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聖母の記録編
3 : 始まりの女神と司祭の男
しおりを挟む「シンディ?」
周囲を探してみても金髪お色気娘の姿は見いだせない。
人の流れは穏やかになってきたものの、逆らえる雰囲気では無い。壊れた時計を拾い、一旦横に退けて耳を澄ましてみた。
だが、何処にこれだけいたのかという人の多さと、足音や雑音に掻き消されて、シンディを特定出来る音は探れない。先のサイレンをまともに聞いたせいでまだ左の耳がわずかに麻痺してるのもある。こういう時、同じ聴力系でもせめて嗅覚も強化された犬科だったら良かったのにと、鳥がベースであるこの身を恨みたくなる。
お調子者だが離れて一人きりで動くほど軽率な娘では無い。誰かに連れて行かれた? いや、人の流れに逆らえずに押されて行ってしまっただけかもしれない。とにかくシンディが入り口方面に居ないことだけはわかった。ということは奥しかありえない。
その時、この耳に新しい音が飛び込んできた。音楽だ。
よく目を凝らして見ると、コンクリートの柱のあちこちにスピーカーがある。歪んでやや調子の狂った音はそこから聞こえてくる。スピーカーが古いのか、バリバリいう雑音も入っているので旧世紀の古い音源なのだろうが、荘厳なクラッシック音楽。
この曲は知ってる。『おお、運命の女神よ』
お祈り、巫女と言っていたがミサでも始まるというのか? およそ宗教などとは程遠そうな連中ばかりが集まっているこの猛獣の寝床で。
もう人影の無くなった通路を奥に進むといきなり突き当たった。いや、正確にはまだ続いてはいる。一つの大きなドアで。扉があるということは先があるという事だ。
皆このドアを潜っていったのだろう。薄く開いた隙間の向こうから大勢の人の気配。音楽とともに人のざわめき、息遣い、様々な音が聞こえてくる。
そっと扉をくぐると、通路と同じく薄暗い空間だった。
想像以上に広かった。音の響き方から二十メートル四方はありそうだ。天井は高く、床も硬く滑らか。駅か何かの一部だろうか。円柱のような太い柱が見える。中央に大きな一段高い半円形の舞台のようなものがあり、皆それを囲むように集まっている。
シンディがいないか確かめながら、群衆に混じってみる。ざっと見七十人ぐらいはいるが、およそ大人しそうとも思えぬA・H達の多くが祈るように胸前で手を組んでいる。
通路でも感じていたが、やはり香の匂いが鼻をつく。嗅覚はノーマルタイプと大差ない自分でも感じるのだ、イヌやクマみたいなA・Hにはさぞキツイだろうな。そう思っていると……
「正気でいたいなら、あまり長時間この匂いを嗅がないほうがいいわよ」
ふいに囁くような女の声がした。少しくぐもった声はマスクでもつけているのだろうか。シンディの声では無い事だけはわかった。
「え?」
慌てて回りを見てみたが、その言葉を発したのが誰なのかは特定出来なかった。
だがなるほど。この香には鎮静効果か麻薬効果でもあるのかもしれない。それならこの統制のとれた群衆の動きにも納得がいく。この猛獣の寝床にずっといる彼等は常に吸っていることになる。長時間と言うくらいだから即効性は無いのだろうが、念のためハンカチで鼻と口を覆うことにした。誰か知らないが感謝する。
突然音楽がぷつりと途絶えた。
「はじまる」
そんな声がざわめきとともに聞こえてきた。
薄闇の中、半円形の舞台中央に、すぅ、と人影が現れた。
自らが光を発しているみたいに、くっきりと浮かび上がったのは一人の女。
白いドレスを纏い、頭にも同じ白のヴェールを冠った姿。有色系らしく濃い色の肌は赤銅色に輝き、薄地の着衣の上からでもすらりとした女らしい肢体が容易にうかがえた。
俯き、顔を伏せていた女がヴェールを捲り上げながら顔を上げた。
ああ、その顔は。
「ステラ……」
勿論瞬時に立体映像だと理解できた。
だが、記憶の中にあるその姿とあまりに違う生き生きとした姿に驚きを隠せなかった。
同じ研究所の生まれとはいえ、ステラが生きているうちに会ったことは無い。彼女が僅か二十七歳の若さで亡くなったその年に自分はこの世に生まれた。
知っているのは、博物館のカプセルの中で標本として展示されていたステラの姿だけ。他の動物標本と同様に着衣もなく、耐熱・耐火実験により頭髪を失ったままのおよそ人らしく扱ってはもらっていないそんな姿しか。
ホログラムのステラは両手を広げ、微笑んだ。だがその目は悲しげに細められている。
憂いの表情はまるで教会の聖母の像のようだ。
「始まりの女神は嘆いておられる」
男の声がして、今度はスポットライトがステラのやや横に差した。そこへ舞台の端から歩を進めて来たのは、そう大柄でない男。えーと、キモノ? 何か古いムービーで見たこの国の民族衣装みたいな格好だ。髪は長く、後ろで縛っている。
なんか胡散臭い奴だな……それが第一印象だった。
「祈れ。そして生あることに感謝せよ。我らが今ここにあるのは、全て始まりの女神のおかげ」
よく響く声で男が皆に言う。
「古い『ヒト』と違う見た目故に、迫害を受ける事もあろう。だが卑下してはならぬ。我らは旧人類よりも進化した新しい『ヒト』であるのだから! 始まりの女神の献身によって我らは進化の途を与えられたのだから!」
男の声に猛獣達がどよめく。涙ぐんでる奴もいる。
なんかなぁ……まあ、言いたいことはわかるが、こういうのは苦手だな。
我らとか言ってるが、この司祭なのかサムライなのかわからん男は、一見ノーマルタイプの人間に見えるけど、こいつも何かのA・Hなのだろうか?
