれど、徒歩での移動となると、結構時間がかかるだろう。すんなり進むとも限らないし。
私、いつになったら帰れるんだろうか――なんだか不安になってきた。
首都を抜けると、のどかな田園風景が広がっていた。
まっすぐに延びた道の脇に、ぽつりぽつりと小さな木造の民家や木々がある。これもどこかで見たような風景。
そんな田舎道を、とにかくまずは先代勇者を探すため、私達は西に向かって歩く。
正直なところ、私には方角すらわからないのでハッピーについて行くだけ。
観光地らしきものはなさそうで、道草もできないことが残念だ。
背筋をまっすぐ伸ばしてスタスタ歩く勇者様は、ずっと無言で、何を考えているのかわからない。
私も黙って歩いてはいるものの、正直手持ち無沙汰だ。それに考える時間があると、自分に起こったありえない出来事やこれからのことへの不安が、ムクムクと膨らんでしまう。
私は思い切ってハッピーに声をかけてみる。
「ねぇねぇハッピー。いろいろ聞いてもいい? 教えてほしいことがいっぱいあるの」
「神殿が用意した本があるだろ。この世界のことが書いてある。それを読んで自分で勉強しろ」
努めて明るく尋ねた私を、ハッピーはちらりとも見ずに一蹴した。
……速攻、壁を築かれてしまった。
「そういえばもらったけど……」
その本とやらは、大きな荷物の中に入っている。
『扉』を潜ってきた異界の人のために、この世界の地図や簡単な歴史などの必要な情報をまとめたものらしい。ルーテルの歩き方とでも言えそうな本だ。
そんな本があるということは、私のように異世界から来る人がそれだけ多いのだろう。とりあえず、レアケースすぎて何もわからないというより安心できる。
歩きながら本を読むのはお行儀が悪いので、ルーテルの歩き方は休憩の時に読もう。
それはさておき、私が聞きたいのは、ハッピー自身のことだ。
このイケメン勇者様はかなりの自信家で、可愛くない喋り方をする奴だということしか知らない。一緒に旅をする以上は、もう少しお互いに相手を理解しておいた方がいいと思う。
というわけで、見えない壁は破壊してしまおう。とにかく話を引き出そうと、声をかけてみる。
「あの、私が教えてほしいのは、ルーテルのことじゃなくてハッピーのことなんだよね。えーと、そうだ。私は今二十二歳なんだけど、ハッピーは何歳?」
「……二十一だ」
小さな声だし、相変わらずこっちは見ない。でも返事はしてくれた。
そうか、ハッピーは私より一つ年下か。――いや待て、異世界なんだもの、一年の単位や一日の長さが地球と同じとは限らない。
その疑問を問いかけると、彼は面倒くさそうにしながらも教えてくれた。なんと、地球と同じだという。
「暦や時間の概念は『扉』の向こうの世界から持ち込まれたものだ。お前と同じ世界の人間だったんだろう。詳しくは本を読め」
そうかぁ。一日が二十四時間なのも、一年が三百六十五日なのも一緒なのか。
ちょっとは口を利いてくれるようだし、話題を変えてみよう。
「じゃあさ、ハッピーは勇者に選ばれて嬉しい?」
「嬉しいも何もない。俺が勇者に選ばれるのは、当然のこと。この日のために、幼い頃より両親に鍛えられてきたのだから」
ハッピーはさっきよりも力強く答えた。当然とか言っちゃって可愛くないけど、会話は続きそう。
「ハッピーは子供の頃から鍛えてるんだ。すごく強いんだね」
「当たり前だ」
プチよいしょに気をよくしたのか、今度はハッピーが私に尋ねる。
「お前はどうだ? 怪力なのは認めるが、戦えるのか?」
「うーん、どうだろう。前は剣道をやっていたとはいえ、今はごくごく普通の事務員だもの。とりあえずは荷物持ちということで勘弁してね」
そう言うと、ハッピーはフンと鼻で笑った。なんか地味にムカつくなぁ。
他にも、食べ物では何が好きだとか、彼女はいるかなどごく普通の質問をしてみたが、ハッピーはもう答えてくれなかった。
「よく喋るな……」
「ゴメン」
機嫌を損ねては困るので、このくらいにしておこう。
質問を切り上げると、しばらくまた黙って、てくてく歩き続ける。竜が普通にいるという恐ろしい話を聞いていたので、どうなることかと思っていたけど、道のりは平和だ。
またも手持ち無沙汰になってしまった私は、行儀が悪いのは承知で『ルーテルの歩き方』の本を取り出した。ぱらぱらっとページを捲ってみる。
「なになに? 『昔々、このルーテルは草木も生えぬ不毛の土地だった。今の命溢れる豊かな世に住まう人間の祖は、「扉」を潜ってきて戻れなくなった異世界の人間だった』……へぇ、そうなんだ。……って、あれ?」
本を読みはじめて、内容より気になることがあった。
「……なぜ異世界に来たのに、私は言葉がわかるし文字も普通に読めるのだろう」
「今更かよ?」
思わず呟いた私の言葉に、すかさずハッピーがツッコミを入れる。その声は呆れていた。
そりゃそうだよね。自分でも、なぜもっと早く疑問を持たなかったのかと思う。いきなり普通に会話できたあたりで気がついてもよかったのに。混乱と慌ただしさで、あまり頭が回転していなかったのだろう。
「多分その本にも書いてあると思うが、たまたま文字や言葉を最初に伝えたのが、お前の国の人間だったんじゃないか」
「なるほど」
衝撃の新事実。異世界の言語は日本語だった!
