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それぞれの抱える思いと葛藤
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沙良のことが狂おしいほど好きだ。
好きで好きでたまらない。
彼女がいなければ呼吸さえできない気がして、うまく息が吸い込めない。
だが俺はそんな最愛の女性に、再び自ら別れを告げた。
最低すぎる二年前の別れを経て、ようやく念願の沙良との再会を果たした俺は必死だった。
なんとしてでも沙良を繋ぎ止めておきたくて、一ヶ月と言う仮初の恋人期間の契約を結んだ。
今思えば、そもそもこの約束自体が身勝手なものであった。
あれほど沙良を裏切るような真似をして、彼女にトラウマを背負わせたのだ。
本当ならば俺の顔など死んでも見たくはなかったはずだろう。
実際久しぶりに再会した彼女の顔には、恐怖心がはっきりと見てとれた。
だが俺は強引にあの約束を取り付けた。
初めは受け入れられない様子の沙良ではあったが、いつしかぎこちないながらも俺の隣にいてくれるようになり、どれほど嬉しかったことか。
体の繋がりがなくとも、彼女と同じ空間で一緒に過ごすだけで心が満たされた。
やはり彼女は唯一無二の存在なのだ。
しかしその思いが強くなるにつれて、俺は過去にしでかした数々の所業と向き合わざるを得なくなる。
とどめを刺したのは、セフレの一人であった梨花の訪問だった。
あの女が沙良に放った暴言の数々。
沙良は俺に気を遣って全てを語りはしなかったが、きっと俺が知る以上に散々な言葉を浴びせたのだろう。
到底許すことはできない。
だが、自分の蒔いた種なのだ。
あのような女を友達だと言って囲い、沙良に見せつけるように関係を続けた。
過去の自分の醜さにどうしようもなく嫌気がさす。
沙良は本来あんな奴と関わるべき人間ではない。
俺のせいで、彼女を巻き込んだ。
案の定、俺と縒りを戻すことはできないと言い出した沙良。
あんな経験をすれば、それは至極真っ当な意見だろう。
だけどどうしても沙良を手放すことができなくて。
咄嗟に彼女に縋ってしまった。
優しい彼女は、そんな俺を無下に扱うようなことはしない。
そんな彼女の態度が余計に俺の心を苦しく締め付ける。
そして六年ぶりに訪れた水族館。
大きな水槽を目の前にして、初めて沙良とキスした時のことを思い出す。
互いのことしか目に入らず、ただ隣にいるだけで幸せだったあの頃。
どうして俺はその普通の幸せに満足することができなかったのだろうか。
なぜ、彼女が向けてくれるひたむきな愛に、素直に向き合うことができなかったのだろうか。
全ては俺の弱さが原因なのだ。
俺があの時の幸せをぶち壊して、燃やしてしまった。
すぐ隣にいる沙良が、近くて遠い。
彼女の柔らかな唇に触れて、あの時のようにキスしたい。
だがそれは叶わない願いなのだ。
本当ならば二人手を繋ぎ並んで、そっと寄り添いながらこの場にいることができたかもしれないのに。
自分の手でその可能性を手折ったのだという現実が、ひしひしと迫ってきた。
そんなことを考えながら何気なく沙良の方を見つめれば、偶然にも彼女も同じようにこちらを見上げている。
そして沙良もまた、初めてのキスのことを思い出していたのだ。
その瞬間、どうしてもいたたまれなくなってしまった俺は、ついポロリと本音が溢れそうになってしまう。
