Wild in Blood

まりの

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舞姫の章

闇市場の刺客 3

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 俺達が廊下に出て最初にした事と言えば、ニオイの確認だった。
 先刻までここにいた男女の手掛かり……甘い香水と消毒液の臭い。
 よし、しっかり残っている。追跡の始まりだ。
 劇場の外に出て、年老いた受付嬢に手を振り、細い路地を抜け無憂大路に出た。一応メインストリートとも言える他の路地に比べれば少しだけ広い道だ。
 俺もフェイも迷わず右に進んだ。コウさんの店から来た方角とは逆。
「追いつけるかな?」
 フェイがニオイを確認しながら言う。
「多分。バイク位なら通れそうだが、大きな乗り物ではこの路地に入っては来られない。しばらくは歩きだろう。まだそう経ってないから遠くへは行っていないと思う」
 見えないニオイの道を辿り、俺達は雑然とした街を進む。
 無造作に置かれたゴミ箱や壊れた自転車。何に使うのかもわからない機械じみた物体。いきなりの段差や捲れた石畳、謎のケーブル。そんなものがあちこちで妨害するので、足元はかなり気をつけないと転びそうだ。しかも商いをする店が多せいか、低い位置に張り出した看板が多く、百九十センチちょいある俺は、幾度と無くかわさねばならなかった。上にも下にも注意しながら、尚かつニオイを追跡するのは肉体的にも精神的にもかなり疲れる。
「あ、横道に入るよ」
 俺より鼻のいいフェイが方向を変える。
 劇場からしばらく歩いた所で、見えない足跡は無憂大路から脇の路地に続いていた。 
 ますますもって暗くて湿っぽい細い路地。その先は少しだけ広場みたいになっていて、カラースプレーで落書きされたコンクリートの壁、注射器や薬の包み、酒瓶などが散乱しているところを見ると、そうガラのよろしくない奴等の溜まり場になっていると容易に想像できる。
「うへぇ、怖そうな所だな」
「でも確かにここに……あ、見て」
 フェイが突き当たりの壁の横手を指差した。一見この広場で行き止まりに見えた路地は、指差された先のドアも何も無い、四角い小さな入り口から続いているようだった。
「入る?」
 一応フェイが確認するも、答えは決まっている。
「勿論だ」
 人一人がやっとという大きさの入り口ではあるものの、中は案外天井も高く幅もそこそこあるみたいだ。
 入り口をくぐると、中は強烈にカビ臭かった。意外にも結構明るい。そこはオレンジの電灯が点々と灯る通路らしき場所。
「なんだか少し空気が違う気がしない?」
 フェイが言った。とても小さな声でも、トンネルになっているためかよく響く。足音も響く。相当長いトンネルと見た。
「ああ。何と言ったらいいのかな……こう生活感が無いと言うか、人の気配が無い」
 俺はそうは言ったが、どう形容していいかわからない、もっと違った違和感みたいなものを覚えた。フェイが言った空気が違うというのもそれだろう。正体のわからない圧迫感……そんなもの。
 響くので足音をたてないように注意しながら、どのくらい真っ直ぐ歩いたろうか。フェイが突然足を止めた。まだ先の見えないトンネルの途中だ。俺にもその訳はすぐにわかった。
 音。通路の先から音が響いてくる。それは足音だった。
「誰か来る」
 フェイの声にも緊張が混じった。なんせ身を隠す場所も無い真っ直ぐな通路だからな。 
「どうする?」
「どうするって……ただの通行人かもしれないじゃないか」
 フェイに訊かれてそう返した直後、俺はすぐに撤回する。
「いや待て、人間の足音じゃないみたいだな、これは。それに……」
 何か引っかかる……このトンネルに入った瞬間に感じた違和感の正体がわかった気がした。
 入り口前の広場には多数の人間の痕跡が見られたのに、この通路をほとんど誰も使用していない気配。ましてや外の状態からして、およそ大人しいとは言えないだろう連中が、なぜ扉も何も無いこの通路に入らないのか。そんな所にただの通行人がいるとも思えない。