言われてみればこの本、右綴じの縦書き、かな文字だわ。
でも、人の名前やファッションは日本と違う。ルーテルはいろいろなところと『扉』で繋がっていて、地球の他の国や、あるいは違う世界のものが混じりあって、こんな風になったのだと思われる。その中で言葉や文字は日本のものがそのまま残っているなんて、本当にラッキーだ。
異世界に来てしまったのは災難だとしても、ある意味私はツイてるのかもしれない。
そんなことを考えながら本を読み進めると、異世界から来た者の中には稀に、とても力が強く跳躍力のある者がいると書かれていた。まさに今の私だ。
しかしそういう者は、早ければ数日、長くても数カ月でその力を失うらしい。
この世界に体が慣れる――ということなのかな。もしも完全に慣れてしまったら、元の世界に戻った時にすごく苦労するんじゃないだろうか。
この旅が早く終わるか、すぐに『扉』が現れないと……
そう焦ったところで、ハッピーが口を開いた。
「今日はあの村までにしておこう。宿くらいありそうだ」
本から顔を上げると、かなり先の山際に大きな村が見えた。
気がつけば陽は傾き、もうすぐ夕刻という空。
私はこれからどうなるのだろう。漠然とした不安に襲われるが、旅はまだ始まったばかり。
とにかく村に向けて足を進めるのだった。
そうして到着した大きな村で、宿屋に泊まった。
宿で出された夕食の料理は、和食に似ていて美味しかった。そして部屋ではぐーすかと眠った。
繊細さの欠片もない自分に呆れる。
知らない世界で夜を迎えることへの不安や寂しさで、眠れないんじゃないか……なんて思っていたのに、あっさり寝ついた。
村に着いた時には陽も暮れていたし、歩き通しで疲れていた。
それに、考えてみれば祖母の家で遺品整理を始める前に朝食を取って以来、何も食べていなかったのだ。腹ペコの状態で、やっと食事にありつけて空腹が満たされたら、眠くなるのも道理だろう。
お風呂にも入れたし、個室でちゃんとしたベッドで眠れて、思いのほか快適だった。
そして目が覚めて、本日は異世界二日目。私達はさらに西を目指して、早々に村を出た。
村のそばには農耕地が広がっていたが、しばらくして人の気配もなく寂しい赤茶けた荒野に変わる。
荒野に入ってすぐ、道の先から、何か巨大なものが土煙を上げて恐ろしい勢いで走ってきた。それは、まっすぐにこちらに向かってくる。
「な、何?」
「あれが竜だ」
「竜っ?」
ついに出たか! 本当にいるんだ。
高速で走ってきた生き物は、私達に気がつくとスピードを緩め、数メートル先で止まった。赤く妖しい光を湛えた目でこちらを睨み、低い唸り声をあげる。
「フン、まだ小さい方だな」
至極冷静にハッピーは言うけど……
「こっ、怖い……」
初めて見る本物の竜は、体はとても大きく、足の長い緑のトカゲ。ところどころトゲトゲした鱗が突き出している。
これで小さい方? 二メートル以上はあるよ?
