上 下
8 / 97
前半

第8話

しおりを挟む
 何気ない会話を楽しんでいた王子とララノアの前に、白い陶器のカップにキャラメル色の熱々の液体を入れたアリエルがやって来ました。
 王子はアリエルがポットのお湯で火傷しないかずっとヒヤヒヤしながら見守っていました。

「お待たせしました。熱いので気をつけてください」
「ありがとう。実に美味しそうだ」
「ありがとうございます」

 アリエルが白いカップをテーブルに置くと、王子はアリエルの顔をしっかりと見てお礼を言いました。今までで一番近い距離です。嬉しい感情を表に出さないように我慢しています。
 そして、普段は使用人に絶対お礼なんて言わないララノアも、王子の真似をして、アリエルにお礼を言いました。こっちは全然気持ちがこもっていません。

「熱っ! 不味っ!」

 余程喋り疲れて口の中が渇いていたのか、ララノアはテーブルに置かれたカップを手に取ると、口に中にお茶を流し込みました。
 思わず、口が滑ってしまいララノアは両方言ってしまいました。貴族令嬢ならば、絶対に片方だけで我慢しないといけません。素直に両方言ったら、陰謀渦巻く貴族社会では生きてはいけません。貴族社会では、白を黒、悪を善と必要に応じて言わなければならない時があるからです。
 他国の不細工な王妃がやって来た場合に、「不細工な顔ですね」と素直に言えば戦争開始です。こういう不味いお茶を飲んだ時でも王子のように対応しないといけないのです。

「美味しい……美味し過ぎる! 今まで飲んでお茶の中で一番美味しい。毎日、朝、昼、晩、このお茶でもいいぐらいだ。美味い! もう一杯いただこうか!」

 王子は涙を流しながら熱々の不味いお茶を飲み干しました。もしかすると、王子には本当に美味しかったのかもしれません。演技とは思えないぐらいです。

「ジェラルド様、使用人にそのような過剰な気遣いは不要です。不味いものは不味いとキチンと言わないと恥をかくのはこの者です。もういいです。代わりなさい。あなたに私が本物のお茶というものを教えて差し上げましょう」
「はい、ララノア様……」

 ララノアは自信満々に椅子から立ち上がると、アリエルの代わりに美味しいお茶を作り始めました。花嫁修行の成果がこんなに早く訪れるとはララノアは思ってもいませんでした。
 しかも、比べるのは熱くて不味いお茶です。目隠しして作ったとしても楽勝で勝てます。むしろ、お湯を沸かして、カップに入れるだけでも勝てそうなぐらいです。

「うっふふふふ」

 ララノアは上機嫌でお茶を作っています。王子の為に作れるのが心底嬉しいようです。

「申し訳ありません。王子様。不味いお茶を出してしまい…」

 上機嫌なララノアとは対照的に、アリエルは王子に頭を下げて落ち込んでいます。一生懸命に作ったとはいえ、命の恩人に不味いお茶を出してしまったのです。落ち込むのは当然です。

「そんな事はない。私は嘘が下手な男だ。本当に不味いお茶ならば、一口飲んだだけでそれ以上は飲まない。さあ、立ち話もなんだから椅子に座りなさい」
「いえいえ! 私は使用人です! そのような事は出来ません!」

 アリエルは椅子に座るのを必死に断ります。ララノア様が立ってお茶を作っているのに、自分が椅子に座る事なんて出来ません。他の人からこんな場面を見られたら、使用人が主人にお茶を作らせて遊んでいるように見られます。

「構わん。ここは私の部屋でもう王子の公務は終わっている。王子や使用人だという堅苦しいやり取りは疲れるだけだ。それよりも平民の暮らしぶりを私に聞かせてくれないか? この国に暮らす者達の事を私はもっと知りたいのだよ。この国の平和と繁栄の為にも宜しく頼む」
「えっ…と、では、失礼ながら……」

 王子に頭を下げられて頼まれたら、流石のアリエルも断れません。ララノアが座っていた椅子には座らずに新しい椅子を持って来て、王子とララノアの間に椅子を置くと、そこに座りました。
 そこに座るの? というララノアの無言の鋭い視線がアリエルの背中にビシバシと当たっていますが、王子もアリエルもまったく気がつきません。楽しそうに話を始めました。