 かさ、かさっ。
 乾いた足音は少しづつ近づいてくる。それと共に、得体の知れない殺気もまた。 
 なぜかわからないが、本能が『逃げろ』と告げた。
「……一旦入り口まで戻るぞ」
 俺とフェイはまだ足音の主の姿が見える前に、来たばかりの道を駆け足で引き返した。 
 トンネルの入り口の広場まで辿りつき、そこに身を隠して待ってみる事にする。鼓動が少し早いのが自分でもわかる。
「一つ訊いていいかな?」
 フェイが暢気にも聞こえる声で俺に言った。
「何だ?」
「乱闘になったりするかな?」
「事と次第によっては」
「僕達、今回ネットどころか麻酔銃すら持ってないんだけど?」
「……そうだったな」
 その時は噛みつきゃいい……そう言いかけた時、やっとあの足音の主がトンネルの入り口近くまでやって来た。
 かさっ、かさっ。
 なんだろう、この乾いた音。蟹などの甲殻類か昆虫の足音にも似ている。それに衣服の衣擦れとはまた違った、乾いた薄い板が擦れ合うような摩擦音。これもまた昆虫の羽音に似ている。新種のA・H?
 音は入り口でぴたりと止まった。
 気付かれたか?
 いや、そうでは無かった。
「レディ、わかっているね? ターゲットは大九龍劇場の支配人だけだ。踊り子さんには何があっても傷をつけてはいけないよ。但し、誰かに見られたり邪魔が入った時は、構わないから口を封じてしまいなさい」
 あの男の声!
 俺の耳でもかなり聞き取り難いほど、小さくてくぐもった感じから、声は通信機か何かから聞こえているとわかる。どこからか指令を与えているらしい。
 しかしその内容は捨て置くわけにはいかないものだった。この乾いた足音の主はどうやら闇市場の刺客らしい。
 フェイ、こりゃ戦闘の心準備をしておかないといかんようだぞ。
「楽しんでおいでレディ」
「キキッ」
 高い音が男の声に答える様に鳴った。これはレディと呼ばれた刺客の声?
 そして、それはついに姿を現した。
 隠れている身なので、俺もフェイもさすがに悲鳴はあげなかったものの、その驚きと恐怖は生半可なものでは無い。
 何だこいつは!?
 薄緑の体色、細長い体、虹色に輝く複眼、触角。そして……巨大な二本の鎌。
 それは人間の大きさの巨大なカマキリだった。
 いや、手足や体の筋肉のつき方に人間の形状が僅かながらうかがえる。
 まさかこれもA・Hなのか?
 今まで昆虫の遺伝子を組み込んだ例で、成功した者はいないはずだ。だが、サイズや構造に違いがありすぎてH・K手術も不可能だ。
 まてまて……俺は心の中で首を振った。こんなものをA・Hと認めては科学者としての良心に傷がつく。それは遺伝子研究の先人達への冒涜。だが目の前にいるこれは―――。
 入り口の壁に張り付いていただけだった俺達に、意外にもそいつは気がつかなかったのか通り過ぎようとした。ある意味ホッとしたが、すんなり行かせるわけにはいかないんだ。
「おい」
 俺はカマキリに声をかけた。
 途端に複眼がくるりと動き、心臓を鷲掴みにされるみたいな殺気が襲ってくる。それでもここで怯んではいられない。頭の中に憎めないまん丸の顔と、極彩色の羽根を持つ女神の姿が過った。彼等のところに行かせるものか!
「お前、闇市場の刺客だろ? 悪いが大九龍劇場には行かせんぞ」
 表情はわからないが、驚いた様子が窺えた。なぜそれを? って感じだ。それも一瞬の事で、すぐに先刻のあの男の指令の『邪魔が入った時は口を封じろ』の対象として見なしたようだ。明らかな戦意が俺に向けられた。
「できれば戦わずに説得したいんだけどね……聞いてくれないよな」
 二本の鎌が構える様に持ち上がる。
 俺の血の狼の闘争本能にも火がついたみたいだ。自分でも気付かないうちに、自然とぐるる……と喉が鳴って牙が疼いていた。

 戦闘開始。
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