その竜は、こちらを睨みながらチロチロと舌を出している。
ひいいぃ、やっぱりどう見ても爬虫類っ! 爬虫類は非常に苦手で、ぞわぞわと鳥肌が立つ。
怯む私を尻目に、ハッピーは腰に下げていた剣を抜きながら説明してくれる。
「緑竜は力が強いが本来大人しい草食の竜だ。しかしこいつは、黒竜王に反応しているな。目つきが違う。このまままっすぐ走っていかれたら、この先の村が大変なことになる」
この先の村……昨夜泊めてもらった村だ。あそこには大勢の人がいる。
「倒すの?」
「もちろんだ。残念だが、一度暴竜になったものは元に戻せない」
左様でございますか。ではその爬虫類そっくりな竜は勇者様にお任せして、荷物持ちは隠れておりますので……
私は後ずさりをして岩の陰に隠れ、傍観者になる。
竜対勇者の初観戦。
竜は巨体のくせに素早く動くと、がぁっと口を開けてハッピーに噛みつこうとする。彼がそれをかわすや否や、竜は後ろ脚で立ち上がって、鋭い爪のある前脚を振り下ろす。
なんかもう、トカゲというより恐竜。いや、怪獣。
ハッピーは竜の攻撃をひらひらとかわしつつ、剣で竜に斬りかかる。その動きはまさに勇者だ。
自己中で唯我独尊な男だけど、本当にカッコイイ。
やっぱり自分で言うだけあって強いんだなと、思わず見惚れる。
何度かハッピーが斬りつけると、竜の動きが鈍くなってきた。それでも大きな体で体当たりしてきた竜を、ハッピーがかわしながら蹴り飛ばした。竜がよろけて倒れ――
「しまった! トモエ、気をつけろ!」
あ、ハッピーが初めて名前を呼んでくれた。
って、ちょっと……なんでコッチに倒すのよ!
顔を上げると、竜はすぐ目の前。見るからに怒っている。当たり前だ、あちこち傷だらけだもの。
ハッピーの方を睨んでいたその赤く光る目が、私の方を見た。
怖い……っ!
「トモエ!」
ハッピーがこちらに向かって走ってくるのが見えたけど、間に合いそうにない。
私は思わず目を閉じてしゃがみ込む。
「いやーっ! 来ないで!」
私は目を閉じたまま、自分の前にあった大きなものを拾い上げて投げた。
ぼこっという鈍い音と同時に、なんとも言いようのない鳴き声が響く。
「キィン……!」
「ト、トモエ……お前……」
気の抜けたハッピーの声が聞こえて、私はそっと目を開ける。
するとそこには、三メートルほどの巨大な岩が。そしてその下から、竜の尻尾と脚だけが覗いている。
どうやら竜は、私の投げた岩の下敷きになった模様だ。
怖くて無我夢中だったとはいえ、私ってばこんなに巨大なものを投げたのか……
緊張感が切れ、急に体の力が抜けた気がした。
「怖かった……」
「俺は竜よりお前の方がよっぽど怖いぞ……」
勇者様は剣を収めつつそう言った。その声は震えている。
私も同感だが、現実を直視したくない。
「さ、さあ、竜は倒したから村も大丈夫だし。急ごうよ」
さっと立ち上がって促したけれど、ハッピーは無視する。そしてなぜか私が投げた岩を唸りながら押しのけ、動かなくなった竜の尻尾を掴んで引きずりはじめた。
ちょっと! 何やってるのよ。しかも嬉しそうに……
「多分今日は野宿だ。丁度いい晩飯のご馳走ができたな」
「え? これ、食べるのっ?」
冗談かと思ったが、ハッピーは真顔で答える。
「当たり前だ。ぺしゃんこにしたんだから、食ってやらなきゃ可哀相だろ」
「……あんた、正気?」
神に選ばれし勇者様を、思わずあんた呼ばわりしてしまう。
「俺は至って正気だ。大丈夫だ、竜に毒はない。食える」
ハッピーの声が酷く遠く感じられた。
ハッピーが言ったとおり、今日は人里から随分離れた森の近くで、陽が傾いてしまった。私達は開けた場所に荷物を下ろし、野宿することに。
まだ明るいうちに近くの川から飲み水を汲み、簡易的なかまどを作った。
気温も湿度も高くないので、一日くらいお風呂に入らなくても我慢できる。テントで寝るのは、キャンプだと思えば楽しいかもしれない。
問題は食事――主にその食材だ。
「お前、料理ぐらいできないのか?」
ため息まじりにハッピーは言う。
私はこれでも料理は苦手じゃない。ただし、ちゃんとした設備のキッチンで、パックに入った肉や魚、綺麗な野菜が揃い、調理器具とか調味料とかがあればの話。
