私、田舎の古民家(もののけつき)に移住します。

まりの

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2、田舎の洗礼

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「はい、これ」
 林さんがじゃらっと音を立てて、私に手渡してくれたのは、古びた、いかにもどこかのお土産というキーホルダーのついた鍵の束。
 そういえば、内覧に来た時は前もって開けてあって、鍵のことなど気にもしなかった。それにしても数が半端ないよ?
「この家の鍵ですよね? 随分沢山ありますね」
「管理のため家の所有者の方からお預かりしたままなので。この玄関の鍵が予備とで二本、後は裏口、蔵、倉庫それぞれの鍵です。いくつか何の鍵かわからないものもありますけど」
 ……わからないって……謎の鍵? 恐らく鍵の取り換えでもした際に前の鍵もそのままおいてたみたいなオチだろうと推測されるので、そのあたりは気にしないでおこう。
「さあ、蒔田さん。自分の手で鍵を開けて記念すべき第一歩を」
 林さんは、眩しい笑顔で玄関の引き戸を指し示して促す。
 いや、さあって言われても。
「これだけ数があると、どの鍵が玄関の鍵なのか……」
 こういうのって映画なんかで見たことある。そうそう、脱出するのに鍵の束を手に入れても、いざ開けようとするとこの牢屋の鍵はどれ? みたいな。
 そう正直に告げると、林さんは待ってましたとばかりに、得意げに言う。
「そう言うと思って、僕が目印のシールを貼っておきました。この玄関の鍵は『げ』って書いてあるやつです。『な』が納屋」
「で、『う』が裏口?」
「おや、よくわかりましたね」
 わかりますとも。ついでの事を言うと倉庫は『そ』って見なくてもわかる。
 目印を貼ってくれたのはありがたい。でも平仮名って。漢字二文字は面倒だったのね。この林青年は結構アバウトな人と見た。
 まあいい。それでは自分の手で玄関の鍵を開けてみよう。確かにこれは新しい第一歩。
 『げ』と書かれた鍵を、黒ずんだ木製の引き戸の鍵穴に差し込む。重くてなかなか回らないのは錆びついているのだろうか。それでも力を籠めるとガチャっと音がした。
 重厚な造りの引き戸は、軋むことなくガラガラ……といい音をたてて開いた。
 ふわりと鼻をくすぐるのは、微かに黴臭くもあるけれど、木の香り、湿った土の香り、お線香のような香りも混じったような複雑な匂い。何軒か古民家を見て歩いた中で何度も嗅いだ匂いだ。こういうのって土間のある古い日本家屋特有の匂いなのだろうか。
 只今六月の初め。外は少々蒸し暑くなってきた季節。しかし、やや薄暗い玄関の土間に一歩踏み入れると、嘘のようにひんやりしている。
 土間を囲むように高めの段があり、その上が居住スペース。昔の家は段差が激しい。バリアフリーとは程遠い。でもこれにも意味があるのだと教わったのはもう少し後。
 上がり框と取り次ぎのある広い正面。その向こうは台所。
 右側の縁台の上の障子の向こうは和室。反対側は新しめの壁とドアになっていて、この家唯一の小さな洋室に改装されている。内覧の時に昔は物置部屋と外にあったトイレや浴室に続く土間だったところだと聞いた。
 靴を脱いで上がる前に、林さんと上がり框に腰掛ける。
 開けっ放しの玄関から吹き込んでくる風を感じながら、戸の向こうに見える景色を眺める。薄暗い土間とは対照的に、明るい日差しの外の風景は、四角く切り取った絵のように美しく見える。ここに何時間でも座って時間によって変わる絵を見ていられそう。
 そんな時。
「……しい……さびし……い」
 低い声が聞こえた。外からじゃない、すごく近くで。
 不明瞭だけど『寂しい』って聞こえた気がする。
 林さんの方を見ると、俯いて書類のファイルをチェックしているところだ。彼の声ではないのは明らかだ。
 気のせいかな? 風が吹き抜けた音がそんな風に聞こえただけ? それとも田んぼで鳴いてるカエルの声が土間に響いた? きっとそうだよ。そうその時は納得した。
 更にファイルを見ながら林さんが事務的な話を始め、色々とショックな事実に打ちのめされるので、私はそんな不思議な声のことなどすっかり忘れてしまった。
「先日ハウスクリーニングに入ってもらったので、畳も壁も清潔です。水道、ガス、電気も使えますよ。電話は無いですが……」
「あ、電話はスマホありますから問題ないです。モバイルWi-Fiもありますので」
 一応貯金もあるし、市から後々補助金も出るとはいえ、僅かなりとも収入は欲しい。せっかくの田舎暮らしだが、友人のツテでパソコンで出来る入力作業を紹介してもらったので落ち着いたら始めるつもりだ。それにはネット環境が必要だ。
 それに車が無い今、必要な物はネット通販で買うという手も使える。良かった、来る前に手続きしておいて。
 だが林さんの反応は微妙だった。
