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四品目:創作涼菓「水面」

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 俺の朝は早い。
 この辺りは昔から大きな川の伏流水でいい水が湧く。造酒屋や豆腐屋が多いのもそのせいだし、ウチみたいな和菓子屋も水が命だ。だがここ最近都市化が進んで店の井戸の水も質が落ちたし、水道水は臭いが鼻につくので極力使いたくない。だから少し離れた山寺の横に沸いてる清水を汲みに行く。
 この暑い季節は特に葛菓子や流し物が多くなるのでいつもより多目に必要になる。
 餡を晒すのも、豆を水に浸すのも水飴を炊くのも水が違うと味が違う。そんなわけで年中ほぼ毎日、三十リットルの大きなタンクに二本は汲む。夏は三本だ。
 ここは名水として有名で、湧き出る量も多いので汲みに来る人も多い。朝一番の人がいないときに行かないと順番待ちが大変だ。五時には軽トラックで行くのだが、考えてみたら積み下ろしだけでもかなりの重労働だ。今はまだ良くても、この先も大丈夫かは自信が無い。
 仕事用の水を入れ終えて、ついでに常置してある柄杓ですくって一杯。すうっと体に染みこむようでしゃきっとする。
 トラックの荷台にタンクを持ち上げた瞬間に、腰に鈍い痛みが走った。ずしんと重だるい痛さ。膝もちょっと気を抜くと震えるくらい力が入らない。
「くぅ……」
 それでも何とか積み終えて、俺が荷台に寄りかかって腰をさすってると、石段を竹箒で掃いていた寺の住職が笑いながら声を掛けて来た。ガキの頃からよく知ってるじいさんだ。
「おやおや。清坊ももう歳かい?」
「はは……」
 まあな。歳もあるけどな。多分ちょいと昨夜も弾けすぎたからだ。ったく、若いからって激しすぎるんだよ、有紀は。ちょっとは加減してくれ。
 一度寝てからは深い仲になるのは早かった。
 定休日だけにとどまらず頻繁に会うようになり、会えほとんど体を重ねた。菓子の講習もそこそこに。
 独り身が長かったおっさんは、すっかり若い体に与えられる快楽に溺れるようになってしまった。
 ……いつも絶対に俺が抱かれる側なのが正直気に食わないがな!
 一度最初の腹いせに、ベロベロに酔わせてこっちが襲ってやろうと思ったら、有紀は悪酔いして車で吐きまくり、次の日寝込んで店を休みやがったので、もう絶対に酔うまで飲ませない。
 それにあいつは酷いトラウマ持ちで、抱かれるのが怖いというのがわかったから、無理強いはしたくないのだ。後で知ったのだが吐きまくったのはそのせいもあったらしい。
 ベッドで俺の胸に顔を埋めて、有紀がその壮絶な体験を語ってくれた。
 軽い気持ちで「どうして菓子を作ろうと思った?」と訊いたのが始まりだった。