こんなサバイバルな環境で、料理などできる気がしない。
「数時間前まで動いていた巨大な生き物を、ナイフ一本で捌けと言われても、無理。というか、触るのも嫌」
「仕留めたのは自分のくせに……。まあいい、料理は俺がやる。晩飯ができるまで、お前は寝床の用意でもしておけ」
「……はぁい」
勇者様にご飯の用意をさせて申し訳ない。
でも、先に水汲みや薪拾いをやったし、これからテント張りもやるから勘弁してほしい。
たき火のそばで勇者様による本日の食材の解体作業が始まったので、私はそちらに背を向ける。解体ショーを見ないようにして、テントを張りはじめた。
アウトドアは結構好きで、子供の頃は両親と、大人になってからは友達とキャンプに行った。テントを組み立てるのも、テントで寝るのも慣れている。
うーん、しかしこのテント、どうやって張るんだろう。丈夫そうな厚手の布とロープしか入っていない、クラシックな代物だ。
私が悪戦苦闘しつつなんとかテントを張り終える頃、すごくいい匂いが漂ってきた。
勇者様は手際よく夕食の準備を済ませたらしい。
「おい、できたぞ。さっさと食え」
ぶっきらぼうに声をかけられて、私は振り向く。すると、串に刺したお肉がたき火で炙られて、こんがりいい色に焼けていた。
「美味い。我ながら味付けもよくできた」
私を待たずにお肉にかぶりついて、ハッピーは自画自賛する。そして近づいた私に、お肉の串を手渡した。
「愛称だよ。私の世界で『ハッピー』とは幸福という意味があるの。縁起がいいと思わない? 先代の名前のラッキーは幸運という意味で、これもとても縁起がいいでしょ? それに倣って」
私がそう言うと、勇者様はしばらく考え込んでから頷いた。
「幸福か。それはいいかもしれない。よし、その名で呼ぶことを許す」
なんとなく偉そうだけど、認めてくれてよかった。
こうして、私は今代の勇者ハッピーと共に黒竜王を倒す旅に出ることになった。帰る道がいつ現れるのかわからない今、少しでも可能性があるならやるしかない。
それに……見た目だけは理想を絵に描いたようなイケメン勇者と二人旅というのも、悪くないかもしれない。性格は悪そうだけどね!
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神殿の外には緑豊かな庭園が広がっている。石畳の小道がまっすぐに延びる両脇に、石の柱が立ち並ぶ。厳かな雰囲気の広い神殿の敷地を、勇者ハッピーについて歩いていくと、大きな門があった。
そういえば、この神殿はどんなところにあるんだろう? 神殿というからには、聖なる地にあったりするのかな。
そんなことを考えながら門を一歩出た瞬間、私は驚く。
「わぁ!」
人々が行き交い、商店が立ち並ぶ――神殿は、街のど真ん中にありました。しかも結構な繁華街の中心だ。
「なんか意外……」
呟いた私に、勇者ハッピーが面白くなさそうに聞く。
「何がだ?」
「いや、神殿ってもっと秘境的なところにあるものだと思っていたから」
正直に答えると、ハッピーは肩を竦めてさっさと歩きはじめた。
「ここは首都だ。ほら行くぞ」
「そっか、首都なんだ。――あっ、待って」
私は慌ててハッピーに続く。こうなった以上、置いていかれては困る。
首都というだけあって、街は人も多くて賑やか。いろいろなものを商う店らしきものもたくさん見えるし、人の声や音楽が聞こえてくる。色合いはパステル調で、日本に比べると華やか。
なるほど、勇者選定から旅立ちまで急展開だったのに、すぐに支度をしてもらえたわけだ。お店がこんなに近くにあるなら、余裕だっただろう。
行き交う人達は皆、地球では見ないような髪の色や様々な肌の色をしている。ハッピーの緑色の髪や神官さんの青色の髪は、そんなに珍しいものではなさそうだ。
やや背が高くて細身な人が多く、体の作りや顔立ちは、地球の人とそう変わらない。
男性は長衣にズボンの組み合わせ、女性はスカートの人が多い。ジャージ姿の私は浮いているかもしれない。
観察しながら歩いていると、見るもの聞くものすべてが初めての異世界のはずなのに、不思議とあまり違和感がないことに気がついた。むしろ、しっくりきている気がする。そんな自分が一番謎。