沙良はそんな俺の言葉に対し、何も言わなかった。
沙良の心の傷は、まだ癒えていない。
俺といる限り、もしかしたらその傷は永遠に癒えることはないのかもしれない。
そんなことを思い始めた瞬間であった。
それと同時に優馬とのことに嫉妬し沙良を困らせた自分の器の狭さが恥ずかしくなる。
そして決めたのだ。
つまらない嫉妬や心配で沙良を振り回すような真似は、もうやめようと。
もちろんそれはそんな簡単なことではなかった。
沙良が優馬と連絡を取り合っているだけでも、嫉妬で気が狂いそうになっているというのに。
ましてや食事など、到底許容できるものではない。
(あいつは絶対にまだ沙良のことが好きだ)
かつて沙良の連絡先を知りたいがために、片っ端から知り合いに連絡を取りまくっていた頃。
俺は恥を忍んで優馬にも連絡していた。
もはやそんなプライドなどとっくにどうでもよくなってしまうほど、沙良の居場所が知りたくて必死だった。
『たとえ沙良の居場所を知ってたとしても、お前に教えるわけないだろう』
この一言の中に、あいつの沙良への未練が詰め込まれているように思えてならなかった。
そしてやはり、優馬は沙良に思いを告げたのだ。
確かにあいつも六年前、自分勝手な理由で沙良を振った。
だが浮気をしていたわけでもないし、沙良を裏切るような真似は一切していない。
俺とは違い、この六年間も引け目を感じるような生き方はしてきていないだろう。
そもそも俺とは土俵が違うのだ。
恐らく過去の行いを反省した優馬は、二度と沙良を失うような真似はしないだろう。
誠実に彼女に尽くし、守り、幸せにしてくれるはず。
もちろん俺だって、沙良と再び恋人に戻れるのならばそうするつもりだ。
だが俺には沙良をたくさん傷つけ、振り回して来た過去がある。
梨花の件でかつての悪友たちと連絡をとり、久しぶりに再会した。
相変わらず適当な生活を送っている奴もいれば、改心して家庭を持ち、真面目に暮らしている奴もいた。
ちなみに裕樹は前者の方で、相変わらず自堕落で適当な生活を送っていることはすぐにわかった。
俺は別の友人に同席してもらい、俺の住所を漏らすような真似はしないこと、金輪際関わらないでほしいということを頼んだ。
そして彼らとは別の友人たちにも事の経緯を説明し、これから先俺のことをあいつらには話さないよう約束してもらった。
梨花もあれほどキツく追い返せば、二度と来ることはないだろう。
もし再び彼女が来るようなことがあったら、今度は住所を変えよう、そう思っている。
これで沙良と向きあうための支障は減ったかのように思われた。
だが裕樹らと再び顔を合わせその人となりを改めて見る中で、俺は沙良よりこんな奴らを優先したのかという衝撃が襲い掛かる。
俺みたいなやつが、沙良の隣に何食わぬ顔をして並び共に過ごしていくことなど、許されないのでは?
そんな苦しさに襲われた。
沙良に別れを告げた時の彼女の顔。
ああ、俺はまた彼女を傷つけた。
だがもう後戻りはできない。
彼女に餞別の品として渡した指輪は、実は前々から用意していたものである。
久しぶりの再会に舞い上がり、絶対に彼女と結婚すると思い込み、一ヶ月の恋人期間が終わる頃にプロポーズするはずだったのだ。
自分の浅はかさ、身勝手さに思わず笑えてしまう。
俺は沙良を忘れて生きていくことができるのだろうか?