「実は私……まともに仕事をした事がないんです。だから、王子様にここで働かせてもらえて、とても感謝しているんです。本当にありがとうございます!」

 アリエルは椅子に座ったまま、王子に向かって頭を下げると感謝の言葉を伝えました。まだ一度もキチンとお礼を言えなくて、ずっと胸の中でモヤモヤしていました。

「んっ? そうだったのか……お前のような美しい娘ならば、雇い先など山ほどあると思ったのだが、貴族社会と違って、街では女の容姿の美しさは関係ないのだな」
「ああっ、そういう訳ではありませんけど、私の場合は、そのぉ…ちょっと特殊というか、変というか…」
「何だ? 言いにくい事ならば、無理に言わなくてもいいぞ」

 本当の事が言えたら苦労はしません。自分が美し過ぎるのが原因で、どんな仕事場で働いても、客が押し寄せて店が大破するんです! みたいな事を言ったら、少し綺麗だからといって、調子に乗って勘違いしている痛い女だと思われるだけです。

「実は私が働いているお店にお客さんが沢山やって来てしまうんです。それでお客さんの力にお店が耐えられずに何十軒も潰れてしまって、どこも雇ってくれなくなってしまったんです」

 でも、アリエルは勇気を出して言いました。伯爵に連れて行かれようとした時に王子に助けてもらいました。王子ならば、自分の話を信じてくれると思ったからです。

「それは店が悪い。お前が気に病む必要はどこにもないぞ。きっと手抜き工事のボロ小屋だったんだろう。私が絶対に壊れないお店を作るように、街の職人達に徹底させる事にしよう」
「ありがとうございます。これでお城以外でも働けそうです」

 王子はアリエルに非がないと断言すると、壊れないお店を作ると約束しました。しかし、それは無理です。大量の客達に耐えられる頑丈で馬鹿デカい建物は、お城か、要塞だけです。アリエルが働ける場所は城と要塞の二択だけです。
 アリエルの願いを叶えるには、国家予算が全て城と要塞建設に使わないといけません。王子の暴走を止めないと、エミリア王国滅亡の危機です。

「別にこのぐらいは普通の事だ。感謝する必要はない。そうだ、何か欲しい物はないか?」
「いえ、お仕事だけで十分です。これ以上は何も…」
「遠慮しなくてもいいんだぞ? 私に用意できる物なら何でも用意しよう。遠慮なく言いなさい。宝石か? 屋敷か? ドレスか?」

 何だか王子の言動がちょっとおかしいな方向に向かっています。使用人に宝石も屋敷もドレスも必要ありません。それらの物を贈る相手は使用人ではなく、ほぼ愛人です。

 

 

 

 
 

 

 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】婚約破棄される前に私は毒を呷って死にます!当然でしょう?私は王太子妃になるはずだったんですから。どの道、只ではすみません。

つくも茄子
恋愛
フリッツ王太子の婚約者が毒を呷った。 彼女は筆頭公爵家のアレクサンドラ・ウジェーヌ・ヘッセン。 なぜ、彼女は毒を自ら飲み干したのか? それは婚約者のフリッツ王太子からの婚約破棄が原因であった。 恋人の男爵令嬢を正妃にするためにアレクサンドラを罠に嵌めようとしたのだ。 その中の一人は、アレクサンドラの実弟もいた。 更に宰相の息子と近衛騎士団長の嫡男も、王太子と男爵令嬢の味方であった。 婚約者として王家の全てを知るアレクサンドラは、このまま婚約破棄が成立されればどうなるのかを知っていた。そして自分がどういう立場なのかも痛いほど理解していたのだ。 生死の境から生還したアレクサンドラが目を覚ました時には、全てが様変わりしていた。国の将来のため、必要な処置であった。 婚約破棄を宣言した王太子達のその後は、彼らが思い描いていたバラ色の人生ではなかった。 後悔、悲しみ、憎悪、果てしない負の連鎖の果てに、彼らが手にしたものとは。 「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルバ」にも投稿しています。

【完結】ぽっちゃりなヒロインは爽やかなイケメンにひとめぼれされ溺愛される

まゆら
恋愛
食べる事と寝る事が大好きな社会人1年生の杉野ほたること、ほーちゃんが恋や仕事、ダイエットを通じて少しずつ成長していくお話。 恋愛ビギナーなほーちゃんにほっこりしたり、 ほーちゃんの姉あゆちゃんの中々進まない恋愛にじんわりしたり、 ふわもこで可愛いワンコのミルクにキュンしたり… 杉野家のみんなは今日もまったりしております。 素敵な表紙は、コニタンさんの作品です!

婚約破棄が成立したので遠慮はやめます

カレイ
恋愛
 婚約破棄を喰らった侯爵令嬢が、それを逆手に遠慮をやめ、思ったことをそのまま口に出していく話。

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

処理中です...