確かに人やものの色彩は違うのに、なんというかこう――既視感があるのだ。
日本の普通の民家っぽい瓦屋根の木造建築なのに、壁が渋いピンクで瓦がミントブルー。重厚な白い石造りの洋風の建物は、壁のレリーフが松と亀に似た生き物で、ドアじゃなく格子の引き戸。イスラムのモスクみたいな重厚な建物のてっぺんに、シャチホコっぽい飾りが載っている――などなど。とてもちぐはぐで、面白い。
なんだかちょっと旅行気分。せっかくだから道草したくなっちゃうな。
きょろきょろ辺りを見ながら進む私に、ハッピーが呆れ顔で言う。
「あまりきょろきょろするな。それにお前、もう少し普通に歩けないのか?」
そういえば、私は神殿の中と同じく、跳ねるように歩いている。というか、歩こうとすると跳ねてしまう。ハッピーは普通に歩けるので、私の歩き方がお気に召さないらしい。そう言われてもなぁ。
「わざと跳ねてるわけじゃないんだよ。でもなんだか、体がフワフワしていて」
ああ、本当に体が軽い。
きっとここルーテルは、地球とは重力の加減が違う世界なんだろう。私の力が強くなったのも、体が軽くて歩くだけで跳ねてしまうのも、多分そのせいだ。
私は重力や科学はよくわからないから、原理を解明することはできないけれど、とりあえず体に害はなさそうだからよし。そういうことにしておく。
ハッピーを見ると、ぴょんぴょんしている私とは対照的に、足取りは重い。
彼と私は、リュックみたいな袋に入った旅の荷物を背負っている。出発前に一応確認したところ、中にはテントや日用品、水、着替えなどが入っていた。
その荷物に加えて、ハッピーはいかにも勇者様という鎧っぽい装備品に、大きな聖剣を腰に下げている。結構な重量のはずだ。
それを見て、私はひらめいた。
「そうだ。荷物はあなたの分も私が持つね」
二人分の大きな荷物を両肩に背負うと、私の歩き方はなんとなく普通に近くなった気がする。怪力のせいか私は重く感じないし、ハッピーの足取りは少し軽くなった。
私の重石代わりになる上に、ハッピーの負担を減らせるなら、一石二鳥だ。これいいかも。
というわけで私は、早々に勇者様の荷物持ちという立場になった。どんな役割だってあるだけで気が楽というものだ。
しかし、ハッピーは少々複雑そうにしている。
「正直、荷物を持ってもらえてありがたい。それに石を握り潰すような怪力だから、お前が無理していないことはわかる。……しかし、傍から見たら俺は、女に荷物を持たせる酷い男なんじゃないだろうか」
ハッピーは俺様な性格のわりに、人の目を気にするのか……
それはともかく、私はものすごく基本的なことを聞いておきたい。
「大丈夫だよ、誰も気にしないって。それより、旅はずっと徒歩なの?」
どこまで行くか知らないが、世界がどうのと規模の大きな話だった。交通手段は他にないのだろうか?
ハッピーはこっちも向かずに答える。その横顔は綺麗だけどやっぱり不機嫌そう。
「当面は歩きだ。西の森にいるという先代勇者を探すのが第一目的だが、近隣の様子を見たり、黒竜王の情報収集をしたりもしたいからな。それに、道中人助けをするのも勇者の務めだ」
「……それもそうね」
ハッピーの話はごもっともだけれど、徒歩での移動となると、結構時間がかかるだろう。すんなり進むとも限らないし。
私、いつになったら帰れるんだろうか――なんだか不安になってきた。
首都を抜けると、のどかな田園風景が広がっていた。
まっすぐに延びた道の脇に、ぽつりぽつりと小さな木造の民家や木々がある。これもどこかで見たような風景。
そんな田舎道を、とにかくまずは先代勇者を探すため、私達は西に向かって歩く。
正直なところ、私には方角すらわからないのでハッピーについて行くだけ。
観光地らしきものはなさそうで、道草もできないことが残念だ。
背筋をまっすぐ伸ばしてスタスタ歩く勇者様は、ずっと無言で、何を考えているのかわからない。
私も黙って歩いてはいるものの、正直手持ち無沙汰だ。それに考える時間があると、自分に起こったありえない出来事やこれからのことへの不安が、ムクムクと膨らんでしまう。
私は思い切ってハッピーに声をかけてみる。
「ねぇねぇハッピー。いろいろ聞いてもいい? 教えてほしいことがいっぱいあるの」