きっとできないだろう。
現にあれ以来何を食べても味がしない。
食事は喉を通るたびに詰まるような感覚をおぼえ、飲み物で流し込むようにして食べている。
夜は何度も目覚め、なかなか寝付けない。
これが俺のこれまでの行いの罰なんだ。
せめて沙良が幸せになってくれるということだけを希望に、這いつくばって生きていかねばならないのだ。
◇
「ああ、来たか。悪いな突然呼び出して」
上条さんに呼ばれた通り、資料室へと足を踏み入れた私。
すると何かの資料を見つめる上条さんの姿があった。
「いえ、遅くなってしまい申し訳ありません」
「仕事の話をする前に」
私の謝罪に被るように発せられる彼の声。
そしてこちらを振り向くと、私の様子を窺うように首を傾げた。
「何かあった?」
「え……」
「目が腫れてる。泣いたんじゃないのか?」
そう言って上条さんは僅かに眉を下げる。
さすが、目敏い人だ。
社内でも仕事ができるという評判なだけある。
部下のちょっとした変化を見逃さないのだ。
「少し、色々とありまして……。ご心配をおかけしてすみません。大丈夫ですので」
「彼氏と喧嘩した?」
そんな彼の問いのせいで、必死に忘れようとした嫌な金曜日の思い出が蘇る。
それと同時に勝手に涙腺が緩み、鼻の奥がツンと痛くなる。
(職場で泣くような真似は絶対にしたくないのに)
私は咄嗟に目を押さえた。
「いえ、大丈夫です。仕事には支障の出ないようにしますので」
「……」
「それで、ご用件は?」
「今日の夜、食事に行こう。仕事のことで話したいこともあるし、何か違うことをした方が気が紛れる。俺と二人が嫌なら、他に誰か誘うし」
そうきたか。
いつもなら彼へのガードはキツくしていたはずなのに、健斗との一件に動揺していたせいで、すっかり忘れてしまっていた。
だが今日の私は食事くらい行ってもいいかと思い始めていた。
確かに彼の言う通り、一人で家にいても健斗のことばかり思い出してしまう。
それならば食事で気を紛らわせるのもアリなのかもしれない。
「……わかりました」
「え、行ってくれるの? 嬉しいな」
上条さんはそう言ってふんわりと微笑む。
その顔は整いすぎて恐ろしいほど。
……これが社内の女子たちを惑わす笑顔。
「お仕事のお話もあるなら」
「そうは言っても、堅苦しいのは無しだよ。須藤の気分転換も兼ねての食事なんだから」
「それは……そうですね」
「俺あと何人か適当に声かけてみるよ」
上条さんはそれだけ告げると、ヒラヒラと手を振りながら資料室を出て行ってしまった。
結局これが話したかっただけなのか。
私は上条さんとどうこうなりたいという気持ちは一切ない。
あれほど完璧で女性からの人気も高い上条さんが、ストライクゾーンに入っていないのはなぜか。
それは、彼の女性関係の緩さである。
彼が複数の女性たちと付き合っていることを私は知っているのだ。
果たしてそれを付き合いと言っていいのかはわからないが。
そのことに気づいたのは、一年ほど前のことだろうか。
偶然にも街中で、とある女性と腕を組みながら歩いている上条さんを見かけたのだ。
初めは彼女と会っているのだと思っていた。
なんだ、秘密にしているだけで恋人がいるではないか、と。
しかしその頃から彼は執拗に私を食事に誘うようになる。
やんわりと彼女の存在を出して断るが、彼女などいないの一点張り。
それでは先日親密そうに腕を組んで歩いていた女性は誰なのか。
そう疑問に思ったが、上条さんは同じ会社の上司である。
下手な揉め事は起こしたくはない。
私は適当にその誘いを流した。
それからしばらくして、今度は社内の別の女性が上条さんと体の関係を持ったという話を聞く。
これは実際に私の目で見たことではないが、女子トイレで本人が同僚に語っていた内容が丸聞こえであったのだ。
