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18・durchaus

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 天音君の演奏は、俺の想像以上だった。彼の音色は、やはり俺の理想通りに完成されている。
 いや、それ以上のものだ。
 覚えている。鍵盤を滑る自分の指が奏でる音。まるで、天音君の隣で弾いているような没入感。
 無いはずの腕が、そこにある。あの怪談話のようだった。
 だが、それは錯覚であり、その錯覚を生んだのは天音君の演奏だ。
 彼にはもっと輝ける場所がある。
 こんなにも素晴らしい演奏をこんなちっぽけな狭い部屋に留めていてはダメだ。
 俺の世話なんてさせてる場合じゃない。
 早く彼を解放しなければ。
 俺じゃあ天音君を幸せに出来ない。
 抱き締めてあげることも、涙を拭う事も、拍手を送る事さえ満足にできない。
 もう、彼は十分に成長した。
 だから、ここからは一人でやっていけるはずだ。元々、一人で活動していたんだから。
 俺はもう必要ない。
 天音君はこれから先、世界の舞台に立てる存在になる。
 そんな未来ある若者をいつまでも縛り付けてはいけない。

「……はぁ」

 ソファーに腰を下ろして、脱力する。
 こんな感情的になって、怒鳴ってしまったのはいつぶりだろうか。
 みっともなく無駄な事や私情をぶつけてしまった。
 俺の夢とかどうでもいい。天音君の幸せは俺が決める事じゃない。
 ただ、俺に対する執着はどう考えても行き過ぎだ。
 性愛の確認はカマ掛けだったが、まさか肯定されるとは思わなかった。
 あの日の行動は天音君の煩悩による本能だとわかり、余計に焦った。
 もっと早く天音君の気持ちに気付いていれば、同居など提案しなかった。
 才色兼備な好青年が腕無しおじさんに欲情するなんて……性癖が心配だ。
 俺がもし女性ならば、まだわかる。
 けど、俺は男だ。
 俺自身は同性愛者でもない。
 別に、同性愛がダメというわけではない。俺が違うんだ。
 性的指向なんてトランプの柄みたいなもので、相手の柄が自分の柄と違うだけ。
 ……だけど……天音君に触れられるのも、キスも嫌じゃなかった。むしろ心地良くて……最後は求めてしまった。
 しかし、天音君の気持ちを受け入れてしまってはダメだ。
 天音君を繋ぐ楔を打ち込むことになる。容易に離れられなくなって、彼の人生をめちゃくちゃにしてしまう。
 俺なんかのせいで、人生を棒に振らせたくない。
 今まで通り、ただの同居人に戻るにも……俺がこの中途半端な有り様では、過ちを犯しかねない。
 運良く天音君は覚えてないけど、一緒に暮らしてたら何があるかわからない。
 ちゃんと区切りをつけないとダメだ。
 俺といない方が、お互いの為にも──

『ヴーヴー』
「!」

 携帯にメールが届いた音がした。
 音声入力で確認すると、送り主は裕和君だった。
 文面には、たった一言……
《天音・デューラー君なら俺の隣で寝てます!》
 そう書いてあった。

「……なんだこの写メ」

 天音君の居場所を知らせてくれたんだろうけど、添付さている写メには眠る天音君と、隣に寝転ぶ裕和君が写っている。

「(隣り合って寝る必要ある?)」

 距離近くないか? まぁ、歳も近いし、相応か? 裕和君は良い子だし、優しいけど……アダルトグッズ渡してくるぐらいに性にオープンだ。アルベルトに似てる
 彼に限ってそういう事は無いだろう。うん。

「(……何考えてるんだろう、俺)」

 確かめる術はないが、少し不安になった。
 もしかすると、天音君と何かあってそのまま……いやいや、考え過ぎだろ。
 いくらなんでも飛躍しすぎな思考を振り払って、冷静になる。

「…………明日、謝ろ」

 キツい物言いで、余計な事を言ってしまった。傷付けてしまった事を謝って、今度はちゃんと向き合って納得してもらおう。
 ……天音君ならわかってくれる。

※※※

 翌朝、久しぶりにキッチンに入った。
 全自動卵割り機と言うネタ商品が昔流行っていた。それを商店街のくじ引きで当てたが、ずっと使ってなくて棚に仕舞っていた。
 だが、今の俺にとっては最高のアイテムだ。
 
『ウィーン……パカ』
「おお……」

 お次は、トーストを皿の上に置いておく。
 油を引いたフライパンにハムと卵を投入してから、固定バンドで肘にヘラを取り付けて、ハムの下に差し込んで卵ごとひっくり返す。両面焼きだ。
 黄身が固まったのを確認したら、加熱を止めて、フライパンの持ち手を脇に抱えて傾ける。ヘラでスルンと卵とハムをトーストの上に乗せる。
 普通ならこれで終わりだが、せめて四つに切り分けなければ食べる際に大惨事が起きる。
 天音君にキッチンに入るのを禁止されてたのは、包丁を足に落とすといけないからだ。
 御尤ごもっともな心配だ。

『ベッ!』

 口と肘をフル活用してラップをハムエッグトーストに被せて動かないように固定する。
 包丁をバンドで固定してラップごと四等分にする。
 切り分けた一つを口で直接迎える。香ばしいトースト、熱々と目玉焼き、塩胡椒の効いたハムの味が広がる。