「言うの忘れてましたけど、この家の辺り、多分どの会社のデータ通信も圏外ですよ。辛うじて国道の辺りまで出ればなんとかという程度です」
「えっ……」
 しまった! その辺りまでよく確認していなかった。また来たよ、田舎の洗礼!
 Wi-Fiを使うには国道まで出ないとって……ちなみに国道に出るのはバス停より遠い。仕事どころではないな。スマホでデザリングという手もあるが、使いすぎるとデータ量が怖いしなぁ。
「もしパソコンでネットを使われるのでしたら、この家でも地元の有線放送局が運営している光回線を引く事は可能です。資料、もらってきましょうか?」
「……お願いします」
 まあ、そういうのがあるなら問題無いか。かなり時間はかかりそうだけど……。
「まあ山間部なので元々テレビがあまり映りません。どのみちCATVには入っていただいた方がいいかもしれませんね。お試し期間中なので申請だけしていただければ、三ヶ月は無料で使用していただけます。以後は正式契約をお願いしますが、こちらも申請しますか?」
「は、はぁ」
 そうか。風向明媚な自然に囲まれて生きるという事は、電波に頼る便利で現代的な生活とはやはり相容れないということなのか―――。
 まあ元々テレビはそう視る方では無かった……そんな時間が無かっただけだけど……から、その辺りはそう困るまい。ニュースと天気予報はスマホでいいし。
 ジャブにフックにと、小刻みに打ち込まれる地域格差。これが田舎の洗礼?
 玄関の土間で早くも萎んできた私の横で、林さんは時計を見て難しい顔だ。
「本当は、少しでも引っ越し荷物を運ぶ手伝いをしようと思っていたのですが、まだ荷物は着きそうにないですね。僕、一度役場へ戻らないと」
 そうだよね、お仕事中だ。林さんが帰ってしまうのは寂しいけれど仕方がない。
「あ、車で送っていただいて、その上お気遣いありがとうございます。でも多分業者の人が搬入まではしてくれると思うので大丈夫ですよ」
 とりあえずタンスやベッド、冷蔵庫、電子レンジや食器棚くらいのものが昼間に届けば、夜にはそれなりの生活できそうだ……と、のんきに構えていた私に、林さんが付け足した一言。
「あ、そうそう。この辺りは宅配便の時間指定をしても、その時間につくとは限りません。午後だけの指定だと夜遅くにしか着かないと思います」
 特大の一撃、来たーっ!!
 こ、これが田舎の洗礼……恐るべしっ。いや、きっとまだこんなものじゃないはず……大丈夫だ、この程度で折れないよ私は!
「布団も一緒に届くなら、車に僕の寝袋があるので貸しましょうか?」
 林さんが親切に言ってくれたものの、いきなり新居で寝袋というのもなんだか。確かにベッドも布団も引っ越し便の中だけど。今日中に着いてくれれば何とかなる。離島でもないんだしその辺りは業者さんを信じたい。
「い、いえ。大丈夫です……多分」
 私がなんとか作り笑顔で答えると、林さんは立ち上がってしゃきっと背筋を伸ばした。
「困った事やわからない事があれば、遠慮なく僕や近所の方に尋ねてください。それでは、三か月後に、ここに定住するという良い返事をお待ちしてます」
 そんなそっけない挨拶に、ああ、やっぱり仕事上の付き合いというだけなんだよね、と私がほんのり寂しくなった時。林さんは急にニヤッと笑った。
「……と、ここまでは、定住支援課の仕事上お約束のセリフ。僕は個人的にちょくちょく様子を覗きに来る。寂しかったり困ったら、個人的にここに連絡して。夜でも飛んで来るから」
 あれ? 随分とキャラが変わってないか林さん。「個人的に」って二度も言ったぞ?
 そして林さんは、前に役場でもらった名刺と同じものを、もう一度私に手渡した。ご丁寧にホスト張りの仕草で私の手を両手で包むように添えて。ドキッと胸が鳴った。
「裏返して」
 その声に従うと、名刺の裏には手書きで携帯番号とメールアドレス……だけじゃない。なぜか年齢、誕生日、星座、血液型まで書いてある。めいっぱい個人情報ですけど?
「あと、菫ちゃんって呼んでいい? 僕の事は悠斗でいいよ」
 お、おおぅ? いきなり名前呼び?
 純朴そうな公務員さんの、いきなりの変貌ぶりに戸惑っていると、彼は急に私に背を向けて、だだっと玄関を走り出た。
 そして振り返って満面の笑みとともに言う。
「こんな若い女の子が、出会いも何も無いこのド田舎に来てくれてラッキーって、僕はホント嬉しいんだ! これはきっと運命! 菫ちゃん、絶対にここにずーっと住んでよ。東京に帰っちゃ嫌だからねー!」
 ニコニコ顔でブンブン手を振って去っていく林さん……もとい、林悠斗、二十五歳。AB型、七月二日生まれの蟹座の男。
 彼は仕事ついでにしれっとナンパした後、役場の白い軽トラに乗って去って行った。
「……菫……ちゃん?」
 悪い気はしないけど、なんだか―――。
 ぽつんと取り残された私の耳には、風の音と、近くの水田で鳴くカエルの声だけが響いていた。
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