 日本でまだ中学生の頃に、目立つ金髪で不良に目をつけられて集団で暴行され、身も心もボロボロになって自殺しようとした有紀。
 居た堪れなくなった父親は、早くに死んだ有紀の母の実家を頼って息子を連れて渡仏した。以来、十年以上向こうで生きて来た。
 そしてパリで有名なパテシェに弟子入りしてその技術を学び、数々のコンクールでも入賞するほどの職人になった。
 先に日本に帰っていた父が事故で亡くなり、残された遺産で店を開いて今に至る……というのが風間有紀の経歴。
「体の傷は癒えても、本当に死にたかった。この髪が憎くて自分でいっぱい引き抜いた。死ねそうな物、刃物も全部取り上げられて、飛び降りないように手も足も縛られて、溺れるといけないからってトイレも風呂も一人で入れてもらえなかった。しばらく病院にいたけど、父さんが見るに見かねて僕をパリに連れて行って、怖い目にあった日本じゃないって思ったら少しは落ち着いて死にたいと思わなくなった。父さんを悲しませたくなかったから」
 自分はそんな経験をした事がないから、俺にはその心情は察しかねたが、このいつもヘラヘラ笑っているお喋りの男はそんな大変な思いをして来たのだ。
 言葉をかけるのも憚られて、その柔らかな髪を撫でた。俺はこの金色の髪は好きだ。飴細工みたいにキラキラ光る美しい髪。それを自分で引き抜いてしまうほど辛かったのだと思うと胸が痛い。
「でもどうしても何も食べられなくて、口に物をいれるだけで吐いて、骨と皮だけみたいになっちゃってさ。それでも父さんは餓死寸前で点滴だけで生きてる僕を諦めなかった。ある時、父さんがパリの有名な店でとっても綺麗なプティガトーを買って来てくれたんだ」
 薄暗い中でも、その白い顔に微笑がのぼるのがわかった。
「ほんの一口でいいから食べてごらんって、最初は無理矢理口に入れられた。不思議とね、いつもみたいに吐かなかった。甘い香りが口に広がって、魔法をかけられたみたいに心がすうって軽くなったんだ。美味しい、本当に美味しいって思った」
 そして彼と父は笑顔を取り戻した。有紀は自分を救ってくれた菓子のような素晴らしいものを作りたいと思うようになったんだそうだ。
 菓子が無くとも人は生きられる。菓子は三度の食事には必用ない。だが食べたものを幸せな気分にする魔法の食べ物、それが菓子。美味しい菓子は心の薬。そんな本質を教わった気がした。
 俺も最初の一口を食べた瞬間に幸せだと思った。
 あれは風間有紀の甘い幸せの魔法に、最初にかかってた証拠だったんだ。
 そして同時に気がついた。
 俺はどうして菓子を作ってるんだろう。
 店があったから。後を継いだから。
 それ以外に思いつかなくて、自分が酷く薄っぺらに思えた。

 ★ 

「わっ。くすぐったい」
「ま、待てっ! そんな所に使ったらもう仕事で使えないじゃないか」
「ちゃんと、洗って熱湯消毒したら平気……ん、ふっ」
 平気じゃねぇ! 衛生的にってより精神的に平気じゃねぇわいっ!
「……アリ、集るぞ」
「じゃあアリが来る前に舐めて」
 いい歳した大人の男二人、阿呆な事をやって遊んでいる。
 今日は休みだった俺の店。先程まで有紀と試作品の寒天菓子を作っていた。
 夏場は練り餡細工の生菓子はあまり売れない。羊羹や蒸し物、涼しげな葛や寒天をつかった透明感のあるもの方が人気なのだ。
 青と白の小さく角切りにした寒天を、透明と薄い青で色付けした寒天に閉じ込め、固まったら切り分ける。ここまではよく見かける流し物だが、さらに竹筒に入れて上から葛入りのとろみのついた蜜を掛けるというのを試みてみた。こうして夏の創作涼菓子「水面みなも」は大変綺麗に仕上がった。
 でだ。今、有紀が刷毛で残った葛の蜜を塗っている物体が問題である。
 自分のナニに塗ってやがるし! 先っぽテラテラ光ってるのが凶悪。
 変態っ! やっぱコイツちょっとおかしい!
「次は清さんにも塗ったげる。ひんやりして気持ちいいよ」
「断る。食い物で遊んだらバチあたるって昔から言うんだぞ」
「ちゃんと残さず食べたら大丈夫」
 ほう。そうまで言うなら残さず食ってやる。夏の生臭菓子をな!
 脱がされて塗られる前に、畳に立膝で脚を広げてる有紀の前に跪き、葛蜜で光る熟したすももみたいなのに口を寄せる。
 体温で温められた蜜がより甘く濃厚に感じた。
 わざと聞えるように音を立てて舐める。音楽なんて無い夕方の四畳半の和室。西日がオレンジ色に差し込んで濃い影を落す狭い室内に、ぴちゃ、ぴちゃという音と共に少し荒くなってきた有紀の息遣いが響く。
 口を離さないまま見上げると、窓を背にしてるから逆光だが、整った顔が切なそうに眉を寄せて小さく口を開いていた。髪が夕日でべっ甲飴みたいに透き通って見える。
 なんて綺麗なんだろう……。
「そんな目で……見ないで。清さんの、舌使い……エロ……すぎっ」
 どんな目だよ。
 有紀が俺の頭を撫でるように抱えこんで小さく呻いてる。
「ん……ああっ……清さん、す、き……!」
 深く咥え込むと、金色の髪を陽に煌かせ、大きく仰け反った。
 甘かった表面は舐め取った。代わりに青臭いすこし苦い蜜が口の中に放たれた。