「うん、美味い」

 平凡な味だけど、久々に作った料理としては上出来だと思う。
 これくらいなら怪我の心配もないから、これからは自分で作れる。
 使った物を洗い、片付けてから、洗濯機にジェルボールを投げ入れてスイッチを入れる。洗濯中に風呂掃除と着替えを終わらせる。
 洗い上がったら、カゴに入れる。ハンガーを取り付けて、棒を使って物干し竿に洗濯物を引っ掛ける。洗濯用ハンガーに靴下などを止めて、こちらも棒を使って引っ掛ける。
 洗濯物用ハンガーの洗濯バサミは小さいから口を開かせるの大変だ。
 ひとまず、朝の家事は終わった。部屋の掃除は昼後にでもやろう。

『ガチャッ!』
「!」
「先生ッ、すみません! 勢い余って、一人にしてしまって……」

 天音君がダッシュで朝帰りしてきた。
 昨日あんな酷い事言ったのに、俺の心配をしてる。

「ボク、昨日……茜野んちに泊まって、いろいろ話して、頭整理してきました」
「……そう」
「思ったんですけど……あなたの言う、夢も、可能性も……ココから始められるじゃないですか」
「……ダメだ」

 俺は首を横に振った。
 天音君が俺の事を気遣ってくれる気持ちは嬉しい。

「なんで……調月さんが好きって言うボクの気持ちを押し付けたりしません。受け入れられなくても構いません。しっかり、プロのピアニストとして活動します! だから、どうかココに……調月さんの隣に居させてください」

 先生呼びが変わった。本当にいろいろ考えて、教え子から一人のピアニストとして会いにきたのが伺える。
 歩み寄ってくる天音君が、窓から射し込む朝日に照らされて、眩く輝いて見えた。
 圧倒的な存在感がそこにはある。
 きっと誰をも釘付けに出来る。

「……天音君の気持ちはわかった。けど、それじゃダメなんだ。君の人生に俺が必要な時間はとっくに終わってる。俺の側に居たら、きっとダメになる」
「なんで断言出来るんですか?」
「…………君、覚えてないと思うけど……」

 黙っておくべき事柄だろうが、この際はっきり伝えよう。
 あの夜に起きた行為を赤裸々に明かす。
 天音君は話が進むにつれて、赤くなったり青くなったり表情が忙しかったけど最後まで聞き終えた後、頭を抱えて蹲ってしまった。

「ぁぁぁぁ~~……」
「……そういう事が今後あって、迫られても俺はきっと君を拒めない。それどころか、受け入れてしまいかねない。それは、天音君の為にならない」
「………………ん?」

 スッと天音君が顔を上げて俺を見上げる。

「……それって、調月さん……ボクの気持ち、嫌じゃないって事ですか?」
「…………まぁ……うん。嫌じゃない事が一番の問題だ」

 別に恋愛感情や性愛を向けられる事自体に問題はない。俺が天音君を拒めないのが問題なんだ。
 
「……えっとぉ~何が問題なんですか?」
「だから、もし俺と関係持ったら益々お互い離れられなくなるから……」
「な、え? そ、それの何がいけないんですか?」
「恩師の男とそういう関係にあるって知れたら、君のピアニストとしての未来を潰すかもしれない」

 天音君がポカンっと口を開けて固まった。意味を理解したのか次第に眉間にシワを寄せて険しい顔をした。

「……そんな事でボクの演奏が掻き消されると思ってます?」
「ッ……いや、それは」
「思わないでしょ?」

 確かに天音君は、俺との関係で左右されないぐらい凄腕の演奏家になるのは明白だ。
 しかし、不安の種は取り除かないと、安心出来ない。

「……でも」
「ボクに夢を見て、可能性を感じてくれたのは、ほんっとうに嬉しいです。でも、その先も見て欲しい。あなたと過ごした時間を糧にボクがどんな風に生きて、どう奏でるのかを。そして、あなたの夢が叶うかどうか、ボクの側で見届けてください。不安を根っこから無くすんじゃなくて、不安に打ち勝つくらいの想いで挑みましょうよ」
「…………どうしようもないくらいの障害があったらどうするんだ?」
「その時は二人で乗り越えるだけです。助けてくれますよね?」

 青い瞳に真っ直ぐ射抜かれる。
 もう反論の言葉が出ない。天音君の意思に圧倒されてしまう。

「(……参ったな)」

 ここまで言ってくれたのなら応えるべきなんだろうか。
 でも、先生として、大人として、未来ある若者にこんな選択させるのは、果たして正解なのか。…………いや、違うな。
 これは、単に俺の気持ちの問題なだけなんだ。
 
「……俺、きっと君の重りになるけど、それでも一緒に居たい?」
「! ……はは!」
『ガッ』
「うお!」

 膝裏を掬い上げられて、抱き上げられる。よく天音君にされている横抱きと雰囲気が違う。
 顔が近い……お姫様抱っこだ。

「好きな人の重さを感じられるなんて幸せです!」

 俺と一緒にいると言う事は、不自由な俺の人生まで背負う事になる。
 それを、本当に分かってるのか? 
 俺、本当に良いのか? 天音君の人生に足を踏み入れて……後悔しないか?

「もっと重くなっても大丈夫です! 任せてください!」
「(……後悔すら、させてくれないだろうな)」

 俺を抱えて有頂天な様子でクルクルと回る天音君。
 天音君の将来が潰れないように、俺の側から追い出そうとか考えておきながら、天音君の腕の中が心地良くて、胸がふわふわしている自分がいる。

「天音君……感情的になって、いらないとか言って、ごめん」
「いいえ。ボクもいろいろと、本当にいろいろとごめんなさい。調月さん、今日からまたよろしくお願いします! さ、朝ご飯食べましょ!」
「もう食べた」
「ええええええ!!?」








(durchausドゥルヒアウス・最初から終わりまで)


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