なんでも体の関係を持ってしまったが、そのまま付き合うには至らなかった。
女性の方は付き合いたいと思っていたようだが、彼の方は違ったらしい。
だが謝罪とお詫びに高価なアクセサリーをもらったので、彼を許すことにしたとも話していた。
(これは、かなり手慣れてるな)
直感ですぐにそう思った。
遊んだ後の後始末がうまいが故に、大きな揉め事にならずに済んでいるのだろう。
だがとてもではないが私はそんなこと、お断りだ。
一夜限りでも彼に抱かれたいなど、そんな希望を抱いたことはない。
私は互いに思い合った相手としか、セックスはしたくないのだ。
彼の華麗な女性遍歴に加えられるなど、考えただけでもゾッとしてしまう。
だから今回上条さんに食事に誘われたところで、何か関係が発展することなどあり得ないのである。
……彼がどう思っているのかはわからないが。
そんなこともあり、あまり気乗りのしない食事ではあるが、気晴らしだ。
私はそう思いながら、午後の仕事を片付けるために自らのデスクへと戻っていったのである。
好きで好きでたまらない。
彼女がいなければ呼吸さえできない気がして、うまく息が吸い込めない。
だが俺はそんな最愛の女性に、再び自ら別れを告げた。
最低すぎる二年前の別れを経て、ようやく念願の沙良との再会を果たした俺は必死だった。
なんとしてでも沙良を繋ぎ止めておきたくて、一ヶ月と言う仮初の恋人期間の契約を結んだ。
今思えば、そもそもこの約束自体が身勝手なものであった。
あれほど沙良を裏切るような真似をして、彼女にトラウマを背負わせたのだ。
本当ならば俺の顔など死んでも見たくはなかったはずだろう。
実際久しぶりに再会した彼女の顔には、恐怖心がはっきりと見てとれた。
だが俺は強引にあの約束を取り付けた。
初めは受け入れられない様子の沙良ではあったが、いつしかぎこちないながらも俺の隣にいてくれるようになり、どれほど嬉しかったことか。
体の繋がりがなくとも、彼女と同じ空間で一緒に過ごすだけで心が満たされた。
やはり彼女は唯一無二の存在なのだ。
しかしその思いが強くなるにつれて、俺は過去にしでかした数々の所業と向き合わざるを得なくなる。
とどめを刺したのは、セフレの一人であった梨花の訪問だった。
あの女が沙良に放った暴言の数々。
沙良は俺に気を遣って全てを語りはしなかったが、きっと俺が知る以上に散々な言葉を浴びせたのだろう。
到底許すことはできない。
だが、自分の蒔いた種なのだ。
あのような女を友達だと言って囲い、沙良に見せつけるように関係を続けた。
過去の自分の醜さにどうしようもなく嫌気がさす。
沙良は本来あんな奴と関わるべき人間ではない。
俺のせいで、彼女を巻き込んだ。
案の定、俺と縒りを戻すことはできないと言い出した沙良。
あんな経験をすれば、それは至極真っ当な意見だろう。
だけどどうしても沙良を手放すことができなくて。
咄嗟に彼女に縋ってしまった。
優しい彼女は、そんな俺を無下に扱うようなことはしない。
そんな彼女の態度が余計に俺の心を苦しく締め付ける。
そして六年ぶりに訪れた水族館。
大きな水槽を目の前にして、初めて沙良とキスした時のことを思い出す。
互いのことしか目に入らず、ただ隣にいるだけで幸せだったあの頃。
どうして俺はその普通の幸せに満足することができなかったのだろうか。
なぜ、彼女が向けてくれるひたむきな愛に、素直に向き合うことができなかったのだろうか。
全ては俺の弱さが原因なのだ。
俺があの時の幸せをぶち壊して、燃やしてしまった。
すぐ隣にいる沙良が、近くて遠い。
彼女の柔らかな唇に触れて、あの時のようにキスしたい。
だがそれは叶わない願いなのだ。
本当ならば二人手を繋ぎ並んで、そっと寄り添いながらこの場にいることができたかもしれないのに。