「神殿が用意した本があるだろ。この世界のことが書いてある。それを読んで自分で勉強しろ」
努めて明るく尋ねた私を、ハッピーはちらりとも見ずに一蹴した。
……速攻、壁を築かれてしまった。
「そういえばもらったけど……」
その本とやらは、大きな荷物の中に入っている。
『扉』を潜ってきた異界の人のために、この世界の地図や簡単な歴史などの必要な情報をまとめたものらしい。ルーテルの歩き方とでも言えそうな本だ。
そんな本があるということは、私のように異世界から来る人がそれだけ多いのだろう。とりあえず、レアケースすぎて何もわからないというより安心できる。
歩きながら本を読むのはお行儀が悪いので、ルーテルの歩き方は休憩の時に読もう。
それはさておき、私が聞きたいのは、ハッピー自身のことだ。
このイケメン勇者様はかなりの自信家で、可愛くない喋り方をする奴だということしか知らない。一緒に旅をする以上は、もう少しお互いに相手を理解しておいた方がいいと思う。
というわけで、見えない壁は破壊してしまおう。とにかく話を引き出そうと、声をかけてみる。
「あの、私が教えてほしいのは、ルーテルのことじゃなくてハッピーのことなんだよね。えーと、そうだ。私は今二十二歳なんだけど、ハッピーは何歳?」
「……二十一だ」
小さな声だし、相変わらずこっちは見ない。でも返事はしてくれた。
そうか、ハッピーは私より一つ年下か。――いや待て、異世界なんだもの、一年の単位や一日の長さが地球と同じとは限らない。
その疑問を問いかけると、彼は面倒くさそうにしながらも教えてくれた。なんと、地球と同じだという。
「暦や時間の概念は『扉』の向こうの世界から持ち込まれたものだ。お前と同じ世界の人間だったんだろう。詳しくは本を読め」
そうかぁ。一日が二十四時間なのも、一年が三百六十五日なのも一緒なのか。
ちょっとは口を利いてくれるようだし、話題を変えてみよう。
「じゃあさ、ハッピーは勇者に選ばれて嬉しい?」
「嬉しいも何もない。俺が勇者に選ばれるのは、当然のこと。この日のために、幼い頃より両親に鍛えられてきたのだから」
ハッピーはさっきよりも力強く答えた。当然とか言っちゃって可愛くないけど、会話は続きそう。
「ハッピーは子供の頃から鍛えてるんだ。すごく強いんだね」
「当たり前だ」
プチよいしょに気をよくしたのか、今度はハッピーが私に尋ねる。
「お前はどうだ? 怪力なのは認めるが、戦えるのか?」
「うーん、どうだろう。前は剣道をやっていたとはいえ、今はごくごく普通の事務員だもの。とりあえずは荷物持ちということで勘弁してね」
そう言うと、ハッピーはフンと鼻で笑った。なんか地味にムカつくなぁ。
他にも、食べ物では何が好きだとか、彼女はいるかなどごく普通の質問をしてみたが、ハッピーはもう答えてくれなかった。
「よく喋るな……」
「ゴメン」
機嫌を損ねては困るので、このくらいにしておこう。
質問を切り上げると、しばらくまた黙って、てくてく歩き続ける。竜が普通にいるという恐ろしい話を聞いていたので、どうなることかと思っていたけど、道のりは平和だ。
またも手持ち無沙汰になってしまった私は、行儀が悪いのは承知で『ルーテルの歩き方』の本を取り出した。ぱらぱらっとページを捲ってみる。
「なになに? 『昔々、このルーテルは草木も生えぬ不毛の土地だった。今の命溢れる豊かな世に住まう人間の祖は、「扉」を潜ってきて戻れなくなった異世界の人間だった』……へぇ、そうなんだ。……って、あれ?」
本を読みはじめて、内容より気になることがあった。
「……なぜ異世界に来たのに、私は言葉がわかるし文字も普通に読めるのだろう」
「今更かよ?」
思わず呟いた私の言葉に、すかさずハッピーがツッコミを入れる。その声は呆れていた。
そりゃそうだよね。自分でも、なぜもっと早く疑問を持たなかったのかと思う。いきなり普通に会話できたあたりで気がついてもよかったのに。混乱と慌ただしさで、あまり頭が回転していなかったのだろう。
「多分その本にも書いてあると思うが、たまたま文字や言葉を最初に伝えたのが、お前の国の人間だったんじゃないか」
「なるほど」
衝撃の新事実。異世界の言語は日本語だった!
