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白夜の章
青い森の少女 3
しおりを挟むその白夜の森での出会いを俺は忘れることはないだろう。
運命とはこうも気まぐれで、意地悪で、残酷で、不思議なものなのだとしみじみと思ったのは後になってからだが―――。
こちらを見ている人物の顔は、俺のよく見知った顔だった。
「フェイ?」
いや、フェイは出てくる時すやすや寝息をたててよく眠っていた。目が覚めて出て来たにせよ、先回りでこんなに離れた場所まで来れる筈はない。
第一、幾ら似ていようと別人であることはすぐにわかった。
そこにいるのは女の子だ。薄地の服の下に感じられる体の線は、未成熟ながら明らかに女性のものだ。それに、陽に当たったことも無いような白い肌、豊かな長い髪が俺の知っているフェイと違う。ちょっと甘いニオイも違う。それでも他人の空似と言うにはあまりにも似ている。まだ夢か、何かに騙されているか、そんな思いが拭えない。
「こんばんは」
声を掛け、もっと近くで確かめようと俺が踏み出すと、少女は怯えたように後ずさった。
「怖がらなくていい。何もしないから。もう歌は唄わないのかい?」
「あなたはだあれ?」
少女が尋ねる声もフェイとそっくりで。
「オオカミだよ。森を散歩してた」
「随分のっぽのオオカミさんなのね。眼鏡もかけてる」
警戒したような表情のままだが、少女はほんの少し口元に笑みを浮かべた。
「空は明るいけど、こんな時間にどうして森に?」
「いけない? あなたもいるよ」
すかさず返された返事に、俺は苦笑いするしかなかった。
ああ、しかしよく似ている。髪の色、目鼻立ち、口元、声……何をとってもフェイにそっくりだ。
もう見慣れてしまったせいか、フェイを特別女っぽいとか綺麗だと意識したことはない。だがこうやって、同じ顔が女の子らしい服を着て髪を長くしていると、かなりの美少女だということがわかって軽いショックを覚えた。
待て? そもそもフェイって本当に男なのか?
そんな事を考えていたら、ついじっと見つめてしまってたらしい。少女は怪訝そうな顔で訊く。
「どうしてそんなに見つめるの?」
「ゴメン。知ってる人にあまりよく似てるから……失礼だけど君、お兄さんとか弟いる?」
「ううん。お姉ちゃんならいるけど」
信じ難くても、やっぱり他人の空似ってやつなのかな。しかしこうも似ている人間がいるなんて……まだ夢を見ているようだ。
「そんなに似てる人がいるの?」
首を傾げる角度までそっくりだった。
「ああ、鏡に映したみたいにそっくり」
「ふうん。そうなんだ。不思議だね」
年の頃も丁度フェイと同じくらい……十四・五に見えるにもかかわらず、舌足らずな喋り方は見た目よりもっと小さい子供のようだ。顔がいつも喋っている相手に似ているだけに、妙な違和感がじわじわと込み上げてくる。
「オオカミのお兄さん、お名前は?」
「ディーンだよ。君は?」
「ルー」
違う名前を聞いてやっと少しほっとした。まあ名前まで一緒の筈はないだろうが……
「いい名前だね」
そう言うと、ルーと名乗った少女は嬉しそうに笑った。
「ありがと」
「君一人? 他にも誰かいたように思ったんだけど気のせいかな?」
「えっと……」
やっと少し和らいでいたルーの表情がまた硬くなる。その視線がちらっと後ろの木の方に動いたのを俺は見逃さなかった。先程から少し気になっていたが、どうやらもう一人隠れているようだ。
ルーは首を傾げて俺に尋ねる。
「あなたコワイ人?」
「自分では怖い人じゃないと思うんだけど」
どういう意味で怖いなのかはわかりかねたものの、一応答えておく。
「ユシェンから来た?」
「いいや。森の反対側の村から来た」
「だったら優しい人だよね」
「え?」
謎の問答の後、くすっと笑ってからルーが後ろの木の向こうに声をかける。
「コワイ人じゃないって」
そのルーの声から少し間をおいて木の背後で何かが動いた。
そっと出てきたのは小さな人影。頭からすっぽりとコートのフードを被っていて顔はよく見えないが、一瞬ちらりとのぞいた、不安を一杯に湛えた真っ直ぐな視線が突き刺さるようだった。
「こんばんは」
出来るだけ優しくを心がけて俺が声をかけるも、またその小さな人影はさっと木の陰に身を隠す。
「怖がらなくても何もしやしないよ」
「でてきて、ハナ」
ハナ? 女の子の名前だ。
ルーに優しく呼ばれて、木陰の人物はもう一度おずおずと出てきた。小さい。身長は百十センチあるか無いかってとこだろうか。幼児?