自分の手でその可能性を手折ったのだという現実が、ひしひしと迫ってきた。
そんなことを考えながら何気なく沙良の方を見つめれば、偶然にも彼女も同じようにこちらを見上げている。
そして沙良もまた、初めてのキスのことを思い出していたのだ。
その瞬間、どうしてもいたたまれなくなってしまった俺は、ついポロリと本音が溢れそうになってしまう。
沙良はそんな俺の言葉に対し、何も言わなかった。
沙良の心の傷は、まだ癒えていない。
俺といる限り、もしかしたらその傷は永遠に癒えることはないのかもしれない。
そんなことを思い始めた瞬間であった。
それと同時に優馬とのことに嫉妬し沙良を困らせた自分の器の狭さが恥ずかしくなる。
そして決めたのだ。
つまらない嫉妬や心配で沙良を振り回すような真似は、もうやめようと。
もちろんそれはそんな簡単なことではなかった。
沙良が優馬と連絡を取り合っているだけでも、嫉妬で気が狂いそうになっているというのに。
ましてや食事など、到底許容できるものではない。
(あいつは絶対にまだ沙良のことが好きだ)
かつて沙良の連絡先を知りたいがために、片っ端から知り合いに連絡を取りまくっていた頃。
俺は恥を忍んで優馬にも連絡していた。
もはやそんなプライドなどとっくにどうでもよくなってしまうほど、沙良の居場所が知りたくて必死だった。
『たとえ沙良の居場所を知ってたとしても、お前に教えるわけないだろう』
この一言の中に、あいつの沙良への未練が詰め込まれているように思えてならなかった。
そしてやはり、優馬は沙良に思いを告げたのだ。
確かにあいつも六年前、自分勝手な理由で沙良を振った。
だが浮気をしていたわけでもないし、沙良を裏切るような真似は一切していない。
俺とは違い、この六年間も引け目を感じるような生き方はしてきていないだろう。
そもそも俺とは土俵が違うのだ。
恐らく過去の行いを反省した優馬は、二度と沙良を失うような真似はしないだろう。
誠実に彼女に尽くし、守り、幸せにしてくれるはず。
もちろん俺だって、沙良と再び恋人に戻れるのならばそうするつもりだ。
だが俺には沙良をたくさん傷つけ、振り回して来た過去がある。
梨花の件でかつての悪友たちと連絡をとり、久しぶりに再会した。
相変わらず適当な生活を送っている奴もいれば、改心して家庭を持ち、真面目に暮らしている奴もいた。
ちなみに裕樹は前者の方で、相変わらず自堕落で適当な生活を送っていることはすぐにわかった。
俺は別の友人に同席してもらい、俺の住所を漏らすような真似はしないこと、金輪際関わらないでほしいということを頼んだ。
そして彼らとは別の友人たちにも事の経緯を説明し、これから先俺のことをあいつらには話さないよう約束してもらった。
梨花もあれほどキツく追い返せば、二度と来ることはないだろう。
もし再び彼女が来るようなことがあったら、今度は住所を変えよう、そう思っている。
これで沙良と向きあうための支障は減ったかのように思われた。
だが裕樹らと再び顔を合わせその人となりを改めて見る中で、俺は沙良よりこんな奴らを優先したのかという衝撃が襲い掛かる。
俺みたいなやつが、沙良の隣に何食わぬ顔をして並び共に過ごしていくことなど、許されないのでは?
そんな苦しさに襲われた。
沙良に別れを告げた時の彼女の顔。
ああ、俺はまた彼女を傷つけた。
だがもう後戻りはできない。
彼女に餞別の品として渡した指輪は、実は前々から用意していたものである。
久しぶりの再会に舞い上がり、絶対に彼女と結婚すると思い込み、一ヶ月の恋人期間が終わる頃にプロポーズするはずだったのだ。
自分の浅はかさ、身勝手さに思わず笑えてしまう。
俺は沙良を忘れて生きていくことができるのだろうか?