言われてみればこの本、右綴じの縦書き、かな文字だわ。
でも、人の名前やファッションは日本と違う。ルーテルはいろいろなところと『扉』で繋がっていて、地球の他の国や、あるいは違う世界のものが混じりあって、こんな風になったのだと思われる。その中で言葉や文字は日本のものがそのまま残っているなんて、本当にラッキーだ。
異世界に来てしまったのは災難だとしても、ある意味私はツイてるのかもしれない。
そんなことを考えながら本を読み進めると、異世界から来た者の中には稀に、とても力が強く跳躍力のある者がいると書かれていた。まさに今の私だ。
しかしそういう者は、早ければ数日、長くても数カ月でその力を失うらしい。
この世界に体が慣れる――ということなのかな。もしも完全に慣れてしまったら、元の世界に戻った時にすごく苦労するんじゃないだろうか。
この旅が早く終わるか、すぐに『扉』が現れないと……
そう焦ったところで、ハッピーが口を開いた。
「今日はあの村までにしておこう。宿くらいありそうだ」
本から顔を上げると、かなり先の山際に大きな村が見えた。
気がつけば陽は傾き、もうすぐ夕刻という空。
私はこれからどうなるのだろう。漠然とした不安に襲われるが、旅はまだ始まったばかり。
とにかく村に向けて足を進めるのだった。
そうして到着した大きな村で、宿屋に泊まった。
宿で出された夕食の料理は、和食に似ていて美味しかった。そして部屋ではぐーすかと眠った。
繊細さの欠片もない自分に呆れる。
知らない世界で夜を迎えることへの不安や寂しさで、眠れないんじゃないか……なんて思っていたのに、あっさり寝ついた。
村に着いた時には陽も暮れていたし、歩き通しで疲れていた。
それに、考えてみれば祖母の家で遺品整理を始める前に朝食を取って以来、何も食べていなかったのだ。腹ペコの状態で、やっと食事にありつけて空腹が満たされたら、眠くなるのも道理だろう。
お風呂にも入れたし、個室でちゃんとしたベッドで眠れて、思いのほか快適だった。
そして目が覚めて、本日は異世界二日目。私達はさらに西を目指して、早々に村を出た。
村のそばには農耕地が広がっていたが、しばらくして人の気配もなく寂しい赤茶けた荒野に変わる。
荒野に入ってすぐ、道の先から、何か巨大なものが土煙を上げて恐ろしい勢いで走ってきた。それは、まっすぐにこちらに向かってくる。
「な、何?」
「あれが竜だ」
「竜っ?」
ついに出たか! 本当にいるんだ。
高速で走ってきた生き物は、私達に気がつくとスピードを緩め、数メートル先で止まった。赤く妖しい光を湛えた目でこちらを睨み、低い唸り声をあげる。
「フン、まだ小さい方だな」
至極冷静にハッピーは言うけど……
「こっ、怖い……」
初めて見る本物の竜は、体はとても大きく、足の長い緑のトカゲ。ところどころトゲトゲした鱗が突き出している。
これで小さい方? 二メートル以上はあるよ?
その竜は、こちらを睨みながらチロチロと舌を出している。
ひいいぃ、やっぱりどう見ても爬虫類っ! 爬虫類は非常に苦手で、ぞわぞわと鳥肌が立つ。
怯む私を尻目に、ハッピーは腰に下げていた剣を抜きながら説明してくれる。
「緑竜は力が強いが本来大人しい草食の竜だ。しかしこいつは、黒竜王に反応しているな。目つきが違う。このまままっすぐ走っていかれたら、この先の村が大変なことになる」
この先の村……昨夜泊めてもらった村だ。あそこには大勢の人がいる。
「倒すの?」
「もちろんだ。残念だが、一度暴竜になったものは元に戻せない」
左様でございますか。ではその爬虫類そっくりな竜は勇者様にお任せして、荷物持ちは隠れておりますので……
私は後ずさりをして岩の陰に隠れ、傍観者になる。
竜対勇者の初観戦。
竜は巨体のくせに素早く動くと、がぁっと口を開けてハッピーに噛みつこうとする。彼がそれをかわすや否や、竜は後ろ脚で立ち上がって、鋭い爪のある前脚を振り下ろす。
なんかもう、トカゲというより恐竜。いや、怪獣。
ハッピーは竜の攻撃をひらひらとかわしつつ、剣で竜に斬りかかる。その動きはまさに勇者だ。
自己中で唯我独尊な男だけど、本当にカッコイイ。
やっぱり自分で言うだけあって強いんだなと、思わず見惚れる。
何度かハッピーが斬りつけると、竜の動きが鈍くなってきた。それでも大きな体で体当たりしてきた竜を、ハッピーがかわしながら蹴り飛ばした。竜がよろけて倒れ――
「しまった! トモエ、気をつけろ!」
あ、ハッピーが初めて名前を呼んでくれた。
って、ちょっと……なんでコッチに倒すのよ!