こんな夜中に女の子二人連れか?
まず気になったのは、その小さい方の女の子の足元が裸足な事。夏とはいえ、北極近くの冷たい地面を歩くにはあまりに辛そうだ。指先は紫じみた痛々しい色になっている。また、薄いピンクの可愛らしいデザインのコートは女の子用ではあるが、それでもこの子には大きすぎだ。サイズや薄着なところからみても、おそらくルーのものだと思われる。ルーがこの子に間に合わせに着せたのだと充分に推測できた。
……何かよくない胸騒ぎがする。
「君達は姉妹?」
「ううん、ちがう。でも仲良しだよね?」
ハナと呼ばれた子は声も出さずに頷いて、ルーの腕に縋った。
その様子に少し悲しそうな目を遣ってから、ルーは俺の方を真っ直ぐに見る。何もかも見透かしてしまうような黒い大きな瞳が、またフェイを思い出させた。
「あのね、オオカミ……じゃなかったディーンさんにお願いがあるの」
「この子を村に連れて行けばいいんだろ? ひょっとして君達ユシェンから逃げてきた?」
先回りして言うと、ルーは目を丸くして驚いた。
「どうしてわかるの?」
「なんとなくね。君達、怖い人に追いかけられてるんだ?」
それも正解だったらしい。二人は間をおいて顔を合わせてから大きく頷いた。
また胸がざわざわするような良くない予感がする。ワケありのようだな。
「詳しい話は後で聞くから、二人共一緒に来るかい? 幾ら明るいとはいえ、こんな深夜に子供が二人っきりじゃ危ないよ。怖い人が来る前に熊や狼に襲われかねない。それに、そんな寒そうな格好じゃ風邪をひく。まだ村まで結構あるよ」
そう言った俺に、ルーは首を振った。
「えっとね、ルーはいい。帰らなきゃお姉ちゃんが心配するから。だからね、ハナだけでいいからコワイ人が来ないところに連れてってあげて。そうじゃないと……」
言葉途中でハッとしたようにルーが振り返る。その訳は俺にもすぐにわかった。
遠くで人の声がする。近づいてくる人の気配も。
「誰か来るな」
「え? あなたにもわかるの?」
ルーは驚いているが、俺の方が驚いている。一見ノーマルタイプに見えていたのに、まだ常人には聞こえないだろう遠い音を拾える聴覚があるということは、このルーという娘は……。
「ああ。俺は狼だって言ったろ? ルー、君こそ耳がいいね。何かのA・Hなのか?」
「言っちゃダメなの」
「ってことはそうなんだ」
ハッとしたように口に手をやるルーの仕草が可愛らしかった。どうやらこの娘は見た目よりも中身は随分と幼いみたいだ。なんだか五、六歳の子供と喋ってるような気になってきた。
「大丈夫だよ。驚いたりしないから。俺もA・Hだ」
「そうなんだ。だから聞こえるのね」
そうこうしている間に、声と気配は近付いて来て、やがて言葉もはっきりと聞こえるほどにまでになった。足音からかなり急いで走って来るのがわかる。
「ルー! ルー! どこなの?!」
段々近付いて来た声は女の声だった。
「ルー、君を呼んでる」
「お姉ちゃんだ。コワイ人じゃないけど、みつかったら大変。もう行かなきゃ。じゃあね、ルーはここでバイバイするから」
そう言い残して、多少そっけなくくるりと身を翻したルーのワンピースの袖口を、小さなハナは放さなかった。声も出さずに首を振って行くなと訴えている。
「だめだよハナ。ルーね、帰らなきゃいけないの。ルーが帰らないとお姉ちゃんが困って、悲しいの。お姉ちゃんが悲しいとルーも悲しくなるの。だいじょぶ、お兄さんがハナを優しい人達のいるところに連れてってくれる」
ルーがハナに言って聞かせる。それでもぎゅっと固く握られたハナの手は離れなかった。
「ルー! いるの?」
声は段々大きくなってきた。足音もかなり近くまで来ている。時間が無い。
「さ、行こう。ルーのお姉ちゃんがルーの事を心配して他の人を呼んで来たりしたら大変だ。今はとりあえずお別れしよう。ね?」
俺が多少強引に抱き上げると、やっとハナはルーから手を放した。それを確かめてすぐ、ルーは声の方に駈け出した。