きっとできないだろう。
現にあれ以来何を食べても味がしない。
食事は喉を通るたびに詰まるような感覚をおぼえ、飲み物で流し込むようにして食べている。
夜は何度も目覚め、なかなか寝付けない。
これが俺のこれまでの行いの罰なんだ。
せめて沙良が幸せになってくれるということだけを希望に、這いつくばって生きていかねばならないのだ。
◇
「ああ、来たか。悪いな突然呼び出して」
上条さんに呼ばれた通り、資料室へと足を踏み入れた私。
すると何かの資料を見つめる上条さんの姿があった。
「いえ、遅くなってしまい申し訳ありません」
「仕事の話をする前に」
私の謝罪に被るように発せられる彼の声。
そしてこちらを振り向くと、私の様子を窺うように首を傾げた。
「何かあった?」
「え……」
「目が腫れてる。泣いたんじゃないのか?」
そう言って上条さんは僅かに眉を下げる。
さすが、目敏い人だ。
社内でも仕事ができるという評判なだけある。
部下のちょっとした変化を見逃さないのだ。
「少し、色々とありまして……。ご心配をおかけしてすみません。大丈夫ですので」
「彼氏と喧嘩した?」
そんな彼の問いのせいで、必死に忘れようとした嫌な金曜日の思い出が蘇る。
それと同時に勝手に涙腺が緩み、鼻の奥がツンと痛くなる。
(職場で泣くような真似は絶対にしたくないのに)
私は咄嗟に目を押さえた。
「いえ、大丈夫です。仕事には支障の出ないようにしますので」
「……」
「それで、ご用件は?」
「今日の夜、食事に行こう。仕事のことで話したいこともあるし、何か違うことをした方が気が紛れる。俺と二人が嫌なら、他に誰か誘うし」
そうきたか。
いつもなら彼へのガードはキツくしていたはずなのに、健斗との一件に動揺していたせいで、すっかり忘れてしまっていた。
だが今日の私は食事くらい行ってもいいかと思い始めていた。
確かに彼の言う通り、一人で家にいても健斗のことばかり思い出してしまう。
それならば食事で気を紛らわせるのもアリなのかもしれない。
「……わかりました」
「え、行ってくれるの? 嬉しいな」
上条さんはそう言ってふんわりと微笑む。
その顔は整いすぎて恐ろしいほど。
……これが社内の女子たちを惑わす笑顔。
「お仕事のお話もあるなら」
「そうは言っても、堅苦しいのは無しだよ。須藤の気分転換も兼ねての食事なんだから」
「それは……そうですね」
「俺あと何人か適当に声かけてみるよ」
上条さんはそれだけ告げると、ヒラヒラと手を振りながら資料室を出て行ってしまった。
結局これが話したかっただけなのか。
私は上条さんとどうこうなりたいという気持ちは一切ない。
あれほど完璧で女性からの人気も高い上条さんが、ストライクゾーンに入っていないのはなぜか。
それは、彼の女性関係の緩さである。
彼が複数の女性たちと付き合っていることを私は知っているのだ。
果たしてそれを付き合いと言っていいのかはわからないが。
そのことに気づいたのは、一年ほど前のことだろうか。
偶然にも街中で、とある女性と腕を組みながら歩いている上条さんを見かけたのだ。
初めは彼女と会っているのだと思っていた。
なんだ、秘密にしているだけで恋人がいるではないか、と。
しかしその頃から彼は執拗に私を食事に誘うようになる。
やんわりと彼女の存在を出して断るが、彼女などいないの一点張り。
それでは先日親密そうに腕を組んで歩いていた女性は誰なのか。
そう疑問に思ったが、上条さんは同じ会社の上司である。
下手な揉め事は起こしたくはない。
私は適当にその誘いを流した。
それからしばらくして、今度は社内の別の女性が上条さんと体の関係を持ったという話を聞く。
これは実際に私の目で見たことではないが、女子トイレで本人が同僚に語っていた内容が丸聞こえであったのだ。
なんでも体の関係を持ってしまったが、そのまま付き合うには至らなかった。
女性の方は付き合いたいと思っていたようだが、彼の方は違ったらしい。
だが謝罪とお詫びに高価なアクセサリーをもらったので、彼を許すことにしたとも話していた。
(これは、かなり手慣れてるな)
直感ですぐにそう思った。
遊んだ後の後始末がうまいが故に、大きな揉め事にならずに済んでいるのだろう。
だがとてもではないが私はそんなこと、お断りだ。
一夜限りでも彼に抱かれたいなど、そんな希望を抱いたことはない。
私は互いに思い合った相手としか、セックスはしたくないのだ。
彼の華麗な女性遍歴に加えられるなど、考えただけでもゾッとしてしまう。
だから今回上条さんに食事に誘われたところで、何か関係が発展することなどあり得ないのである。
……彼がどう思っているのかはわからないが。
そんなこともあり、あまり気乗りのしない食事ではあるが、気晴らしだ。
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