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プロローグ
しおりを挟む2119年 タイペイ
カツン、カツン。
旧世紀に建てられた古びたビルの階段に響く足音。
最上階八階最奥の部屋で、顔に雑誌を乗せ、裸足の足をデスクに乗せただらしない格好で居眠りをしていた男がふと目を覚ました。
まだ足音の主は二階を過ぎた辺りだ。幾ら壁の薄い安普請の建物とはいえ、常人の耳にはまだ聞えない音を拾う彼の耳には、足音だけでなく階段を上がってくる人物の息遣いまで聞える。
「お客かな?」
老朽化の進んだビルは近く建て壊す旨入居者には通達されておりもう管理の手も入ってはいないが、それでも毎月キッチリ家賃は引かれている。彼が二年前に賃貸契約した時に、最新のビルに立て替えたら優先で貸し出すとオーナーが言ったものの、建て壊しの計画など既に何十年も前からあるのに一向に動く気配が無いとは、最古参の住人の言である。
カツンカツン。
あちこち捲れかけたリノリウムの床を歩いてくる音は固めの音。女性の靴の音ではない。歩幅と音の近づく響く調子から、彼にはやや年配でそう大柄でない男性だとわかった。もう少し下の階には怪しい商売をやっている者もいるが、客の出入りは夜間がほとんどで、こんなまだ明るい昼下がりの時間に出入りする者はいない。
足音はもう七階を越え、明らかにこの最上階を目指していると彼にはわかった。この階は他に住人がいない空き部屋だけだ。だとすればやはりこの事務所の客なのだ。
「ご苦労なこった。エレベーター壊れたまんまだしな……」
オフィス兼住居のこの散らかった部屋の主は、浮いてきた無精髭を撫でて安物のシャツの襟を直し、一応身なりを整えた。裸足だが靴もちゃんと履く。
「おっと」
先程まで顔に乗せていた美女の裸体が沢山載っている3D雑誌が床に落ちているのを拾ってデスクの引き出しに押し込む。
ついに足音が部屋のドアの前で止まった。
トントン。ノックの音。
「はーい」
「探偵のシモンズさんのオフィスはこちらでよかったのだろうか?」
低い男性の声が尋ねた。英語だがイントネーションはどことなくアジア系。
「シモンズのオフィスですけど、探偵じゃなくて何でも屋ですけどね」
オフィスの主はドアを少し開けた。まだチェーンは外さない。
十五センチほどの隙間から薄暗い廊下に立つ人影が覗いた。
アジア系だ。男性としてはそう背は高くなく百七十センチ位だろうか。やや痩せ型。一目見てもわかる高価なスーツできっちりと固めた身なりはこの建物には似つかわしくなかった。
「貴方は……」
その顔も名も、何でも屋は知っていた。いや、彼だけでは無いだろう。世界の人間を半分に分けるとしたら、この目の前にいる男を知っている人間と知らない人間に分けられるのではないだろうか。つまり余程の子どもや全く世間と切り離された人間以外は全人類の半数以上がその名を知っているであろうほどの有名人だったからだ。
「キリシマ博士?」
「いかにも。君を見込んで頼みたいことがある。入れてもらっても良いだろうか?」
オフィスの主、何でも屋のアイザック・シモンズは慌ててドアのチェーンを外した。
そして後悔した。
せめてもう少し自分の身なりも含め、きっちりしておけばよかったと。
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