あなただけに咲く

紫煙に酔う

 たった一度だけあの人と迎えた朝、私は煙草の匂いで目が覚めた。
 山奥にある古い旅館に泊まった。本来は日帰りのはずだった。しかし、ビジネスホテルのある街には出られそうもないくらいの大雪になってしまい。そういうわけで仕方なくここで雪を逃れることにしたのだ。部屋は一部屋、しかも内風呂のあるカップル向けの部屋しか空いておらず、私たちは居間と寝室別々に布団を敷いてもらうことにした。
 彼は私が内風呂に入っている間大浴場に行くからと部屋を出て二時間ほど戻ってこなかった。その間私はそわそわしながら髪の毛を乾かしたり浴衣が変じゃないか何回も確認していた。
 夕食には飛騨牛のすき焼きと旬野菜がきた。思わぬ晩餐だと彼は喜んで、それをツマミに地酒を楽しんでいた。私は食前酒だけでも手一杯だったのでそのあとはずっと緑茶を飲んだ。私達は夕食の間仕事の愚痴や彼の人生の話をしていた。
 彼、部長は私の直属の上司であり歳が１９離れていた。部長は三十代に奥さんを亡くし、男手ひとつで子供二人を面倒みてきた。長男は来年成人で、次男は今年の春大学に行く。ようやく肩の荷が降りそうだと言う部長の目元は優しい笑い皺が刻まれていた。伸子にも見せてやりたかったなあとしんみり笑う部長が切なくて、胸がきゅっと痛んだ。
 やっぱり愛していると思ったのは、その晩だった。酒の入った部長は居間でいびきをかきながら寝ていた。私は女性だから寝室でと言われていたのにこっそり部長の寝顔を見ていた。いつも和やかで、それでいて凛としていて、そんな顔が今や隠れて幼い子供のようで。寝顔でさえも愛おしかった。私は部長の顔にかかった髪をそっと耳にかけた。それで起きたのか部長は少し目を開いて、力任せに私を布団に招き入れた。だめだよ、と抱きしめながら部長が囁いた。私を抱きしめて離さないくせに何がだめなのか抗議しようと口を開いたら、瞬く間にそれはかき消された。
 とにかく優しく、まるでガラス細工を触るように部長は私を愛撫した。それが逆にもどかしくて泣きべそをかいていると、部長は意地悪な顔で笑っていた。笑わないでと言う声も、部長の中へと消えていった。雪に閉ざされた夜私たちは過ちを犯したのだ。
 次の日私が目覚めると、部長は襖を開いて展望から庭を見ていた。その左手には燻る煙草があった。私の気配に気づいた部長は振り向いておはようと笑った。私は自分の胸元が肌蹴ていることに気づいて慌てて布団を着込んで、おはようございますと言った。部長が煙草を吸うことも、寝起きは色っぽいことも全て初めてで胸がときめいた。でも昨晩のことは誰にも、部長にさえも言わなかった。
 銀景色だよと言う部長の隣に並ぶと、耳元で煙草がちりちりと燃える音がした。