始まりの女神か。ステラ、なんかすごいものに祭り上げられて迷惑だな。博士が見たらなんて言うんだろう。どうでもいいが、ステラが女神なら、それを作ったドーナー博士は創造主ってことになるのかな? 笑ってはいけないだろうが、そうか、自分は創造主の元で生まれたのか。光栄だね。
別に何の宗教であれ、人の心の拠り所となるなら否定はしない。だがA・Hも学者も神ではない。むしろ、A・Hなど神の設計図を書き換えたものだというのに……。
「見よ!」
芝居がかった男が何やら取り出した。
「ここに神聖な経典が手に入った今、我らはより女神に近づくことが出来た」
「あ……!」
思わず叫びそうになって慌てて口を押さえた。
男が誇らしげに掲げた書物ならぬ分厚いファイル。それこそが博物館から盗まれたもの。レビン博士に取り戻せと依頼されたものだ。
見つけましたよ、博士。
しかし……経典ねぇ。六十年以上前のものとはいえ、学術的な研究資料だぞ?
流石に男も中を読み上げるまではしなかったが、博物館で実物を見ているから間違いない。
ここから舞台まで四メートルほど。
全力で動けば今この瞬間にも、誰にも気が付かれずに奪い返す事も可能かもしれない。スピードには絶対の自信がある。だが、あまりに周りに人が多いのと、あの司祭の男の素性が知れなさ過ぎる。第一、奪い返して全速力で猛獣の寝床から抜け出すことが出来ても、シンディはどうする?
そうだ、シンディはどこに……。
考え込む間に、謎のミサは進行を続ける。
舞台の男が少し横に退くと、今度はまた違う人影が舞台の端から現れた。一……二……三。三人か。全員女だ。ステラのようにホログラムではない、生身の若い女。
おお、タイプはまちまちだが美人だな、三人とも。だがどの娘も一目でA・Hだとわかった。
どう見てもネコ科の肉食獣って耳と尻をもつ小柄な娘、グラマラスなブロンド美人はトラかな? 肌に縞模様がある。細身のややキツイ顔をした娘の肌には鱗がみえる。爬虫類系か。
野性味たっぷりの美女達の登場で、テンションの上がる群衆。まあ胡散臭い男を見てるよりかはいいとは思うが、ちょっと祈りの時間っていう粛々とした空気が薄れてきたぞ?
「女神の意思を世に知らしめるための巫女は、強く、美しくなくてはならない」
司祭でサムライな男の声にも力がこもる。
「今、巫女は三人。後二人で約束の数。揃えば、いよいよ聖戦実行の時!」
男の声にわーっと答える群衆。
聖戦実行? なんだ、それ?
なんか……頭が回らなくなってきた。少し体が重い気がする。気をつけていたのに香を吸い過ぎたかな。私としたことが、これでは立ちまわるも何も……。
よく響く男の声が耳につく。
極稀に妙に人を引きつけるカリスマ性を持った声の人間が存在するが、この男も見た目は胡散臭いがその類なのだろうか。
「今日も巫女の候補が一人みつかった」
またわーっとどよめく周囲の声はこの耳にはきつい。
こらえて、舞台に新しく差したスポットライトを追うと、そこに信じられないものを見た。
ふらふらと出てきた新しい一人。それはよく見知った人物だった。
「シン……」
声を上げそうになって、咄嗟に口を押さえるだけの理性は残っていた。
何だ? 何なんだ、これは。何故シンディが……。
司祭の男がシンディの肩を抱き、見せつけるように一歩前に出た。
シンディはぼうっとして何の表情も浮かべず抵抗もしない。
「輝くばかりに美しく賢い女狐は、女神の巫女にふさわしい。そうは思わないか?」
男の目は真っ直ぐに自分の方を見ている。その目は獲物を狙う鷹のように鋭い。
ひょっとして全てお見通しだったってわけか? 潜入しているのも全部。冴えない胡散臭い男だとしか思わなかった男が、一回り大きく見える気がした。
この目……ずっと張り詰めたような殺気と視線を感じていたのはこの目。自分をも出し抜き、一瞬でシンディを攫ったというのか?
これは、少し侮りすぎていたかもしれない。とんだ猛獣の寝床だったってわけか。
「こっちへ」
ふいに肘をつつかれた。
この声は、先に聞いた女の声?
男が瞬きをする間に、柱の陰に身を隠し、声の主を探す。
一人の女がやや不自然に後ずさりながら、人だかりから抜けようとしているのがわかった。あれか。
犇めく人垣から完全に抜けると、女はこちらに向き直り、早足に駆けて来て同じく柱の陰に隠れた。
黒いストレートの髪、顔半分をマスクで覆っているが、薄暗い中でも見える目元は涼しげだ。
「この匂いを嗅ぐなって言ったのは君?」
思い切って声を掛けると、女は頷いた。
「ファイルと彼女を取り戻したいなら、一旦引いて出直したほうがいいわ」
「なぜそれを……」
ファイルの話が出たので思わず身構えたとき、黒髪の女はマスクを外してその顔を晒した。アジア系? 思ったより若そうだがかなりの美女だ。
「あなた、アイザック・シモンズさんでしょ?」
「ああ。なぜ私の名を知ってる? 君は?」
女は赤い唇で妖艶に笑った。
「私は京。安心して、多分敵ではない」
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