顔を上げると、竜はすぐ目の前。見るからに怒っている。当たり前だ、あちこち傷だらけだもの。
ハッピーの方を睨んでいたその赤く光る目が、私の方を見た。
怖い……っ!
「トモエ!」
ハッピーがこちらに向かって走ってくるのが見えたけど、間に合いそうにない。
私は思わず目を閉じてしゃがみ込む。
「いやーっ! 来ないで!」
私は目を閉じたまま、自分の前にあった大きなものを拾い上げて投げた。
ぼこっという鈍い音と同時に、なんとも言いようのない鳴き声が響く。
「キィン……!」
「ト、トモエ……お前……」
気の抜けたハッピーの声が聞こえて、私はそっと目を開ける。
するとそこには、三メートルほどの巨大な岩が。そしてその下から、竜の尻尾と脚だけが覗いている。
どうやら竜は、私の投げた岩の下敷きになった模様だ。
怖くて無我夢中だったとはいえ、私ってばこんなに巨大なものを投げたのか……
緊張感が切れ、急に体の力が抜けた気がした。
「怖かった……」
「俺は竜よりお前の方がよっぽど怖いぞ……」
勇者様は剣を収めつつそう言った。その声は震えている。
私も同感だが、現実を直視したくない。
「さ、さあ、竜は倒したから村も大丈夫だし。急ごうよ」
さっと立ち上がって促したけれど、ハッピーは無視する。そしてなぜか私が投げた岩を唸りながら押しのけ、動かなくなった竜の尻尾を掴んで引きずりはじめた。
ちょっと! 何やってるのよ。しかも嬉しそうに……
「多分今日は野宿だ。丁度いい晩飯のご馳走ができたな」
「え? これ、食べるのっ?」
冗談かと思ったが、ハッピーは真顔で答える。
「当たり前だ。ぺしゃんこにしたんだから、食ってやらなきゃ可哀相だろ」
「……あんた、正気?」
神に選ばれし勇者様を、思わずあんた呼ばわりしてしまう。
「俺は至って正気だ。大丈夫だ、竜に毒はない。食える」
ハッピーの声が酷く遠く感じられた。
ハッピーが言ったとおり、今日は人里から随分離れた森の近くで、陽が傾いてしまった。私達は開けた場所に荷物を下ろし、野宿することに。
まだ明るいうちに近くの川から飲み水を汲み、簡易的なかまどを作った。
気温も湿度も高くないので、一日くらいお風呂に入らなくても我慢できる。テントで寝るのは、キャンプだと思えば楽しいかもしれない。
問題は食事――主にその食材だ。
「お前、料理ぐらいできないのか?」
ため息まじりにハッピーは言う。
私はこれでも料理は苦手じゃない。ただし、ちゃんとした設備のキッチンで、パックに入った肉や魚、綺麗な野菜が揃い、調理器具とか調味料とかがあればの話。
こんなサバイバルな環境で、料理などできる気がしない。
「数時間前まで動いていた巨大な生き物を、ナイフ一本で捌けと言われても、無理。というか、触るのも嫌」
「仕留めたのは自分のくせに……。まあいい、料理は俺がやる。晩飯ができるまで、お前は寝床の用意でもしておけ」
「……はぁい」
勇者様にご飯の用意をさせて申し訳ない。
でも、先に水汲みや薪拾いをやったし、これからテント張りもやるから勘弁してほしい。
たき火のそばで勇者様による本日の食材の解体作業が始まったので、私はそちらに背を向ける。解体ショーを見ないようにして、テントを張りはじめた。
アウトドアは結構好きで、子供の頃は両親と、大人になってからは友達とキャンプに行った。テントを組み立てるのも、テントで寝るのも慣れている。
うーん、しかしこのテント、どうやって張るんだろう。丈夫そうな厚手の布とロープしか入っていない、クラシックな代物だ。
私が悪戦苦闘しつつなんとかテントを張り終える頃、すごくいい匂いが漂ってきた。
勇者様は手際よく夕食の準備を済ませたらしい。
「おい、できたぞ。さっさと食え」
ぶっきらぼうに声をかけられて、私は振り向く。すると、串に刺したお肉がたき火で炙られて、こんがりいい色に焼けていた。
「美味い。我ながら味付けもよくできた」
私を待たずにお肉にかぶりついて、ハッピーは自画自賛する。そして近づいた私に、お肉の串を手渡した。
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