ルーは数歩行った所でくるりと振り返る。
「ありがとうオオカミさん。ハナ、バイバイ」
にっこりと笑顔で手を振り、ルーは二度と振り返らずに真っ直ぐ駆けて行った。
それが俺の、フェイにそっくりな不思議な少女との短い出会の終わりの時だった。
気がつくと、俺の腕の中でハナは、ルーに向かって一生懸命手を振っていた。木々の向こうに白いワンピースの姿が見えなくなっても、まだ手を振り続けている。
声を掛けるのも、今すぐ歩き出すのも躊躇われる雰囲気だった。小さな冷たい体は小刻みに震えていて、その軽さが、振り続けられる手の小ささが俺の胸をぎゅっと締め付ける様だった。
「お姉ちゃん!」
「ルー! ああ、神様! よかった……」
木々の向こうから声が聞こえる。ルーは無事お姉さんの所に辿り着いたらしい。
「ごめんね、おさんぽしてたら迷っちゃったの」
「本当に心配したんだから! もう、何かあったらどうするの! 森には怖い狼や熊だっているのよ」
「……オオカミさんには出会ったよね?」
俺には離れていても聞こえてると知ってだろうか。囁くような小さな声でルーは言った。
「え?」
「ううん、なんでもないよ。帰ろ、お姉ちゃん」
「そうね。寒いわ。ルー、あなたコートはどうしたの?」
「えっとね、トゲの木にひっかけちゃったの」
「お気に入りだったのにね。折角……に買ってもらったのに……」
少しずつ、二人の声は遠ざかっていく。ハナの手の動きも段々と小さくなっていき、やがてぴたりと止まった。
「さ、俺達も行こうか」
またしても声も出さずに、フードを深々と被ったままの頭がこくりと頷いた。
歩き出してすぐに、ハナは下へ降ろせという仕草を見せたが、石や小枝も落ちている冷たくて痛い地面を裸足で歩かせるわけにもいかない。俺は無視してハナをもっと高く肩の上に担ぎ上げた。やがて諦めたのか、ハナはおとなしく身を任せた。
しかし軽い。重さを感じないほどだ。
「寒いけどもう少し辛抱するんだよ」
声を掛けてもハナから返答はない。
「君、喋れない?」
ハナはやはり黙ったまま。
赤い木の実をひとつ
黄色い実もひとつ――――
森の向こうから、もう遠くなった声が聞こえてくる。ルーの歌声。
『いいかいディーン。森を歩く時は大きな声で歌を唄うんだ。そうしたら狼も熊も襲って来ないからね』
いつだったろうか、俺が小さい時に親父がそう教えてくれた。
俺の故郷は北極圏もほど近いカナディアンロッキーの北の果て。ここによく似た気候で、こんな針葉樹の森に囲まれていた。熊も狼もムースもいる森。そして、辺り一面を、雪と氷が真っ白に変える、長い長い暗い冬―――。
「唄を聞かせて遠い国の唄、ここで羽根をやすめておいき……」
思わず俺の口からも歌が漏れた。この歌はよく親父が唄ってくれた。
「おうた……」
小さく、肩の上でハナが声を出した。
「あれ? 喋れるんだ。下手だけどもっと唄う?」
「……うたって」
赤い葉を一枚
楓の葉を一枚
おいでおいで自由な小鳥
唄を聞かせて違う国の唄
ここで羽根をやすめておいき
だけど雪が降ったなら
その羽根は凍えてしまう
長い冬が来る前に
かわいい小鳥
高く遠くに飛んでおいき
考えてみたら物悲しい歌詞にメロディーだ。長い冬に雪に閉ざされる地方の人間の、自由への憧れの歌だろうか。子供の頃はそんな事まで考えた事はなかったが……
ちょっと今自分でも頭の中が整理しきれなくて、ふわふわ夢の中を漂っている様だ。ルーのことをフェイに話したらどんな顔をするかな? このハナはどういう理由でユシェンから逃げてきたんだろう……ああ、混乱しそうだ。
混乱から逃げるように、俺は唄いながら森の中を村に向って歩き続けた。
狼よけの歌を狼が唄うなんて、皮肉なものだな……ちらっとそう思いながら。
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