「じっとして。ふふっ清さん、ボー(きれい)」
 ……第二ラウンドだそうだ。今度食われる菓子は俺である。
 悪戯小僧は容赦なく俺の胸や鎖骨、臍のまわりに蜜を塗りたくりやがった。もちろんアソコにもな!
 蜜はまあいいとしてさ、なんで俺には青い角切り寒天までのっけられて、素っ裸で転がされているのだろうか。
「あまり腰を酷使すると仕事に響くから今日はこれで我慢する」
「いや、答えになってないぞ? この寒天は何だ?」
 鎖骨に沿って並べられてるんだけども。ついでに言うと乳首と臍にも。
「デコーレだよ。首飾りにピアスの代わり。お姫様みたいで素敵」
「四十越えたゴツイおっさんに向かってお姫様なんぞと言う残念な口はどの口だ。目が腐ってるんじゃないか?」
「この口だよ。だって清さんは可愛い僕のお姫様。僕のを笑窪のあるお尻で飲み込んであんあん言ってる時なんか、ホントに可愛いんだから」
 ……話にならん。ものすごく恥ずかしくて、そして気持ち悪い。
「ではいただきまーす。残さず食べないとバチあたるんだもんね」
 すぽんすぽんと寒天を吸い込んでいく有紀の口。そして周りをぺろぺろ。時々がしがし歯形がつくほど。
「やっ、やめっ!」
 今日もひいひい言わされたとも! 結局中まで美味しくいただかれたさ。
 我慢するんじゃなかったのか。ああ、腰が痛い……。
「もうすこしおっさんを労われよ」
「清さんが動けなくなったら、僕が面倒みてあげるから心配しないで。いっそお嫁さんにもらうから僕の家に住む?」
「バーカ。気持ち悪い事言ってんじゃねえよ。この店どうすんだよ」

 


 二人とも朝は早いのでいつもその夜のうちに帰る。
 だが今日は俺が明日も店を閉める事になって、俺は有紀の家に泊まった。
 明後日納めるはずだった大量の茶会の菓子がキャンセルになって、明日はその準備のために一日みてたので急遽暇になったのだ。
 ここ最近、こういう大きな取引がよく流れる。百貨店の地下の店舗への三日に一度の納品がかろうじて一番大きな収入源ではあるが、その百貨店自体経営難で近く閉店の噂もある。贔屓にしてくれる個人のお客も高齢化が進み、材料費は上がる、客が減るでかなり苦しい。
 前に他の店みたいにネット市場に乗り出すか、材料の質を少し下げるべきだと真は言ってたが、俺はインターネットなんかに疎いし、この歳で新しい事を始められるほど器用じゃない。そして質も落したくない。味を落すくらいならやめてしまいたい。俺は根っからの職人なんだ。
 動けなくなるまで……そう思ってたが、もうそろそろ潮時なのかもしれない。
 店を畳んでどこかに務めにでも出れば、何とか生活はやっていける。余所で務めようと思えば、もう今がギリギリの歳だ。
 それでも俺は菓子を作っていたい……これは我侭なのだろうか。
 色々と考えていたら眠れなくなってしまった。
 腕の中で安心しきった顔ですうすう寝息を立ててる有紀。色々変なところもあるが、本気で愛おしいと思う。
 コイツはまだ若い。そして人気も実力もある職人だ。借金も無く、こんないい店も家もある。これから先もっともっと輝くだろう。なのに俺は――――。
 こんなふうに一緒にいてもいいんだろうか?
 一緒にいる時間は幸せな気持ちになれる。若返ったみたいな気分で、笑顔でいられる。
 そう、甘い菓子を食ってるときみたいに。
 それでもこの言いようのない不安は何なのだろう。

 そして、それは予感だったと気がついたのは数日後の事だった。

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